わが友)#マラリア_に斃れた_#小林央往_さん一発病からの9日間の記録一(安渓遊地・澤田昌人 1995年)_RT_@tiniasobu
2022/10/31
山口大学農学部に、小林央往(こばやし・ひさお)さんがいたころ、私は教養部に文化人類学の教員として勤めていて、彼にはいろいろ楽しい学問的・教育的な「遊び」を教えてもらいました。例えばインド風のカレーを作って、バナナの葉の上にもりつけて、手で食べてみる。飲み物はヨーグルト風味のラッシーとか。参加した学生たちも異文化体験に大喜びでした。
1994年の夏、そんな楽しい彼が、いつものインド訪問から視野を広げて、長年行ってみたかった西アフリカのニジェール川のほとりへ出かけることになりました。ここは、トウジンビエ、グラベリマ稲、ギニアヤム、といった、アフリカ独自の栽培植物の栽培化センターであることが、その後のゲノム解析などの研究によってどんどん明らかになっている場所です。
1986年に私も訪ねた、マリ共和国です。私は、ニジェール川の水であらった「新鮮なサラダ」を食べてA型肝炎にかかりましたが、たまたま同宿だったNさんという日本人研究者のおかげで死なずにすみました。しかし、小林さんは、帰国してまもなくマラリアの発病によって亡くなられたのです。
わが師である伊谷純一郎先生は、「あのまま消えてしまっていい研究者じゃない」とその業績が途絶えてしまったことを惜しまれました。
以下のサイトには、彼の関わった研究論文が20編ほど載っています。現在、農薬に頼らない稲作農家になってみると、山口市阿東の方言で「ぎわ」と呼んでいるクログワイなど、やっかいな随伴雑草の生態の大切な研究を推進しておられたのだなとわかります。
https://www.semanticscholar.org/author/%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E5%A4%AE%E5%BE%80/87304751
当時山口大学教育学部におられた、伊谷門下の後輩の澤田昌人さん(2022年度現在、京都精華大学学長、おつかれさまです)と私は、小林さんのマラリア発症を知って、日本の病院では入手がむずかしい手持ちの薬を届けようと、走り回りましたが、おそらく熱帯熱マラリアだと推定される原虫の増殖のスピードには追いつけませんでした。
執筆から27年、最近の動向については、末尾に追記しました。
いまでも、こうした輸入感染症による悲劇は起こっています。そして、そうした病気の臨床経験の乏しい「専門家」の手で手遅れになるのを、経験はあっても専門家ではない、患者や家族や友人がどのように働きかけることができるか、という問いかけは、今も有効と考えるために、「古文書」の公開を試みるものです。
以下は、テキストには入っていませんが、私が関係者と交わした言葉で、多くは、こちらから返す言葉が見つからず、心の中だけの叫びに終わったものです。
1.電話の向こうの宿直医「脳の腫れについては、しかるべき処置をちゃんととっていますからご心配はいりません。キニーネは日本国内でも手に入る薬だから,必要な時は病院として手配できます。」
「わかりました・・・・・・」(マラリア脳症の恐ろしさがわかっていない! 転院前の病室に押しかけてでも、自己処方で薬を飲ませることができていたらなぁ)
2.かけつけた病院で担当医の一人「脳マラリアによるものかそれともファンシダールの副作用で全身に溶血が起こっているのか決めかねるのでCTスキャンをかけています」
「そうですか・・・・・・(そんな悠長なことをしている暇に、一刻も早く、原虫をたたかないと手遅れになるから、キニーネ静注を提供すると電話で申し上げたのが通じてない)」
3.集中治療室の待合室で息子さんが多臓器不全のお母さんと「あの子のために取り寄せた新薬で、お宅は助かるんですね! うらやましい」
「・・・・・・(そうだったんですか! でも、こちらは、脳がやられて助かりそうにないんです。でも、そんなことを言ってもなんの慰めにはなりませんね)」
4.小林さんの死亡後、主治医「お預かりした薬はお返しします。あ、キニーネ注射液はエクスパイリー(有効期限)過ぎてましたよ」
「どうも・・・・・・(それは、アンプルが割れないようにカバーしたアスピリンの箱のボール紙に印刷されている、アスピリンの有効期限じゃあ!! アンプルに刻まれている日付はまだ先なのに、結局、箱も開けて見なかったということか!!
