やまぐちでの_#サビエル_)ペトロ・_#アルーペ神父_による評伝から_#Xavier_#Javier_#Xabier_#Pedro_Arrupe_#Yamaguchi_RT_@tiniasobu
2019/02/09
2019年3月9日訂正 大内氏との会見のところ 常時 → 当時
フランシスコ・サビエル がやまぐちで、大内義隆から布教の許可をもらったということは、やまぐちの人は知っているとおもいます。やまぐちでのサビエルのようすを、戦中戦後日本にいて、広島の原爆で医師としての救援もした、アルーペ神父が1949年に書いたものを紹介します。
出典は アルーペ、ペトロ(1949)「キリスト教伝来四百年記念特集──フランシスコ・デ・サヴェリオ」『カトリックダイジェスト』2 (8): 1-28
たくさんの仏教関係の本がうち捨てられているのを拾ったのですよ。そうしたら、カトリック関係の冊子が2冊だけ入っていて、その一冊です。ちょうど『地中海食と和食の出会い──バスク人サビエルと大内氏の遺産を生かして』(南方新社からもうすぐ刊行、2000円)の執筆と編集と監修をしている最中でしたから、エウレカ! と叫んでしまいました。
以下は、やまぐちに関する部分からの抜き書きです。添付のpdfで全文がお読みいただけます。
やまぐちを降誕祭の八日前に出発した、サビエルは、宮島まで徒歩で行き、そこから舟に乗ったといいますから、降誕祭にはもう、現在の山口県の外にいたと読めます。山口市がクリスマス発祥の地で、12月にはクリスマス市だというなら、それはサビエルではなく、残されたトレス神父がとりおこなっただろう、ということになるでしょう。
http://www.xmas-city.jp/ の記述とも読み比べてみましょう。サビエル一行が、やまぐちではてっきり、天竺からの新手の仏教の宗派だと思われたことは、サビエル公園にある大内義隆の布教許可の書状の写しの文面からもあきらかです。以下は、そのうるわしき誤解の絶頂のあたりまでしか引用していませんが、本文を読んでいただくと、誤解が冷めて坊さんたちが攻撃的になるようすや、頼みの大内氏が滅びそうなときの、サビエルの反応など、いろいろなようすが生き生きと描かれています。
現在は、山口ではサビエル聖堂をはじめとして、サで始まる発音をしています。これにそろえてサビエル公園と呼んで看板の説明もそうなっていますが、現地に行くともともとは、「ザビエル公園」と刻んであることがわかります。創建当時は、英語発音の
ゼイビアに近い ザビエルと、山口でも言っていたことの証左ではないかと思います。
歴史の話は、観光と結びつくときにはとくに勝手にねじ曲げられやすいものですから、なるべく原典に近い典拠を探し続けたいものです。その点、アルーペ神父は、サビエル全書翰の編集をし、それが日本では岩波文庫や東洋文庫(平凡社)から出版されていますから、もっとも信頼するに足る情報源だろうと思います。
「直しようのない楽観主義者」と呼ばれたアルーペ神父は、ロヨラやサビエルと同じくバスクの大地に生まれ、後にイエズス会を率いるようになる人です。
https://cnd-m.info/news/essay/682/
資料・やまぐちでのサビエル
戦中戦後の日本に滞在した、イエズス会のアルーペ神父は、サビエルの全書翰の刊行などの業績があり、彼が占領下の日本で執筆したサヴェリオ(サビエル)の伝記(アルーペ、1949)は、日本滞在の部分が特に詳しく描かれている。そこから1550年8月末からの、やまぐちでのサビエルの行状を抜粋しておこう。文中「例の翻訳」とあるのは、霊父と呼ばれるサビエルが1549年8月の鹿児島到着後冬までかかって、アンジロウの助けを得ながら日本語に訳した信仰箇条のことである。
山口
小舟による平戸への渡航は、波が高いのと、海賊が多いのとで頗る危険であつた。平戸には二ヶ月滞在した。更に小舟で平戸を立つて博多に着く。
