奄美諸島史)わたしたちへの遺言となった弓削政己さんの「到達点と今後の方針」
2016/09/14
2016/09/15 修正 機種依存文字を変換しました。
2016年3月上旬に亡くなられた奄美の歴史研究者の弓削政己さん。
追悼の辞があちこちから送られています。 http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/28/
素敵な写真も見られます。 http://amahorizon.exblog.jp/24201623/
私たちも、発表会などでお目に掛かると、こわい方だなぁ、という印象をもっていましたが、
実際に、論文を共著で書かせていただいたりすると、実に謙虚な方で、これからいろいろ教えていただこうと思っていましたが、博物案の前の喫茶店で、今村規子さんとともにお話したのが、最後となりました。
闘病生活の中で、つながりのある研究者たちに送られた以下のメッセージが、彼の遺言であると思っています。
もともとのpdfファイルのシンポジューム を シンポジウムに
山口大G を山口県立大・山口大学G に勝手ながら変えさせていただいた以外は、もとのままです。
オリジナルは、添付のpdfをご参照ください。
トゥートゥガナシ。 安渓遊地・貴子
2015,8,18
8,20
8,26
8,30
「『奄美諸島史』に対する、私の現在の到達まとめ・今後の方針について」
(南海日日新聞社、松井輝美編集局長要請による)
弓削政己
?、職歴
1、【略歴】
1948年12月30日生(知名町知名出身、名瀬生)
立命館大学文学部東洋史学専攻卒業
琉球大学法文学部研究生中退
名瀬市議会議員(2期8年後引退)
奄美医療生活協同組合勤務
喜界町誌編纂委員
瀬戸内町誌(歴史編)編纂委員、
大和村誌編纂委員
2、【現在】
奄美郷土研究会員
奄美市文化財保護審議会長
沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員
琉球大学史学会地域理事
法政大学沖縄文化研究所国内研究員
?、論文等
1、【論文】30論文・新聞投稿文
「伊波普猷の奄美観と影響」(『新沖縄文学』41、1979年)
「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」(『新沖縄文学』81、1989年)
「基調報告? 奄美における『平家文書』」(『奄美文化を探る.文芸・民俗・歴史からのアプローチ.』海風社 1990年)
「奄美関係資料 流通経済大学祭魚洞文庫・渋沢史料館所蔵と奄美史の新しい課題」
(「南海日日新聞」1990年4月12日.9月18日、計20回)
「歴代宝案にみる道之島(奄美諸島)」『第4回琉中歴史関係国際学術会議』 1993年)
「奄美の市町村誌の現状と課題.『龍郷町誌』(民俗編)発刊によせて」
(『奄美学の水脈』1993年)
「近世奄美船の砂糖樽交易と漂着」(『琉球王国評定所文書』第10巻 浦添市教育委員会 1994年)
「近世奄美の通手形」(『地域総合研究』第22巻第1号、鹿児島経済大学 1994年)
「『十島村誌』を読むー島嶼と奄美史を理解するためにー」(「南海日日新聞」1995年12121212121212
「(史料紹介)近世、瀬戸内町の芭蕉と琉球との関係について」(瀬戸内町立図書館・郷土館紀要 創刊号 1998年)
「奄美の明治前期・中期の黒砂糖解放運動」(「南海日日新聞」1998年1月1日号.8月11日号までの31回分)
「明治前期黒糖自由売買運動(勝手世運動)の検証.今日の到達.」(『鹿児島県立短期大学地域総合研究所編』1999年)
「就学の東京と就業の関西」「薩南諸島の行政官僚と鹿児島人」(『鹿児島の湊と薩南諸島』吉川弘文館 2002年)
「近世期の奄美.沖縄の交通.人と物資の移動の舟・船.」(『第4回沖縄国際シンポジウム 世界に拓沖縄研究』2002年)
「東喜望『笹森儀助の軌跡 辺界からの告発』から考える奄美」(「南海日日新聞」
2003年6月3日.7月15日 16回分)
「近世の奄美について」(『現代のエズプリ』別冊 『奄美復帰50年 ヤマトとナハのはざまで』2004年 至文堂)
「大島古図」について(上・下) (「沖縄タイムス」2004年5月3日、10日)
「奄美の一字名字と郷士格についてーその歴史的背景」(『奄美学 その地平と彼方』2005年)
「奄美島嶼の貢租システムと米の島嶼間流通について」(『沖縄県史各論編4 近世』沖縄県教育委員会 2005年)
.「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」(『沖縄民俗研究』第24号 2006年)
.「絵地図から見る名瀬の街の移り変わり.」(『創立5周年記念保存版 東京名瀬町会会報』2008年)
.「奄美島嶼の大あむについて.継承・人数・管轄地域について.」(『奄美郷土研究会報』第40号 2008年)
.「中山政権と奄美」(『沖縄県史 各論編3 古琉球』沖縄県教育委員会 2010年)
.「基調講演 薩摩による直轄支配と冊封体制下の奄美諸島」(沖縄大学地域研究所 芙蓉書房出版 2011年)
.「近世奄美諸島の砂糖専売制の仕組みと島民の諸相」(『和菓子』18号 2011年虎屋文庫)
.「奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談』の背景.奄美諸島史把握の基礎的作業.」 (『沖縄文化研究38』法政大学沖縄文化研究所 2012年)
.「薩摩藩勧農・開墾政策におけるノロ・ユタと怪異ケンモンについて」(『沖縄民俗』31号 2013年)
.「奄美諸島近代初期の県商社による砂糖独占販売の諸問題.主体形成と時代性を反映した歴史叙述と史観.」(『沖縄文化研究』39法政大学沖縄文化研究所編2013年)
.「徳之島における三平所と手々村神役の継承システム」(『沖縄文化研究41』法政大学沖縄文化研究所 2015年)
2、【共同論文・史料ノート】3論文
「奄美大島 戸円集落貞岡家・坂元家祭祀関係文書」(石井嘉生・弓削政己共同論文、『沖縄民俗研究』第33号 2014年)
