与那国町史)歴史編 に 「農民の歩み」 という報告を書きました。 #dunan_#与那国 RT_@tiniasobu
2013/09/30
2022年3月16日 修正)
1) 論文に引用するために読みたいというリクエストをいただきましたので、私の執筆部分のpdfファイルを添付します。
2)『琉球新報』2013年11月24日 掲載の 書評記事を追加します。カバーの写真もそこからいただきました。
『与那国島 町史 第3巻歴史編』 複眼的に島の諸相描く
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-215721.html
日本最西端の地から『与那国町史 第3巻 歴史編』が刊行された。構成は序章「自然環境と島の現在」、第1章「古琉球時代の与那国」、第2章「近世の与那国」、第3章「異風の眼」、第4章「戦前・戦後の与那国」、第5章「分野ごとにみた与那国」からなり、先史から現代までを総覧する。
第1章に宮古島、西表島から与那国島を照射した論考があり、第3章は近現代に島外から訪れた研究者・笹森儀助、鳥居龍蔵、本山桂川、須藤利一各氏の見た与那国島が紹介されている。このように複眼的に島の諸相を描いたのも本書の特色だろう。
本書は創世神話である太陽所(ティダンドゥクル)の由来から始まる。編者の米城惠氏は、現行祭祀(さいし)の場から、船形の盃や供物をこの神話の象徴としてとらえている。このように神話が現在も生きて機能することは、島人が口碑に共感しつつ、それを暮らしの中で歴史的な経験として伝えていることを表している。この冒頭の提起が、複雑な歴史の脈絡を融合させ、本書の構想を支えている。
例えば「船形の盃」は、祭祀の由来のみならず、15世紀の済州島民の漂流や、古琉球のネットワーク、近世史料に見る漂流・漂着の問題、久部良漁民の活躍、戦後の密貿易による景気時代など物語る心憎い装置に思われるのである。
そこから、与那国島が辺境の地でなく、往古から交易の要所であったことが読みとれる。実際に口碑・伝承や広域的な交流を裏付ける考古資料も数多く示され興味深い。しかし、戦時下ではその要所があだとなり、米軍の攻撃対象となったのである。
その他、戦前戦後の島の暮らしや産業が、隣接する台湾からの強い影響を受けたことを浮かび上がらせた成果も大きい。また、景気時代の証言も貴重だ。
副題に「黒潮の衝撃波 西の国境 どぅなんの足跡」とある。その通り刺激的な内容だが、あらためて国境の意味を問われているようでもある。本書は歴史の潮流を見極め、未来を見据えるための羅針盤としての役割を果たすことだろう。 (飯田泰彦・竹富町教育委員会町史編集係)
以下は、リンク切れの、八重山毎日新聞の記事です。
http://www.y-mainichi.co.jp/news/20202/
【与那国】町史編纂(さん)委員会(東迎高健委員長)は町史第3巻「与那国島・歴史編」の編集作業を進めており、年度内に発刊できる見通しだ。
歴史編は5章構成。神話や伝説に見えるいわゆる島のあけぼのにスポットを当て、その古代史像をめぐって古琉球の与那国島史をひもとく。また、15世紀ごろの与那国島の集落の構造に、時代に生きた人々の暮らしをなぞる。明治~昭和期、戦前・戦後を体験した人たちの証言も取り込む。 (田頭政英 与那国通信員)
「与那国農民のあゆみ――物的証拠と島びとの記憶力」として書かせてもらった記事の末尾のところをはりつけておきますね。歴史編よりも民俗編っぽい終わり方になっていますが、島の未来へのメッセージとして書きました。
(引用開始)
沖縄のほかの島と比べてみても与那国が一番いい。友達の家に行けば、二~三日はただで食べさせてもらえるような島がほかにあるだろうか。《ドゥイ》で集まってくれる人達はどんなに長い時間働いてもらっても文句が出ない。それにひきかえ、金儲けのために農作業する最近の人達は扱いに困る。人件費はどんどん高くなる一方なのに、一人前の仕事もできない人間が、男だからというだけで男の一人分の賃金を要求してくる。せめて人件費が今の三分の二くらいなら、サトウキビの値段を上げなくてもやっていけるのだが……。
島に製糖工場ができた一九六二年を境に、島の農業の風景もずいぶん変わった。サトウキビの収穫の季節には台湾からの労働者も受け入れ、復帰後は日本各地から「援農」の若者たちを受け入れるようにもなった。サトウキビは方言では《アマダ》といって、工場ができる前は、家ごとに絞って焚いて黒糖にしていた。まだ固まっていない状態の《サタユ》を少しなめることは、子どもや体の弱い者にとっては最高の滋養とされていた。工場ができてからは、サトウキビ畑もどんどん大きくなり、《キンピ》と呼ぶ化学肥料を使うようになった。もともとは、どの家でも神前仏前に捧げるために、庭に《アマダ》を大切に育てていたものだったが、道が拡張されるにつれて、集落の風景の中からは消えていってしまった。