博多から陸路、箱崎、香椎、古賀、福間、東郷、赤間、小倉、門司を経て、下関、豊浦、小月、埴生、厚狭、船木、嘉川、小郡を通つて山口に着く。雪に掩われた凸凹のひどい山路の旅は、難渋を極めた。村に来ると、子供等は石を投げつけて嘲笑した。日が暮れる頃には、霊父等は疲れ果てていた。旅宿に着いても、貧弱な家であるから、刺す様な北風に対しては何の防ぎようもなかった。その上にサヴェリオは、なお自己に依る禁欲の業をきびしく課していた。道中霊父は風景に気をとられず、たゞ祈りに沈潜し、旅宿では誰からも後指をさゝれないように、肉類も魚も採らなかった。
山口への途中で、三人の者が信者になつた。高齢の武士と一組の夫婦とである。
山口には、有力な諸侯の一人、大内義隆の居城があつた。その邸内には芸術や学問と共に、凡ゆる悪徳もまた栄えていた。町には、木造家屋ばかり一万戸以上あり、華麗な寺院や神社だけでも百以上に及んでいた。
霊父等は内田と云う人の家で旅装を解くと、直ぐに福音の説教を開始した。毎日二度ずつフェルナンデス修士と共に、人出の多い街頭や十字路に立つた。まず初めに修士が例の「翻訳」を朗読するのであるが、第一には世界の創造を説き、それに付随して、日本人の三つの主要な罪を数え上げた。それは偶像の崇拝と、乱倫と、幼児殺しとであつた。次に霊父が説教するのであるが、その時には、霊父の顔は熱心の余り、火の様に赤くなつた。その言葉はフェルナンデス修士が次から次へと通訳した。
毎日場所を変えたので、間もなく、少くとも賑かな街では、神の言葉の告げられなかつた場所は一つもない程になつた。外国の「坊さん」の話をきくために人々は大勢押し寄せて来た。或る者は霊父等を狂人だと云い、或る者は何かに憑かれているのだと考えた。彼等は盛んに霊父等に罵詈雑言を浴びせかけた。
霊父等は、また多数の高位者の家に招かれた。その中の或る者は、熱心な智識欲からであり、或る者は異なる好奇心、或は暇つぶしからであつた。面白がる者もあり、同情を寄せる者もあり、また軽蔑する者もあつた。
けれどもサヴェリオは彼等を相手とする術を心得ていた。若し高貴な身分の者が横柄な言葉を使つた場合には、霊父はフェルナンデス修士に命じて、同じ横柄な言葉を以て答えさせた。従つて慄々然たるこの通訳は、霊父が殉教を求めているに違いないと考えた位であつた。
或るとき招かれた邸で修士が、悪魔ルチフエルの顛落と、傲慢な者の永劫の懲罰との条項を朗読した時、そこの主人が嘲笑し、愚弄したので、霊父は烈々たる威嚇の顔を上げながら、「たとえ貴下がそれを望まなくとも、貴下が自ら抑制して謙遜の徳を持たない限り、永劫の苦悩に陥る以外はないであろう。」と言つた。
それから修士に向つて「私たちが死を恐れていないことをみせてやろう。そうしてこの傲慢な人々に、私等の優れていることを示そう。見なさい。如何に彼等は坊さんを尊敬しているかを。若し彼等が坊さん以上に私等を尊敬していないとすれば、彼等は決して私等の教義を受け入れることはあるまい。」と言つた。
このように、家の中や街頭で説教を行うこと数日に及んで後、漸く義隆自身が霊父等を自邸に招いた。候は当時四十三歳で、芸術家、詩人、学者、並びに僧侶の保護者であつたが、同時に生活は非常に奢侈で、特に不自然な罪に身を持ちくずしている人であつた。先ず挨拶として渡航のことを始め、印度や欧州に就いての質問があつて後、候は霊父等が説教している新しい掟のことがきゝたいと望んだ。
そこでサヴェリオはフェルナンデス修士に命じて、例の翻訳を読ませた。義隆はそれを注意深く、一時間以上もきいていた。大部分を読み終つた修士は、つぎに当時の日本人の重大な悪徳たる乱倫の章に移つた。そこには、「この罪を犯す者は豚よりも汚らわしく、犬や其の他の畜生よりも、更に下等である。」と説かれていた。この時、修士の眼には、義隆の顔が一瞬にして色を失つたように見えた。けれども、義隆は己を制していた。一言も口を利くことなく、サヴェリオを案内した家臣に対して、目顔を以つて謁見の終つたことを知らせた。
修士は義隆が彼らを殺害せしめるのではないかを、怖れた。然し別に何事もなかつたので、霊父等は今まで通りに布教を続けた。……