「国立台湾大学図書館・田代安定文庫の奄美史料.『南島雑話』関連資料を中心に」(『南島史学』)第82号 2014年)
「白尾伝右衛門による『幕末(嘉永)の赤木名』絵図」(山下和・弓削政己共同論文、『鹿児島県奄美市史跡赤木名城保存管理計画書』2015年)
3、【共著】13冊
『新南嶋探検 笹森儀助と沖縄百年』(琉球新報社 1999年 共著)
『新薩摩学 薩摩・奄美・琉球』(鹿児島純心女子大学国際文化研究センター編 南方新社
2004年 共著)
「奄美大島紬からみた歴史と現在」(『紬の海道 奄美・鹿児島・久留米編』2005年)
『瀬武誌』(2010年、瀬戸内町)瀬武誌編纂委員会 共著)
『江戸期の奄美諸島 「琉球」から「薩摩」へ』(知名町教育委員会編 2011年 南方新社 共著)
『薩摩侵攻400年 未来への羅針盤』(琉球新報社・南海日日新聞社合同企画(琉球新書(1)2011年 共著)
『名瀬のまち いま むかし』(南方新社 2012年 共著)
『南西諸島史料集 第5巻』(南方新社 2012年 共著)
『喜界町誌』(2000年 共著)
『大和村の近現代 大和村誌資料集1』(2003年 共著)
『大和村の近世 大和村誌資料集 3』(2006年 共著)
『瀬戸内町誌(歴史編)』(2007年 共著)
『大和村誌』(2010年 共著)
?、史料調査
1、【史・資料調査・収集先図書館、研究機関名】(23都道府県、146研究機関、島外4個人等の史料、島内個人は多くて把握できないため除外)
(*印は、訪問をせず研究者や公的機関から、複写依頼で史料・資料を入手した所)
全国23都道府県より収集した機関数は150か所、内、直接訪問は114か所、36か所は知人の研究者や複写依頼等により入手。直接訪問回数は、同一研究機関で1回
.10数回程度。訪問集落や史料保有者数は正確には把握できない。
(撮影史料は公的機関から寄贈を受けた史料・資料以外は、文字情報を得るための撮影であるため、不揃いで展示には使用できない。一部には、個人所蔵者記入漏れがある)。
(北海道)*北海道立アイヌ民族文化研究センター
(青森県)弘前市立図書館、青森県立図書館、東奥日報社、笹森健明氏宅
(千葉県)郵政博物館資料センター
(埼玉県)屋実元氏宅(大和村戸円出身)、*駿河台大学、
(茨城県)筑波大学中央図書館、国立公文書館つくば分館、流通経済大学図書館(竜ヶ崎)
(東京都)国立国会図書館、国立公文書館、外務省外交史料館、東京国立博物館、(現)後藤・安田記念東京都市研究所(市政専門図書館)、静嘉堂文庫(三菱の岩崎氏)、三菱史料館、三井文庫、青淵文庫(財団法人渋沢栄一記念財団付属渋沢史料館)、海上保安庁海洋情報部、人間文化研究機構国文学研究資料館、東京都公文書館、町田市立自由民権資料館、東京都江戸川区立中央図書館、東京都千代田区役所、東京大学史料編纂所、東京大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫、東京大学人文社会系研究科韓国朝鮮文化研究専攻研究室、法政大学市ヶ谷図書館、法政大学多摩図書館、法政大学沖縄文化研究所、東京海洋大学図書館、明治大学図書館、松田清氏東京大学史料編纂所、
東京大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫、東京大学人文社会系研究科韓国朝鮮文化研究専攻研究室、法政大学市ヶ谷図書館、法政大学多摩図書館、法政大学沖縄文化研究所、東京海洋大学図書館、明治大学図書館、松田清氏
*アジア歴史資料センター、*国土地理院、*早稲田大学図書館、*中央大学日本比較法研究所、*虎屋文庫、
(神奈川県)水産総合研究センター中央水産研究所図書資料館 *神奈川大学日本常民文化研究所、*神奈川近代文学館
(長野県)*長野県立図書館
(愛知県)日本福祉大学 *愛知学院大学 *西尾市岩瀬文庫
(京都府)*京都大学文学部博物館、*同志社大学図書館
(奈良県)天理大学図書館
(大阪府)関西大学東西学術研究所、大阪府立中之島図書館、部落解放・人権研究所(大阪)*杏雨書屋、
(兵庫県)尼崎市立図書館、神戸大学附属図書館住田文庫
(岡山県)*岡山大図書館大原農書文庫
(香川県) *坂出市立大橋記念図書館
(高知県)*高知県立図書館
(福岡県)*九州大学附属図書館中央図書館、*九州国立博物館
(佐賀県) *鍋島報国会
(長崎県)長崎県立長崎図書館、対馬歴史民俗資料館、*対馬市教育委員会 *福江市
(熊本県)熊本県立図書館
(宮崎県)宮崎県立図書館、宮崎県総務部県史編纂室、宮崎県文書センター、都城島津邸、宮崎市佐土原歴史資料館(鶴松館)、*延岡市立図書館、
(鹿児島県)鹿児島県立図書館、鹿児島県歴史資料センター黎明館、尚古集成館、*鹿児島県立博物館、姶良市歴史民俗資料館、阿久根市立図書館、枕崎市立図書館、(現)南九州市立知覧図書館、(現)指宿市指宿図書館、(現)指宿市山川図書館、国分市立図書館、鹿児島市役所、鹿児島市立名山小学校、十島村役場、鹿児島県民文化教育研究所、南日本新聞社調査部、*新納中三子孫家、*史料所有者、*三島村(黒島、硫黄島)
鹿児島県立短期大学付属図書館、鹿児島国際大学図書館、鹿児島国際大学附属地域総合研究所、鹿児島大学付属図書館(中央図書館、水産学部分館)、鹿児島大学総合研究博物館、鹿児島大学皆村研究室、鹿児島大学原口研究室(現志學館大学)、故叶生実統、
(奄美諸島)
奄美諸島の個人は多いため、「150研究機関・個人等の史料」類型から除外。
喜界島町立図書館と志戸桶、阿伝、坂嶺、赤連、小野津、大朝戸、川嶺、左
手久等集落や史料保存者、
龍郷町中央公民館と安脚場、*秋名、龍郷等集落と史料保存者、
笠利町中央公民館(現、奄美市)と城間、用、赤木名等集落や史料所有者、
名瀬市立中央公民館、奄美市立博物館と童虎山房、教育会館松田清文庫、名瀬小学校、小湊、地名瀬、小宿、浦上、大熊や史料保有者。鹿児島県立図書館奄美分館(現、鹿児島県立奄美図書館)、*芦花部公民館、
大和村公民館と国直、思勝、戸円・大棚・大金久、名音・今里集落や史料保有者、
住用公民館や資料保有者
宇検村生涯学習センター「元気の出る館」と宇検、須古、名柄、湯湾、平田、阿室等集落や史料保存者、
