資料)日本に眠るパリ外国宣教会宣教師列伝_(アイウエオ順)_#MEP_#catholique_#カトリック RT_@tiniasobu
2019/06/27
http://www.geocities.co.jp/rainichi20051/Other_Countries/ParisRetsuden.doc
に掲載されていた記事です。貴重な情報なので、ここに再録させていただきます。
ただし、名前のカタカナ読みは、検討を要するものもあるようです。例えば、アルブ神父は、フランス語としてはそうなのですが、現地では、ハルブ神父として親しまれていました。
作成者は、武内博氏とされています。
日本に眠るパリ外国宣教会宣教師列伝(アイウエオ順)
アドネ (Adnet, Matieu 1813-1848)
1813年12月8日フランス・ウエルダンで生まれた。東洋伝道を志し1849年那覇に到着、フォルカード師の下で布教に従事した。病弱であったが天久(あみく)の聖現寺において日本語を習得中発病し、同宿のル・テュルデュ(Le
Turdu, Pierre-Marie 1821-1861)らの手厚い看病にもかかわらず1848年7月1日34才の若さで死去した。聖現寺に埋葬。
アルブ(Halbout, Augustin Adolph Pierre 1864-1943)
1864年11月2日フランス北西部セー(Sees)教区で生まれた。セー町はアランソン北方のオルヌ川沿いにある古い町で13世紀のノートルダム聖堂があることで知られている。パリ外国宣教会に入り、1888年9月司祭に叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣され翌年長崎に到着、天草崎津教会に赴任した。1934年同教会天主堂を建設するなど大きな足跡をのこし日本滞在54ヶ年の生涯を終え1943年76才で帰天した。墓碑不詳。
アングル(Angles, Jean Baptiste Antoine 1865-1935)
1865年7月5日フランスのロデス(Rodez)教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1890年司祭に叙階されただちに宣教師として日本に派遣された。大阪川口教会及び孤児院付き司祭として奉仕したのち広島に転じた。さらに、島根県松江に移り同地に教会を建てたのち同県玉造教会主任司祭としてに移り多くの信者を育成した。1924年北海道当別の男子厳律シトー会修道院に赴任、1935年兵庫県加古川市女子シトー会の司祭となった。1935年8月23日死去。行年69才。墓碑不詳。
アンシェン(Anchen, Pierre Hilarion 1879-1967)
1879年11月20日フランスの・バスク地方で生まれた。バスクは聖フランシスコ・
ザビエルの生地でもあり、パリ外国宣教会からもおおくの宣教師が派遣された。アンシェンは1903年来日し最初の赴任地函館に到着。札幌、旭川方面に布教したのちコルニエ神父の後任として1924年青森県八戸に転じた。その後、盛岡を経て朝鮮に渡った。第二次世界大戦終了後、静岡県御殿場の神山復生病院付きとなり1967年5月
2日復生病院において死去、同病院墓地に埋葬。行年87才。
ヴィリオン(Villion, Amatius 1843-1932)
1843年9月2日フランスで生まれた。パリの聖スピルス大神学校に学び、1868年パリ外国宣教会宣教師として来日、長崎において布教に従事したのち神戸に転じた。1879年京都転任となり非常な苦労の末、三条河原町に天主堂を建立したが献堂式の直前山口に転任となった。萩に居住し、布教のかたわらキリシタン研究に没頭「鮮血遺書」等の著作がある。
1932年4月1日大阪で死去。行年90才。いったん、阿倍野外人墓地に埋葬されたが、のち豊中市服部霊園外人墓地41番に改葬された。
ウタン(Houtin, Marcel 1891-1951)
1891年フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入会し1920年宣教師として来日した。東京本郷教会、静岡教会や横浜保土ヶ谷教会などの各教会において布教に従事した。1951年10月5日死去。行年60才。府中カトリック墓地に眠る。
ウット (Hutt, Alfred Joseph 1874-1956)
1874年6月1日フランスで生まれた。1898年司祭に叙階、同年パリ外国宣教会から派遣され宣教師として来日し函館に赴任、のち室蘭を経て旭川において布教に従事した。1921年再度函館に帰任し1931年まで同地においてカトリック布教に専念。その後、京都に転任し伝道を行い引退後は東京に移った。1956年12月19日東京郊外清瀬で死去した。行年82才。府中カトリック墓地に眠る。
エヴラール(Evrard, Felix 1844-1919)
1844年2月21日フランスのラ・マスクで生まれた。1864年パリ外国宣教会に入会。1867年司祭に叙階と共に日本派遣を命じられ来日した。新潟に赴任し布教のかたわわら原敬らにフランス語を教授した。盛岡勤務を経て横浜に移り、1906年東京副司教に任命された。日本語に堪能で一時駐日フランス公使館つきの通訳をつとめたことがある。1919年5月4日横浜において死去。横浜山手外人墓地11区90に埋葬。行年74才。勲五等雙光旭日章授章。
オズーフ(Osouf, Pierre Marie 1829-1906)
1829年5月26日フランス北西部のルマンデイ地方クータン司教区で生まれた。
1852年神学校を卒業、司祭に叙階されたのちパリ外国宣教会に入会し東洋伝道を志し香港に赴任したがまもなくパリの神学校の校長に任命されて帰国。1878年来日し初代東京大司教に任命され、教育事業、出版事業などに多大な功績をのこした。1906年6月27日東京目白関口台の大聖堂内において死去。行年76才
青山霊園外人墓地に埋葬。
オリアンテイス(Aurientis, Pierre 1854-1922)
1854年4月1日南フランスのダルン・エ・ガロン州ローゼルト市で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1879年同会派遣の宣教師として来日した。松山、広島などにおいて布教に従事したのち、京都に転じ河原町教会を主管した。1906年から京都帝国大おおよび第3高等学校においてフランス語を教授。1922年10月26日京都で死去。洛北大日山墓地に埋葬された。行年67才
勲五等旭日章授章。
カデイヤック(Cadilhac、Hippolyte Louis 1859-1930)
1859年3月15日フランスのアヴェロン県ノウ郡ラ・カヴァルリー村で生まれた。
パリ外国宣教会に入り、1879年宣教会経営の神学校において4年間カトリック神学を学んだ。1882年司祭に叙階されると同時に宣教師として日本に派遣され東京に着任した。足利教会、会津教会にそれぞれ教会を設立したのち宇都宮に転任「歩く宣教師」として有名となった。1930年11月19日東京関口教会において死去。遺言により宇都宮西原町のカトリック墓地に埋葬された。行年71才。1980年帰天50周年を記念し墓地内に記念碑が建立された。
ガルニエ(Garnier, Louis Frederic 1860-1941)
1860年11月21日フランスのオートロラール県ルビュイで生まれた。1885年司祭に叙階されるとともにパリ外国宣教会から派遣され宣教師として来日。京都、長崎勤務を経て天草大江教会に赴任し生涯同地に過ごすと共に1892年バルブ神父が着任するまで1892年まで崎津教会主任も兼任した。1907年北原白秋ら「新詩社」同人5名が印象を綴った「五足の靴」が話題を呼んだ。1941年1月19日大江天主堂において死去。教会墓地に埋葬された。行年80才。1971年(昭和46年)没後30年を記念し教会敷地内に胸像が建立された。