霊父は降誕祭を迎える八日前に、二人の同行者を伴つて都への旅路についた。その第一行程としては日本の国内をよく識るために、山越しの陸路に依つた。雪が深くて、所によつてはそれが膝以上に達した。また氷のように冷い河を徒渉しなければならなかつたこともしばしばであつたが、水は膝を浸し、時には帯にまで達した。従つてサヴェリオは跣で歩くことが多く、日が暮れて旅宿に着くと、足から血が吹き出ていた。夜の寒さは格別ひどいので、それを防ぐために、霊父は畳を取つて自分の身体の上に置いたことすらあつた。何しろ霊父とフェルナンデス修士との二人に、一枚の古毛布しか無かつたからである。このような辛苦艱難を極めた山越しの旅を数日つづけ
氷上、長野、宮市、富海、戸田市、福川、徳山、櫛ヶ浜、下松、玖珂、岩国、を経て宮島へ出た。そこから渡し舟に乗り、堺に向つた。……
サヴェリオは、都へ到着してから十一日の後には、鳥羽の街端れで舟に乗り、淀川を下って堺に帰つた。小舟が悠然と川を下っていく間、霊父は脇目もふらず不幸な王のいる都を見詰めていた。
霊父は直ちに計画をすつかり改めた。山口には国王よりも有力な大名がいる。そこへ訪ねてゆくことにした。但し日本人にはまだ十字架の清貧が解らないのであるから、今度は貧乏な修道者としてゞではなく、推薦状や贈物を持ち、修交の使節としての威容を整えて行くつもりである。そこで三人は堺から乗船して更に西に下り、三月の始めに四ヶ月半不在にした平戸に帰つて来た。
再度の山口
トレス神父はその間、無為に日を送つていたわけではなかつた。四十人の日本人に洗礼を施したのである。平戸に帰つた霊父は多数の贈物を船に積み、フェルナンデス修士やベルナルド等と共に山口へ出発した。四月の終り頃、今度はポルトガル人等が寄贈してくれた上等の着物を着用して、駄馬に荷物を積み、印度総督の使節という資格で、再び大内氏の居城を訪れ、謁を願い出た。それが許されたので、霊父は羊皮紙に美しく書かれた二つの手紙を候に渡した。一つはゴアの司教からのものであり、他の一つは印度総督からのものであつた。それから霊父は総数十三箇に上る高価な贈物を差出した。
その中には日本人が未だ曽て見たことのないものが多かつた。例えば、大きな箱の中に精巧なゼンマイ仕掛が入つていて、それが規則正しく十二部に分れ、正確に昼と夜とを示すもの(時計)、一つの機械に十二の絃があつて、別に手で、かき鳴らさなくとも五週期に十二の音を出すもの(音楽時計)、二つのガラスがはめ込まれてあつて、それを用いると、老人が若い者と同じように、物を明瞭に見る事ができるもの(眼鏡)、平滑な品物でそこには少しの影もなく、顔が映るもの(鏡)、贅沢に装飾され、三つの銃身を有する火縄銃、非常に美麗な水晶ガラス数個、緞子製品、ポルトガルの葡萄酒、書籍、絵画、コーヒー茶碗などであつた。
義隆は親書にも、贈物にも非常に満足した。その返礼として数々の品物を取り揃え、それに小判や大判をそえて霊父に応えようとした。しかし霊父は厚く礼を述べただけで、それらの凡てを固く辞した。その代りに只一つの好意を願つた。それは山口でキリスト教を布教し、信者をつくることの許可であつた。
候はこの願いを喜んで聴き入れ、直ちに町に布告し、この新しい掟の宣教と、それに帰信することを許可する旨明示し、家臣などに対しては霊父に危害を加えてはならないと命令した。更に候は霊父等の住居として、無住の寺を与え、贈物に対する返礼として、坊さんか又は俗人を印度に送りたいという希望を述べた。義隆の布令が出てからはこの外国の説教家達は、今迄と全くちがつた目で見られるようになつた。……
霊父が義隆から第二回目の謁見を許された時、候の側を決して離れることのない真言宗の坊さんの一人が、霊父の説く「万物の創造主」たる神について数々の質問をし、この神には形や色があるかと訊ねた。霊父は神には形もなく、何等の色もない、純然たる実体であつて、凡ゆるものの創造主であるから、それらのものとは別のものであると説明した。するとその坊さんは、更にこの神はどこから来たのかと尋ねた。そこで霊父は、自分自身から出たのであつて、万物の原理であるが故に、無限の力を有し無限に智であり、善であり、始めもなければ終もないと答えた。坊さん達はこの答に満足したらしく、霊父に向つて、言葉や衣服こそ違つているけれども、教義の内容に至つては真言宗と同じであると云つた。……
以上抜粋は、安渓遊地でした。入力は 現在農閑期の 阿東つばめ農園 の 安渓大慧に依頼しました。旧漢字は新漢字になおしましたが、かなづかいはもとのままです。