わが師わが友)玉野井芳郎先生と山尾三省さんからの流域の思想 RT_@tiniasobu
2020/10/15
追加 2022年8月22日 「新やまぐち学6」の関連部分のpdfを追加しました。
山口県立大学の大学院でおこなっている 地域学特論 のための資料として書いています。
玉野井芳郎先生は、安渓遊地の恩師のひとりで、博士論文の日本語版にたいして丁寧にコメントをしてくださいました。
そのご縁をいただいた、山口での講演会のことなどを記録しておきます。
のちに、山口県立大学の教員としてまとめた、『東アジアにきらめく---長州やまぐちの遺産・自然と文化の再発見』は、
市販されていない本ですからあまりその内容が知られていないと思います。
無料で電子書籍として公開されていますので、御覧いただければ幸いです。
https://www.yamaguchi-ebooks.jp/?bookinfo=kendaicoc6kirameku
その11ページ目から 安渓遊地が書いている 流域の思想 の原稿を以下に貼り付けておきます。
また、1983年に玉野井先生が、山口大学にこられて若者達にはなされた内容を添付していますが、これは、授業用ですから pdfにはパスワードがかかっています。どうしてもよみたい という方は、このページをていねいに最後までみてください。
第一章 流域の思想??玉野井芳郎から山尾三省へ(安渓遊地)
・玉野井芳郎と山尾三省
山口県出身あるいは長州/山口に深いゆかりをもつにもかかわらず、その活躍や存在そのものが地元ではほとんど忘れられている人々がいる。
柳井市出身の経済学者・玉野井芳郎(1918-1985)も、そうした一人かもしれない。東京大学で経済史を講じたが、西欧起源の「経済学」研究ではあきたらず、全人類の全歴史の中で「人間の経済」を再発見しようと、E・F・シューマッハー、カール・ポランニー、イヴァン・イリイチなどの紹介を精力的にこなした。「地域主義」を唱えて定年後は沖縄国際大学教授となった。編者の安渓遊地は、1981年沖縄大学に教員として在職中に土曜教養講座での玉野井の「ブータン王国訪問記」の講演を司会したのが初めての出会いだった。ちょうど熱帯アフリカ・コンゴの森の物々交換市を博士論文としてまとめようとしていた安渓は、玉野井の研究と地域への姿勢から多大の刺激を受けるようになった。山口大学教養部に職を得て、
コンゴ川(当時はザイール川)沿いの物々交換の市場をめぐる博士論文の草稿を玉野井に送ってコメントを求めた。沖縄とつないだ電話での玉野井の懇切なコメントは3時間に及んだ。「論文の途中からの労働時間の議論はアダム・スミスのようになっていて、経済学をやめた僕にとっては退屈。せいぜい注にするところかな」とおっしゃったのが強い印象に残っている。
玉野井を山口大学教養部に招いて講演してもらった時、米山荘という旅館に宿を予約した。電話の向こうで、一見さんはお断りらしかった老舗の宿の女将が言った言葉が印象に残る。「はい。柳井の玉野井さんね。」玉野井芳郎は、地元では大学教授としてというより、ガラスやサッシの商家の長男として記憶されていたのかもしれない。
インターネットで見ると、いま柳井市には17か所の朝市や直売所があるというが、これは1976年6月に玉野井芳郎が呼びかけて始まったものだという。東京での地域主義研究集談会の発足に先立って玉野井は柳井に還り、日曜朝市の発足を提唱している。『柳井日日新聞』は、第一回朝市の反省会席上で、「玉野井博士は感激のあまり、涙を流し声ふるわせて、祝辞と激励の言葉を述べた」と報道した(中村、1990:
267)。巨大なグローバル経済に対抗しうる足もとからの地域主義の具体的な発露がふるさとの柳井で動き出したことが玉野井を感激させたのである。
山口市に玉野井芳郎を招いておこなった講演「大転換の時代??等身大の生活世界を求めて」では、肥大し操作不能の暴力装置と化した感のあるグローバル経済をいかに地域から飼い慣らしていくのかという問いに、エントロピーとエコロジーの視点で応えていくという内容であった。
その中に、米本位制で各藩が独自性をもっていた江戸時代の経済を、中央に財政権と行政権が集中する体制に変えた、松方正義を中心とする「実に巧妙な」手法についても触れた。まず米の禄を貨幣の禄に変え、さらに貨幣の禄を公債というペーパーに変え、それを最終的にインフレで無価値にしていく。そのうえで地租改正をおこなって中央の課税権を確立した。旧武士階層の力を奪って中央集権国家の基盤をつくった明治政府の政策についても述べている。
