わが師)西表島祖納・古見用美さんを偲ぶ (西表小中学校教諭 池城安伸先生 筆)_RT_@tiniasobu
2023/02/02
2023年2月3日 文字化けしを修正しました。
とってもお世話になった、屋号ピンツァンの、古見用美(こみ・ようび)さんの思い出をシェアします。
『八重山毎日新聞』2002年2月3日(日曜日)
古見用美さんを偲ぶ 池城安伸
奉仕とは「おのれ」を捨てて、「おのれ」ならぬものの為に尽くすことである。服従とは「おのれ」を捨てて、「おのれ」ならぬもの意志に従うことである。(三太郎日記より)
奉仕の人・古見用美さんが一月二十七日逝去された。用美さんの訃報(ふほう)は私にとって人間の生涯の美しさを思いおこさせずにはおかなかった。それは私の多感な境涯を支配して、胸深く生きている人間像であるからだ。あれは昭和三十二年ごろだった。西表の片田舎も敗戦の後遺症は癒(い)えることなく、住民の生活も日々決して楽ではなかった。そんな困窮のなかにあって、当時の西表小中校の校長・川田丈夫は「窮窘(きゅうきん)の中で新しい路を拓くのは、怜悧(れいり)な人材の養成が求められる」と力説され、文教局指定の実験学校(現在の研究校)を引き受けた。
実験学校を引き受けたものの、当時、実験学校に対する予算はわずかな金額で、実験学校に対する施設・設備はPTAに依存された。PTAに依存されたとはいえ、経済的余裕のない地域の実態は、会組織を統率して事業遂行する会長の成り手は辞退し、容易なことではなかった。しかし校長の眼識は、その容易ならぬものを容易にする卓越したものがあった。一見、陶器にたとえると、うわぐすりをかけない素焼きの親しみを醸す、古見用美さんに白羽の矢をたて懇願して懇願したのである。用美さんは校長の申し入れを謙虚に受け止め、以後六度にわたって西表校のPTA会長を勤めあげたのである。
実験学校当時の用美さんは、決して経済的に恵まれた方ではなかった。お子さん達は成長期で家族の反対もあったろうし、ほとんどが奉仕の会長職は、損得勘定を離れた仕事だった。でも用美さん生徒たちの机の修繕から教室の環境整備、発電小屋造りと、手弁当で心血を注いだ。お陰様で情報の乏しい時代に村人の協力もあって、校内放送と家族に設備された親子ラジオが連結され、家庭教育の助長に役立てたのである。
一方、用美さんは思想の人でもあった。思想とはまず人格を通じて、間接に客観を産むといわれるが、私は用美さんの人格を思う時、実現に迫る力のある思想を堅持し続けた人であったと思う。
著書こそなかったが、社会の新生は人材を育成する教育であること理想として、行動したのだと述懐する。理想は実現に迫る力がなければ詠嘆にすきない。用美さんの行動は、地位名誉を意識せす、あくまでも西表の在野の人として、学校教育の協力者として、自負を堅持し続けた人である。
また用美さんは学校教育に対する信念はもちろん、政治の分野においても一貫したものがあった。町議員時代の思想心情は革新を標ぼうして、生命の尊厳、平和に対する思いは人格の根幹をなすものだった。そし困苦を物ともせず、理想を放擲(ほうてき)することなく、地域の幸せの為に生涯を費やされた人格の高潔さを私は忘れない。
晩年は、西表小中学校百周年期成会長を引き受けられ、子弟の教育環境造りに老驥(ろうき)に鞭打たれ、立派に事業を遂行されたことは、学校教育に対する己の初心を生涯、貫き通された証だと私は思う。記念式典での嗄(しゃが)れ声、眉秀でたあの風ぼうが私のお会いした最後だった。用美さんのかき上げた白髪の乱れと、眉の太さは西表人の象徴として私は忘れまい。
最後に良寛禅師の歌一首を献じて、ごめい福を祈ります。
「柴の戸の冬のタベの淋さは、うき世の人のいかで知るべき」
合掌。