すぐに射てばひょっとしたら助けられたかもしれないのに)」
最後の場面では、この時点ではまだ公開されていませんが、宮崎駿さんのアニメ『もののけ姫』で、たたり神の呪いを受けたアシタカ彦の右腕がむくむくと動き出してものすごい勢いで殴りかかろうとするのを、左手が必死に抑えるという気分でした。(写真は、以下のサイトから「常識の範囲」で使用を認められているものです。https://www.ghibli.jp/works/mononoke/)
提案には書いていませんが、自衛手段のひとつとして、できるだけゆっくり時間をとって滞在し、現地で発症していれば、マラリアなどはごくありふれた病気で、すぐに適切な処置が取れます。
1990年からの、東アフリカ7000キロの自動車旅行中、ウガンダで体調不良を訴えた息子を、田舎のバラック建ての診療所で見てもらったら、血液を1700倍の油浸レンズの顕微鏡で見てくれて、プレパラート中に一個だけのマラリア原虫を見つけてくれたのです。
(ちなみに、ケニアに滞在中に、検便をしてもらったら、私も妻も、寄生虫の卵が見つかりました。種類をいま思い出せませんが、それぞれ別の東アジアの特産品でした。「伝染性清潔病」の流行っている日本では、おそらく見つけきれなかっただろうと思います。検査する人の目がなれていないからです。)
以下本文です。 安渓遊地・澤田昌人共著で、1995年3月の日本アフリカ学会会報に執筆したもので、澤田さんの了承のもとでここにテキストとpdfで公開します。(同誌の目次は、以下のサイトにあり、ひょっとしたら、土倉事務所にまだ在庫があるのかもしれません。http://jizaiya.main.jp/list/bunka/AfricaR.html)
記事の書誌は、以下を御覧ください。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7946123
(引用開始)
マラリアに斃れた小林央往さん一発病からの9日間の記録一
安渓遊地(山口女子大)・澤田昌人(山口大)
山口大学農学部教授の小林央往(ひさお)さんは,1994年9月22日に脳マラリアで死亡された。小林さんは,栽培植物起原学を専攻するフィールド・ワーカーで,イネ科作物とその随伴雑草の関連について,インドからヨーロッパにかけて実に精力的なフィールドワークをくりひろげてこられた。小林さんは,気鋭の学者であるだけでなく,学生たちとともに山野へくりだして,自然の見方やその楽しみ方を教えることにたけておられた。大学の同僚として,私たちもどれだけ多くのご厚誼をいただいたか,はかり知れないものがある。半年が過ぎた今でも,私たちは人ごみの中に,元気な小林さんの姿を見い出しては瞬時胸が躍り,それが幻であることに気づいては深い寂寥感に包まれるのである。永年のあこがれの西アフリカを
踏査して,これから研究を深めようと意気込んでいた矢先に訪れた突然の死を,なんとかして防ぎとめることはできなかったのだろうか。2度と再び,このような悲劇を繰り返さないための一助となることを願って,小林さんの発病から死にいたるまでの9日間について,私たちの知りえた経過を記録し,若干の反省点を述べておきたい。
小林さんは1994年8月9日から9月5日までほぼ1か月間,文部省科学研究費国際学術研究によってマリ共和国を訪れ,ニジェール川沿いの村々で現地調査に従事した。同じ科研費の隊員の中でも,病気の予防に関して小林さんはことに注意深かったという。例えば首都バマコのホテルに宿泊する場合を含めて毎夜蚊帳をつって蚊取り線香をもうもうと焚き,マラリア予防のクロロキン剤を,毎日100ミリグラムずつ飲んでいた。小林さんは,私たちを含む多くのアフリカ学会会員諸氏よりも厳重なマラリア予防対策を実行していたのである。また,A型肝炎その他の感染症を予防するため,飲用水はすべて煮沸消毒するだけでなく,レストラン等で食事をする際にも煮沸したアルミニウム製食器を持参してそれに盛りつけをしてもらう,という