瀬戸内町立図書館郷土館と瀬武集落誌編纂委員会、西古見、阿木名、蘇刈、手安、油井、押角、瀬武、古志、篠川、嘉入、*於斉等集落や史料保存者、
天城町図書館と天城、大津川、兼久、岡前等集落
伊仙町歴史民俗資料館と伊仙、目手久、面縄、阿権、糸木名等の集落や史料保存者
徳之島町郷土資料館、徳之島町郷土資料館小林文庫、徳之島町図書館と井之川、手々等集落や史料保存者、
和泊町中央公民館、和泊町歴史民俗資料館
知名町立中央公民館、知名町立図書館
与論町図書館と集落や史料保存者
(沖縄県)沖縄県公文書館、沖縄県立図書館、沖縄県立博物館、(現)那覇市歴史博物館、宮古島市総合博物館、南風原町立南風原文化センター、浦添市立図書館、沖縄市立郷土博物館、名護市立図書館、名護博物館、今帰仁村歴史文化センター、沖縄県地域史協議会、琉球大学図書館、沖縄国際大学図書館、沖縄国際大学南島文化研究所、沖縄県立芸術大学附属研究所、*石垣市立八重山博物館、
(外国)*国立台湾大学、*ハワイ大学マノア校ハミルトン図書館所蔵阪巻・宝玲文庫(沖縄県立図書館・琉球大学・沖縄国際大学で直接収集)
*イギリス公文書館(東京大学渡辺美季氏より)、*アメリカ公文書館(沖縄公文書館で直接収集)、*メリーランド大学カレッジパーク校プランゲ文庫(早稲田大学図書館データーベースにより国会図書館へ複写依頼による入手)
、日本の各大学で直接収集した韓国史料や中国史料(台湾史料も含む)。
2、【年月、広域的、個人・チームで収集できた史料・資料収集の特徴的な若干の事例】
(個人による収集)
?「鹿児島新聞」(後の「南日本新聞」)の明治期の奄美諸島、沖縄県関係の記事の収集。
個人として7年ほどかかった。→個人では研究が進まないので、奄美諸島の人々が近現代史研究などに携われるように公開をした。現在、新聞資料作成で先進的な徳之島郷土資料館に提供をし、PDFとして完成され、保存され、利用可能である。
(2)奄美諸島に関係する中国地方、四国地方、九州地方の「米軍統治下の奄美諸島の密航・密輸関係新聞記事」(広域で20新聞社)
連合国軍最高司令官総司令部参謀第二部戦史室長を務めていたゴードン・ウィリアム・プランゲによってGHQにより検閲された資料がメリーランド大学に移送、早稲田大学山本武利教授らにより2007年に記事見出を記載したデーターベースを完成。
ただ、奄美諸島や沖縄県は軍政府の管轄下に及んでいたためか、収集新聞はない。
この新聞記事により、琉球→奄美諸島→トカラ列島、口之永良部までの密航や密輸が鹿児島→九州・中国四国地方の状況が把握でき、奄美諸島の密貿易が、当時の朝鮮、中国と日本の密貿易の構造ともかかわる広い視野が必要なことが理解できる。中国と日本の密貿易の構造ともかかわる広い視野が必要なことが理解できる。
【新聞名】
「愛媛新聞」、「新愛媛新聞」、「徳島新聞」、「徳島民報」、「四国新聞」、「高知新聞」、「高知日報」、「時事新報」、「西日本新聞」、「大分合同新聞」、「中国新聞」、「長崎日日」、「長崎民友」、「佐世保時事新聞」、「九州タイムス」、「熊本日日新聞」、「佐賀新聞」、「日向日日新聞」、「京都新聞」(以上、国立国会図書館)、「南日本新聞」(鹿児島県立図書館)、*小池康仁「米国公文書館所蔵琉球軍政局資料」
(3)奄美史料の存在地域と基本的に収集できた地域
奄美史料の存在地域について、石上英一氏は、
「奄美諸島所在史料」を基本としつつ
琉球史料
薩摩藩史料と日本史料
中国史料(おもに明・清時代や台湾)
朝鮮史料
欧米史料
それらのグループの重なり合った史料があるとモデル化している。私には特に収集が困難だった朝鮮史料(『李朝実録』以外)は、筑波大学、東京大学人文社会系研究科韓国朝鮮文化研究専攻研究室(.江洲昌哉氏の御尽力)、鹿児島大学中央図書館から収集できた。あとは、韓国にある史料収集が必要である。欧米史料は、外交文書、航海記、地図等は一部掌握しているが、全体的に未調査査・未収集である。ただ、元和末(1623年)以前(1703年)の掌握できている史料は、石上氏『奄美諸島編年史料
古琉球期編上』の続編の近刊書「下巻」に収載予定である。
(チームによる収集)
?奄美博物館、宇検村、知名町行政、大学や出身者のボランティアと日数をかけた国立公文書館つくば分館史料の収集
奄美諸島の歴史研究で最も遅れている分野が土地制度である。また、明治中期の三方法運動の裁判記録の収集が必要であった。
収集する必要があるという提案に、奄美博物館が事業を実施した。各行政に共同で史料の撮影をすることを提案。
奄美博物館からは弓削政己1名、宇検村や知名町が各事業で前利潔氏、直美希氏各1名、また、以下の方々へボランティア参加を依頼した。神奈川大学の.江洲昌哉講師1名、筑波大学院生津波一秋氏1名、駒澤大学須山聡教授と大学院生3名、徳之島高校卒松山哲則氏ら3名、大島工業高校卒宮田洋富己氏1名、大島高校卒1名、和泊町出身宋氏1名の計11名、総計14名で6日、フォロー個別調査も含め14日程度かかった。
奄美諸島から県外調査としては初めての最大規模の調査・収集で、かつ奄美諸島史の中で研究蓄積が少ない土地制度研究を前進させるものであった。デジタルカメラによる撮影であった。
明治12年『竿次帳』(地租改正の基本史料)244冊、竿次帳は破損により収集できないものもある。今後の修復作業を待って収取する必要がある。
明治中期の三方法運動の裁判記録『民事判決原本綴』333件(14冊)であった。
これは、奄美博物館、知名町、宇検村の各機関に保存されている。これは、交通の発達、デジタルカメラ機器、公文書館が撮影を許可しないと、集団としても個人としても以前には収集不可能であった。
(2)新聞社と記者の援助による収集
デジカメが普及されていない時期、文化庁による国指定直前の対馬宋家文書の撮影。
国の指定となると、撮影の手続きが必要とされるし、撮影を許可されるか不明と考えた。宗家文書に奄美関係の漂流・漂着史料があることを、長崎県立図書館、関西大学東西学術研究所の研究で知った。宗家文書目録は、九州・沖縄では九州大学のみ保有していた。関西大学は宗家文書研究で知られていた。そこで奄美諸島関係史料の推定をし、目録を作成し撮影に行った。
