#文化的ジェノサイド_)民族文化の抹殺と抵抗運動__#ethnocide_RT_@tiniasobu
2020/10/29
本名←日本名 な/ど 文字化け修正しました。
2020/11/29 最終的な印刷のpdfに合わせて、本文に、「平成の大合併で誕生した南アルプス市のように、」を追加しました。
2021/11/28 文字化けひとつ修正しました。
文化的ジェノサイド 民族文化の抹殺と抵抗運動
『地球環境学事典』http://www.chikyu-kankyo.jp/ に執筆した記事です。
ジェノサイドとエスノサイド
ユダヤ系ポーランド人のレムキンは、ナチスがユダヤ人等「アーリア人種」以外の「劣等人種」の抹殺を目指していることを指摘し、それをジェノサイド(大虐殺)またはエスノサイド(ethnocide民族抹殺)とよんだ(Lemkin,1944)。それと同時に、ドイツ人と同じ「アーリア人種」ではあっても、ドイツ以外の文化や言語を劣等とみなして、その段階的な消滅をはかる政策をナチスがとっていたことも指摘している。
「文化的ジェノサイド」とは、必ずしも直接の身体的な破壊をともなわずに固有の民族文化をまるごと消し去ってしまうことを指す。また、エスノサイドをレムキンの意味としてではなく、ユネスコのように文化的ジェノサイドの意味で使う例もある。
アイヌ民族の苦難
わが国の例でいえば、アイヌ民族がたどった苦難の道は、まさに文化的ジェノサイドと言えるだろう。アイヌ語でシエペ、すなわち「本当の食べ物」と呼んだサケを捕ることを禁じ、密猟としてとりしまったり、祭りをおこなう聖地をダムで水没させたりすることは、こうした例にあたる(萱野・田中、1999)。もっとはっきりしているのは、固有の言葉を奪い、禁じることである。その方法は、植民地政府による強圧的なものだけではない。「アイヌ」とは「人間」を意味し、「アイヌネノアンアイヌ」、すなわち「人間らしい人間」の誇りをこめた呼称である(萱野、1994)。この言葉が、アイヌというだけで差別の目で見られるという歴史の中で、アイヌ民族最大の団体は、呼称としてのアイヌ協会を、同胞を意味する「ウタリ」を用いた「ウタリ協会」に改め、1961年~2009年の間、用いてきたのである。
沖縄の方言札
こうした文化的ジェノサイドが、往々にして教育の現場で推進されることは、重要である。ここで沖縄における「方言札」の問題をとりあげてみよう。19世紀末まで沖縄で使用された国語教科書は、方言と日本語のバイリンガルのものであり、現場での指導においても方言は使用されていた。ところが、20世紀に入って、「普通語」と称する日本語のみでの授業が行われるようになったのにともない、方言を使った児童生徒に罰として「方言札」を渡すという制度が小中学校に導入された。方言札を首にかけた児童生徒は、次の方言使用者を発見して自分の方言札を渡さなければならなかった。このため、同級生の足を踏むなどして「アガー(痛い)!」と言わせるということも横行した(近藤、2008)。詩人の高良勉は、1960年前後の沖縄島南部の小学校での回想として、放課後まで方言札をもっていることが度重なると、放課後残されて竹ぼうきの柄がばらばらになるまで先生にお尻をたたかれることもあったと述べ、さらにその方言札が学校外の集落や地域にまで出回るようになったため、家に帰っても自由に話すことができず、「みなだんだん無口になっていきました」と書いている(高良、2005)。文化的ジェノサイドの一類型としての言語的ジェノサイドが、学校という制度を通して推し進められたことを示す事例である。
沖縄初の国指定有形民俗文化財である竹富島(たけとみじま)の喜宝院(きほういん)蒐集館には「方言札」の実物が残されている。木製の札の表には「方言札」と墨書され、裏には「竹富小学校」と記されている。よく方言を使ったために、しばしばこの札を家に持ち帰ることになった、現在の喜宝院住職の上勢頭同子(うえせど・ともこ)さんは、札を家に持ち帰れば叱られるため、学校からの帰路にある拝所の木に方言札を預けて帰宅したという。
植民地朝鮮における創氏改名
民族の文化の根幹をなすものは、固有の言語であるが、それにも増して民族としての帰属意識(アイデンティティ)が大切であると考えられている。そして、民族を構成する家族や個人にとってのアイデンティティとしては、自分の属する家系あるいは家族の名前と個人の名前があげられるだろう。植民地において、子どもに宗主国の言語による命名をする例は多いが、1940年朝鮮総督府が行った「創氏」は、結婚しても姓が変わらない夫婦別姓から、一家にひとつの氏だけを認める日本式のシステムへの移行の強制という意味で、伝統的な文化を根幹から改変することめざすところに本質がある政策であったが、同時に日本風の氏・名への変更に向けて強力な誘導が行われた。現在でも、在日韓国・朝鮮人の社会では、民族名を名乗るか日本名を名乗るかは、同化への圧力の強い日本社会の中での悩ましい問題となっている。