徹底ぶりであった。
それでは,マラリア等の予防にあれほど細心の注意をはらっていた小林さんがなぜ発病し,そして,最悪の経過をたどることを防ぎとめることができなかったのだろうか。
つらい問いかけである。しかし,この問いを抜きにしては,不幸な事態の再発防止への提言もありえない。以下,発病前後から容体の急変にいたるまでの経過を時間を追って説明していこうと思う。なお,小林さんの最後の9日間については,本稿以外に安渓・澤田(1995)の簡単な報告がある。これは国際学術研究総括班に,研究者が帰国後熱帯病を発病した際にサポートできる体制を整えていただくよう要望したものであり,紙数の制限から細かな経過を記せなかった。
1994年9月7日(水)マリ共和国から元気に帰国
マリ共和国から帰国。翌日に安渓が受けた電話では,終始体調もよく,これまでの研究者が気づいていない面白いことをいろいろ見つけたこと,栽培植物の資料も集まったから,これで科研費の報告書けるだろうという,はずんだ内容だった。
9月13日(火) はつらつと調査資料の整理にいそしむ
安渓の妻の貴子が,所用で小林さんの実験室を訪ねる。小林さんは,生の資料を鉢に移し植えたりしながら,念願のアフリカに行けて良かったと語る。アフリカ行きの前より元気そうで,実にはつらつとして上機嫌である。ちなみに,安渓貴子が聞いたところによると,小林さんのマリでの調査の仕方は,以下のようだった。始めは同じ科研費隊の応地利明教授(京大東南ア研)と同行し,途中で別れてからは英語のできる通訳をやとった。村に着くと,長老を集めて,伝統的な栽培植物の種類の研究をしに来たので,資料を集めてほしい,と通訳を介して頼む。すると,いろいろなサンプルを持ってきてくれる。それらの名前や特徴をめぐって長老たちの議論がまき起こることが多いが,やがて,ある程度の結論が出るので,それを
通訳から聞いて書きとめ,サンプルをもらって,次の村へ向かい,同じことを繰り返す。小林さんの残したフィールドノートによれば市場等でも精力的に穀物や豆類の資料を収集していた。?
9月14日(水)発病1日目。朝不調を訴え,夜マラリアと診断され入院
夫人によると,小林さんはいつになく早く目覚め朝の6時ころに起き出して、ものすごい肩凝りを訴える。もんでみると、たしかに肩から首にかけて,かちかちに堅く凝っている。体もだるいが,大学の会議がある日なので休めないと言ってほぼ定刻に出勤。
同僚の一人は,小林さんがいつになく元気がないような気がしたという。ある学生は,夕方農場で別れる時、「だるいし,ちょっと熱もある。時差ボケかなあ。」という小林さんの声を聞いている。
帰宅後,18時ころ,どうにも体がだるいので夜間診療の当番病院へ行くことにする。たまたま山口市内に二つある総合病院のひとつである日赤病院がそれにあたっていた。小林さん自身がマラリアの検査を依頼したらしく,血液検査の結果マラリアと診断され,そのまま入院することになった。入院が決った時,小林さんは夫人に電話して次のように伝えている。マラリアという病気だとわかったが,早く診断がついてよかった。早く診断がつきさえすれば,なにも心配する病気ではない。薬できちんと治るし,2週間か,長くても3週間で退院できるだろう….....。」
9月15日(木)発病2日目。敬老の日
昼ごろ,日赤の医師から小林夫人に次のような内容の電話がある。小林さんが荷物をとりに一度家に帰ると言っているが,とてもそういう状態ではないこと。マラリアというのは,100人に3人くらいは,脳性マラリアというものになって助からないことがある怖い病気であること。だから,少しでも条件のいい山口大学の附属病院(車で約1時間の宇部市内にある)へ移して治療する方針であること。移送ができないときに備えて,日赤病院でも治療をはじめられるよう,薬の手配をしたので,いずれにしても9月16日にはマラリアの治療に着手できる予定であること等が伝えられる。