カンドウ(Candau, Sauveur Antoine 1897-1955)
1897年5月29日南フランス・バスク地方のサン・ジャン・ピエ・ド・ポールで生まれた。バイヨンヌの大神学校に学んだが、第一次世界大戦の勃発に際し陸軍士官学校に転じ終戦時に陸軍中尉で退役した。1919年パリ外国宣教会に入会、ローマのグレゴリア大学に留学しカトリック神学を修め、神学博士・哲学博士号を取得して帰郷。
1923年司祭に叙階、翌年日本に宣教師として来日。静岡市追手町教会に赴任したが、まもなく東京の関口神学校の校長に任じられさらに石神井神学校校長に聘せられた。第二次世界大戦中に召集されて帰国。戦場において瀕死の重傷を負ったが1948年9月再来日をはたし、流暢な日本語を駆使して布教に活躍した。日仏学院や聖心女子大学などにおいてフランス語フランス文学などを講じた。1955年9月28日東京新宿の聖母病院において死去。行年58才。府中カトリック墓地に埋葬。著作も多く「永遠の傑作」(東峰書店
昭和30年)や「バスクの星」(東峰書店 昭和31年)などすぐれた随筆集がある。
クーザン(Cousin, Jules Alphonse 1842-1911)
1842年4月21日フランスのルーソン司教区において生まれた。パリ外国宣教会に入会、1865年司祭に叙階され翌年宣教師として来日。大阪川口居留地に土地を求めて「無原罪の御孕の天主堂」を設立。1885年日本南緯聖会(カトリック教会日本南緯代牧区の通称で1876年日本代牧区が二分された際近畿以西を管轄した代牧区)代牧に挙げられた。1891年初代長崎司教として大浦天主堂に着任。日本人司祭養成につとめ多くの聖職者および信者を育成した。1911年9月18日長崎において死去。行年68才。長崎大浦天主堂内墓地に眠る。
クソノ (Cussonneau, Jean Marie 1860-1890)
1860年6月14日フランスのロアール川下流のアンジェ(Angeres)で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1886年5月司祭に叙階されただちに宣教師として日本に派遣された。秋田県下においてカトリック布教に従事したのち1896年9月15日秋田で死去。行年30才。墓碑不詳。
クレマン(Clement, Augustin Delphin Marie 1854-1914)
1854年10月2日フランスのブザンソン教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会し
1879年9月司祭に叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣された。長野県松本に赴任し布教に従事し多くの信者を育成した。その後、静岡教会に転じ同地方におけるカトリック思想の普及に努めた。1914年死去。市内沓谷(くつのや)霊園カトリック墓地に埋葬された。行年60才。
ゲリー(Geley, Jean Baptiste Joseph 1870-1936)
1870年4月20日フランスのロアーヌ川下流にある工業都市アンジェで生まれた。
パリ外国宣教会に入会、1895年司祭となる。同年、宣教師として日本に派遣され来日
大阪、高知、和歌山などの各地において布教に従事した。1935年7月12日65才で死去。大阪府豊中市服部霊園外人墓地40番に眠る。
コッサール(Cossar, Yves 1905-1946)
1905年3月16日フランスのエヴェル教区で生まれた。パリ外国宣教会宣教師として来日、宇都宮および水戸方面においてカトリック伝道に従事したが神学研究のためいったん帰国しパリやローマで研鑚をつんだ。1934年再来日東京石神井の神学校で教えた。
日本文化にも関心をいだき、ノエル・ぺリらと謡曲の翻訳をおこない代表作「隅田川」ほかを発表した。謡曲のほか俳句・和歌の研究にも通じ、万葉集についてのすぐれた研究がある。1946年7月17日鎌倉海岸で遊泳中に事故死。行年41才。鎌倉市七里ケ浜聖テレジア教会墓地に埋葬。
コルニエ(Cornier, Alexandre Mathieu 1876-1957)
1876年8月19日フランス中部アリエ県ウレンで生まれた。1896年パリ外国宣教会に入会、1900年6月司祭に叙階され同年宣教師として日本に派遣された。最初、函館に赴任、のち盛岡に転じたが小樽教会主任司祭として再度北海道に帰任した。
1915年青森県八戸教会に転任、第一次世界大戦勃発に際し召集をうけて帰国。終戦後八戸にもどり八戸および三本木のニ教会を主管し東北地方におけるカトリック布教に多大な貢献をはたした。引退後、鎌倉市七里ケ浜の聖テレジア療養所付き司祭に就任した。1957年1月12日死去。行年80才。横浜外人墓地に埋葬。
コルレ(Corre, Jean Marie 1850-1911)
1850年6月28日フランスで生まれた。1875年パリ外国宣教会宣教師として来日、主として天草地方において伝道に従事したのち、長崎の神学校で教えた後熊本に転じ
苦難の中にハンセン病患者の救済に当たり収容施設である待労院を設立した。1911年2月9日熊本で死去。行年60才。市内島崎町待労院内墓地に埋葬。
コンバス(Combaz, Jean Claude 1856-1926)
1856年12月8日フランス・シャンベリー司教区で生まれた。1877年パリ外国宣教会経営の神学校に入学、1880年卒業し司祭に叙階され宣教師としてただちに日本布教のため派遣された。大阪神学校で教えたのち長崎に移り長崎神学校においてラテン語やフランス語を教えた。1912年クーザン司教の後任として長崎司教に挙げられ、在職14年に及んだが1926年8月18日長崎において死去、市内大浦天主堂に埋葬された。行年69才。
サルモン (Salmon, Marie Amedee 1845-1919)
1845年11月11日フランスのプールジュ県ビュザンセ村(Buzancais,
Bourges)で生まれた。1865年パリ外国宣教会に入会し1868年司祭に叙階されると同時に宣教師として日本に派遣された。長崎において布教に従事したのち、1891年長崎司教区副司教に任じられた。1919年3月31日長崎において帰天。浦上天主堂内墓地に埋葬。行年74才。1907年聖心会修道女を引率して来日したサルモン修道女は彼の姉。
「墓碑正面」
布教事業五十一年間副司教在職二十二年間
霊父アメデ サルモン師之墓
千九百十九年三月三十一日永眠 齢七十四歳
シェレル(Cherel, Jean Marie Felix 1868-1948)
1868年7月9日フランスのブルターニュ地方で生まれた。1889年パリ外国宣教会に入会し1892年23才で司祭に叙階、ただちに宣教師として日本に派遣された。千葉県下においてカトリック伝道に従事したのち、名古屋に転任となり名古屋教会主任として主税町教会を設立した。1905年東京神田教会主任に挙げられた。1913年2月19日同教会が火災のため焼失、二年後に新教会が落成。1923年9月1日関東大震災のため再度倒壊したが1928年に再興した。1938年保土ヶ谷教会に転じ、1940年
保土ヶ谷教会が竣工した。1947年引退し都下清瀬町「ベツレヘムの園」に移り、翌年の1948年3月21日80才で帰天した。府中カトリック墓地に眠る。
ジャッケ(Jacquet, Claude Marie 1856-1927)