南海日日新聞社の了承のもと、当時勤務していた中島敏光記者(現退職者)が休暇を取り、史料撮影で対馬に同行した。取り直しがきかない1回きりの撮影であったが、全史料が撮影できた。先輩たちの史料調査の苦労がしのばれる。
(3)黎明館委託による最大の歴史文書目録作成
鹿児島県の黎明館の委託を受け、奄美郷土研究会は2002年から3年間にわたって、故児玉永伯氏ら20名ほどによって「奄美群島歴史資料確認調査」を実施した。黎明館との窓口、受入、調査地域の状況など児玉氏らと検討しながら実施したが、受入に当たっては、その成果を奄美諸島市町村に還元することを条件とした。
児玉氏らのグループは、歴史資料約1万点の目録を作成した。これは、今後の史料収集で多大な第一の基礎的役割を果たすものである。
今後はそれを基礎に、それ以外に資料の原本所有者確認や原本撮影などが必要である。また、あまり知られていない、他府県居住の奄美諸島出身の史料収集が必要であろう。ただ、例えば、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で奄美諸島の系図が、調査収集直前に消滅した事例もあった。
(4)喜界町図書館の先駆的役割、大和村誌編纂委員会、奄美市立奄美博物館、伊仙町歴史民俗資料館、龍郷町施設建設準備委員会など、行政の役割の積極的な前進(私が関係した個人・行政の事例、自分史的記述も含む)。
当初(30数年前)、奄美に帰ってきて奄美諸島全域を知るために、オートバイ、寝袋等を背負って、全域を廻った。その結果として「史料収集がさらに必要であること」、「新しい研究到達の情報を入手しておかないと、歴史文書解釈などに不備が生じる」「行政の役割が大切である事」を理解した。その時に把握した史料に、消滅かと言われていた喜界島志戸桶の「孝野家文書」があった。
当時の勉強会グループの親里清孝(歴史)、故里山勇廣(考古)、吉岡武美(考古)、各氏から奄美諸島について様々教えていただいた。特に故里山氏について述べると、彼はタクシードライバーをしながら考古研究に取り組んでいた。今日、彼の土器編年は、現在の考古研究者から高い評価を受けている。私にとっては、彼らが奄美諸島史研究の友人でもある。その後、10名余で『大島代官記』の講読研究を始めた。引き続き、山下文武、西村富明各氏ら3名での史料講読会があった。現在は、実践的に本田富雄、平瀬達郎、森紘道各氏ら数十名が、奄美市古文書サークルとして史料講読を行なっている。
私としては、史料収集のため、「奄美研究史目録」を作成、それに沿って奄美諸島史の歴史書や論文に記載されている事項の典拠史料を全国や地元で収集していった。
かつ、所蔵機関の規定上、奄美の研究者に提供することが許された収集史料は、地元メンバーに提供することとした。
また、入手した奄美諸島史の研究論文は、インターネットで「奄美歴史情報」的な
タイトルで流している。当時、新たな史料が見つかると、奄美諸島在住の研究者との情報共有のため、地元新聞を利用させていただいた。それは、奄美諸島史はさまざま視点が要求されるという情報共有のためであった。
行政とのかかわりでは、市町村誌を刊行した自治体での史料保存調査を行った。全
く史料を保存せず執筆者の所有になっていたり、公民館舞台の下に段ボール箱に詰められて置かれていたりしていた。史料保存の必要性を訴えてきた。
1991年、湾岸戦争空爆の時期であったが、行政として、最初に県外へ職員を派遣し歴史史料を収集したのが喜界町であった。茨城県竜ケ崎市の流通経済大学での収集である。当時、喜界町役場企画観光課直島秀守氏、大畑倫喜界町図書館長のご理解・尽力があり、図書館司書の得本拓氏が調査をした。役職でない職員の東京周辺までの派遣は、喜界町では初めての事であったと言う。
その後、10数年ほどたった2000年代、特にお手伝いをさせていただいた大和村は、村誌編纂委員全員の沖縄調査や一部委員による宮崎県での史料調査などを実施。相手側の文化財担当者などがびっくりして大和村へ敬意を払っていた。名護博物館の「琉球嶌真景」の行政機関による調査は、大和村であった。
現在、龍郷町、奄美市、宇検村、瀬戸内町、天城町、伊仙町等の行政や担当職員等の尽力で、史料調査などが実施されている。現在はそういう時代になってきている。行政の事業で一度訪問した県外研究機関を概観すれば、筑波大学中央図書館、国立公文書館、国立公文書館つくば分館、東京国立博物館、東京都公文書館、天理大学図書館、鹿児島県立図書館、鹿児島県歴史資料センター黎明館、鹿児島大学付属図書館中央図書館、宮崎県総務部県史編纂室、南風原町立南風原文化センター、名護博物館、三島村(黒島、硫黄島)の14か所である。行政の事業による史料収集が以前より前進した事を示している。
その中でも奄美市立奄美博物館は、1万点を大きく超える史料を保存している「童虎山房」(原口虎雄)や、原口泉氏蔵所を含め2代にわたる史料・資料・書物を受け入れた。そして、数年間継続して史料整備や目録作りの事業をすすめた。また、故児玉永伯氏ら20名ほどによる「奄美群島歴史資料確認調査」の場所の提供など奄美諸島文化行政に大きな役割を果たしている。そのうち、私は、奄美博物館の依頼により、「童虎山房」史料の目録作成とその中の奄美諸島史関係史料を抜き出して目録と関係史料の複写を行なった。これは、奄美博物館に保管されている。
?、
拙稿の奄美諸島史の新たな歴史像提示や「通説」の検討や批判の受け止めについて
新たな歴史像や通説批判については、現在のところ、研究者からは支持され、反論の論文はない。特にいくつかの拙論について触れたい。(もっとも稚拙な文章表現であるので、意のあるところをくみ取っていただきたい)。
1、【新たな歴史像提示拙論】
「伊波普猷の奄美観と影響」(『新沖縄文学』41、1979年)
沖縄の伊波普猷を通して今後の奄美諸島史把握のための私の最初の拙論。当時、鹿児島と沖縄の谷間としての奄美諸島という認識が強かったが、奄美諸島内島民の主体性の評価の視点からどう考えるかという問題提起レベルについても触れた。
「奄美から視た薩摩支配下の島嶼群」(『新沖縄文学』81、1989年)