この日,小林さんは,39度に達する熱と猛烈な頭痛に苦しんでいた。これに対する療法は点滴であってマラリア治療はまだ始まっていなかった。
夕方,澤田がたまたま小林さんの自宅に電話をかけて,小学生の子供さんから小林さんの入院を知った。澤田からの連絡でこのことを知った安渓は小林夫人に電話して,マラリアで入院中だと聞く。安渓は,小林夫人に自分の手許にキニーネという,どのタイプのマラリアにも効く注射液があるので担当の医師にそのことを伝えて欲しいという。その後,安渓は日赤病院の医師に知人があるので,日赤でのマラリアの治療体制のことを尋ね,必要に応じて情報や薬を提供することを思いつくが,22時を過ぎていたので翌朝電話することにする。
9月16日(金)発病3日目。山大附属病院へ転院。夕方投薬開始
安渓は,朝,日赤の内科担当のS医師に電話をして,小林さんへの治療のことを尋ねてもらいたいと依頼する。昼過ぎに返事があって,小林さんは,ちょうど山口大学附属病院へ日赤の医師に付き添われて救急車で送られたところだという。
附属病院までは,安渓の自宅から50キロメートルほどあるので,やきもきしている所へ,夕方小林さん本人が安渓に電話してきた。内容は,ファンシダールという薬を医師がもってきたが,これは,目が見えなくなる副作用がある薬ではないのかという質問であった。名古屋大学の武岡洋治教授が予防薬として服用して一時は盲目になったという事例にもとづく疑問であった。安渓は,治療薬として短期間使う場合にはそのような副作用は知られていないことを伝え,発病してからすでにかなり時間が経過しているので,ともかく一刻も早く飲むように,詳しいことはその後でお話すると答えた。30分ほどして再び小林さんから電話があり,ファンシダール2錠を飲んだという。そこで,安渓は手許にあった,「マラリア」という論文(尾辻
,1989)の中のマラリアの恐ろしさと早期治療の重要性についての部分を電話口で読み上げた。
それによると,この時点でクロロキン耐性の原虫が45か国から報告されていること,ファンシダール耐性の原虫も東南アジア,ケニア・タンザニアなど7か国から報告されている,等々の内容で,以下の様な予防と治療の失敗例も紹介した。それは,ナイジェリアを9日間おとずれた36歳の日本人医師の例で,帰国後12日目に39度の発熱をし,4日間にわたって毎日夕方に39度の発熱を繰り返した5日目に黄疸と肝障害を認めたので,本人がマラリアまたはA型肝炎を疑って歩いて入院した。入院時には体温は37度で,熱っぽさがあり,頭が重く,全身の倦怠感を訴えた。病院では劇症肝炎を疑ったが,検査の結果否定された。ところが,入院のわずか4時間後,突然全身の痙攣が頻発し,意識も混濁した。39度の発熱があり,呼吸不全,乏尿となった
ので,気管支に管を挿入して?酸素を送るとともに,強心処置を実施した。熱帯熱マラリアの脳症を疑い,末梢血1立方ミリあたり35万1900個の熱帯熱マラリアの原虫を検出した。ただちにキニマックス4ml(塩酸キニーネ400mg含有)の点滴を開始し,点滴終了直後には,原虫の密度は1立方ミリあたり2万8800個に下がっていた。しかし,すでに手遅れで,容体急変から7時間40分後に熱帯熱マラリアによる脳,心,肝,腎の多臓器不全で死亡した。尾辻論文の結論としては,個人的予防に努めること。いろいろ薬物耐性の原虫も多くなっているので,もっとも大切なのは,蚊に刺されないことだと書いてあった。小林さんは,いくら蚊帳をつって,蚊取り線香をたいても,例えば食事をする時には蚊は防ぎようがない・・・・・・とコメントした。