1856年8月20日フランスのローヌ県クラへソルで生まれた。1882年パリ外国宣教会宣教師として来日、仙台に赴任し1888年まで同地において伝道に従事、のち盛岡教会に転じた。1892年まで盛岡教会に在職、翌年仙台に帰任しさらに宮城県各地、北海道や樺太まで布教に赴いた。1897年仙台元寺小路教会の大聖堂を建立するなど仙台地方のカトリック普及に多大な足跡を残した。1827年4月29日仙台において帰天、市内鶴ケ谷墓地に埋葬された。行年71才。仙台で教員時代をすごした島崎藤村らにフランス語を教えたことが伝えられる。
シャトロン (Chatron, Jules Auguste 1844-1917)
1844年4月20日フランスのペレ司教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会し、
1873年司祭叙階と共に宣教師として日本布教を命じられた。大阪を中心に布教に従事、
1896年大阪司教に挙げられ在職22年間に及んだ。1917年5月6日大阪市富島町天主堂において死去。行年74才。豊中市服部霊園外人墓地44番に眠る。
シャボテイ(Chabauty, Vincent Marie Ernest Desire 1882-1907)
1882年12月24日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入り、1906年司祭
に叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣された。函館に赴任したがまもなく仙台に転任となり伝道に専念したが病いの犯すところとなり若干24才で1907年9月25日帰天、市内鶴ケ谷カトリック墓地に埋葬された。
シャンボン(Chambon, Jean Alexiis 1875-1948)
1875年3月18日ウランスのヴァロル・ヴィル(クレルモン司教区)で生まれた。
1898年パリ外国宣教会に入会し、翌年司祭に叙階、宣教師として日本に派遣された。
函館に赴任し、のち仙台に転じ仙台神学校校長に挙げられたが第一次世界大戦が勃発、召集をうけて帰国した。終戦後、再び来日をはたし東京大司教に就任邦人司祭の育成に尽力、東京大神学校を設立した。1937年東京を離れ初代横浜司教に着任したが1940年引退した。1948年2月発病し療養中同年9月8日入院先の横浜ジェネラル・ホスピタルで死去した。行年77才。横浜山手外人墓地10区80Aに眠る。
ジョリー (Joly, Eugene Clodomir 1871-1966)
1871年1月28日フランス北部ノール県カンブレ郡マニエル村で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1895年9月司祭に叙階されるやただちに宣教師として日本派遣を命じられて来日した。はじめ、鹿児島教会のラゲ神父のもとで日本語習得につとめたのちに南九州一帯において布教に従事した。その後、福岡に転じ伝道生活を送ると同時に福岡高等学校や医科専門学校などでフランス語の教授に当たった。1930年東京に転じ、
東京大神学校で教会史を講じた。1938年旧満州に赴任、さらに中国大陸に移り戦後上海から日本に引き上げた。栃木県那須や東京府下清瀬のベトレヘムの園で奉仕したのち、1966年3月6日東京江古田の病院で死去.行年94才。府中カトリック墓地に眠る。
ジラール(Girard, Prudence Seraphin Barthelemy 1821-1867)
1821年4月5日フランス中部ブールジェ司教区アウリシュモで生まれた。パリ外
宣教会に入会、1845年司教に叙階された。1848年(嘉永元年)3月宣教師とし
鎖国中の日本への派遣命令が出たが香港で待機、さらに那覇に渡りフォルカード神父の
もとで日本語の研鑚をつみ将来に備えた。安政5年(1858年)日仏通商条約締結を
まって江戸に日本代牧として着任、フランス領事ド・ベルクールの通訳兼領事館付き司祭に就任した。1862年横浜山手にカトリック天主公会堂を創立したが、「横浜天主堂事件を惹起させ逮捕者を出しその解決策のため渡欧するなど苦慮した。この天主堂は1867
年12月9日火災のため焼失、ジラール神父も焼死した。行年45才。遺骸はのちに再建
された教会の壁に塗りこめられた。彼の名を記るした大理石碑板がはめられている。
スタイシェン(Steichen, Michal 1857-1929)
1857年12月17日フランスのリュックサンブ-ル王国デウデンランジで生まれた。
大学を卒業後、パリ外国宣教会に入会し1886年司祭に叙階翌年日本に宣教師として派遣された。盛岡、東京築地、静岡、東京麻布、横浜の各地教会においてカトリック伝道に従事した。1918年築地神学校長および築地教会主任司祭などの勤務のかたわらキリシタン研究に没頭し1930年「キリシタン大名記」(大岡山書店)を刊行。さらに、機関紙「声」の編集長のかたわら執筆にも精を出し洲飛泉、捨井芝園などのペンネームで作品を発表した。健康を害し関口教会で静養につとめたが1929年7月29日本郷上富士前教会において帰天。行年73才。東京青山霊園外人墓地に埋葬。
セスラン(Cesslin, Gustave Jean Baptiste 1873-1944)
1873年4月29日フランス・ミューズ県モンドヴァン(Mont-Devant-Sassey,
Meuse)で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1899年司祭に叙階されるや宣教師として日本布教を命じられて来日した。信州松本教会主任司祭として1901年から1914年まで布教に従事し、第一次世界大戦中帰国し終戦後1919年から1928年まで二度にわたり通算22年間この地においてカトリック思想の普及につとめた。この間、「和仏大辞典」の編纂に没頭して1940年(昭和15年)出版した。1931年築地教会主任司祭として東京に転じたが脳溢血で倒れ、療養の甲斐もなく1944年3月25日死去。行年71才。府中カトリック墓地に眠る。
セトウール(Cetour, Jeremie 1867-1962)
1867年12月21日フランスのレマン湖の近くポンヌボー村(Bonnevaux,
Anneey)で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1895年司祭に叙階され翌年宣教師として来日した。大阪川口教会においてワスロン神父について日本語を学び、まもなく岡山に転じさらに山口に移り、山口教会および下関教会主任司祭として伝道に従事した。ヴィリオン神父に師事し、1924年堺教会を設立し1948年まで主任司祭として在職。同年、西宮市跣足(せんぞく)カルメル会付き司祭となり修道女たちの指導に当たった。1962年9月22日神戸須磨の聖ヨハネ修道院において死去。行年95才。神戸再度山修法ケ原外人墓地B2区142番に眠る。
ダリベル(Dalibert、Pierre Desire Frederic 1860-1935)
1860年5月16日フランスのバウユで生まれた。パリ外国宣教会に入り、司祭に叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣され山形県鶴岡市に赴任。のち、山形に移り白河教会を設立した。その後、鎌倉七里ケ浜聖テレジア療養所付き司祭となり、1935
年4月19日同所で死去。行年75才。鎌倉市七里ガ浜教会墓地に埋葬。
ツルペン(Tulpin, Augustin 1853-1933)
1853年7月6日フランスのオーマルヌ県ボアジー町で生まれた。1874年パリ外国宣教会経営の神学校に入学、1877年2月司祭となり同年5月オズーフ神父らと共に来日。秋田、盛岡、山形など東北地方を中心に伝道をおこない、1880年東京浅草教会主任司祭に就任、1884年には再度盛岡教会に転じた。1887年名古屋教会、1906年には富山教会、さらに翌年東京麻布教会主任司祭となった。1932年引退し麻布教会で余生を送り翌1933年11月18日79才で帰天。東京青山霊園外人墓地に埋葬された。