今後一層の分析が必要であるが、奄美諸島黒糖専売制の薩摩藩の行政蓄積として、屋久杉専売制があり、ついで黒糖専売制があるという視点が必要であることを述べた。
「歴代宝案にみる道之島(奄美諸島)」『第4回琉中歴史関係国際学術会議』 1993年)
金城正篤琉大名誉教授の先行研究に基づきながら、奄美諸島史を見る場合、薩摩藩直轄支配とともに、東アジアを律する体制、中国の明国・清国と冊封体制という二つの視点が必要であることを『歴代法案』、『平良市史資料編』を通して明らかにした。また、冊封体制との関係で、奄美諸島を薩摩藩が支配している事を中国へ隠ぺいしている具体的動きも明らかにした。
「近世奄美船の砂糖樽交易と漂着」(『琉球王国評定所文書』第10巻 浦添市教育委員会 1994年)
大島と喜界島間やそれらと琉球との交易、沖永良部島・与論島と琉球国頭との交易などを含めた奄美諸島島嶼間交易や琉球との交易の域内交易の歴史像を提示した。
「奄美島嶼の貢租システムと米の島嶼間流通について」(『沖縄県史各論編4 近世』沖縄県教育委員会 2005年)
琉球・奄美諸島・トカラ列島・屋久島・藩の相互の米の流通や分業とともに、砂糖代米の概念を明確にした。もともと、江戸幕府近世の税は米上納であり、その他の物産は特産品として藩権力による買上制度であった。薩摩藩も同様である。a)奄美諸島の生産高を米で計算する。b)米による税で米を7000石上納させると決める。c)特産品の黒糖を米3合2勺4才=黒糖1斤で換算する。税上納の米7千石の分を黒糖460万斤で納めさせるという事が基本であった。藩はその他の余剰の黒糖を御買重(おかいかさみ)と称して買上げる。時代と共に米換算を低くし、少ない米で多くの砂糖を入手するようになった。また、日用品を高く売却する方法も取った。
【史料】:知られている史料と共に、決定的に確信したのは、「柿原義則
意見書」(ハワイ大学マノア校ハミルトン図書館所蔵阪巻・宝玲文庫)によってである。奄美諸島の米と流通の主な引用史料として、「親見世日記」(国立台湾大学)、「琉球史料」(京都大)、「十島村文化財調査報告書」(十島村)、窪田家文書」(伊仙町)、「盛岡家文書」(大和村)を利用した。ところで近年、ある歴史研究者ではない他分野の研究者が、奄美諸島研究史を読まずに、「藩は奄美諸島に米を作らさなかった」などという単行本をだし、講演や新聞紙上でも同様なことを話している。しかし、『南島雑話』の米の生産を描いた水田1枚の絵を見るだけでもその間違いがわかる。奄美諸島が注目される中で、このような問題も生じてくることは注目する必要がある。
「絵地図から見る名瀬の街の移り変わり.」(『創立5周年記念保存版 東京名瀬町会会報』2008年)
36点ほどの絵図、地図等を収集した。海軍等の作成図を含めると、それ以上である。ここでは、『名瀬のまち いま むかし』(南方新社
2012年)と関連する問題提起があるので、絵地図の収集状況を示す。
絵地図、地図で収集できたのは、古代・中世は「古地図にみる琉球」所収の2枚(沖縄公文書館)、「海東諸国記」(東大史料編纂所)その原図縄公文書館)「奄美史談」付属地図(明治、黎明館)、「(明治18,19年)名瀬絵図」(岩本家蔵写、奄美博物館写)、「名瀬町管内図」(昭和7年頃、鹿児島県立奄美図書館)、「(仮称)古仁屋商店街」(「奄美大島瀬戸内町古仁屋大火実態調査報告」、東京都公文書館)。
2、【通説批判の拙論の背景】
史料収集をしながら、検討していくと、奄美諸島の中心的税(専売制の黒糖)とともに見逃せないのが、例えば芭蕉である。芭蕉糸は優れたもので、現物の税、上納以外の自由売買商品、交易品であった。女性は誰もが、日常品の用途もあり、芭蕉布生産に従事しなければならなかった(下等は黒糖に換算され黒糖で納める)。いわば近世の税の二大産物と言っても過言ではない。この芭蕉が近代まで続き、その技術が近世では一部の税であった大島紬に全面的に転嫁していったと考えられる。だから、大正5年頃には大島紬が黒糖生産額を超える状況に成長することができたのである(【共著】「奄美大島紬からみた歴史と現在」(『紬の海道
奄美・鹿児島・久留米編』2005年)。また、苦労している黒糖生産の技術力を高め、かつ琉球や種子島等多くの島嶼に技術を指導する力が蓄積していたこと、シマ豚、黒糖酒も含め島外から伝播してきたものを取り入れ、加工し良質なものに変えていく力量、ウタや踊りを含め豊かな歴史を創ってきたこと、各島嶼、琉球など、藩を通じて東アジアの動向にも影響され、またそれらの情報を入手する、海上交通を活発に行っていたことなど情報、航海術など高い知識力を保有してきたこと、一揆や藩の政策へ緩やかな抵抗で藩政策導入を遅らせたことなど、百姓等や指導者層の働きを評価する必要があると考えることができてきた。
史料からすると、このような奄美諸島の人々の動向を見ると、実体として島民の主体性を柱にしながらの社会構成の把握と前進の歴史が存在している。
一方で、奄美諸島史の歴史書をみると、「差別史観」が濃厚であることも見て取れる。そこには自体としてそのような事象はあるが、一方で「誤解の史実」(誤った歴史解釈であるが、それが史実として受け止められてきたことを指す造語)がつよい
そのため、以下、その点に絞った論点を示しておきたい。
奄美諸島史を読むなかで、濃密な史観で記述されている。「薩摩藩により近代初期まで黒砂糖の収奪があった」という点である。それは率直にそうであると言わざるを得ない。
しかし、このような「差別史観」は、ある分野の歴史事象をえぐり出す点では有効である。しかし、その方法論は、奄美諸島史全体像を明らかにする有効な方法論ではないと考える。
.?)しかも、記述されている点は、奄美諸島の内部分析を欠落させているため、すべて薩摩藩対奄美諸島という二項対立の論となっている書が多い。それらは、「藩は系図を焼き捨てて、奄美諸島の歴史を消滅させた」、「一字名字で差別された」「近代になって鹿児島県は、島民をだまして砂糖専売制を引き続き実施した」「ノロ・ユタを弾圧した」などと奄美諸島史の歴史像を描いてきていた。
