わが師わが友)地域学から自分学へ 高谷好一さんをしのんで
2016/06/30
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3月18日に訃報が届いたのでしたが、新聞になかなか載らなかったので、追悼を書きかねていました。
【 2016年03月22日 23時48分
】配信の京都新聞です。http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20160322000174
高谷好一氏死去 アジア農業研究者、滞在先のインドで
高谷 好一氏(たかや・よしかず=滋賀県立大・京都大名誉教授、東南アジア地域研究)12日、滞在先のインド北部チャンディーガルのホテルで死去、81歳。滋賀県守山市出身。葬儀・告別式は家族で行った。喪主は妻よね子(よねこ)さん。有志による送る会が近く開かれる。
京大東南アジア研究センターで長くアジア農業の生態学研究に携わった。滋賀県立大に移籍後は守山市の下之郷遺跡の保存整備検討委員長や環境教育などに取り組むNPO法人の役員を務めるなど、地域に根ざした研究と活動に力を入れた。(引用終わり)
高谷好一(たかや・よしかず)さんに初めてお会いしたのは、京大の東南アジア研究センターの所長だった渡部忠世先生の導きだった。
渡部忠世先生と佐々木高明先生に、「西表島の稲作」という拙論文のコメントを『季刊人類学』9巻3号(1978)でいただいたのがきっかけで、農耕の起原を求める旅の仲間に入れていただいたのだった。旅は、与那国島を皮切りに、種子島と対馬のフィールドワークでご一緒し、京都での国際会議にも呼んでいただいた。これら3先生以外に、大林太良、飯嶋茂、佐原真、生田滋、応地利明といった巨人や、松山利夫、田中耕司、高谷紀夫といった気鋭の、さまざまな学問分野のアジア研究の巨星たちの輪の中に入れていただいて一緒にフィールドワークを経験できたのは、アフリカ研究者をめざしていた私にとっては、人生のボーナスのようなものだった。
南種子を歩きながら、地理学の応地利明さんと、もともとは地質学の高谷好一さんがいろいろと蘊蓄を傾けながら、意見をたたかわせる様子は、実に面白かった。博覧強記の応地さんと、するどい直感の高谷さんの対話は、まるで南方熊楠と折口信夫が一緒に歩いているようだった。道ばたで小用を足そうとした高谷さんが、「あ、いかん! ここはガロー山や。」といって、そそくさと立ち去ったのが印象に残る。神の宿る森だという看板は掲げてないのだが、彼にはまざまざと判ったのだ。
夜、寝床で一杯飲んでいると、「君、もったいないよ」とたしなめられた。「はい、お酒が」とはぐらかしたが、高谷さんの東南アジアの旅の話を聞いて、自分がいかに贅肉のついた旅をしているかを思い知らされたものだった。
高谷「だいたい歩くときは、上着というかシャツ一枚だけ身につけていて、夕方水浴びするときに、タオル代わりにそれで体をこすったら、シャワーと洗濯が同時に済むんですわ。それを濡れたまま着たらそのうち乾く。ものを持ってないと、盗られようもないし。」
ほとんど種田山頭火の世界である。
その後の高谷さんは、しだいに精神世界の探求に傾いておられたらしく、私に、研究室に並んだ農業関係や自然科学系の蔵書を示して、「これはそろそろ総入れ替えしようかと思うてるんですわ。」と言われたことがある。
ふるさとの滋賀で県立大学に移られてからは、「地域学から自分学へ」ということを追求された。私も、山口に根を張るにあたって、もっとも大きな励ましと刺激を高谷さんのチャレンジから受けたと思っている。
つつしんでご冥福をお祈りします。
文献
高谷好一『地域研究から自分学へ』2006 京都大学学術出版会
高谷好一『湖国小宇宙―日本は滋賀から始まった』 (淡海文庫) 2008 サンライズ出版
写真は、以下から借用いたしました。 http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no13.html