テイシェ(Tissier, Felix Dominique 1856-1895)
1856年4月4日フランス中央ヌヴェール県エピリー(Epiry,
Nevers)で生まれた。ヌヴェール地方は陶器の生産地として有名である。パリ外国宣教会に入会、1881年司祭に叙階、翌年8月宣教師として日本に派遣された。長崎に赴任、伝道に従事したが1895年9月6日45才で帰天。長崎坂本国際墓地に眠る。
テイリー(Thiry, Fernand Jean Joseph 1884-1930)
1884年9月28日フランスのリール司教区で生まれた。パリ外国宣教会に入り、
1907年司祭となりただちに日本に派遣され長崎に赴任。同年、福岡教区の独立にともない初代司教に挙げられ翌年1月着座した。以来、同地域においてカトリック布教につとめ1930年5月10日久留米において死去。行年46才。長崎浦上天主堂内墓地に埋葬された。
デフレヌ(Deffrennes、Jean Baptiste Joseph 1870-1958)
1870年1月1日北フランスのカンブレ(Cambrais, Nord)で生まれた。
パリ外国宣教会に入り、1892年司祭叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣された。盛岡、新潟、会津若松の各地で伝道に従事したのち盛岡教会主任司祭に挙げられた。
いったん帰国したが、1902年再来日し一関教会を設立した。1904年福島教会初代の常任司祭、さらに神学校校長として仙台に転じた。ついで、ジャッケ神父の後任として仙台元寺小路教会主任司祭に就任した。引退後、鎌倉聖テレジア七里ガ浜病院付き司祭となったが、1958年11月7日同病院内で死去。行年88才。横浜山手外人墓地10
区70Aに眠る。
デュツ (Duthu, Jean Baptiste Laurent 1865-1932)
1865年5月7日フランス南西部ピレネー山脈の北麓に位置するタルブ(Tarbe)
教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1888年司祭に叙階されただちに宣教師として日本に派遣された。高知、大阪、岡山、京都、大阪川口教会と各地において布教に従事した。1932年4月11日帰天した。行年67才。大阪府豊中市服部霊園外人墓地37番に眠る。
ドシエ(Dossier, Rene Francois Frederic 1878-1949)
1878年12月24日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入り、1901年司祭
に叙階され宣教師として日本に派遣され函館に赴任した。1909年盛岡教会主任司祭となったが、第一次世界大戦勃発に際し召集をうけ帰国。戦後、再来日し1933年鎌倉大町教会の主任司祭として着任したが、まもなく東京大神学校校長に挙げられた。1949年3月10日入院先の新宿聖母病院において死去、府中カトリック墓地に埋葬された。行年69才。
ドラエ(Delahaye, Lucien Adolph 1884-1957)
1884年9月18日フランスのブローニュ地方で生まれた。パリ外国宣教会に入り
1909年宣教師として来日。東京、八王子、前橋などの各地において伝道に従事したのち1914年クレマン神父の後任として静岡教会主任司祭に就任した。静岡市はもちろん浜松、清水、焼津、藤枝の各地を熱心に巡歴してカトリック思想の普及につとめた。第二次世界大戦中も日本に留まり1945年6月の静岡大空襲際には必死で教会を火災から守ったと伝えられる。戦後、いったんフランスに帰ったが再び日本に帰り伊東市に新教会の経営に当たった。その後、1955年宣教会静岡本部勤務を命じられたが1957年第二の故郷谷津に引退余生を送った。1957年12月8日帰国天。行年72才。静岡市谷津霊園に眠る。
ドラレ(Delalex, Jean Marie 1873-1901)
1873年5月11日フランスのサヴォア・アルプス山中アヌシー湖に面した保養観光地で有名なアヌシー(Annecy)で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1897年司祭に叙階と同時に宣教師として日本に派遣された。長崎において布教に従事、1901年
8月2日同地において死去。行年21才の若さで帰天したこと周囲の人々から惜しまれた。
墓碑不詳。
トランテイナック (Trintignac, Jean Pierre Marie 1872-1914)
1872年10月25日フランスのロット川に沿ったマンド(Mand)で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1896年司祭に叙階された。同年、ただちに宣教師として日本に派遣、はじめ京都に着任しその後鳥取に転じた。さらに、1897年島根県玉造の孤児院付き司祭として赴任し1899年3月まで奉仕し宮津、舞鶴勤務を経て高知教会に移り
1905年まで働いた。下関教会に勤めたが再度玉造教会に帰任した。1914年2月5日帰天。行年41才。大阪府豊中市服部霊園外人墓地46番に眠る。
ド・ロー (De Rotz, Marc Marie 1840-1914)
1840年3月27日フランス・ノルマンデイ地方バイユ近郊で生まれた。神学校を卒業後にパリ大学に進み、1865年司祭に叙階された。1868年プテイジャン師が帰国中に印刷技術を持った宣教師を募集したのに応じて来日した。長崎で布教に従事したのち横浜に転じ日本最初の石版(平版)印刷を始め「聖務日課」、「教会暦」などを刊行した。
1873年旧浦上信徒らが釈放されたのを機会に長崎に帰り印刷物の発行をおこなった。
住民を伝染病から救済するためド・ロ診療所を開設し社会福祉事業に挺身。1878年外海(そとめ)教会主任司祭として赴任、黒崎、出津(しつ)両教会の司牧の任に当たった。
外海地域の住民たちに製麺・織機などの技術を伝え「ド・ロ様ソーメン」として現在に至るまで愛用されている。婦女子の教育にも熱心でその必要性を熱心に説き多大な効果を得た。1914年1月7日長崎大浦天主堂建築現場において事故死した。遺骸は出津に運ばれ小高い丘陵にある共同墓地に埋葬された。出津教会には銅像が建立され、近くにはドロ神父記念館が設立され神父の遺品が多く残され遺徳を偲ぶ人々が跡を絶たない。
ノエル (Noel, Leonard Andre 1845-1874)
1845年7月6日フランスのムーザン地方の中心地リモージュ(Limoges)教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1868年司祭に叙階された。1873年宣教師として日本に派遣されて来日し大阪川口教会に赴任した。同地方に布教に専念したが病弱で1874年11月24日神戸において24才の若年で死去した。神戸市再度山修法ヶ原外人墓地6区72番に眠る。
バランシュ(Balanche, Honeste Sylvain 1853-1882)
1853年11月19日フランスで生まれ、1877年パリ外国宣教会から派遣されて
来日。主として東京地方で伝道に従事したが若干1882年2月23日29才で死去。
青山霊園外人墓地に埋葬。
バレ (Balet, Etinne Leon 1870-1913)
1870年2月19日フランス南西部ガロンヌ川沿いの町アジュン(Agen)教区で生まれた。同地方は農産物の集散地として有名。パリ外国宣教会に入会、1896年6月
