書評)『#奄美_・_#沖縄_#カトリック_宣教史──_#パリ外国宣教会_の足跡』(南方新社) #川村信三神父 RT_@tiniasobu
2021/04/25
http://ankei.jp/yuji/?n=2420 でご紹介した、本の書評です。
とても詳しくかつ、力強い励ましをこめて書いていただいています。
上智大学教授の川村信三神父様と カトリック新聞のご許可を得て、ここに掲載いたします。
川村信三先生の学問的プロフィール https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901035529842461
ぜひ読まなきゃと思われた方、http://www.nanpou.com/?pid=149938160 でご確認のうえ
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『カトリック新聞』4562号 第6面(2021年2月7日発行)から引用します。
カトリック時代エッセー(41)
明治初期の奄美・沖縄宣教史から学ぶ
川村信三神父(イエズス会)
今回は、明治開国期の宣教師活動を知る上で興味深い書籍を紹介します。A.
ハルブ神父著、岡村和美訳で昨年刊行された『奄美・沖縄カトリック宣教史----パリ外国宣教会の足跡----』(南方新社、2020年)=写真=という本です。この書によって現代キリスト者が忘れかけている日本宣教史の真実に目を開かれるように思えるからです。著者のハルブ神父(Augustin
Pierre Adolphe
Halboutオーギュスタン・ピエール・アドルフ・ハルブ)は、1864年フランス生まれのパリ外国宣教会員で、24歳で司祭叙階された直後に来日し、93年から1920年まで奄美で布教に従事した宣教師です。彼の残した記録は、日本開国期のキリスト教復活とともにわが国に足跡を残したパリ外国宣教会神父らの奮闘の証言であり、日本キリスト教史においては最も語られることの少ない分野を明らかにしたものといえ、極めて貴重な報告となっています。
1844年のパリ外国宣教会フォルカード神父の那覇上陸をもって日本キリスト教の「復活」の時代が幕を開けました。58年の日仏条約締結を境に、長崎、横浜、函館などに設定された居留地内のフランス人宣教師の活動が次第に許され、59年にはジラール神父が横浜に、60年にはプチジャン神父も琉球を経由して長崎入りしています。そうした諸活動に先立つ奄美・沖縄での活動はあまり知られていません。フォルカード神父からプチジャン神父に至るおよそ18年の最初期のパリ外国宣教会の活動およびそれを継承した次世代の宣教師たちの姿から福音宣教のモデルケースが浮かび上がるように思えます。
本書を通して、最初期のパリ外国宣教会員の宣教魂というものに圧倒されます。来日当初、フランス人らは「異邦人」として役人以外誰からも相手にされず、ほほ囚人同様の扱いを数年間耐え忍んだ後、やっとのことで現地の人々の関心を引くようになります。その道がいかに険しかったことか。異国の宣教師たちへの訪問を、既存の宗教家たちが拱手傍観していたわけではありません。妨害しようとする人物によって苦境に追いやられること一度や二度ではなかったようです。そうした苦労の後、ハルブ神父が奄美大島に到着した1893年頃には宣教も軌道に乗り、「民衆はカトリック教を選ぶよう勧められる」ほどの状況が現れました。その年だけで387人の島民が受洗したという事実は、
教会にとっては積年の苦労を一気に払拭するような喜びであったに違いありません。
フランス人宣教師らは着の身着のままの極貧状態で、あばら家に雨露をしのぎ、そこから何とかして地元民に受け入れられようと粉骨砕身の努力を続けました。江戸時代初期の禁教令下のように命の危険は感じなかったものの、「殉教」の栄冠につながる希望もなく、また初代教会の宣教物語で語られるような「奇跡」が起こるわけでもない日常の現実を、人々からの「無視」と「誤解」、そして「中傷」にひたすら耐えた記録がそこにあります。遠く故国を後にし、宣教地で骨をうずめる覚悟で来日したフランス人たちにとって、「無視」や「誹謗」は死ぬよりもつらい状況であったに違いありません。
結局、宣教師たちの「善良」さが地元民に理解されたのは、彼らのイエス・キリストの福音への信頼を土台とした言行一致の「厳しく清い」生活が目撃されたからに他なりません。
パリ外国宣教会員たちは日本の他の地域でも同じ宣教方法を貫いています。宣教師は機動力をもって村々を歩き回る。そして、拠点となる民家に祭壇を設け、定期的に訪問して祭儀を行う。その場の運営は日本人のカテキスタに任せるという、「ホーム・チャーチ」方式と呼ばれる日本人力テキスタの活躍の場を創造していきました。このカテキスタの活動なくして、地元民へのキリスト教の定着はなかったと言っても過言ではありません。
ハルブ神父の記述から、奄美大島でも1890年代の半ばには司祭と、カテキスタの共同作業が順調に運び、受洗者を増やしていったことが分かります。地元民の中から秀でた人物をカテキスタに抜擢し、島とキリスト教の橋渡しが円滑にされました。民家祭壇を中心に「教理」を教え、結婚式や洗礼式なども信徒が行うという、明治初期以来のパリ外国宣教会の宣教方法は奄美大島でも功を奏していたという事実を確認できます。こうした方法は、千葉県や愛知県などでも大きな成果を上げ、カテキスタが準備した後に洗礼を授けるという方法で、
パリ外国宣教会の司祭1人につき年間平均(全国統計)およそ30ないし40人が入信したといわれています。カテキスタや民家祭壇などを通しての信徒の「能動的」な教会運営が有力であったことは紛れもない事実として記憶されています
奄美・沖縄の初期日本宣教の記録により、その当時の人々の苦労と工夫から多くを学べるのではないでしょうか。簡易で美しく翻訳された本書をひもとくことは、ひいては、私たちが現在直面している宣教の諸間題に思い当たらせ、さらにこれから歩むべき道をも示してくれるように思えます。
以上、引用は 安渓遊地でした。