玉野井は学生たちに語りかけた。「地方自治体に権限がないだけに、中央政府としてはます慎重に原子力政策をたてるべきなのです。放射性廃棄物の処理の問題がこれほど問題になっているにもかかわらず石川県の能登の方なんか原発ブームにわいております。山口県の上関町にも原発計画が持ち上がっていると聞いて、おどろいています。閉鎖性水域の絶妙な自然環境を誇る瀬戸内海にもしも汚染が広がるようなことにでもなったら取り返しはつきません。しかし、1980年代に入ってから世界的にエネルギー需給の基調が大きく変わってきました。もうこれ以上は石油の需要も電力の需給もそれほどは伸びないのではないでしょうか。それゆえ国はもう少し柔軟な政策をとってほしいものです。」(玉野井、1984:
21)。
このように西欧中心でも中華思想でもない世界観・宇宙観から山口県をひとつの例として東アジアにおけるその歴史を見直していこうというのが、「新やまぐち学」の基本となる研究姿勢である。
玉野井芳郎の知的冒険の方向とは一見逆向きのようであるが、やまぐちという場所から日本・世界・宇宙を見ていこうという姿勢も大切である。山口県ゆかりの山尾三省が、のちに屋久島を舞台として自然の中の日々の暮らしを糧にして紡ぎ出した詩的世界は、強い喚起力をもっている。
山口県の日本海に面する油谷にルーツのある山尾三省は、次のように問いかけた。
私たちはこれからどのように生きていけばよいのか。
私たちの社会は、現在を踏まえてこれからどのように展開したらよいのか。
私たちの世界は、すでにはじまっている新たなる千年紀に向けてどのようなヴィジョンをもつことができるのか。
---「物事をまじめに考え、人生を真剣に生きている人であれば、この三つにして一つ、一つにして三つの問いから逃れることはできないだろう。」と彼は続けている。
最近のバイオリージョナリズムの認識では都市と地方の生活を厳密に分けて考えるべきではないとしています。これはつまり文字どおりに言えば、私たちはみな同じ川の流れの中---「流域(ウォーターシェッド)」にいるということなのです。(p114)
アメリカと間違った名前で呼ばれる大陸の現代詩人のゲイリー・スナイダーと山尾三省がシエラネバダの山中で語り合った珠玉のことばの中で、「生命地域主義」などと訳されることもあるバイオリーョナリズムを二人が「流域の思想」と位置づける印象的な場面がある。
人間の引いた境界線に支配されて生きるのではなく、ひとつの川沿い、ひとつの盆地、ひとつの湖や海のほとりなど、自然のまとまりの中に、そこに生きるすべての生命とともに生きなおす(rehabitation)。それは、田舎に住むと年に住むとに関わらず、現代を生きるすべての人の課題であるはずだ。
62歳という早すぎる死を目前に、妻と子どもらのために3つの遺言を残した。恐ろしいテロや原発事故による被害や加害が我が事として切実に感じられるようになった今こそ、その遺言を噛みしめてみたい。
まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、も
う一度飲める水に再生したい、ということです。
神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。……
第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー
出力装置をすっかり取り外してほしいということです。自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまか
なえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。……
遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心
の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。
南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。
われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法
第9条に組み込まさせ給え。
武力と戦争の永久放棄をして、すべて
の国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。……
2000年8月27日、安渓遊地と安渓貴子はコンゴ民主共和国とケニア共和国の友人たちを迎えて、森林保全とエコツーリズムの可能性についてのワークショップを屋久島で開催していた。夜は、夜風の涼しい宮之浦川のほとりで、語って呑んで歌った。元気な人たちは服のまま川にも飛び込むというにぎやかな宴がつきるころ、島の若者たちにとっての精神的支柱のひとつであった山尾三省さんが亡くなられたという知らせが届いた。笑いさざめいていた仲間たちは抱きあって泣いた。翌日、わたしたちは、お宅におじゃまして「三省さん、ありがとう。すべての川の水が飲めるようになるというあなたの夢を、僕らも追いかけてゆくよ」と語りかけ、「いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと」の歌を