司祭に叙階され翌月ただちに日本に派遣された。はじめ、長野県松本教会に赴任し布教に従事したのち1901年東京に移り出版社「三才社」において雑誌「天地人」の編集に当たった。同誌廃刊後、オズーフ大司教の命により中国に渡った。1902年6月日本に帰り、横須賀教会主任司祭に着任し横浜・小田原などの周辺においても布教につとめた。この間、横浜居住の中国人たちにもカトリック思想の普及につとめた。1905年、東京茗荷谷の育英塾長に転じ東京に移った。文筆活動にも熱心で哲学・歴史に関しての論文を多く発表した。1910年10月静岡教会主任司祭に挙げられた。1913年1月3日東京築地の聖路可病院(現在の聖路国際病院)において死去。行年43才。青山霊園外人墓地に眠る。
バレット(Balette, Justin 1852-1918)
1852年11月3日フランスのオート・ピレネ県アルシザック村で生まれた。パリ外国宣教会に入り、1876年12月司祭に叙階され翌年5月宣教師として日本に派遣された。東京において伝道に従事するかたわら教師は彼一人のフランス語学校を開設した。1918年1月29日帰天。行年66才。東京青山霊園外人墓地に眠る。
ビリエ (Billiet, Jacques Ernest 1871-1908)
1871年11月15日フランスのタランテーズ(Tarentaise)地方で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1894年7月司祭に叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣され函館に赴任した。同地において伝道生活を送り1908年
9月26日札幌で帰天。行年36才。墓碑不詳。
ビリング(Billing, Auguste Lucien 1871-1955)
1871年2月16日フランス・ストラスブールで生まれた。パリ外国宣教会に入会、
1895年司祭となり日本に宣教師として赴任。東京において伝道に従事したが、第一次世界大戦が勃発し召集をうけて帰国。戦後、再び来日して沼津、浜松、静岡、横須賀の各地に勤務したのち、川崎の聖体礼拝会付き司祭となった。1952年都下清瀬の聖ベトレヘムの園に移り後輩の指導に当たった。1955年7月5日死去。府中カトリック墓地に埋葬された。行年84才。
ビロー(Birraux, Joseph Francois 1867-1950)
1867年7月16日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入会、1890年司祭に叙階と共に宣教師として日本派遣を命じられて来日。広島、宇和島、京都、津、大阪などの各地において伝道に従事した。1950年11月9日大阪で帰天。行年82才。小野浜外人墓地に埋葬されたがのち再度山修法ケ山外人墓地B2区に改葬された。
ファヴィエ(Favier, Joseph 1865-1938)
1865年10月16日フランスのホト・ロアル県で生まれた。1884年パリ外国宣教会神学校に入学、1888年司祭に叙階。翌年日本に宣教師として派遣され函館に赴任し日本語習得に励み、巡回転宣教師として秋田県下において伝道に従事した。1892年福島県会津若松教会の主任司祭となったが病気となり療養のため帰国。回復後、再来日をはたし1915年1月青森県弘前教会の主任司祭に挙げられ1931年5月まで在任。
のち、東京に移り東京カトリック神学校でラテン語ほかを教えた。1938年5月9日胃癌のため死去。行年74才。府中カトリック墓地に埋葬。
フェリエ (Ferrie, Bernard Joseph 1856-1919)
1856年8月10日フランスのアビロン県ガラゼで生まれた。1877年パリ外国宣教会に入り、1880年司祭に叙階。翌年、宣教師として日本に派遣18811月15日長崎に到着し天草全島の司牧を命じられて赴任した。以後、七年間布教に当たり大江及び崎津の教会の聖堂を建立するなど同地方に大きな足跡を残した。1891年奄美大島に渡り1894年同地に聖堂を創建した。1914には奄美には3、500人をこす信者が誕生した。フェリエ神父は「奄美大島の使徒」として人々に敬愛された。1900年過労のため倒れ療養のためフランスに帰ったが、1902年再び来日して島民に接した。結局、病弱を憂慮した司教の命令で熊本教会に転任となり治療にも当たったが1919年1月16日死去した。行年62才。墓碑不詳。
ブスケ(Bousquet, Marie Julien Sylvian 1877-1943)
1877年11月19日フランス・アヴァロン県で生まれた。19才でパリ外国宣教会神学校に入学しカトリック神学を修め1901年司祭となった。同年宣教師として来日、神戸において日本語を学んだのち鳥取に赴任した。さらに岡山に転じたがまもなく大阪川口教会に招かれた。文才にもすぐれ聖テレジアの伝記「小さき花」の翻訳で有名となった。
夙川教会を設立し多くの信者を獲得したが第二次世界大戦中1943年2月憲兵隊に拉致され拷問のすえ衰弱死した。行年65才。西宮市夙川満地谷墓地に眠る。
プテイジャン(Petitjean, Bernard Thadee 1829-1884)
1829年6月14日フランスのブランジー村(Blanzy-sur-Bour-
bince,
Autun)で生まれた。1853年5月司祭となり、1860年宣教師として日本に派遣されたが入国をはたせず那覇で待機、1863年長崎に上陸、フュ-レ神父を助けて大浦天主堂を竣工させ1865年2月19日献堂式を挙行するに至った。見物に集まったなかに旧キリシタンがいたことが確認された。1866年日本教皇代理に任命され香港において司教の叙階式が挙げられた。1867年に起こった「浦上四番崩れ」が起こりローマ法王ピオ9世に謁見を許された際その報告をおこなった。帰途、日本布教のためド・ロー神父を伴い帰任した。1869年ローマに渡航中に浦上信徒300余名が逮捕されたことを知り急遽日本に帰り信徒の釈放に力をつくした。1873年3月14日太政官布告により信徒が釈放されるや、パリの本部に打電して報告した。1884年10月7日長崎において帰天。行年54
。長
崎大浦天主堂内に埋葬。なお、同教会の門前にはプテイジャンの記念像が建立されている。
プトー(Puthod, Claude Eugene 1855-1882)
1855年3月12日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入会し1879年9月司祭に叙階、同年11月日本派遣を命じられ長崎に着任した。同地において伝道に従事したが1882年12月10日長崎で死去した。行年21才。大浦天主堂内教会墓地に埋葬。
ブルトン (Breton, Albert Henri Charles 1882-1954)
1882年7月16日フランスes 1882-のサンタングルベール(St-Inglevert,
Arras)で生まれた。アラスの神学校で神学を学んだのち、1901年パリ外国宣教会に入会した。1905年6月司祭に叙階、同年8月日本派遣を命じられ函館に赴任した。翌年新潟、さらに1907年には青森県弘前に転任した。1908年青森に赴任フォーリー神父のもとで助任司祭をつとめたが小児麻痺を発病し、治療のためにフランスに帰国した。アメリカ経由で日本に帰り途中カルフォル二アの日本からの移民の実情を視察して帰任した。鎌倉七里ケ浜に土地を求め聖テレジア療養所を設立、鎌倉教会および東京本郷教会の司祭を兼任した。1931年福岡司教に任ぜられ福岡に転じた。1940年引退。第二次世界大戦中も日本に留まったが一時スパイの疑いで憲兵隊に逮捕されたことが伝えられている。1954年8月11日鎌倉において帰天。行年71才。鎌倉七里ガ浜
テレ
ジア教会墓地に眠る。
フレノ (Fraineau, Pierre Theodore 1847-1911)
