スペイン・ナバラ自治州で出会った持続可能な暮らしへの挑戦者たち(報告)
2006/01/18
山口県立大学大学院論集 第7号(2006) の原稿です。
地図や写真、スペイン語のアクセントもついていませんが、あまらしの
報告としてとりあえず掲載します。約90枚の長文ですから、お暇の時に
お目通し下さい。
スペイン北部の山村の風土を生かして
――ナバラ自治州で出会った持続可能な暮らしへの挑戦者たち
安渓遊地*・安渓貴子**
*山口県立大学大学院国際文化学研究科教授 **山口県立大学非常勤講師
キーワード:ナバラ自治州、過疎、農家民宿、グリーンツーリズム、再生可能
エネルギー
われわれナバラ人は、誰もがあの聖フランシスコ・サビエルの心を自らの心と
して生きているのです。
――ナバラの農家民宿の開拓者Javier Brieva Yoldi氏のことば
1.ナバラ州立大学との学生交換の開拓
出発の前日に辞令が届いた。
「人事異動通知書
安渓遊地・県立公立学校教員・山口県立大学教授
ナバラ州立大学との学術交流のため、平成17年4月19日から平成17年9月20日ま
で155日間スペインへ出張を命ずる。
平成17年4月18日 山口県知事 二井関成」
ちょうど500年前に、ナバラ東部のハビエル村にあるサビエル城でフランシス
コ・サビエルは生まれた。長じてパリのソルボンヌの大学生となったサビエルは、
1534年8月15日、同級生でやはりナバラ出身のイグナチオ・ロヨラらとともにイ
エズス会を結成した。モンマルトルの丘のふもとに、その舞台となった地下祈祷
所が復元されている*1。
サビエルは1549年から1551年まで日本に滞在した。鹿児島からいったん京都に
上ったが、戦乱で荒れはてた京都での布教をあきらめて、大内氏のもとで西の京
といわれる繁栄を見せていたやまぐちに滞在し、布教をした。
この故事によってスペイン・ナバラとやまぐちの友好関係が結ばれる。26年前
に首都パンプローナ市と山口市との姉妹提携が締結され、パンプローナには5ヘ
クタールもの面積をもつパルケ・ヤマグチ(山口公園)が創られ、市民の憩いの
場となっている。ここに立派な日本庭園を造ったご縁で、山口には「ナバラの会」
が結成されて、活発な交流の中心となってきたのであった。
この点と点の交流を面に広げるために、2002年、山口県議員団がナバラ州を訪
問。それを受けて2003年11月山口県知事がナバラを訪問して新たにナバラ州と山
口県の姉妹提携が調印された。岩田啓靖学長・陶山具史事務局長(いずれも当時)
ほかの大学執行部が知事に同行して、ナバラ州立大学と山口県立大学の公立大学
同士の学術交流協定も姉妹提携の目玉として調印された。2004年11月には、ナバ
ラ州立大のホセ・ルイス・イリアルテ・アンヘル副学長を代表とする教員3名、
学生5名の訪問団を山口県立大学に迎えて、学術フォーラムを始めとする活発な
交流が実施された。また、相互に留学生を送るための学生交換協定が調印された。
このような経過で、スペインの新学期にあたる2005年9月から学生を山口県立
大からナバラ州立大に派遣し、またナバラからの学生を受け入れるための現地の
状況の把握と下準備が必要となったのであった。学内公募の結果、安渓遊地が適
任とされた。前年11月の訪問団受け入れの際の交流および学生交換協定の締結の
山口県立大学側の責任者としての実績が評価されたものであろう。なお、2004年
4月から、県立大学の初級スペイン語のクラスに他の学生とともに参加して、フ
ランシスコ・サビエルの兄から数えて15代目の子孫である、ルイス・フォンテス
(日本名、泉類治)神父による猛スピードの授業に振り落とされないように努力
したことも付け加えておきたい。授業には安渓遊地は皆勤、安渓貴子は委員を勤
めている県の会議の都合で半分ほど参加した。
留学生交換の方は、2005年9月には山口県立大から3名(1年間)州立大から1
名(半年)の留学が開始されている。
また、2005年11月には県立大から猪又徹学長代理、田村洋教授、水谷由美子教
授と学生3名をパンプローナに送ってサビエルフォーラムやファッションショウ
が実施され、成功をおさめた。
この報告では、5か月のナバラ滞在中の印象的な出会いから、とくにわれわれ
が学ぶことを希望していた「生活と地域の持続可能性」の追求の現場での語りを
紹介したい。ナバラの人々の勇気ある挑戦は、かならずや山口県を始めとして人
口と担い手の減少に苦しむわが国の中山間地の現場に生きる人々にとっても、様
々なヒントと大きな励ましを与えるものとなるに違いないと考えるからである。
そのため、この報告は、学問的な正確さのレベルをいささかも下げることなく、
私どもの長期にわたるナバラ滞在を可能にしてくださった県民のみなさまにも気
軽に読んでいただけることをひとつの目標として執筆したものである。
2.学術交流の研究テーマ
われわれの専攻は、地域研究である。安渓遊地は人類学の立場から、安渓貴子
は植物学・生態学の立場から、西表島とコンゴ民主共和国の森での共同研究を開
始して32年になる。その他に、屋久島での滞在や、フランスでの1年半の生活、
ケニア・タンザニア・ウガンダ・ガボンといったアフリカの国々での調査、最近
では山口県内での聞き書きなど、対象は様々である。
地域研究にあたって大切なことは、ごく簡単に言えば、学問への誠実さと地域
への愛のバランスであると思っている。学問への誠実さとは、例え世間の常識と
は違っていても、誰がなんと言っても曲げられない、曲げてはならないものがあ
ると気づいたならば、その事を恐れることなく発信することである。
「地域への愛」は、「地域の生活者への誠実さ」と言い換えてもよい。地域の
人々の生活とそこから生まれる正直な願い。互いにどうしても譲れないことがあ
ることを理解した上で、できる限りの共感をこめて接すること。具体的には、プ
ライバシーなどの人権についての配慮から、学問としての正確さが制限されるこ
とがあってもやむを得ないという基本姿勢がその中核となるであろう。
そして、地域での出会いが私たちの人生にも大きな影響を及ぼす。1978年、安
渓遊地がコンゴの森の村長の養子になったことがひとつの典型であるが、フィー
ルドワークの結果互いに相手の人生の物語の一部になるかも知れないという重い