山口大学附属病院の医師団の話では,調査地のマリ共和国で小林さんはクロロキンをマラリア予防薬として服用していたので,クロロキン耐性のマラリアと判断し,ファンシダールを選択したという。ラリアムやハルファンといった最新のマラリア治療薬や,キニーネは病院では入手できていなかった。ファンシダールによる治療を始めた時点でマラリア発病から丸3日近くが経過していたことになる。
9月17日(土)朝は熱が下がるが,昼から再び発熱し容態急変
午前10時ころ,小林さんから澤田と安渓に電話がある。朝,ファンシダールの追加をもう1錠飲んで発病後はじめて体温が36度7分まで下がり,だいぶ楽になった。これまで血の色をしていた小便も普通の色のが大量に出たし,便通も入院後はじめてあった。食欲も出てきた。しかし,絞めつけるような頭痛が続いている。安渓は,ファンシダールが効いたのだ,よかったと答えたが,ザイールで何度もマラリアを経験している澤田は,ファンシダールを飲んでも2~3日は熱が下がらないことが多いのだが,と不審に思った。後に知ったことだが,ファンシダールは,ピリメサミンとサルファ剤の複合薬で,赤血球内には入り得ず,原虫を殺すのに2~3日はかかる治療薬なのである。
14時半か15時頃,澤田の方から小林さんの病室に電話をかけた。熱が下がって,個室に一人では退屈だろうと思ったからである。すると,電話口の小林さんは,はっはっとあえいだような息づかいである。また熱が上がってきて38度を越えたと,慌てたような口振りであった。澤田の経験では38度くらいの発熱であれほどあえぐようなことはない。あとで医師に聞くと,小林さんがあえいでいたのは脳の血管がマラリア原虫などで詰まり,呼吸系統の中枢に障害が起きつつあったのかもしれないとのことだった。
澤田はすぐ安渓に電話し,小林さんがパニックを起こしているみたいだと伝える。安渓はただちに病院に電話し,医師に病状を尋ねると,「さっきより熱が下がって落ち着いてきている。附属病院では『何もしてくれない』とおっしゃるので,簡単なブドウ糖の点滴をしている。」とのことだった。
17時頃,附属病院内科の当直の医師から澤田に電話がある。小林さんの意識が薄れて,今集中治療室に入っている。急いで家族を探しているので,小林さんのノートにあった電話番号にかけてみた。家族と連絡をとるために協力してほしい,という内容だった。後に担当の医師に聞くと,15時頃(安渓が医師に病状を尋ねた直後であろう)に小林さんは突然嘔吐し,それから急速に意識をなくしていったという。知らせを受けたその医師が15時半頃病院に着いたときには,まだ,瞳孔反射はあったが,その後意識はどんどん低下し,16時頃にはつねっても反応せず,意識が残っているしるしは全くなくなってしまったという。1時間もたたない間の出来事だった。
澤田から連絡を受けた安渓が,ただちに集中治療室に電話をすると,当直の研修医が電話に出た。安渓も,アフリカ経験があり,手許にキニマックス400mgのアンプルを12本もってのでその使用を大至急検討してもらえないか,と願い出るが,返事は以下のような内容であった。
「小林さんの意識低下と呼吸不全の症状については,しかるべき処置をちゃんととっているから心配はいらない。キニーネは日本国内でも手に入る薬だから,必要な時は病院として手配できる。それに,抗生剤というのは,効くのに時間がかかるものなのだ・・・・・・。」
寄生虫病は対症療法だけではどうにもならない。小林さんが脳マラリアという極めて切迫した状態にある可能性があるという認識が当直医師になく,マラリア治療についての有効な処置もとれないことがわかった。電話ではどうにもらちがあかない。
私たちは,手持ちのマラリア治療薬のすべてをもって病院にかけつけることを決心した。安渓のキニーネの静脈注射用のアンプルに加えて澤田のハルファンとキニーネの錠剤を持って山口から宇部の病院までタクシーをとばすことにした。タクシーを待つ間,澤田はさまざまな知人に電話をか?け意識が薄れているマラリア患者にどんな薬が適当なのかを調べようとしたが,そのような経験をした人はいなかった。安渓は,マラリア治療の経験がない医師への適切な指示ができる方法について神戸学院大の伊谷純一郎先生の助言を電話で求めた。伊谷先生の提案は,長崎大学熱帯医学研究所の教授に指示してもらえばよいだろうというものであった。そこで以前ナイロビで知りあった同研究所の鳥山寛氏に電話して臨床の経験が豊富な,
原虫学研究室の神原広二教授への連絡方法を教えてもらう。伊谷先生は,山口大学附属病院に電話して,小林さんの治療にあたっている医師には連絡がとれなかったが,別の医師に電話がつながり,伊谷先生御自身がマラリア治療を受けた経験を詳しく説明してたいへん感謝された。キニーネの静脈注射をすると,はじめ頭がカーンとして,人の話し声の低音部が聞こえなくなって,鈴を振るように聞こえるという副作用があるが,回復すれば,あとには何ものこらない安全な薬であるというのがその主な内容だった。また,伊谷先生からの指示で宇都宮大の伊谷樹一氏は,ただちに安渓の自宅宛にラリアム,ハルファン,ファンシダール等のマラリア治療のための最新の錠剤を宅配便で発送して下さった。回復期に使える薬がある
だろうとの判断である。
小林さんの勤務先の牧田農学部長は,集中治療室に電話をしてみたが,担当の医師がいないので,集中治療室のチーフにあたる教授を研究会から呼び戻してもらうよう頼み,安渓と澤田が集中治療室に着いた時にだれも受け付けにいないと中に入ることができないからと,窓口にいてくれるように病院長に依頼しておいてくれた。
宇部へ向かう途中,小林さんの担当の医師が集中治療室にもどった頃を見計らって私たちは公衆電話から集中治療室に電話して,現在手持ちのマラリア治療薬をもってそちらに向かっていることを伝え,長崎大学熱帯医学研究所の神原教授とディスカッションして治療を進めてほしいと要請した。担当医師は,薬についてはそれは有難いと述べたが,治療方針については,すでに群馬大と慶応大の先生方と連絡をとりあっているから長崎大との連絡は当面必要がない,という返事であった。
日没頃,まだ昼の明るさがかすかに残る中,18時30分過ぎに私たちは病院に着いた。その時小林さんはCTスキャンを撮りにいっていた。集中治療室に戻った小林さんを前にして,駆けつけた関係者とともに医師団の説明を受けた。小林さんはすでに完全に意識を失っていた。脳全体が腫脹して頭蓋内の圧力が上がり大変危険だとのことだった。こういう状態が脳マラリアによるものかそれともファンシダールの副作用で全身に溶血が起こっているのか決めかねるのでCTスキャンをかけたと説明された。そして,脳の腫脹があとしばらく続くと大変危険だと繰り返し言った。マラリアの治療を始める前に脳の腫脹を止めることと,血圧の低下を止めること,また機械的に呼吸を続けさせる必要があった。意識を失ってからわずか3時間ほどで
延命治療を施す状態になっていたのである。
澤田はハルファンとキニーネの錠剤を医師たちに手渡し安渓は,先に引用した,ナイジェリア帰りで熱帯熱マラリアにかかり死亡した医師の急速な病状の悪化と死亡事例の載った尾辻論文とキニーネの注射液を手渡した。
医師たちは,日本では入手できないハルファンなどの薬が入手できたことは,治療のオプションが増えるから良いことだ,と述べ,これまでマラリアの臨床の経験がなかったので「教科書を読みながら」の治療に当たっているのだ,と告白した。