1847年10月10日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入会し1871年司祭に叙階、1873年5月日本派遣を命じられた。長崎に着任、浦上信徒の病者の面倒を見たのち五島列島担当となった。1879年マルマン神父に引継ぎ、長崎に転じてラテン神学校校長に就任。再度、五島列島担当となり、その後浦上地区に転任して天主堂建立に着手資金集めに苦労しながらキリシタンゆかりの地に壮大な天主堂を完成させた。原爆の被災のため全壊するまでその威容を誇った。1911年1月24日長崎浦上において死去。行年64才。浦上天主堂内に眠る。
ブレル(Bourelle, Auguste Florentin 1847-1885)
1847年4月22日フランス(Hermonville, Reims)で生まれた。
パリ外国宣教会に入会、1874年司祭に叙階され、1876年日本派遣を命じられて来日。長崎五島列島の旧隠れキリシタンへの宣教に従事、鯛ノ浦養育園や伝道婦養成所など
を設立した。1885年4月16日出津でおこなわれたパリ外国宣教会の宣教師たちの会合に出席するための迎えの小船が転覆し水死した。行年38才。南松浦郡鯛ノ浦に埋葬され、1887年村人達の手により神父を悼む記念碑が建立されたが、共に乗船していた若者12人の墓も建立された。
ブレンギェー(Brenguier, Francois Xavier Louis 1871-1946)
1871年10月11日南フランストウールーズ北東アヴァロン川沿いのロダス
(Rodez,
Aveyron)で生まれた。ロダスは13世紀のノートルダム大聖堂があることで有名である。パリの南方約600キロに位置する。パリ外国宣教会に入り、
1894年9月司祭に叙階されるやただちに日本に宣教師として派遣された。同年、12月に長崎に到着、奄美大島、鹿児島、熊本県下の各地で伝道生活を送り、1911年大分教会を設立した。第一次世界大戦勃発の際には看護兵として召集され戦後再び来日し大分、福岡県中津や宮崎県下において布教生活を送るかたわらフランス語教師として商業専門学校などで生徒の指導に当たった。その後、大分、佐賀、宮崎サレジオ会などの司牧を任せられて献身的な働きの末、1946年4月5日帰天した。行年75才。墓碑不詳。
フロージャック(Flaujac, Joseph Marius Charles 1886-1959)
1886年3月31日フランス南部のロデス町で生まれた。パリ外国宣教会に入り、同会経営の神学校に学んだ。1909年司祭となり、同年宣教師として日本に派遣された。
来日当初は横浜に居住したが、翌年宇都宮教会に転任し北関東地方を中心に布教に従事した。1929年身寄りにない結核患者を引き取り東京小石川に収容施設をつくり「ベタニアの家」の源流となった。さらに、都下清瀬町に児童福祉施設「ナザレトの家」および療養施設「ベトレヘムの園」をそれぞれ設立した。東京地方における社会福祉思想の普及に貢献をはたした。1959年12月12日清瀬の「ベタニアの家」において帰天。73才。死去に際し日本政府から勲四等瑞宝章が贈られた。1959年朝日賞授与。東京府中カトリック墓地に眠る。
ぺラン (Perrin, Henri Pierre Marie 1858-1939)
1858年12月27日フランスのリヨン教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会し
1884年宣教師として来日した。はじめ、大阪川口教会に着任したがまもなく神戸居留地内の教会に転じた。その後、各地において伝道生活を送り1939年8月21日死去。
行年80才。神戸市再度山修法ヶ原外人墓地に眠る。
ベルジェ (Berger, Jean Baptiste Marie Philipe 1864-1891)
1864年6月6日パリで生まれた。1887年パリ外国宣教会宣教師として来日し東京で布教につとめたが1891年1月18日26才の若さで死去した。東京青山霊園外人墓地に眠る。
ベルトラン(Bertrand, Joseph Jean Augustin 1867-1916)
1867年12月14日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入会し1890年司祭に叙階。同年12月宣教師として来日静岡県御殿場の神山復生病院勤務となり、のち同病院院長に就任した。過労のため健康を害し香港で治療に当たり、快復後御殿場に帰ったが
1916年4月12日49才で帰天。神山復生病院墓地に埋葬された。
ボネ(Bonnet, Maxime Jules Cesar 1878-1959)
1878年2月28日フランス北東部ブザンソンで生まれた。パリ外国宣教会神学校で学び、1963年23才で司祭となった。同年宣教師として長崎に派遣され、のち奄美大島に転任布教に従事した。第一次世界大戦中は帰国したが、終戦後再度奄美に帰任した。
その後、平戸や福岡県下において伝道生活を送り晩年福岡県行橋市の新田原(しんでんばる)教会で奉仕した。1959年3月19日帰天。行年80才。新田原教会墓地に眠る。
ボンヌ (Bonne, Francois 1855-1912)
1855年5月25日フランスのシャンベリー(Chambery)教区で生まれた。同地はアルプス山脈西麓の交通の要衝でかって1232年から1562年までサボイア公国の首府であった。パリ外国宣教会に入り、1879年司祭に叙階され同年宣教師として日本に派遣された。はじめ、天草に赴任し1882年長崎神学校校長に就任し自ら神学・哲学を講義した。1910年東京司教に転じ北日本代牧区第三代司教に挙げられた。1912年1月11日東京において死去。行年56才。青山霊園外人墓地に眠る。
マイエ(Mayet, Gustave 1890-1969)
1890年2月14日フランスで生まれた。1910年パリ外国宣教会に入会したが翌年から兵役に服し第一次世界大戦が終了するまで看護兵として従軍した。1919年帰国し再びパリ外国宣教会に復帰し1921年司祭に叙階、同年日本派遣を命じられた。東京関口教会で伝道をおこない、ついで高円寺教会主任司祭に転じた。1932年東京保育専修学校を創立。東京保育専門学校の前身である。1969年7月10日帰天。行年77才。
府中カトリック教会に眠る。
マトン(Mathon, Remi Louis 1869-1945)
1869年5月2日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入会、1894年司祭に叙階、同年宣教師として日本に派遣された。新潟、山形、青森など東方地方においてカトリック伝道に従事したのち1931年神奈川県小田原教会に転じた。1945年3月24日死去。行年77才。府中カトリック墓地に眠る。
マリ (Marie, Louis Consant Felix 1863-1922)
1863年12月18日フランスのノルマンデイ地方北西部バイユ(Bayeux)で生まれた。パリ外国宣教会に入り、1888年9月司祭に叙階されるやただちに日本に派遣され翌年1月来日した。はじめ、京都についで1894年島根県玉造、1900年広島と各地において伝道生活を送った。1922年5月3日58才で死去。神戸再度山修法ヶ原外人墓地B2区に眠る。
マルタン (Martin, Jean Marie 1886-1975)
1886年6月8日フランスのタルプ教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会して
1910年3月司祭に叙階され同年5月に宣教師として日本派遣を命じられた。宮崎、
鹿児島において布教に従事した。第一次世界大戦勃発時には召集をうけ、フランスに帰