選択を迫られることがある。結局、自分への誠実さが、学問と地域への二つの矛
盾しかねない誠実さを統合するものとなるしかないのではないか、と考えている。
スペインについては、バスク自治州とナバラ自治州でのごく短期の滞在を1988
年夏と、2002年秋に2度経験しただけであった。習い覚えたフランス語が、国境
を越えたとたんにまったく通じなかった経験が、今回のスペイン語学習熱の原動
力となった。
2004年11月、ナバラ州立大学のイリアルテ・アンヘル副学長ほかの一行を、山
口市仁保のわれらが山荘に迎えた時、2005年4月からのナバラ州立大学訪問の希
望を伝えて歓迎された。イリアルテ氏の協力による共同研究のテーマとしては、
「持続可能性」がキーワードとして提示された。相談の結果、了承された研究テ
ーマは「適正技術とグリーンツーリズム:スペインと日本の農山村地域の共通の
未来のために」となった。
ナバラ州立大学は、人口一人当たりの緑地帯面積がヨーロッパで一番広いこと
を自慢とするパンプローナ市内のはずれにある。緑のキャンパスの中に建物が計
画的に配置され、その中央にそびえるのが、大学のシンボルの図書館である。ア
パートの物件が少なかった等のパンプローナ生活事情については、私たちのウェ
ブページにゆずる。
さて、4月といえば学年の後半に到着したわけであるが、イリアルテ副学長の
指示で、広壮な図書館の中に、鍵のかかるとなりあった小部屋を2つ確保された。
インターネット接続の便宜も図っていただいて、勉強の環境は整った。
スペイン語が話せなければ、地域にでかけての研究はおぼつかないので、まず
は大学内の語学センター通いを始めた。大学とは財政的には別の組織だというの
だが、特別に無料で受講させていただけることになった。フランシスコ・シェラ
所長の指導で、安渓遊地は、週2回の中級スペイン語のクラスに途中から参加し
たが、2月から学んでいるポルトガル娘たちとのあまりにも大きな能力の差に泣
かされながら、それでもめげずについていくことを試みた。安渓貴子が受講でき
る初級クラスが開講されたのは、5月に入ってからだった。モルドバ共和国の若
い先生たち2人とパレスチナの大学の再生可能エネルギー研究所の所長との5名ク
ラスで、毎日2時間週5日という短期集中コースだった。遊地は、これに加えて初
級バスク語を週1回マンツーマンで受けることにしたので、週15時間以上の授業
をとることが条件の学生ビザをとることも可能なほどの語学漬けの毎日だった。
3.多様性の自治州ナバラ
フランシスコ・サビエルは、エチェベリア家という貴族の家に生まれた。サビ
エル城(現在のスペイン語ではハビエル城)は、アラゴン王国との境界にあって、
ナバラを防衛するためのものだった。「エチェ」はバスク語で家の意味、「ベリ
ア」は、新しいという意味なので、「新しい館」というような意味だった。バス
ク語が話されるバスク語圏と、スペイン語しか通じない他の地域の境界線は、現
在はパンプローナの北を通っている。しかし、これはバスク文化と言語への弾圧
と抵抗の結果を示すものであって、サビエルの時代には、少なくとも現在のサビ
エル城のあたりまではバスク語圏に含まれていたのである*2。
不幸なことにバスク文化やバスク語に対して日本人がいだく知的な意味での純
粋な興味は、バスク独立運動などの政治的な問題とリンクしてとらえられること
がある。そういうわけで、こういう話題は多くのナバラ人には好まれない。スペ
イン内戦の中で、北側のバスク州は人民戦線側につき、南のナバラ州はフランコ
側についた。バスク人たちの抵抗意欲をそぐために、爆撃による無差別の虐殺が
行なわれ、その犠牲になったのが、ピカソの絵で有名なあのゲルニカの町だ。フ
ランコは、ナバラ州に住むバスク系の人々にバスク州の村々を攻撃させるような
ことまでしてバスク内部の分断をはかった。
フランコの死去の直後、1975年11月にフアン・カルロス国王を元首に迎えて
1978年12月には新憲法が成立し、スペイン王国は17の自治州の連合体として再出
発する。独自の言語への権利をはじめとして最大の自治権を獲得したカタルーニ
ャ(州都はバルセロナ)とバスク(州都はビルバオ)につぐ大きな自治権をナバ
ラ自治州は得た。長いナバラ王国の歴史を背景に、独自の自治法をもち、独自の
警察組織ももっている。*3
現在は、新憲法のもと、建前としてはナバラ州はスペイン語とバスク語のバイ
リンガルな自治州と規定されている。そのため、公立の施設や交通機関ではすべ
ての広報は二つの言語でなされることになっている。公立大学でもその建前は大
切にされているが、実際には、バスク語によっておこなわれる授業は少ない。
訪問前には「バスク祖国と自由」という完全独立をめざす組織のテロのことを
やや危惧していたが、一時の客として滞在する限りにおいて、夜に出歩いても身
の危険を感じるようなことはまったくなく、パンプローナをふくめてナバラ州の
どこに行っても、「ヤマグチからの珍客」として受け入れられ、平和の中に安心
して過ごすことができた。
さて、政治的な状況についてはこれ以上深入りしないことにして、自然環境を
見ておこう。ナバラ州は、多様性の自治州と言われ、地形的には山がちの北部と
平坦な南部に分かれる。東北部は、フランスとの国境をなすピレネー山脈がある
が、海にも近いためせいぜい2000メートルの標高に過ぎない。年間降水量は、北
端では2400ミリに達するのに対して、南端は200ミリから400ミリとなっている。
この結果、北に行くほどブナやナラの森林が多く分布し、南の端にはバルデナス
砂漠がある。このような標高の違いと降水量の違いによって、半乾燥の地域が多
いスペインにあって、非常に多彩な景観が広がっているのが、ナバラの魅力であ
る。フォスと呼ばれる峡谷は、容易に人間が近づけなかったことからハゲワシな
どの希少生物の楽園として保護されている。
そして、その中に、古いものではローマ時代にさかのぼる文物や建造物が今も
人の住む町の一部として生きて受け継がれているのである。サビエル城から遠く
ない、オリテの古城やレイレの僧院など、観光名所になっているところは多い。
『ローランの歌』(岩波文庫)にその武勲が歌われた、シャルルマーニュ大帝の
軍をバスク人がさんざん苦しめて追い払った場所Roncesvallesロンセスバレスは、