医師たちは,別の患者がやはりマラリアで集中治療室に入っていること,その人のために群馬大から取り寄せた中国製の青蒿素(英語名アーテミーサ)というヨモギからとった薬が2,3回分あるので,その使用を検討していると付け加えた。
これで、小林さんのマラリア治療を進めるための私たちなりの努力は終結してしまった。病状のあまりに早い進展のため,マラリア治療の着手までに失った48時間ほどの遅れを取り戻すことができなかったのである。
同夜23時頃,担当の医師が小林さんの脳波のレベルがほとんどフラットであること,ときどき痙攣しているような波がでているだけであること,脳の血管の大きな部分が詰まって起こる脳マラリアだと思われること,脳の腫れは一時危険だったが腫れを抑える薬を入れていることなどを伝えた。この時点で医師の口から,マラリア原虫を小林さんの体から取り除くことが,病状の回復につながらない旨宣告された。死後の解剖で明らかになったことだが,すでにこの時点で小林さんの脳の間脳や橋(きょう)という部分の細胞はおおかた死滅していたのである。
?9月18日から21日にかけて小林さんの体は少しずつ衰弱していき,9月22日木曜日午前10時35分小林さんはついに息をひきとった。
小林さんより少し前からこの病院の同じ集中治療室に,インド旅行から帰ってマラリアを発病した青年が入っていた。始めは発熱するたびに点滴を受けて勤務を続けたりしながら,地方の病院をあちこち回されたあげく,重態となってこの病院の集中治療室に入ったのである。当初は肝炎を疑われ,山口大学附属病院に入ってからもワイル氏熱ではないかなどと言われ,なかなかマラリアの診断がつかなかった。ようやくマラリアとわかった時には,すでに脳以外の多臓器障害に陥っていたという。
私たちは,このような不幸な事例が2度と繰り返されないことを強く願うものである。そのために,反省をこめた若干の提言を述べて,小文のしめくくりとしたい。
1. 自衛する
まず,熱帯地方ではありふれた病気であっても,日本ではきわめて貧弱な,あるいは見当違いの治療しか受けられない場合があることを,本人と家族がよく認識して,自衛を心掛けること。具体的には,訪問先の地域の保健と衛生の状況や熱帯病について勉強しておくことが必要である。また,例えばある地域でマラリアにかかったことがないから他の地域でも大丈夫だろうなどとたかをくくることは危険である。その点で『海外健康ハンドブック』(トラベルジャーナル社,1,500円)という本を推奨しておきたい。この本は,小さな本であるが海外でかかる恐れのある病気に関する情報を地域別に記述し,予防と治療の失敗例等も盛りこんだ有用な本である。マラリアのない地域に出たのちも,予防内服をひと月は続けるべきことは常識
であるし,帰国後も不意の発病にそなえて,最新の薬を1年間は肌身はなさず携行し,家族にもその所在を教えておく,などは多くの人が実行している自衛策であろう。
発病した場合には,治療のわずかの遅れが致命的になる場合があるので,その地域に経験のある知人や医師に相談することを,例え深夜であろうと躊躇してはならない。
2. 熱帯病の治療体制を全国で確立する
予防策が効を奏せず,発病してしまった後の対策は一個人の努力を超えている部分も多い。そこで,アフリカ学会においても文部省など関係各省庁に具体的な対策を求めていく必要があると考えるものである。
日本では,その道の専門家と呼ばれる人の中にも,マラリアの臨床経験のある人は少ない。またたとえそういう医師がいたとしても,どこにその人がいるのか,現場の医師にはなかなかわからない。熱帯病という日本での臨床例が少ない病気,そして一刻を争う病気に適切に対処していくためには,貴重な臨床例の蓄積をおこなう場所とシステムが必要なのである。そして日本のどこにいても,そこに問い合わせてすぐ治療方針を決定し,ただちに投薬が始められる体制がどうしても必要である。例えば,各都道府県に少なくとも一か所は,最新のマラリア治療薬を一式おいておく病院を決めておくならば,それほどの経費をかけずに,絶大な効果を上げることができるものと思われる。