り看護兵として従軍した。戦後、再び来日鹿児島に帰任したがままなく門司教会に転任
して同地に教会を設立するなど大きな足跡をのこした。1932年以降、ラゲ神父と共に
フランス語辞書の編纂につとめラゲ神父の編纂した「仏和大辞典」を改訂して1953年出版した。1950年鎌倉七里ガ浜の聖母訪問会修道院つき司祭に転じた。1975年1月25日帰天。横浜山手外人墓地に隣接したカトリック墓地に埋葬された。行年88才。
マルマン(Marmand, Joseph Ferdinand 1849-1912)
1849年3月26日フランス・ベレ(Belley)教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1876年9月司祭に叙せられ、同年11月宣教師として日本に派遣された。
長崎五島列島地区の主任司祭として着任し奥浦慈恵院を創立した。近隣の女性たちを集め修道的共同体を結成し「お告げのマリア修道会」に発展させた。1888年伊王島に転じ
教会を設立したが1937年台風により倒壊した。1892年奄美大島に移り、さらに佐世保の黒島教会に転任した。1912年8月23日帰天。行年62才。黒島教会共同墓地に眠る。
ムッツ(Mutz, Charles 1839-1898)
1859年1月27日フランスで生まれた。パリ外国宣教会に入会、1885年9月司祭に叙階されるや同年11月に宣教師として日本派遣を命じられた。福山、岡山、山口の各地で伝道に従事したのち1892年大阪に転じ、1898年9月3日大阪で死去した。
行年59才。神戸市再度山修法ケ原外人墓地6区50番地(小野浜外人墓地より改葬)に眠る。
ムニクー(Mounicou, Pierre 1825-1871)
1825年3月4日フランスのルールド近くのオサンで生まれた。パリ外国宣教会に入会、1848年3月司祭に叙階さるやただちに宣教師として東洋伝道のため派遣された。
香港に着任した日本開国の報に接しフランス海軍軍艦に搭乗して函館に向い、上陸して傷病兵を見舞い那覇に帰港した。1860年ジラール神父の招きに応じ横浜に着任した。その後、開港直後の神戸に赴任し天主堂建設など多大な功績を残した。神戸三宮の「七つの御悲しみの聖母教会」がその後身である。1871年10月16日神戸で死去。行年46才。教会内墓地に埋葬されたが、のち再度山修法ケ原外人墓地に改葬された。(
メイラン (Mayrand, Augustin Placide 1866-1949)
1866年9月5日フランスのカホル教区ロット県クザク(Cuzac)村で生まれた。
1885年パリ外国宣教会経営の神学校に入学1889年卒業した。同年、司祭となるや
宣教師として日本に派遣。横浜に着任しカデイヤック神父のもとで伝道に従事した。のち、
八王子教会主任司祭として赴任し同地方におけるカトリック思想の普及につとめた。
1936年フロージャック神父を補佐するため東京都下清瀬のベトレヘムの園に転任した。1949年11月2日死去し府中カトリック墓地に埋葬。行年83才。ゆかりの地八王子市内丸山墓地にも分骨埋葬された。
モージャンル(Maugenre, Edouard 1892-1960)
1892年3月6日フランスのヴォ-ジュ県で生まれた。パリ外国宣教会に入り1923
年司祭に叙階されるや直ちに宣教師として日本に派遣され函館に赴任した。同地区がドミニコ会の担当となったため東京に移り麻布教会や関口教会において司牧に当たった。
さらに、横浜の若葉町教会に転任し戦災で焼失した教会の復興に尽力し現在の末吉町教会を建設した。その後、静岡県浜松教会、函館の室蘭町教会などにおいて伝道に従事した。
1958年発病して東京江古田の「べタニアの家」で静養中1960年6月20日68才で帰天。府中カトリック墓地に眠る。
ラゲ(Raguet, Emile 1854-1929)
1854年10月24日ベルギーで生まれた。1877年パリ外国宣教会に入会、
1879年司祭に叙階と共に日本派遣を命じられて来日。長崎で日本語を修めたのち平戸教会に赴任、さらに宮崎に転じ同地に教会を設立したのちさらに鹿児島に転任した。以来、
1911年まで鹿児島教会主任司祭としてカトリック思想の普及に貢献した。布教のかたわら「仏和大辞典」の編纂に専念し同辞書は「ラゲ仏和辞典」として親しまれ1920年
J.M.マルタン(Martgin, Jean Marie
1886-1975)により改訂され現在に至っている。1928年東京大森の訪問童貞会修道院に隠棲し、翌年11月
3日同会において帰天。行年75才。東京府中カトリック墓地に眠る。
ラフォン(Lafon, Jean Henri 1857-1947)
1857年2月21日フランスのアヴァロン県セルグ村で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1881年司祭に叙階と共に日本派遣を命じられた。東京神田教会で日本語を修じたのち盛岡教会に赴任した。のち、会津若松教会最初の常任司祭に就任した。会津地方のほかに山形、米沢などの各地にも出張し多忙な伝道生活を過ごした。1892年仙台元寺小路教会に転じたがまもなく函館に移り、1895年札幌教会の主任司祭に挙げられ以来
20年間にわたって同地方で布教に当たった。1936年都下清瀬教会司祭となり、「ベトレヘム園病院」において患者の世話に没頭し、1947年3月20日同病院において帰天
行年90才。府中カトリック墓地に眠る。
ラリュー(Larrieu, Jean Francois 1900-1942)
1900年1月14日フランスで生まれた。パリ外国宣教会宣教師として1927年来日、東京、沼津、横浜の各地において伝道に従事した。1933年から1937年まで沼津教会に在任し、同地に静岡県下最初の幼稚園を開設、「暁の星」と名付けて大いに発展した。カトリック教界における偉大な指導者として公理要理の解説にもすぐれ幾多のすぐれた聖職者を育成した。1937年横浜に転じたのち、1942年3月9日東京で死去。
行年35才。横浜山手外人墓地10区93Bに眠る。
リスパル (Rispal, Justin Regis Henri 1867-1896)
1867年12月1日フランスのロアーヌ地方で生まれた。パリ外国宣教会に入会、
1891年9月司祭に叙階されただちに日本派遣を命じられ翌年1月来日した。はじめ、
新潟教会のルコント神父のもとで日本語を学び1893年盛岡四ツ家教会に赴任し、岩手県下各地において布教に従事した。植物採集家で有名であったフォーリー神父を手伝い県下の植物採集につとめた。1896年6月15日布教に従事中釜石地方を襲った大地震のため事故死した。行年28才。記念碑が四ツ家教会に建立されたが1978年同教会が改修された際釜石教会に移された。
ルセル(Roussel, Alfred Marie Emmanuel 1864-1939)
1864年12月26日フランス・セーヌ河口近くの工業都市で知りられるローアン
(Rouen、Seine-Inf.)で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1889年叙階され、日本派遣を命じられ宣教師として来日。長崎神学校で教えたのち、東京本郷に移り神学生の面倒を見ることとなった。1900年宣教師をやめ宣教会も脱会した。のち、東京商科大学(現在の一橋大学)などでフランス語・ラテン語などを教授。1939年2月15日死去。行年74才。府中カトリック教会に眠る。
ルノー(Luneau, Anselme Marie Celestin 1848-1914)
1848年7月25日フランスのルソン教区モルメゾン(Mormaison, Lu-
con)で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1875年司祭に叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣され大阪川口カトリック教会に着任した。のち、神戸や岡山に転じ
伝道生活を送り1914年再び大阪川口教会に帰任したが同年9月12日死去。行年66才。大阪市阿倍野外人墓地に埋葬されたが、のち豊中市服部霊園外人墓地47番に改葬。
ルモアーヌ(Lemoine, Clementh Joseph 1869-1941)
1869年8月29日」フランス北西部ブルターニュ地方イエル・ヴィレン県セイジオージ町で生まれた。1894年パリ外国宣教会神学校を卒業し司祭に叙階されると同時に宣教師として日本に派遣された。東京に居住し、N.ペリ神父らと共に文書による伝道活動に専念した。1898年機関紙「天地人」を刊行。さらに、京都で出版されていた「声」を東京に移しルモアーヌ神父が主宰することとなった。1898年東京銀座に出版社「三才社」を設立しフランス図書の販売をおこない、フランス文化の移入に貢献すると共に
仏文雑誌「Melanges
Japonais」を刊行、自らもさかんに作品を発表した。その後、「声」の編纂をシュタイシェン神父に譲り名古屋に転任、第一次世界大戦中は召集をうけて帰国ブリュターニュの陸軍病院で看護兵として従軍。終戦後、再来日し横浜山手教会に着任、病身のエヴラール神父を補佐し師の没後は主任司祭に就任した。その後、
サンモール修女会の仕事を助けることとなり、1923年9月1日の関東大地震で倒壊した司祭館の復興に尽力した。1941年8月10日東京新宿の聖母病院で72才で帰天した。横浜山手外人墓地に眠る。
ルラーヴ(Relave, Jean Louis 1857-1941)
1857年12月17日フランス南部リヨン市郊外のサン・テアン村で生まれた。
パリ外国宣教会経営の神学校に学び、1885年司祭となった。ただちに、宣教師として日本に派遣され京都において伝道生活を送った。のち、宮津教会に転任し生涯を同地ですごした。キリスト教布教のかたわら教育活動にも熱心で暁星女子高等学校を創立するなど女子教育に献身した。1940年健康を害し大阪の聖母病院で加療中翌1941年2月
1日死去。行年83才。遺言により遺骸は宮津に運ばれ惣村の教会墓地に埋葬された。
墓前に詣でた上智大学H.ホフマン先生の美しい文章がある。
レイ(Rey, Jean Pierre 1858-1929)
1858年11月3日フランス・ジュリエナスで生まれた。パリ外国宣教会に入会、
1882年司祭に叙階、ただちに宣教師として日本に派遣された。1882年東京浅草の児童福祉施設に勤務、同施設が関口台町に移転、子供たちに自立すべくパン製造と大工仕事などを習得させた。とくに、パン製造は成功をおさめ「関口パン」の愛称で呼ばれるほど周囲の住民たちの評判となった。1912年ボンヌ神父の跡を継ぎ東京大司教に挙げられ1926年に引退するまで重要な任務を遂行した。1929年5月25日帰天。行年
71才。東京青山霊園外人墓地に眠る。
レイ(Rey, Joseph Anselme 1862-1928)
1862年4月19日フランスのアヴィニヨン教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会し1886年司祭となる。1889年宣教師として来日、島根県下の松江教会および玉造教会などにおいて布教に従事した。1928年6月12日死去。行年66才。神戸市再度山修法ヶ原外人墓地B2区に眠る。
レスネ(Laisne, Victor Joseph 1873-1909)
1873年10月16日フランスのノルマンデイ地方クータンス(Coutances)
で生まれた。パリ外国宣教会に入り、1893年司祭に叙階されるやただちに宣教師として日本に派遣され大阪、神戸において布教に従事した。1909年10月27日神戸で死去。行年36才。神戸市再度山修法ヶ原外人墓地に眠る。(墓碑未確認)
レゼー(Lezey, Lucien Drourat de 1849-1930)
1849年4月27日フランスのノール・ドンケルク市で生まれた。1869年パリ外国宣教会に入会、1873年司祭叙階とともに日本派遣を命じられた。甲信越地方において伝道生活を送ったのち、東京に転じ関口教会主任司祭に就任した。1918年静岡県御殿場神山復生病院院長に挙げれ救ライ活動に献身した。1930年11月3日神山病院において帰天。行年80才。同病院墓地に眠る。
レマレマル(Lemarechal, Jean Marie Louis 1842-1912)
1842年6月12日フランス・ブルターニュ地方のレンヌ(Rennes)司教区で生まれた。1866年司祭に叙階し生地の教会で働いたのち1869年パリ外国宣教会に入会、翌年宣教師として日本に派遣された。長崎浦上で旧キリシタン信徒の担当となり彼らの相談役として献身、1874年横浜に転任、さらに盛岡や仙台など各地で伝道生活7を送り1888年横浜サン・モール修女会司祭となった。オズーフ大司教の副代牧として働くかたわら「和仏大辞典」編纂に心血をそそぎ1904年刊行するに至った。1906年オズーフ神父の跡を継いだが、健康を害し1908年静岡に隠棲したが療養したがその
甲斐もなく1912年3月29日死去した。行年69才。静岡市沓谷(くつのや)霊園カトリック墓地に眠る。
ローケニュー(Laucaigne, Joseph Marie 1838-1885)
1838年5月13日フランス南部タルブ・ルルド司教区ガルデールで生まれた。パリ外国宣教会に入会、1862年司祭となり翌年宣教師として来日した。横浜、名古屋において伝道生活を送ったのち長崎に転じプテイジャン神父を補佐して旧浦上キリシタン信徒の指導に当たった。1876年大阪勤務となり2年間と過ごしたが1884年4月長崎に赴きプテイジャン師の最後を看取った。1885年1月18日丹毒症のため帰天した。行年46才。大阪市無原罪の御孕り聖堂に眠る。
ロジェ (Roger, Mathurin 1855-1885)
1855年1月8日フランス西部ロアール河口に近い商業都市ナント教区で生まれた。
パリ外国宣教会に入会し1880年司祭に叙階された。翌年、宣教師として日本に赴任、
横浜、名古屋で布教に従事したのち長崎に転じプテイジャン神父を補佐し旧浦上キリシタン信徒の教導に当たった。1876年大阪勤務となり二年間過ごしたのち再び長崎に帰り
プテイジャン師の最後を看取った。1885年1月18日死去。行年46才。大阪市無原罪の御孕りの聖堂内に眠る。
ワグネル(Vagner, Adolph 1863-1932)
1863年2月11日フランスのメッツ教区ワスペル・ウエイエル(Wasper-
weiller
p.St-Quirin)で生まれた。パリ外国宣教会に入会1890年司祭に叙階と共に日本派遣を命じられた。神戸においてワスロン神父のもとで日本語を修めたのち鳥取教会主任司祭として赴任した。1896年大阪に転じ、京都河原町教会の教務も兼任、1930年に京都西陣教会主任司祭として教区信徒の指導に当たった。日本語に巧みで講演などで好評を博した。1932年2月18日帰天。行年64才。府中カトリック墓地に眠る。
ワスロン(Vasselon, Henri Caprais 1854-1896)
1854年4月1日フランスのル・ビュイ司教区で生まれた。パリ外国宣教会に入会、1877年司祭となりただちに日本派遣を命じられ宣教師として赴任した。大阪およびその近郊において伝道生活を過ごしたのち名古屋に転じた。1893年ミドン神父の跡を継いで大阪司教に挙げられた。1896年3月7日大阪において帰天。行年41才。大阪阿部野外人墓地に埋葬されたが、のち豊中市服部霊園外人墓地に改葬された。