スペイン西北部への全ヨーロッパからの巡礼路の要所にあたり、今も多くの巡礼
者と観光客が訪れる。ナバラ州にかぎらず、スペインには世界遺産に指定されて
いる名所が30か所以上もあるのである。
言い忘れたが、ナバラの面積は、山口県の約1.5倍。しかし人口は50万人で山
口の3分の1程度である。単純に考えても人口密度は4.5分の1なのだが、パンプロ
ーナ市には新山口市とほぼ同じ19万人が住み、住宅が連続して建っている周辺の
4自治体を併せれば、パンプローナ圏だけで30万人、すなわち全人口の6割が集中
している。他には、7000人から2万7000人といった町が4つあって合計で36万人が
都市人口、残りの約14万人が村に暮らしているのだ。したがって、過疎は大きな
問題で、人口の都市への流出による後継者不足や、日本よりもいちじるしい少子
高齢化の傾向など、共通する深刻な悩みがある。その悩みを解決するために、ナ
バラの人々がどのような経験を積んできたのか、さまざまな人々との出会いを通
して、それを学びたいと思う。
4.ナバラにおけるグリーンツーリズムの歴史
A.文化観光省でのインタビュー
2005年6月になって、少しだけスペイン語の会話がかわせるようになってきた
頃、バスク語を教わっているフアン・マリ先生が、ナバラ州の文化観光省への訪
問をアレンジしてくださった。あらかじめ質問票をスペイン語で作ってインタビ
ューに臨んだ。
観光局には、助成課と鑑査課と調整課(企画課に相当)がある。調整課長と部
下の女性が対応してくれた。以下はそのインタビューの内容である。
――ナバラでの「田舎ツーリズム」(トゥーリスモ・ルーラル)の始まりと現
状についてお教え下さい。
1980年代の終わり頃です。スペインでは、アストゥリアス州、バスク州、そし
てナバラ州が先進地帯とされています。1989年にはナバラでたった5軒だったカ
サ・ルーラルが、2004年には552軒にまで増えています。これは、文字通りには
「田舎の家」という意味ですが、農家民宿、農家ホテル、貸し別荘、など多様な
ありかたを総称する呼び方で、多くは持ち主が住んでいない貸し別荘型のもので
す。ですから、実際には、チーズづくりや、果実酒のパチャランづくりなど、農
家での生活を味わえるものは多くありません。
――官民のバランスと補助金のしくみについてお聞かせ下さい。
官主導ではじめたものですから、当初は4割もの補助率で、雨後の竹の子のよ
うにどんどんカサ・ルーラルができました。たしかに、ホテルを作るよりはうん
とリスクが少ないんです。客が来なければ自分で住んでもいいし、いよいよだめ
ならアパートのように売ることもできますから。現在は、量的にはもう目標を達
成したと考えていますので、質を高めるということに力を注いでいます。補助金
もだんだん減額してきて、今では、新築には原則として補助を出しません。古い
民家の保全の場合には出します。それから、車椅子対応にするとか、再生可能エ
ネルギーを取り入れるとか、質を高めるような取り組みには助成する、という状
態です。一軒への助成の上限は現在のところ、2万4000ユーロ(日本円にして330
万円程度)となっています。少ないという苦情が寄せられるんですけれどもね。
――現在の課題は?
質を高めることですね。ナバラ州政府として、他の模範になる質のサービスを
提供していると認定したホテルやカサ・ルーラルやレストランには、その印の
「Q」(Qualidad、つまり品質の略)マークを発給して、カラーのパンフレット
も作り、毎年審査をきちんとして、その高い質を保つようにお願いしています。
そうでないものについても、全部を網羅したカラーの冊子を作って、観光客が訪
れるところで無料配布し、旅行業者用により詳しい冊子も作って配っています。
その他、各地域の見どころ紹介のリーフレットや地図、さらに「田舎ツーリズム
を楽しむために」という「べからず帳」のようなものも、楽しい絵入りのカラー
版で発行して、カサ・ルーラルに配って利用してもらっています。
――実際に訪ねるとしたら、どこがいいでしょうか。
ナバラのカサ・ルーラルは、数としては北部に多く分布しています。内容的に
は正直にいいますと、玉石混交です。地域振興よりも自分の金儲けが目的で始め
たというタイプの宿には行かれない方がいいと思いますが、私どもからどこがい
いとか悪いとかは申し上げかねますので、農村振興の立場から田舎ツーリズムに
取り組んで長い経験を持っているハビエル・ブリエバさんをご紹介しましょう。
いただいた州政府発行の無料の資料等は、書店が有料で販売しているものより
も立派なものもあり、日本なら民業圧迫ととられかねないものが多くあった。お
そらくは農村人口が極端に少ないため、州政府ががんばらざるを得ないという実
情があるのではないか、と想像した。お土産として、「ナバラ王国・多様性の大
地へようこそ」という文字と電話、インターネットのウェブページが入った、メ
モ用紙、ボールペン、針なしステープラー、自動車の霜削り、料理用のミトンと
エプロンをいただいた。案内のフアン・マリ先生も子どものための帽子を2つも
らったのであった。観光立国スペインでは普通の観光への官としての取り組みの
例なのかもしれないが、気の利いた記念品の多彩さに驚かされたのであった。
B.農業改良普及員ハビエル・ブリエバさんの言葉
文化観光省を辞したあと、さっそく電話をして、ハビエル・ブリエバ・ヨルデ
ィさんに会っていただくことにした。彼は、農業技術・経営研究所(ITGA)とい
うナバラ州立の農業指導部局で、日本で言えば農業改良普及所のようなところの
普及員であった。もとは農学校だったという、カラフルな飾りのある非常に美し
い外見の古い建物を一歩入ると、中はすっかり近代的な鉄骨組みのオフィスに改
装されているのに驚いた。ハビエル・ブリエバさんは、50歳過ぎぐらいの温厚な
方で、ア・ラス・ドーセ(12時)とア・ラス・ドス(2時)を聞き間違えて、一度
約束をすっぽかしてしまったのだが、にこやかに迎えてくださって、観光振興を
とおした農村の活性化という課題について話して下さった。初対面の時は、より
意志疎通が楽なフランス語で話した。
――ハビエルというお名前は、あのフランシスコ・サビエルと関係があります
か。
ハビエルは、スペイン語読みです。バスク語ではシャビエルと発音するようで
すが、同じ名前です。ナバラではとても普通の名前なんです。われわれナバラ人
は、誰もがあの聖フランシスコ・ハビエルの心を自らの心として生きているので
す。
――田舎ツーリズムとのかかわりを教えてください。
僕は、20年ほど前から、農家の収入を増やすためのひとつの方法として、観光
と組み合わせた農家経営を、という取り組みの普及と支援を始めました。ここは
峠を越えればすぐフランスですから、そこではもう70年もの歴史があって、実に
さまざまな活動が観光と結びついて行われています。バカンス中に子どもたちを
預かるような農場もたくさんあります。フランスでの先進事例を勉強して回るた
めにフランス語も話せるようになったんです。フランスに比べると、たしかにナ
バラでは農業体験的な楽しみをしてもらうというプログラムについてはまだまだ
という面が否定できません。僕の仕事は、農業経営の技術指導が主ですが、ずっ
と農業と観光を結びつけるというテーマを中心に進めてきました。
――やまぐちでは、2005年の7月に、僕たちの友人がようやく第1号のカサ・
ルーラル(農家民宿)をオープンしたところで、ナバラよりさらに20年ぐらい遅
れています。よい例があったら、ぜひいくつか紹介していただきたいのですが。
わかりました。そのうち、手透きの時をみはからっていい農家民宿をいくつか
ご案内しましょう。ナバラは結構広いから、2日ぐらい見てもらったらいいと思
います。なんならフランス側に足を伸ばしてみてもいかもしれません。
5.ブナの森のウルスカ村に草分けの農家民宿を訪ねる
ある晴れた日、ハビエル・ブリエバさんの運転で農業改良普及所の車でパンプ
ローナから北に向かった。高速道路ではないが広い道だ。窓の外はマツ林か麦畑
のなだらかな丘が続く。所々に集落があって、窓にゼラニウムの赤い花を置いた
かわいらしいホテルが見えたりする。マツ林がやがてナラ林に変わった。ヒツジ
やウシがまれに草を食んでいる。牧場も見える。次第に木が大きくなり、森が深
くなってくるとハビエル・ブリエバさんは、「これはアヤの木(ブナ)、この辺
はロブレ(落葉のナラ・常緑のカシの類)が多い」とスペイン語で木の種類を教
えてくれる。「僕は、町を離れてこのナバラの山あいの緑がいっぱいのあたりに
くるとほっとするんだ。全然ちがう世界だろう?」パンプローナの町のはずれと
はいえ、緑のほとんど見えないアパート暮らしをしている私たちは、ハビエル・
ブリエバさんの意見に深く共感する。
大西洋岸のHondarribiaオンダリビアへ通ずる幹線道路121-Aと分かれ右折し
121-B号線をElitzondoエリツォンドの町まで走る。エリツォンドは、白壁と赤い
屋根の家々が立ち並ぶ実に美しい田舎町で、ゆっくり歩いてみたい所だ。ブリエ
バさんは教会の横に車を止めて、なじみらしいバル(喫茶店)で休憩をとった。
遊地は、ここで習ったばかりのバスク語を使ってみた。「カフェスネア・エタ・
テ・エスネアレキン(ミルクコーヒーとミルクティー)」をください。スペイン
語だとどちらもカフェ・コン・レッチェ、テ・コン・レッチェなのに、バスク語
では、ミルクを入れて持ってくる場合と別に添える場合では表現が違うのだ。バ
スク語を少しはわかるブリエバさんはにこにこして見ている。店員さんは「私は
バスク語がわからないんです」とスペイン語で答えた。「え、ここはバスク語圏
じゃないの?」バスク語圏といっても、誰もが話すわけではないのだった。
「ここから10キロ森に入ったところに、素敵な女性がやっている農家民宿があ
る。そこを紹介してあげよう」といって連れて行ってくださったのが、ピレネー
山脈の西の端、ナバラ州の北東の端にあるウルスカ民宿だった。
エリツォンドの町からは細い田舎道になった。Beartsunベアルツン村への道だ。
上り坂の山道を谷沿いに走る。農場と果樹園、牧場、一面ワラビの生えた草原が
見える。農場の横には所々ワラビを山のように積み上げたものが見える。日本な
ら藁で作った稲叢である。 何に使うのだろうと不思議に思った。どんどん山道
を上がっていくと、石造りの建物があった。「あそこはフランコの独裁時代には、
フランスとの密貿易を取り締まるための警察の詰め所だった場所だよ」という。
フランス国境が近いことが実感される。上る途中からナラ林に混じってブナが見
え始めた。林床にはびっしりとワラビが生えている。私たちにはなじみのない取
り合わせだった。
ベアルツン村に入ると「カサ・ルーラル(農家民宿)」というしゃれた案内板
が見える。州が作ってくれたものだという。谷道を再びたどるとやがて視界が開
けて牧場が広がった。その向こうに農家が1軒、別の丘にも1軒、また1軒。さら
に奥へ砂利道をたどって、最後の丘を登ると、そこが目的地Urruskaウルスカだ
った。家は1軒しかなく、行政的にはベアルツン村の一部だと思われるが、地図
には、ウルスカ山という地名があるから、それからとったものだろう。農家民宿
の名前は、Baserria Urruskaという。バセッリアというのは、バスク語で、田舎
の庄屋クラスの大きな農家を指す言葉だから、「ウルスカ山麓・庄屋屋敷の宿」
とでも訳すのだろうが、以下は簡単に「ウルスカ民宿」としておこう。本当に山
の中という場所だが、休憩時間を除くとパンプローナからわずか1時間半のとこ
ろだった。
緑の牧場の中に、その農家は白い壁、赤い花が飾られた窓、納屋や薪小屋、農
園が見えて絵になっている。山口では里山の手入れをしながら、年に20トン以上
の薪を風呂と暖房に使う暮らしをしている私たちは、ここでもきちんと薪を使っ
ていることに感心しながら入り口に立った。扉の上にひまわりのようなドライフ
ラワーが飾ってある。キク科の花で、エグスキロレとバスク語で呼んでいる。上
にはナバラ名物の赤い大きなトウガラシがすだれのように下げてあった。いかに
も農家に来た、という感じで何だか楽しくなってくる。
中にはいると一瞬薄暗く感じたが、女性が5人ほど机を囲んで話をしていた。
「オラ!こんにちわ、お久しぶり!」ハビエルさんが私たちを女主人に紹介して
くださった。以下は、そこで聞いた話である。
私の名前は、ジョセピ・ミウラ・イリバッレンJoxepi Miura Iribarrenという
のよ。
――ミウラというのは、日本にもよくある名前です!
そうなの?ミウラというのはね、バスク語でヤドリギのことなのよ。ここで民
宿を始めて14年になるわ。もともとは農家なんだけれど、今でも私の夫は農業を
専業にしているの。
ここは、エリツォンドの町から登ってくる谷の最後の家。高度は999mで、山道
を800mも歩けば稜線に出て、そこがフランスとの国境になっています。この屋敷
は、1870年代に建った古い民家で、先祖代々住んできました。自分たちの住んで
いた家の2階部分のうち5部屋を改装して民宿にしたんです。いま、私は年に一度
のナバラ州政府認定のQ印を更新してもらうための審査を受けているので、ちょ
うど手伝いに私の娘が来ているから、中を案内してもらってちょうだい。
娘さんの案内で、1階から見学を始めた。暖炉が昔のまま残してあり、薪が置
いてある。暖炉の上の木には、大きな字でOngi Etorriオンギ・エトッリと刻ん
である。バスク語で歓迎という意味である。その上には、磨き上げた銅の鍋が並
んで美しい。暖炉の傍の焼き芋を焼く鉄の器を見せてくださる。今は使わない古
い道具も飾ってある。窓辺にある棚には読みたくなるような本や観光案内が並ん
でいた。雨の日や雪の日には暖炉にあたってすごすのも楽しそうだ。暖炉に火が
入る時期に来たいものだ。
二階にあがる階段が樫の木の板でできていて足に伝わってくる板の感触が柔ら
かい。傍らに木製のバケツが大小4つ大きさの順に並んでいる。これは、ヒツジ
やウシの乳を絞る時に、乳房の下につっこみ易いように傾斜した側面をもった独
特の形のものと、乳を集めるための傾斜のない大きなバケツだった。こうした手
仕事がつい先日までは盛んだったのだろう。壁には昔の農具がかけてある。二階
は真ん中が廊下になっていて両側に居室がある。暗い廊下に昔風の電灯の明かり
をつけると、この家の先代の結婚式の時の写真など、セピア色の写真や、古い鉋
などの大工道具、多分チーズを量るための小さな天秤、穴が開いた銅の鍋などが
飾ってあり、まるで小さな博物館のようだ。
扉を開けて部屋に入る。白い壁と、天井は太いカシの梁が渡してあり間は白い
漆喰が塗ってある。床はカシの板でどっしりした風格がある。部屋ごとにベッド
や絨毯、カーテン、テーブル掛けの色や模様が統一してある。昔ながらのタンス、
木の椅子、古いランプを利用した電気スタンド、くずかご。華やかな絵が描かれ
た昔の水差しが置いてありドライフラワーが活けてある。ベッドの陰には陶器製
のおまるがぴかぴか光っている。部屋はどれもバス・トイレ付きだから今は使う
必要がないおまるだけれど、ここに泊まる年配の人はなつかしがるだろう。10年
ほど前にフランスの田舎で友人の別荘を借りた時には、おまるは必需品だった。
州政府の補助をもらってトイレと風呂を新たに各部屋につけたため、トイレ空
間はそこだけ新しくコンパクトにまとまっている。しかし、ここも昔風の木の小
物を生かしたなつかしいデザインを忘れないように工夫がこらされている。しか
し各部屋には近代的な暖房用のヒーターがとりつけてあった。
窓を開けると、目の前は牧場でその背後に山並みが広がり、一角に菜園が見え
る。家の山側には果樹が植わっている。ここは牛の乳搾りや畑での収穫など農作
業の経験もできる文字通りの農家民宿なのだ。家の横にある小屋には雌牛が一頭
いるし、ピンクの肌をしたとてもきれい好きそうなブタたちも歩き回っている。
ブリエバさんの「農作業が手伝える農家民宿は、フランスには多いけれどスペ
インはまだとても少ないんだ」という言葉を思い出した。500軒以上もあるカサ
・ルーラルの中から、第一に彼がここを選んでくれた理由が理解できた。
階下に降りるとジョセピさんが迎えてくださり、話をしていたお客さんを紹介
された。その2人はなんと私たちを知っているという。1か月半前にアイバール
の村であった「グリーンエネルギーとグリーンツーリズム」というセミナー(後
述)で出会った2人の若い女性で、今日はQ印認定の仕事としてウルスカ民宿の
経営状態や現状について調べに来ているのだという。「ナバラは狭いですね」と
いって笑いあった。
「審査も無事おわったし、せめてチーズでも食べていってよ」、とハビエル・
ブリエバさんに言って、ジョセピさんは娘さんと机の準備を始めた。パン、チー
ズ、赤ワイン、みんな地元のものだという。歯ごたえのある田舎パンがおいしい。
チーズの皮が堅い時はむいて食べることを習いながら、ハビエルさんの話、ジョ
セピさんの話をうかがった。
「泊まってみたいなあ、泊めていただけますか」と聞くと、「7、8月は泊まり
客でいっぱいで5部屋とも詰まっているの。予約のノートを見てみましょう」と
ノートを開く。ほとんどは1週間程度の滞在で、空いていたのはわずかに、8月
15日と16日の1部屋だけだった。すぐに「そこにします!」とお願いした。夏の2
か月間ののべ320室のうち、空きが2部屋分しかなかったことになる。稼働率99%
以上だ。ダブルの部屋代がシーズン中でも50ユーロと高くないせいもあって、た
いへんな人気である。スペイン国内だけでなく、イギリス、フランス、ドイツな
どから、夏休みをすごしに、エリツォンドの町から20キロもあるこのウルスカ民
宿までやってくるという。家族で遠距離を車で移動してくるので道が少々遠くて
も、最後が砂利道でも気にはならないらしい。
パンプローナへの帰りに、ウルスカ民宿から遠くない、チーズ造りの農家が経
営する貸し別荘型のカサ・ルーラルを訪ねた。Jauregiaハウレギアという名前で、
ⅠとⅡの2軒がある。ハウレギアとは、大庄屋クラスの大邸宅を指すバスク語で、
古い建物や調度を生かして、どちらもナバラ州選定のQマークを得ている。家内
手工業的なチーズ工場を見学し、ブリエバさんとともに、ヨーグルトなどをしこ
たま買い込む。ここは、農家体験ができる宿ということになるのだろう。おそら
く、ブリエバさんと取り組みのもっとも初期から苦労をともにした同志ともいえ
る2つのカサ・ルーラルへ案内してくださったのだ。
ウルスカ民宿を予約した8月15日がやってきた。ところがこの日はパンプロー
ナからエリツォンドに行く1日3便のバスが休日のため完全運休だという。それが
当日になってわかったのだった。こうなればレンタカーを借りて自分で車を運転
して行くしかない。右ハンドル・右側通行の道をはじめて運転をするのはかなり
の勇気が必要だ。ところが、レンタカー屋も休日ですべて休んでいたのだ。やむ
なくその日は出発をあきらめて、ウルスカの宿には1泊だけ泊まることになった。
日本で乗っているタイプの車を借り、エリツォンドに向かう。初心者マークを
貼った。幸い途中までは二度にわたってハビエルさんが案内してくださったコー
スなのですんなりパンプローナを抜け出すことができた。ナバラ州の道は山口県
並みに良い道である。そして交通量は少なかった。
しかしナバラ州の道路は信号が少なく、多くはロトンダという円形のラウンド
アバウトを回りながら方向を変えるというシステムをとっている。車に乗せても
らう度に、地図を見ながら自分で走るためのイメージトレーニングをしてきては
いたのだけれど、ロトンダを回るうちに方向がわからなくなることが多かった。
行先の地名が書いてある所から出ればいいのだけれど、読み取りにくいし目的地
が表示してあるとは限らない。例えば、山口市から下関市に行きたいとおもって
も、「博多方面」と表示してあったりするようなものだ。外国人にはなかなかわ
からない。おなじ道をぐるぐるまわることも多く、パンプローナ市内から無事出
られるまでに35キロも走った日もあった。
途中に「保護地域の森」というマークを地図上に見つける。Bertitzベルティ
ツの森だ。ハビエルさんもいい森だと言っていた。通り過ぎて引き返したりしな
がら、たどり着いた。30台くらい車が止まっている。入り口に車を止めて案内の
建物に寄る。
インフォメーションセンターがあって、地図やパンフレットを置いていた。手
作りのおみやげや軽食も売っている。説明を聞き、パンフレットを読むと、ここ
はブナの森で昔はヒツジなどの家畜が入っていたのだが、ここ50年あまりは家畜
を入れないでいるので森が回復過程にあることがわかった。さっそく時間が許す
範囲で一番短い遊歩道コースを歩いてみることにした。ここは予想以上に生物多
様性が高い、興味深い森だった。ブナの大木の根本で昼食を食べ、心残りではあ
ったが3時過ぎには森を出てエリツォンドに向かう。
道が小さな田舎道になり、不安を感じながらそれでもちゃんと約束の5時には
ウルスカ民宿にたどり着いた。大きな犬が迎えてくれた。大きなトマトが篭に盛
ってあるのが美しい。部屋に案内されてみると、谷が望める小さめの部屋だった。
紺色で統一されていて同じ色のタオルがそろえて篭に入れてある。民宿だから石
けんは自分持ちかなと思っていたら、小さい石けんとシャンプーが置いてあった。
「全部の部屋で一気にシャワーを使ったら水が足らなくなりますから、様子を見
て使ってね」と言われ、「農家民宿に泊まる時の心得」を絵いりで書いたパンフ
レットを見せてくださった。ナバラ州で出しているもので、なかなか楽しく描か
れている。ナバラ州のがんばりが見える。近くの道路に出ている「ウルスカ民宿
はこちらです」というしゃれた看板も州が費用を出してくれたものだそうだ。
夕方、鐘の音を響かせながらヒツジの群れが帰ってきた。窓から白い点々が近
づいてくるのが見えて、やがてそれがヒツジだとわかる。草むらの中に潜って食
べている。馬もいっしょだ。日が暮れる9時頃夕ご飯になった。
一階に降りるとそこにはもう10人あまりの人が椅子に座って三々五々おしゃべ
りをしていた。子供用の椅子に座った男の子もいる。私たちはその横に座ってく
ださいと言われる。「こんばんわ、日本から来ました。パンプローナに住んでい
て今スペイン語の勉強中です」「私たちはバルセロナから来ています。もう3日
目です」「アラゴン州のサラゴサからです。明日はパンプローナです」といった
具合だ。
まず白い豆のスープ、そしてトマトの薄切りの上にタマネギのみじん切りとハ
ーブがのってオリーブ油がたっぷりかかったサラダがきれいだ。篭に盛ったパン
が出される。サービスは、ジョセピさんが頃合いを見てやり、ご主人も地元の赤
ワインの栓を抜いてすすめたり、食べ終わった皿を集めて交換するときなどに手
を貸しておられる。メインは骨付き牛肉のステーキにサヤインゲン、カリフラワ
ー、ジャガイモの付け合わせ。ポストレ(デザート)は自家製プリン、果物、ナ
バラ名物の羊のミルクをかためたクヮハダ、チーズなどから選ぶというものだっ
た。
翌日起きて窓を開けると窓の下には母羊が子羊に乳を飲ませながらこちらを見
ている。畑のサヤインゲンを摘むこの家のご主人らしい姿が見えた。
朝食に降りると、昨夜のバルセロナから来て今日はパンプローナに移動すると
いう2人が座っていた。新鮮な牛乳、オレンジジュース、パンとビスケット、ヨ
ーグルトが机に置かれている。手作りジャムが3種類とバターも運ばれてきた。
コーヒーと紅茶がポットにはいってきた。コンチネンタルの簡素な朝食というと、
パンとコーヒー、紅茶だけだが、ここはイギリス人もフランス人もやってくるか
ら、色々なものが並んでいるのかもしれない。まずオレンジジュースを飲んだ。
ジャムは甘みがおさえてあり香りが高い。
食事が終わると、ジョセピさんに今日の予定を相談した。ここから山に散策す
るコースがいろいろあるという。私たちは、フランス国境から稜線をウルスカ山
に登るコースを選んだ。
荷物を預けて軽いザックをしょって出発。山腹の登り道は未舗装で道にそって
トネリコの大きい木が並んでいる。2から3メートルのところでいったん切られ、
そこからふたたび枝を再生して葉を茂らせている。切った枝を薪にしていたのだ
ろう。歩くうちにブナが出てきた。散在する木々の中にワラビが茂って一面のワ
ラビ草原になっている。カラカラと羊の鈴の音がする。見ているとワラビの中か
ら羊が顔を出した。ワラビの下に生えた草を食べているのだ。ワラビを高く積み
あげた山が2つ3つとある。先ほどジョセピさんに聞いたのだがワラビを干したも
のを牛などの家畜小屋の下に敷くのだという。ウシが食べないものを敷藁にする
のは良い考えだ。汚れたら、ワラビを持ち出せばかんたんにきれいになるし、堆
肥にもなるという。さらに、ワラビを刈って取り除くことがワラビに覆われた土
地に光を入れることになり、牧草が育つのだとワラビ草原を見ていて気づいた。
15分も歩くと見晴らしの良い稜線に出る。フランスとの国境だ。フランス側か
らグループが登ってきた。子供が3人いる。「ブエノス・ディアス(こんにちは)
」と声を掛けると「ボンジュール」とフランス語が返ってきた。フランス人の家
族だった。詳しい地図をもっていて、私たちのめざすウルスカ山はきっとこの道
だ、と自信たっぷりに谷沿いの道を指さした。私たちはお礼をいってその道をた
どる。しばらくいくとどうも方向が違うと思えてきた。ジョセピさんに言われた
道しるべの黄色いペンキの印も見えない。引き返そうと決めて戻り始める。とこ
ろが双眼鏡でのぞくと、フランス人たちは私たちがちゃんと指示した道を行った
かどうかを立ち止まって見届けているふうなのだ。おせっかいなフランス風に辟
易して、彼らが見えなくなるまでちょっと休憩をすることにした。エリカやハリ
エニシダの写真を撮る。
国境まで戻って黄色の印を探すと、10mほどはなれた岩の上に見つかった。稜
線沿いの道である。90度異なる方向だったのだ。道の右側はフランス、左側はス
ペインだ。ここらではスペイン側の方が森がよく残っているようだ。フランス側
はほとんどが草原になっていて木が見あたらない。ブナの森を切り開いて牧場に
してしまったのだ。雨が多い日本から来た私たちはこんなにも広い草原を見ると、
つい土壌流失が起きているのではないかと気になる。実際、山地の草原では土が
やせている。草原の草はよく食べられていて、花が咲いていないことが多い。
やがてブナの森が見えてきた。樹木はブナ1種だけの純林である。林床は草が
あったりなかったり。去年のものであろうブナの実の殻がびっしり落ちている。
羊の糞も固まってあちこちに見られる。2本3本とブナの実生が見られた。昨年は
ブナが豊作であったようだ。
谷を見下ろす尾根の出っ張りに、木で組んだ高さ10メートルもあるやぐらのよ
うな物が組まれている。遊地が上ってみるが、用途が分からない。後に、これは
渡りでやって来る鳩の群れを追い込むための装置だと知った。やぐらの上で猛禽
の羽音を立ててやると鳩の群れは谷底に急降下して、森の中に張った網で一網打
尽になるというしかけであった。
ブナだけの林を抜け再び草原に出る。黄色い目印を追いながらウルスカ山を目
指した。羊の踏み分け道をたどって山頂部に着くと一帯は太さが異なるブナの森
だった。しかしここもブナ1種の森だ。ブナの大木がたくさんあって枝を低く広
げている。国境を示す石と家のあとのような石の構造物があって、ここに国境警
備兵がいたころのことが思われた。
6.エネルギー自給の農家ホテルと農家民宿
ハビエル・ブリエバさんが2回目の案内をして下さることになった時、私たち
はフランス側へ行くのではなく、「再生可能エネルギーを利用しているなど、ひ
と味ちがう農家民宿があれば」というリクエストを出した。その結果、ブリエバ
さんが調べてくれて、パンプローナの北側に向かうことになった。実は、この時
期のフランス側は、バカンス客でいっぱいであった。別の日に、自分たちだけで
フランス側の事情もみて来ようと、ロンセスバレスとは峠をはさんでフランス側
の、サンジャンピエドゥポールの町にレンタカーで降りてみたことがある。とこ
ろが、ナバラでは経験したことのない大渋滞に巻き込まれ、どこもバカンス客で
満員だった。名前だけは田舎の民宿でも、壁紙がはがれた場末の宿といった体の
ものしか空き部屋はなかったのだった。
A.太陽光発電で売電する農家ホテル
ハビエル・ブリエバさんとまず訪ねたのは、Perskeneaペルスケネアという名
前のホテルだった。非常によく手入れされた整った内装で、美しく整えられた食
堂が夕食用と朝食用に2つ準備されていた。少人数でもすばやく食事の準備がで
きるための工夫なのであろう。50代のオーナーにインタビューした。
――私は、Jose Maria Astizホセ・マリア・アスティスといいます。もともと
7ヘクタールの牧場をもつ農家だったこの家で生まれました。パンプローナでエ
ンジニアとして10年ほど働いたあと、15年前に思い立ってふるさとに戻ってホテ
ルを始めました。自動車道からの900メートルの道を舗装するのにずいぶんお金
がかかりました。3年前に5キロワットの出力の太陽光発電パネルを据えました。
太陽の向きを自動追尾する装置の上に載っていますが、ナバラ州政府が50%(現
在は40%)、スペイン政府が20%の合計70%もの補助金を出してくれたので、自
己負担はわずかでした。売電もできるタイプです。20年はもつそうで、今の調子
なら6年でもとを取れると思っています。太陽温水器も補助を受けて2000リット
ルの水を65度に温める能力があるものを着けました。これらによって、以前は9
室の客室で年間6000リットル使っていた重油の使用量が半分に減りました。宿泊
料金はダブルの部屋の2人分が朝食付きでオフシーズンは80ユーロ、ハイシーズ
ンが90ユーロです。
――どこからのお客さんが多いですか?
国内からももちろん来ますが、外国ではイギリス、オランダ、ベルギー、ルク
センブルクあたりが多いです。少ないけれどフランスやドイツからも来られます。
――宣伝はどのようにしておられますか。
インターネットのホームページにも載せていますが、外国向けには、ガイドブ
ックの方がよく見られているようです。年間の稼働率は、150日から170日ぐらい、
約半分はお客さんがいることになります。
B.アララツ村のエネルギー自給農家民宿
その次に案内されたのは、車で10分ほどしか離れていない、本格的な(送電線
から離れた)自立型のエネルギー自給の宿だった。谷沿いの一車線の道を車でた
どり、教会の塔が見えて、白い壁赤い屋根の石造りの三階建ての農家が集まって
いる小さいアララツ村に出た。畑がところどころにあり井戸がある。どの家にも
薪がたくさん積んである。砂利道に入って、ナラや雑木の林をしばらく行くと、
牛や羊たちが草をはむ牧場がひらけ、その向こうに丘を背にした赤い壁の家がぽ
つんと一軒見えてきた。家の後ろには風車のプロペラがまわっているのが見える。
人なつこい犬が二頭走ってきて出迎えてくれる。
驚いたことに、そこは、以前にサビエル城の近くのAibarアイバールの村で会
って意気投合した知りあいのPatxi Gonzalesパッチ・ゴンサレスさんの経営する
宿Kaano Etxeaカーニョ・エチェアだった(アイバールでの催しについては自然
エネルギーの項で後述)。パッチはパンプローナに出かけていて留守だったが、
奥さんのAlbertaアルベルタさんが迎えてくれた。アルベルタのお母さんと五歳
になる息子もいた。客の多い夏場は、手伝いの女性二人に来てもらっているとい
う。ところが手伝いの女性のうちの年配の一人がにこにこしながら声をかけてく
る。
あなたたちは、パンプローナのサンフェルミン祭の時、バスクの即興歌のコン
サートを聴きに来ていたでしょう。
――ええ!?どうしてご存じなんですか?
コンサートのあとであなたたちにバスク語で質問に来た人たちがいたでしょう。
その中の一人が私だったの。東洋人にバスク語がわかるのかしら、ふしぎふしぎ、
と思ったのよ。
――あんなに大勢の人が集まる8日間も続く祭のなかでお会いしたのに……
そうね、なんて世界は小さいんでしょう!(笑い)
一階はバリアフリーになっていて、客室のトイレやシャワーなども車いすの人
が使いやすいように設計されている。一階には客用の食堂があり、ホールになっ
ている。薪ストーブの前にソファがある。大きな木の机があって、カボチャやト
マトがさりげなく盛ってある。古い木の食器戸棚には華やかな色の皿が並べてあ
って、古いものを美しく生かしてなかなかおしゃれだ。家造りのことや電気のこ
とはパッチでないと説明できないと言いながら、アルベルタは家の中を案内して
くれる。部屋ごとに特色があり、カーテン、ベッドカバーやシーツ、タオル、絨
毯などの色が統一されている。材木の多くは古いものの再利用である。スペイン
では宿のタンスやランプ、椅子といった家具も古いほど値打ちがあるとされてい
るのだ。スペイン各地にある国営のパラドールという宿泊施設では、お城のよう
な建物の中に文化財級の調度があって宿泊費は非常に高いが、年中予約が一杯で
ある。
アルベルタの言葉。
あなたたちのことは、パッチから聞かされていました。以前から日本には興味
をもっているの。そうだ、ぜひ今度は泊まりにきて!招待するから。
――ありがとう。それじゃあ、お客の少ない九月ならゆっくり話せるかな。週
末はどうでしょう。
週末よりも平日の方が、ほかに客がいない公算が大きいから、というブリエバ
さんの助言で、平日を予約した。
九月に入って帰国のための荷造りを始めた私たちは、レンタカーを借りてアル
ベルタとパッチの家に向かった。例によって寄り道をしつつ二人の家に夕方たど
りついた。今度はパッチがひとりだった。足をくじいて下に降りるのがつらいか
らと、最上階である三階の、家族の居室で話し込むと、なんだか昔から友達だっ
たような気持ちがしてきた。このところ曇天続きで風も少なく、エネルギー自給
の家もお手上げだという。今日の夜の電気が心配だから、坂の上の発電塔におい
てある発電機にガソリンを入れて、起動してきてくれないか、と頼まれる。
犬たちといっしょに風力発電と太陽光発電をしている丘へあがってみると。大
きなバッテリーが並んでいた。それなりに風は吹いて風車は回っているのだが、
電灯だけでなく二つの冷蔵庫やテレビ、パソコンなどもあるから消費電力も大き
いのだろう。
九時を過ぎて暗くなるころ、パンプローナに用事や買い物に出ていたアルベル
タが子どもと帰ってきた。夕食の準備が始まる。貴子が手伝わせてもらう。料理
を覚えるにはこれが近道だ。スペインの夕食は9時以降が標準だ。滞在中のアル
ベルタの食卓を、メニュー形式でご紹介しておこう。
アルベルタの夏の食卓
1日目の夕食
・サラダ(レタス、到来物のトマト、タマネキのみじん切り、ツナ缶、塩少々、
たっぷりのオリーブ油)
・野菜スープ(自家菜園のサヤインゲンとフダンソウ、ブルーチーズ少々)
・マグロのステーキ(マグロ切り身、オリーブ油、香辛料)
・パンとナバラ州の赤ワイン
・デザート(しぼりたての牛乳の手作りヨーグルト、村のハシバミの実入り)
アルベルタの食卓では、何にでも好みで「たまり醤油」をかける。タマーリと
呼んでいる。
次いで2日目の食卓。
朝食
・コーヒー、紅茶、ココア
・パン
・ジャムとオリーブ油
・チーズ
・果物
パンにオリーブ油を付けるのはアンダルシア風だとか。
昼食
・トマトサラダ(トマトスライス、タマネギのみじん切り、オリーブ油)
・沖縄風揚げ豆腐(玄米正食の店の堅い豆腐、オリーブ油、たまり、これは貴子
が担当)
・ステーキ(ナバラの牛肉、香辛料)
・焼きピーマン(ナバラ名物の大ピーマン、オリーブ油)
・パンとワイン
ゆっくり三時ころまでかけて食べて、そのあとは夕方まで昼寝。
自然の中で
二日目の朝、アルベルタが言う。
近所のおうちから畑の夏野菜を採りに来ないかといわれているの。冬野菜に畑
を切り替えたいから欲しいだけ採っていいって。
――わあ、行きたい!
まだ足が痛むパッチを残して私たちはアルベルタの車で村へでかけた。車を村
の集会場の広場に止めて野菜をいただきに少しあるいた。子ども達が珍しそうに
こちらを見ている。野菜はもう収穫してあって袋ごといただいた。州政府の補助
で作った石造りのサイロは今は薪の倉庫になっていてナラの薪が投げ入れてあっ
た。畑にはスイカよりまだ大きなカボチャが実をつけていた。
さらに、アルベルタの友だちで有機農業をやっている女性の畑を訪ねた。大柄
な赤いシャツの女性に迎えられたのはイラクサが生い茂る畑だった。土は黒くて
ふかふかである。
私は、公共施設の清掃の仕事で給料をもらっているので、この畑での農業は趣
味なのよ。でも、有機農産物の組合に入っていて、少しずつだけれど出荷もして
いるの。無農薬でやれる秘訣は、イラクサなのよ。畑に生えるイラクサをつぶし
て水に入れ、ここにある大型のポリ容器の中で腐らせたものが、殺虫剤としても
使えるし、ウドンコ病などの病気にも効くの。おまけに、肥料としての効果があ
るから、これ以外のものは一切使わないわ。だから畑に生えるイラクサは大事に
残してあるんだけれど、子どもも連れてくるんだったら、通路のイラクサは刈っ
ておいたのにね。
イラクサが入った容器の中の液は、黒ずんだ緑色でかなり強い特有の臭いがし
た。用途によってこれを水で薄めて使うという。彼女の畑には大きなキャベツ、
ズッキニー、トマト、ナス、フダンソウ、ピーマン、カボチャ、三種類のレタス、
イチゴ、タマネギ、ニンジン……なんでも見事にできている。たしかにズッキー
ニはウドンコ病にかかって葉には白い粉が吹いているけれど、大きなりっぱな実
をつけている。畑の端のニワトコのたわわな黒い実ではジャムを作るしアルコー
ルに漬けてお酒も造れるという。畑の一角にはミツバチの巣箱もあった。
畑の山側の斜面は無農薬リンゴの果樹園になっている。リンゴの木の下では鶏
が雑草を食べていて。卵を産むときは小屋に入って産卵場所で生むようになって
いるので、そこへ卵を集めに行く。鶏たちは夜は小屋で眠る。小屋には車がつい
ていてリンゴ畑の中を移動できるらしいのは、面白い工夫だ。赤く色づいてきた
リンゴをもいでエプロンでふいてくださったのをさっそくかじると、小さいのに
甘くて酸っぱみもある豊かな味だ。日本のリンゴ農家の友人の話では、農薬散布
回数はふつう十数回、減農薬で努力して減らしても7回程度という。日本ではリ
ンