わが師)フィールドノートの中の #萱野茂_エカシ #アイヌ民族 RT_@tiniasobu
2023/02/27
アイヌモシリ二風谷の萱野茂エカシ(長老)にお会いしたのは、大阪の民族学博物館(みんぱく)の研究会に参加しているときに、展示してあるアイヌ民族の家・チセで、カムイノミが始まるから、いっしょにいこうや、とアフリカの民話研究の江口ポール一久さん(紹介はこの文章の末尾)に誘われたのがきっかけでした。1992年には、北九州水巻町の、木戸宏さん主催の、アイヌ民族とともに生きるシサムの会(Sisam のムは小さく書くのですが、今はこのまま)のツアーに家族で参加して、二風谷も訪問する機会がありました。
エカシが社会党の比例区から参議院議員に立候補されたときには、北九州での決起集会でお会いする機会もありました。学者がアイヌの民具を持っていってしまう、ということを書いておられたのを読んでいたわたしは、集会のあと、喫茶店で茂エカシを囲む会に参加して、ちょうどポケットに入っていた、イタリア製の口琴を、プレゼントしました。わたしの歯型でメッキが剥げていましたが、エカシはそれを鳴らしてみて、快く受け取ってくださって、アイヌ語では、カネムックリというんだよ、とおっしゃいました。実は、それがアイヌのウウェペケレにもあり、守り神になるということは、二風谷を再訪するまで知りませんでした。
1995年に、北海道大学の文学部の足立明さんに招かれて、文化人類学の集中講義をさせてもらったときには、旭川のシンリツ・エオリパック・アイヌ(川村兼一さん)を勝手におまねきして、非常勤講師の依頼するもぐり講師としてお話をいただいたりしました。同行した妻の貴子と息子には、貝沢耕一さんと美和子さんのところで遊ばせてもらっておいで、とわたしが授業をしている間に、先に二風谷に行ってもらいました。ちょうど、北大文学部・古河講堂で、先住民族や朝鮮の人骨が見つかって大きな問題になった時でした。貴子は、萱野さんのお家で、食事の準備を頼まれたので、冷蔵庫にあった豚の腸を沖縄風の中身の汁にしたてて、お出ししたところ、「おぉ、こりゃうめー! くさみも全然なくて。ただ焼いて食べてた
けれど、こんな食べ方があるだねぇ」と喜んでくださいました。
家を出る時に、水盤のようなところで溺れている小さな甲虫をめざとくみつけて、すくいだし、動き出したのを見て、
「うん、これなら生きる」と言われた時に出たのが、「役目なしに天の国から降ろされた生き物はひとつもないんだよ」という、アイヌ語のことわざ。それを日本語でおっしゃいました。
萱野茂エカシのお話を書き留めたノートは、その内容を文章に書いたことがありませんでしたが、いま読んでみると、ワッカウシカムイ(水の女神様)の上にうんこやしっこするような罰当たりなことをするぐらいなら、死んだほうがよっぽどましだ、といって、入院した病院からとっととかえってしまったフチ(おばあさん)のことを伺っていたことがわかりました。
学者に盗られたものを、取り返すんだ、とりもどせないものは自分たちでもういちど創るんだという意気で、先住民族文化の顕彰のためにエカシが作られた、萱野茂二風谷アイヌ資料館を見せていただいて、たいへん感心したのでした。彼が水俣でもらってきた、人間より先に苦しんで、今も苦しんでいる海の生き物たちを思う、蛸壺と錆びたイカリ(怒りか?)の展示の説明のために、当時のチッソの社名は何だった? と尋ねられて、資料館から直接、山口大学教養部の同僚だった鬼頭秀一さんの研究室に電話して、「日本窒素」というこたえをもらってお伝えしたのもなつかしい思い出です。そんなご縁で、萱野エカシの資料館に、わたしがコンゴ民主共和国で入手した、仮面などを寄贈させていただくことにしたのでした。
コンゴの森の民の間に、イスラム教やキリスト教が浸透してくる中で、在来の神々はしだいに忘れられました。いかに生きるべきかの指針として、子どもが大人になる通過儀礼の中で、仮面や彫像とそれにまつわることわざ・歌・踊りは、人間らしい人間(二風谷のアイヌ語ならアイヌネノアンアイヌ)としてのあり方(アイヌプリ、スワヒリ語ではUtu、バンツー語ならUbuntu、人間らしさと訳すか)を教える総合的な教材の中心的な役割を担ったのです。それが、行われなくなるにつれ、大切な彫像や仮面も、古道具屋の土産物に落ちぶれていきました。そんないきさつで、わたしなどにも売りつけられた、いろいろの神々は、大学の部屋でたいへん寂しい思いをされていたにちがいありません。だから、わたしは、まとめて萱野エカシの資料館に、寄贈させてもらうことにしたのでした。
寄贈にあたってお願いした条件は、ただ一つでした。「年に一度でけっこうですから、家を守るチセコロカムイ chise kor kamuy 様へのお祈りをされる時などに、アフリカの神々にも、カムイノミをしてさしあげてください。」
ノートの始めの図は、木を倒す時のお祈りの話しです。受け口を入れて反対側から切り込んで倒すのですが、その時に切り株にのこる部分の先端を、サルカと呼び、カムイへの捧げものにします。このころ、まだ木を倒す暮らしをはじめていなかった私の絵がとんちんかんなのをみかねて、エカシが赤ペンで直してくださったものです。
フィールドノートは、学者の横暴から一時、気持ちが離れていたアイヌ語やアイヌ文化と向き合うきっかけをくれた学者もいる、という話につづきます。
萱野茂エカシのことは、このブログに何回かかいています。このブログの左側の検索窓に「萱野」と入力してみてください。
萱野茂二風谷アイヌ資料館のサイトは以下です。
https://kayano-museum.com/
萱野茂エカシの「木と語る」12分動画(シェアしないでください)
https://youtu.be/sb_HTlQP69M
アフリカおはなし村村長だった Paul Kazuhisa Eguchiさんの思い出
http://ankei.jp/yuji/?n=1028
古河講堂の人骨については、
北大人骨事件 などで検索してみてください。
安渓遊地