《アマダ》のことは、(一四七七年のことと想定される)《フガヌトゥ》の伝承の中には出てこない。それでも《アマダ》は祖先供養の供え物には欠かせないもので、長いまま供えるのを《グサンアマダ》「杖のサトウキビ」とか《スンティアマダ》(お土産をくくって)「引っ張るサトウキビ」と呼んでいた。お盆には、仏前にサトウキビを短く切って束ねたもの《マルてィアマダ》を立てて、そこに山の木の実を枝ごと挿して供える。この意味は、昔は野生のものが大切な食べ物だったことを示すとともに、《アマダ》の切り口が丸く連なっているのを、豊かな田んぼや畑に見立てて、それを仏前に供えるという意味もある。こうして、祖先の残してくださった田畑を、今も私たちは大切にして耕していますよ、
と報告するのである。
四、与那国農民の精神世界――《ニラガナチ》と《ティンガナチ》
一九八一年に、《ウシクミ》で水田を牛に踏ませて、漏水を防ぐ技術についての聞き取りをしていた私は、歩けば足がめり込むのではなく、つるっとすべるぐらいにすき床層がみごとに固められた状態を理想とすると教えられた。それを《ニラ トゥリル ターンミ》つまり、「《ニラ》ができる田踏み」と称していたという。沖縄の島々では、ニライ・カナイといえば、海のはるか彼方にあると想念される楽園をさすものと思いこんでいた研究チーム一同は、あきらかにニライ・カナイに連なる言葉である《ニラ》が、与那国島では、足下わずか五寸(一五センチ程度)の、素足で踏める場所にも実在し、触れることができる「根の国」であることを初めて知ったのであった。
稲作や畑作が無事収穫にこぎつけるまでは、人間の努力だけではとうてい足りない様々な加護がなければならない。与那国島の農民が、まず祈りを捧げてきた対象は、地底世界《ニラ》であり、《ニラガナチ》と尊称することも多い。慈雨をいただくのは、むろん天《ティン》からの恵みであるが、こと水田に関しては《ニラガナチ》の方が《ティンガナチ》よりも重視されてきた形跡がある。
戦後生まれの話者が物心ついた一九五〇年代の終わりから六〇年代にかけては、田ごしらえに牧場の牛を連れてきて踏ませる「踏耕」はもはやなくなっていた。その代わりに水牛で鋤や、均平にする道具を引かせる方法が行われた。彼女は、幼いころから知り合いの農家に頼まれて水牛の背中に乗り、水牛の耳もとに語りかけたり、歌ったりして水牛を気持ちよく働かせるという役目を果たしていたという。そんな彼女が、見た田ごしらえ終了の儀式に、煎った米を空に向かって投げ上げ、たとえ天《ティン》に穴があくとも、《ニラ》に穴があいて水漏れすることがないように、と祈るものがあった。煎った米を播くのは、西表島などの例とも共通で、これが発芽するまで、つまり永遠に、という意味を込めているのであろう。
先に紹介した、お盆や焼香の折に、短く切って束にしたサトウキビ《マルてィアマダ》を捧げることには、祖先への報告以上の、もう一つの大切な意味がある。仏壇にできた小さな田畑の下にも《ニラガナチ》が鎮座しておられるので、《ニラガナチ》に起きていただいて、仏前にお迎えするのである。サトウキビを見たら、こんな古くからの考え方も思い出してもらいたいものだ。
そのほかに、「地の耳」という意味であるという《ディミミ》という名前をもつミミズ類によって、畑の地下の様子をうかがい知る方法や、《チンチラてィ》というジャコウネズミの赤ちゃんを育てて、アイヌ民族のイヨマンテ(ヒグマやシマフクロウをカムイのもとに送る)のように《ニラガナチ》に送りかえして、地底世界へのとりなしを頼む祈りの儀式《ウーストゥイ》は、一名《チンチラてィ ウヤマイ》といい、この興味深い習慣は、一九六〇年代までは続けられていた(安渓貴子・安渓遊地、二〇一一)。
これは、人間と《ニラ》の関係がきちんとしていることをなにより大切に思い、《ニラ》と人間界を結ぶ役割をはたす地中の小動物たちにも細心の注意をはらってきた、与那国島の農民の精神世界をあらわすものであった。《ニラガナチ》がしっかりしておられないと、農業をはじめとする人間生活のすべての基盤がおかしくなるのである。自分だけが良ければいい、今さえ良ければいいというのではなく、大自然のすべての恵みに対する深い感謝の心から、目をみはり耳をすまして、頭を垂れ、敬虔な祈りの言葉をとなえる《ウーストゥイ》に埋め尽くされた日常こそが、与那国島の農ある暮らしの原風景だったのである。
この部分の引用文献
安渓貴子・安渓遊地、二〇一一「与那国島のものの見方・考え方」『奄美沖縄環境史資料集成』南方新社