オカリナで合奏したのだった。
3つの遺言を残してこの世を去った、山尾三省が5歳から小学3年生の終わりまでを過ごしたふるさとの油谷町での日々を、92歳になる伯母が語り、それを書きとめたものは、まるで石牟礼路子の世界だ。それとともに、山口県の田舎での子ども時代の経験がいかに大切であったかをも教えてくれる。
この背戸の湧き水は、まっことよき水でありました。それはそれは美味しゅうありました。「山紫水明ちゅうのはこの地のことぞ、甘露云うはこの水のことぞ」と祖父の自慢げに云うをわたしらは何千回聞かされましたことか。……近隣の家からも汲みに来よられるほどの千金値の水にてありました。三省が年長じて美(は)しき水求め歩いたと云うも、この背戸の湧き水に原点があるが……と、常に(いっそ)思いよリます。
波の音と読経の響こう道元山の広い百姓家での数年の生活が、この先の三省の歩きよらした道の、修行僧にも似たそれの、とにもかくにも出発点でありましたろうことは、東の空より日が昇り西の空に日が沈むほどに確かなことと思うております(黒瀬静江述、長屋のり子編、2000「ほんそう児、三省」『季刊生命の島』58号)
以下は、 玉野井先生からいただいた、講演録への序文です。
『大転換の時代』
序
玉野井芳郎
若い人たちに講演で語った私の話が、このような手づくりの立派な小冊子にまとめられることになった。著者としてこれほどうれしいことはない。
若者には若者向きの話を、といったような器用なことは私にはできない。そのときに頭に描いているさまざまな心像をせいぜい平易に語ろうとするのが精一杯である。この講演の場合もそうだった。
“大転換の時代”といわれる今日の危機的時代のもつ深刻な意味をどうとらえたらよいかということをテーマに、できるだけ広く、深く、話を展開した。きっと初めて聞くような話もあれば、むずかしいと感じた話もあったにちがいない。だが、そのなかから何か湧きでるようなものがあることがわかって、それで自分の考えをいっそう深めたり、自分の身辺を見まわしてライフ・スタイルを建て直そうとしたりする何らかのきっかけとして役立ったなら、私の講演の目的は達せられたことになる。
この講演録の新たな読者も、私の問題提起に含まれるいくつかのポイントを、ぜひ心に受けとめていただきたい。とくに新入生の皆さんは、高校時代の延長と惰性からの思いきった離陸を目ざして、現代の学問の潮流と現実との躍動する接点に、若々しい活眼を開いてほしいと思う。
終わりに、本講演の主催者、「歴史を掘り起こす会」の皆さんに感謝しなければならない。この本の編集にたずさわった方々、とくに山口大学教養部の、門倉正美(哲学)、安渓遊地(文化人類学)の両氏に厚く御礼申し上げる。ワープロで数度にわたる校正を経て仕上げて下さった門倉氏のご努力なしには、私の講演がこのような形で公にされることはありえなかった。深く謝意を表したい。
ひとりでも多くの若い人たちに、刺激に富む心の糧のひとつとして役立つことを願いつつ。
1984年3月10日
添付のpdfについての門倉正美さんの説明です。当時、山口大学教養部の同僚でした。
再版にあたって
2020年2月
門倉正美
本書は、1983年4月に山口大学で主に新入生に向けて、玉野井芳郎先生が行った講演の記録を復刻したものです。
この講演で玉野井先生が学生たちに対して「大転換の時代」を訴えてから既に35年以上が経ちました。その間にバブル経済の崩壊があり、小泉政権によって新自由主義が導入・促進されました。2001年には9.11が、そして2011年には3.11がありました。また、安倍長期政権によって安保法制が施行され、TPPが主導され、アベノミクスによって大規模な金融緩和が続けられています。
しかし、この間のこうした政治・経済の潮流は、玉野井先生が唱えた「大転換」の必要性をみじんも減じていません。それどころか一層切実なものとしているのではないでしょうか。例えば、新自由主義やTPPが鼓吹するグローバリゼーションは、玉野井先生が対置した「開かれた内発的地域主義」とは全く相容れませんし、3.11の福島原発事故と、その後の安倍政権の原発再稼働は「エントロピー(廃棄物)」問題を故意に看過しています。
この講演における玉野井先生の問題提起は、35年以上経った今もまったく古びていないのです。復刻版を編集した者たち(安渓・門倉)としては、1985年10月に他界された玉野井先生が「序」でおっしゃられているように、「この講演録の新たな読者」に対して、先生の問題提起の「いくつかのポイントを心に受け止め」ていただき、「若々しい活眼を開いてほしい」と切に願っています。
かぎのことばは はじめだけおおもじ あるふぁべっと5もじで せんせいのふるさとのまちのなまえです
COC06_Tamanoi+Yamao.pdf (2,540KB)