3. 情報のネットワークを作る
私たちは,以下の点についてアンケート調査を実施し,その結果をふまえて適切なとりくみをすることを国際学術研究総括班に要望している(安渓・澤田,1995)。すなわち,これまでの研究者の海外での,あるいは輸入感染症等によるマラリア等の発病とその治療の実態についてのアンケート調査がそれである。これまで個別例として埋没してきた熱帯病についての貴重な資料を生かすために,アフリカ学会としてもこのとりくみに協力してくださることを希望している。
さらに,研究者をはじめとする海外渡航者に目的地での疾病の予防と治療についての最新の地域情報が容易に得られるようになることが望ましい。例えば,私たちとしては,総括班のニュースレターを充実し,それを編集したハンドブックを適宜発行することを提言している。名古屋大学の武岡教授が提案しているパソコン通信,あるいはインターネットの活用も積極的に支援したいものである。
?小林さんが自らの命をかけて教えて下さったことに対して,私たちは答える必要があると感じている。アフリカ学会の会員の皆さんの智恵と力を結集してなんらかの具体的なとりくみを始めていただけるならば幸いである。
引用文献
安渓遊地・澤田昌人,1995,「持ち帰ったマラリアで死なないために――山口大学教授・小林央往氏の残した教訓」『文部省科学研究費・国際学術研究海外学術調査 ニュースレター』No.28
三好寿秋,1990,『海外健康ハンドブック』トラベルジャーナル社,1,500円
尾辻義人,1989,「輸入感染症特集・マラリア」『化学療法の領域』5巻3号
追記。執筆後,1995年4月24日にNHK教育テレビのETV特集で『マラリアの逆襲一問われる伝染病対策』という番組が放映された。その中で小林さんの事例もかなり詳しく扱われた。そして,以下のようなマラリア情報ネットワークが立ち上げられたと報告されたのでここに再録しておく。できるだけ多くの人々に広く知らせていただくことを願う。
マラリア情報ネットワーク
情報と診療(24時間体制)
○東海大学病院・救命救急センター
○山口大学医学部・総合治療センター
情報(昼間のみ)
○名古屋大学農学部・武岡洋治
平成7年3月31日発行 (非売品)
日本アフリカ学会会報第26号
発行 日本アフリカ学会
〒603京都市北区小山西花池町1-8
土倉事務所気付
編集 日本アフリカ学会関東支部
(北村光二)
印刷所 株式会社土倉事務所
(引用終わり)
末尾の「マラリア情報ネットワーク」には電話番号が付記されていましたが、現在は担当者も変わっていることでしょうから、ネット掲載にあたっては、これを削除しました。
2022年10月31日追記
2016年の段階の、日本におけるマラリアとその対策の現状の報告を以下で読むことができます。https://www.jstage.jst.go.jp/article/naika/105/11/105_2133/_pdf
鳥取市の保健所からの2022年10月20日の報告では、ナイジェリアから帰国した女性がマラリアを発症、13日の発病から19日の確定診断まで、1週間かかっています。
https://www.city.tottori.lg.jp/www/houdou/contents/1666341634826/index.html
東京大学医科学研究所の 医療従事者向けのガイド
https://www.idimsut.jp/didai/kansensho_09.html
以上、掲載は 安渓遊地@生物文化多様性研究所でした。