地名の改変
伝統的な地名が、外来の地名に置き換えられることもまた、文化的・言語的なジェノサイドのひとつの形である。たとえば温泉で有名な登別は、アイヌ語ではnupur-petすなわち「濁った川」という地名であったが、これにあてた漢字から「のぼりべつ」となったものだし、札幌市豊平区の地名月寒も、元来は、chikisapというアイヌ語だった。地名に漢字をあて、それをさらに日本語読みして、もともとの地名の持っていた豊かな意味を失ってしまうといったことは、平成の大合併で誕生した南アルプス市のように、現在も日本の各地で進行中である。西表島西部の聖地トゥドゥマリの浜は、復帰後リゾート関係者などによって「月が浜」などと呼ばれてきた。この名称が道路標識にまで登場したことから、約30年にわたる地元から働きかけによって現在は正しい標識となっている。しかし、その近くのフシクの浜が、現在の通称の「星砂の浜」から復帰するのはまだ先のことのようである。
文化的ルネサンスと残された課題
2009年2月、日本最南端の高校、石垣島の八重山商工高校の郷土芸能部による伝統芸能の発表会が、初めて西表島で催された。八重山の島々で伝承される民俗芸能の上演であったが、全国の高校で2位となる文化庁長官賞を受賞するほどの高いレベルの、若々しい演舞と歌サンシン(三線)は、会場を埋めた島びとたちに大きな感動を与えた。これは、1970年代には農村のいたるところにあった民俗芸能が、いまでは例外的に珍島という島で高齢者が演じることができるだけになってしまっていることから比べると、驚くべき違いであるという(同席した全京秀ソウル大教授のコメント)。各島々で開催されている、子ども達による「島ことば大会」などとあいまって、いま、八重山の方言による民俗芸能がいままさに、文化的ルネサンスのただ中にあり、学校教育がその原動力のひとつとなりうることを示す経験だったといえよう。
しかし、そこにもなお問題は残っている。実は奄美・沖縄の島々の方言の多様性はきわめて大きく、とくに八重山では音素の数だけに注目しても、与那国島(よなぐにしま)の3母音から波照間島(はてるまじま)の7母音まで実に多彩なのである。それにもかかわらず、長く政治の中心が石垣島に置かれてきたことから、石垣島での発音が標準とされ、古典芸能のコンテストにおいても、石垣方言がきちんと発音できるかどうかが、評価の重要な基準になっている。高校が石垣島にしかない中で、ふるさとの島の歌の石垣方言での歌い方を高校で習って公演する時、高齢者の世代は孫の晴れ姿に涙を流しつつも、言いようのない違和感を覚えることがあるのである。
西表島の地域おこしリーダーの石垣金星(きんせい)さんは、芸能の世界での石垣島の支配が、サンシンの楽譜にあたる「工工四(クンクンシー)」をもつことをひとつの背景としていることに気づいて、約30年の歳月をかけて、西表島の民謡の工工四を完成させた(石垣、2006)。これもまた、文化的ジェノサイドの中で消滅に瀕したひとつの文化のサバイバルの試みであるといえよう。
人間を対象とするフィールド科学に関わる者は、ユダヤ人を識別するためにナチスに協力してジェノサイドに荷担した自然人類学の歴史や(シュルマン、1981)、関東軍からもらったアヘンを聞取り調査への協力の謝礼として渡しながら調査をすすめた、我が国の民族学・文化人類学(全、2005)への反省を踏まえて、いかにすればジェノサイドの側でなく、文化的なサバイバルやルネサンスの側に立つことができるかが、問われている。
【安渓遊地】
→(参照項目)
全 2005;石垣 2006;萱野 1990;萱野・田中 1999;近藤 2008;Lemkin 1944;シュルマン 1981;高良
2005.
○キーワードおよび索引語は下線で示しました。
引用文献
全 京秀(Chun Kyung-soo)2005「阿片と天皇の植民地/戦争人類学――学問の対民関係――」『先端社会研究』第2号、特集
社会調査の社会学、関西学院大学:127-158.
石垣金星、2006『西表民謡と工工四』西表をほりおこす会
萱野茂、1990『アイヌの碑』朝日出版社
萱野茂・田中宏、1999『二風谷ダム裁判の記録』三省堂
近藤健一郎、2008「近代沖縄における方言札の出現」近藤健一郎編著、『方言札――ことばと身体』社会評論社、17-52
Lemkin, Raphael, 1944, Axis Rule in Occupied Europe: Laws of
Occupation - Analysis of Government - Proposals for Redress, Washington,
D.C.: Carnegie Endowment for International Peace
シュルマン、アブラハム、1981『人類学者と少女』岩波書店
高良勉、2005『沖縄生活誌』岩波書店