.?)研究史を見ると、「藩は系図を焼き捨てて、奄美諸島の歴史を消滅させた」、「一字名字で差別された」などの近世の根拠史料は全くない。また、「近代になって鹿児島県は、島民をだまして砂糖専売制を引き続き実施した」「ノロ・ユタを弾圧した」という点は一部妥当であるが、全体的結論はうなずけない点も若干ある。
しかし、明治、昭和期史書の数行の「差別史観」による叙述部分が、1世紀近くも引き継がれている。
それらは、奄美諸島内部分析という縦社会との関係・連関による藩の政策が吟味されていないためである。「系図、名字」は、郷士格身分の社会の問題であり、多くの百姓の立場での叙述ではないということが、研究過程の中で明らかになってきた。
ちなみに、『喜界町誌』(p.202)で、私は奄美諸島の内部階層を明らかにした。1852(嘉永5)年でみると、奄美諸島全人口は85,125人、内、郷士格と家族は1,566人(全人口比1.8%)、多くは百姓・下人の79,782人(同93.7%)である。また、『大和村誌』(p.215)で、18世紀以降の郷士格も島役人という統治役職となるため、集落役人を除き、間切役人(現在の市町村役人)220名を超す数であると考えられる。全人口の1%にも満たない数である。つまり、系図、名字は1%にも満たない島役人層に関係する問題であって、百姓・下人下女からすれば、無関係な問題設定である。それでもって、部分は明らかにできるが、奄美諸島全体の歴史像を示すことはできない。
例えば、なぜ系図焼却=歴史隠滅という考えが、1世紀近く奄美諸島民に受け入れられてきたのか。それこそが重要である。近代になり、琉球の人々同様、奄美諸島民が、歴史的背景がある県民の中で差別された。高齢の与論町の婦人は、鹿児島での出来事を体験談として私に述べた。また、他の都市で服装や言葉などをふくめてトータルに差別されてきた歴史的体験が個別「論文」や郷友会『記念誌』などに記述されている。それらの事についてその原因を「薩摩藩による差別政策のためであった」と理解することは無理のないことである。
しかし、このような、1世紀も続くいわば伝承された奄美諸島史は「誤解の史実」である。この「誤解の史実」を解くためには、関西の研究者を中心に検討されているが、「近・現代史における奄美諸島民の歴史や差別」という研究成果が、さらに必要であろう。それらは敷衍すれば、朝鮮・中国への戦前の差別がなぜ生じてきたのかという日本国民の歴史意識の検討という視野まで求められるのである。この近現代の奄美諸島の島民の体験と合わせて、近世史を理解しなければ「誤解の史実」を解くことはできないであろう。この点が、奄美諸島史研究をむつかしくしている大きな要因の1要素であろう。
3、新たな歴史研究の方法と視点
図式的に概観すると、近世の奄美諸島の統治と身分・役職構成は、以下のように把握できる。
(統治と身分の構成)
?)藩(勝手方・財政)
?)各島代官など詰役職
?)(郷士格身分)
?)郷士格も含めた与人などの島役人(職分)
?)百姓・下人・下女、
?)他にノロ、ユタ等宗教者、
?)ゾレ(遊女)、藩や琉球からの流人、宗教者で構成。
これら相互の在り方が歴史状況で変化する。したがって、奄美諸島史の矛盾の在り方という側面からみると、基本視点は以下の様に捉えることができる。
(人口構成の中の立体的な矛盾)
A)?)、?)の藩関係⇔?).?の島役人も含めた奄美諸島民である。
B)藩と島役人の?)、?)、?)⇔百姓などの?).?)、
C)内部の島役人?)、?)⇔百姓?)などである。
個々の歴史の中で、どのような性格の矛盾が生じているかを把握する必要があるだろう。比較史として、特に宮崎島津領内の百姓出身で武士となり、藩と村の結節点にいる「庄屋」と奄美諸島の「方管轄」の郷士格の与人層とは、同様な性格であると考えられる(*「庄屋」については都城島津邸の山下真一氏諸論)。
ア)庄屋は、藩権力の末端で、かつ村の代表、与人は「『方』の管轄で数村の代表」という二つの側面がある。
イ)「村管轄」でいえば、藩の庄屋と奄美諸島の「掟」が同じ。
ウ)武士という点では「郷士格の与人」と同じ。
エ)管轄地域で言えば藩「.」と奄美諸島の「与人」と同じ。
奄美諸島研究にとって、それぞれの矛盾と島役人の二面性の研究が必要である。島役人は島民側と同様な困難を背負ったとか、藩権力者の側であるとか単純化することは、実態に即せず観念論に陥り、奄美諸島史解釈に誤りをもたらすと考える。
(*山下真一氏諸論、「鹿児島藩における庄屋の一断面」・『立正史学』87号2000年、「鹿児島藩の庄屋と在地支配」・『九州史学』2003年、「鹿児島藩における郷村運営と.」・『宮崎地域史研究』25号2011年)
こうして、当面の奄美諸島史研究の新たな方法と視点という点では、上記(統治と身分の構成)(人口構成の中の立体的な矛盾)を念頭に、大枠として、藩による「直轄支配」・「内部構成」の実態とともに、「冊封体制の影響」という二点を基軸とする必要がある。
冊封体制の影響、東アジアからの視点の必要性という点では、考古学などの事例だけでなく、唐通事・英国通事などの事例は勿論であるが、近世の薩摩藩直轄支配時の琉球と藩の交渉、琉球へ中国からの冊封使渡来時の奄美諸島からの貢物(『喜界町誌』の弓削担当)、幕末列強の琉球開国要求の影響(弓削報告「道之島の成立と幕末の奄美諸島.琉球開国要求と奄美諸島内部の施策の変化.」・パンフレット『沖縄国際大学
東アジアの中の琉球ー島津氏の琉球侵略400年を考えるー』)や最近把握できた近代初期の川崎正蔵や岩崎弥太郎の大阪、神戸、鹿児島や名瀬・琉球航路の開設や郵便船の成立、軍部による奄美諸島海路図が、琉球の税の収納に関係するとともに、明治初期の川崎正蔵や岩崎弥太郎の大阪、神戸、鹿児島や名瀬・琉球航路の開設や郵便船の成立、軍部による奄美諸島海路図が、琉球の税の収納に関係するとともに、明治初期の川崎正蔵や岩崎弥太郎の大阪、神戸、鹿児島や名瀬・琉球航路の開設や郵便船の成立、軍部による奄美諸島海路図が、琉球の税の収納に関係するとともに、明治初期の川崎正蔵や岩崎弥太郎の大阪、神戸、鹿児島や名瀬・琉球航路の開設や郵便船の成立、軍部による奄美諸島海路図が、琉球の税の収納に関係する
とと
?
?に、明治初期の川崎正蔵や岩崎弥太郎の大阪、神戸、鹿児島や名瀬・琉球航路の開設や郵便船の成立、軍部による奄美諸島海路図が、琉球の税の収納に関係するとともに、明治初期の川崎正蔵や岩崎弥太郎の大阪、神戸、鹿児島や名瀬・琉球航路の開設や郵便船の成立、軍部による奄美諸島海路図が、琉球の税の収納に関係するとともに、明治
つまり、トカラ、琉球、異国船など人や物の移動・流通など海域関係史研究の側面は、東アジアとの一過性の出来事ではなく、構造的にとらえる必要があることを示している。ここでは一応上記に述べた事例を便宜上「海域研究」として包括した。
つまり、幕府・藩・琉球からの流人、域内交易、文化・産物の流入・伝播、砂糖黍、芭蕉布、紬、漁業などの技術の受容と伝播、藩・内部・島嶼間の異同などである。二項対立ではなく、立体的な歴史の検討が必要である。この方法論によって、奄美諸島史の歴史像を把握することが可能となるのではないかと考える。
奄美諸島民とトカラ、琉球を含めた奄美諸島の内部分析や島々の特徴の端緒については、島尾敏雄が、「日本復帰」直後、名瀬へ居住直後の1957(昭和32)年に、正確に述べている(「三
町の人々と背後の歴史」等・『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』未来社1960)。
島尾敏雄のヤポネシア・琉球弧論、内部の検討の視点は、西嶋定生「六.八世紀の東アジア」(岩波講座 日本歴史2
古代(2)1962年版)など日本歴史学会や奄美諸島史にたずさわる歴史研究者に先行する提唱である。
以上の事が、奄美諸島史の研究史と典拠史料を求めながらの研究過程のなかで理解
するようになった。以下、それらの立場の拙論について若干紹介する。とともに、最近痛切に考える歴史研究者の世代交代であるが、継続的に歴史学に取り組んでおられる職員が必要となっている。
4、【通説批判の拙論】
「『十島村誌』を読むー島嶼と奄美史を理解するためにー」(「南海日日新聞」1995年12月23日.28日)
奄美諸島史の理解で、地域対立、鹿児島対奄美諸島という理解だけでは、トカラ島など県下島嶼社会を歴史学範疇に含む方法論ではないことを書評という形で指摘した。『十島村誌』で、奄美諸島が独立経済と言って鹿児島に差別されたと言うが、その時、「大島はトカラに何もしてくれなかった」という古老の発言、また、2011年3月に鹿児島三島村調査に行った時、私が大島から調査に来たと自己紹介したら、黒島の指導者はのっけから「奄美は金があるのにもっとよこせと言っている。自分たちの島(黒島)を見ろ、道路ひとつアスファルトでもない」と厳しく言われた。
戦前、奄美諸島がトカラの各島へ負の発想を持っていたことは『黒潮の譜 戦時中の十島記』(宮山清私家版
1991年)で理解することが可能である。宮山氏のこのような状況について異議を唱える立場を引き継ぎ、奄美諸島史の矛盾と立体的構造把握について考える必要があることを末尾でコメントしたものである。トカラの島々への新しい意識は、「近くて遠い島トカラ」(重武妙
2006年11月21日「南海日日新聞」)がある。
「奄美の一字名字と郷士格についてーその歴史的背景」(『奄美学 その地平と彼方』2005年)
「一字名字は藩の圧制、差別の一つの象徴」と述べたのは、昇曙夢『西郷隆盛獄中記.奄美大島と大西郷』(1927、昭和2年)であった。4行ほどの文であった。しかし、同じ年に出版し、昇が序文を書いた茂野幽考『奄美大島民族誌』は、一字名字、二字名字に関係なく郷士格となったことへの批判的アプローチの叙述であった。しかし、昇の文を在地や都市での奄美諸島民は、奄美諸島史の前提として受け取った。その時期は昭和恐慌期であり、奄美諸島や都市での島民が差別や苦労をせざるを得ない時期であった。
このような時代背景を受け止めながらも「芝家文書」「和家文書」「大嶌之一条」(東大史料編纂所)、一代郷士格の澄江家墓や位牌(喜界町)、『鹿児島県史料』の史料調査をしながら、藩支配の隠蔽政策と関係していると、これまでの「誤解の史実」を修正したものである。
「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」(『沖縄民俗研究』第24号 2006年)
奄美諸島の政策を考えるにあたって、鹿児島県だけではなく、明治政府の政策を視野に入れる必要があり、また、明治政府と鹿児島県とのやり取りにも目を向ける必要があることを示したものである。『大久保利通日記』、『前田正名関係文書』(国会図書館憲政資料室)、『都城市史
史料編』、『太政類典外編』(国立公文書館)等の史料により検討したものである。
.「近世奄美諸島の砂糖専売制の仕組みと島民の諸相」(『和菓子』18号 2011年虎屋文庫)
専売制の仕組みを概観したものである。黒糖開始年代、黒糖を税とする(換糖上納令)年代の通説修正、藩吏の南島での収入の事例、大島から奄美諸島全域の黒糖生産時期の差の理由、黒糖定式買入制度のモデル図作成、島民抵抗の形態の見方(一揆だけではない抵抗)、島嶼間交易などを概観した。従来知られている鹿児島、奄美諸島の史料のほか、伊東家文書「感傷雑記」、「柿原義則
意見書」、「薩藩例規雑集」、「中山国大嶋漂流人一件」(東大本居宣長文庫、人間文化研究機構国文学研究資料館)等を使用。
.「奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談』の背景.奄美諸島史把握の基礎的作業.」 (『沖縄文化研究38』法政大学沖縄文化研究所 2012年)
系図焼却論は、都成植義『奄美史談』が最初に述べたもので、近世にはそのような史料は存在しない。和家文書と新たな松岡家文書によると、系図の預り証がある。預かったその年に鹿児島の記録書が火事に会い、藩内一円の系図が消滅したため、改めて藩内の系図収集にあたった。そのことと、文化年間に系図記録を提出して戻ってこないという二つの点の「誤解の解釈」から生じたと考えられる。実証的にその誤りを指摘しながらも、なぜそのような解釈がなされたのかという、近代の奄美諸島民の歴史体験も明らかにしたものである。地方文書「芝家文書」「和家文書」らとともに、新たに把握できた『奄美史談』の1891(明治24)年判、60点の系図、『薩藩例規雑集』、大口市の『寺師家文書』『古記』『記録書書付写』など
より
明らかにした。
.「奄美諸島近代初期の県商社による砂糖独占販売の諸問題.主体形成と時代性を反映した歴史叙述と史観.」(『沖縄文化研究』39法政大学沖縄文化研究所編2013年)
「従来の明治5年、藩は島民をだまして大島商社と専売制を結んだ」という誤解の解釈を180度訂正した。史料『諸書付留』によると、明治5年までは奄美諸島全体の黒糖専売取引会社は、「国産会社」(この会社名称は、全国的に多い)であった。専売制を結んだと言われる与人の基らは、逆に自由売買を獲得してきた人物である。明治6年春の自由売買取引になって、その名称が大島商社、徳之島商社、沖永良部商社という名であった。その後すぐ専売制となったのである。
その背景を明らかにした地方史料として新たな池野田本「大島代官記」がある。また、「柿原義則意見書」「尚家文書」「宮崎県公文書」沖永良部の「租税帳調」等を収集し、従来の評価と反対の結論を導き出した。この史料群は、鹿児島県、島役人、百姓の矛盾が明らかにしたものでもある。
.*「徳之島における三平所と手々村神役の継承システム」(『沖縄文化研究41』法政大学沖縄文化研究所 2015年)
徳之島で、「三平所」とは、徳之島独自か琉球首里かという点が明確にされていなかった。この拙論で徳之島独自の機関であることを確定し、かつ三平所と集落ノロの関係を明らかにしたものである。
【共同論文・史料ノート】
「白尾伝右衛門による『幕末(嘉永)の赤木名』絵図」(山下和・弓削政己共同論文、『鹿児島県奄美市史跡赤木名城保存管理計画書』2015年)
次世代交代を意識した共同論文である。また、ハワイ大学マノア校ハミルトン図書館所蔵阪巻・宝玲文庫の白尾に関する文書、流通経済大学図書館判『大島私考』で笠利集落の変遷が明らかにできた。また、共同作業として奄美博物館の山下和氏と取り組み、次世代との連携を試みた。
【共著】
『瀬武誌』(2010年、(瀬戸内町)瀬武誌編纂委員会 共著)
『江戸期の奄美諸島 「琉球」から「薩摩」へ』(知名町教育委員会編 2011年 南方新社 共著)
『喜界町誌』(2000年 共著)
『大和村の近世 大和村誌資料集 3』(2006年 共著)
『大和村誌』(2010年 共著)
編纂委員会メンバーと認識を一致し、町村誌刊行後、史料・資料が図書館等に残ることに留意をした。その結果、編纂委員会の努力で喜界町誌、大和村誌で資料編3冊発行、史料も多く残った。また、新たな目次や内容の市町村誌となった。
【対外的研究者との対話】
『名瀬のまち いま むかし』(南方新社 2012年 共著)
京都にある地球研の研究者が地図の本を出したいと提案してきた。私は、地元研究に携わる人々を、そのチームの正式な構成員、京都での中間報告などにも呼ぶことなどを条件に承諾した。地球研の研究者は非常に苦労をしたが、このご努力により奄美市の岩多雅朗氏の力量が大きくなり、このことにより、地元の地理研究の第一人者として力量をあらわしつつある。多雅朗氏の力量が大きくなり、このことにより、地元の地理研究の第一人者として力量をあらわしつつある。
?、
【今後の考え方】
1、対外研究者との交流の事例と考え方、
奄美教育会館の史料調査を依頼されている北海道立アイヌ民族文化研究センターの小川正人氏が、明治11,12年調査の『喜界島各村地理表』という非常に貴重な史料をいただいた。町健次郎氏を介してである。奄美市の調査に来ているため、自分の所属する研究所で奄美関係史料はないかと探し出して持参してくれた。
この史料を小川氏の意図を組んで、喜界島郷土研究会に、研究会で学習し、活字化できないかという立場で提供した。喜界島郷土研究会では学習会を持ち、2013年会報『いしづみ』(別冊?)として発刊した。
こういう対外研究者の考え方は貴重で、地元での研究力量の向上や奄美諸島内への史料・資料提供ができると言う成果をもたらした。このような関係が今後も基本としていく必要があると考える。一方、史料のみ持ち帰って、成果を報告しない、自己の研究機関の史料も提供しないと言う片務的な対応の研究者もいる。こういう立場への奄美諸島の郷土研究者はどうするか、検討が必要と考えられる。
2、私の今後の二つの方針
【研究視点と立場】
今、奄美諸島の歴史研究において、不健康な論争や、史料も検討しない論争足りえない、過去の思いだけで様々な発言がある。これに対しては、非生産的であると考えるので、関与しない。
奄美諸島史研究のタブーを恐れない。(新たな歴史研究の方法と視点)で前述したが、
豊かな、
また、収奪の歴史も率直に
奄美諸島の大多数の構成員である百姓からの視点を加味しつつ
島役人の二面性の検討をしつつ
さまざまな歴史事象を把握しつつ
立体的な奄美諸島社会構成の研究を、さらに強めなければならないと考えている。そのためにも、現在少しずつ実施している「奄美歴史情報」的なインターネットによる送付を継続したい。
【史料調査の公開性】
自己の所属研究機関史料を公開・紹介しない人を可能なら除外し、奄美諸島居住者を中心に、かつ奄美諸島史研究も自己の研究の構成要素とする対外研究者へ、規定上可能なものから公開している。史料の公開をしている奄美群島出身者の先輩は2名おられる。1名は故小林正秀氏で、徳之島郷土資料館小林文庫として公開している。もう1人は奄美市の教育会館の松田清文庫である。
私自身、その立場を踏襲し、父母のゆかりの地にすでに、寄贈を始めている。大ざっぱであるが5千点を超すと考えられる(他者論文も含めると1万点程度か)。パソコン読込史料とともに、現物はゆかりの地に寄贈しつつあるが、パソコン読込史料は、いくつかの箇所に設置したいと考えている。いくつかの箇所に設置したいと考えている。
そのことにより、次世代への史料の引き継ぎがなされ、私自身の歴史解釈の修正ももたらされ、奄美諸島史研究が発展して行くと考える。そのためにも、後継者つくりが急務とされる。
(了)
補足:調査のために世話になった方々
(現在は関係しないが初期にお世話になった方々を含む、敬称略・順不同、氏名が
欠落している方もあるかもしれない。)
【奄美諸島外の研究者】
1、琉球大学G:津波高志、萩原左人、神谷智昭、豊見山和行、真栄平房昭、
山田浩世、里井洋一、高良倉吉,恩師の金城正篤・西里喜行、
2、沖縄国際大学南島文化研究所G:田名真之、仲地哲夫、来間泰男、吉浜忍、 石原昌家
3、沖縄大学G:深澤秋人、田里修
4、沖縄公文書館G:当山昌直、小野正子、漢那敬子、粟国恭子
5、沖縄県立芸術大学G:久万田晋、麻生伸一
6、名桜大学G:小嶋洋輔
7、沖縄県立博物館G:安里進、崎原恭子
8、沖縄地域史協議会G:金城善、儀間淳一
9、鹿児島大学G:原口泉(当時)、永山修一、皆村武一、下野敏見、上村文、長島俊介、橋本達也、高津孝、丹羽謙治
10、 黎明館G:徳永和喜、内倉照文、林匡、尾口義男、
11、鹿児島国際大学G:三木靖、山下欣一
12、鹿児島純心大学G:小川学夫、小島摩文
13、佐賀大G:堂前亮平、
14、関西大学G:松浦章
15、東京大学G:渡辺美季、石上英一
16、外務省外交史料館G:原口邦弘、
17、筑波大学G:武井基晃
18、東京芸大G:橋村修
19、東京外大G:前田達郎、高嶋朋子
20、駒澤大学G:須山聡
21、川村学園女子大学G:酒井正子
22、法政大学G:屋嘉宗彦、吉成直樹、梅木哲人、得能壽美、三上絢子、小池 康仁
23、神奈川大常民文化研究所G:.江洲昌哉
24、山口県立大・山口大学G:安渓遊地、安渓貴子
25、国立民族学博物館G:飯田卓
26、愛知学院大学G:黒田安雄、
27、個人:今村規子、石井嘉生、河津梨絵、向原祥隆、杉原洋、出村卓三、松山哲則、平良勝保
【島内研究者】
1、親里清孝、吉岡武美、故里山勇廣、山下文武、
2、高梨修、久伸博、中山清美、山岡英世、泉和子、林蘇喜男、岩多雅明、高橋一郎、田畑満大、辻光明、本田富雄、平瀬達郎、森紘道、石神京子、山下和、水間忠秀
3、町健次郎、鼎丈太郎
4、新里亮人、四本延宏、水野毅、米田博久、具志堅亮、幸多勝弘、
5、前利潔、伊地知裕仁、西村富明、先田光演、
6、得本拓、外内淳、折田馨、北島公一、
【マスコミ】
1、東奥日報G:松田修一
2、(現)奄美新聞G:若松等、徳島一蔵、原井一郎
3、南海日日新聞G:故重村晃、松井輝美、中島敏光、久岡学、
【職場】
奄美医療生活協同組合G:永吉清勝、池畑敬夫、
(引用を終わります。)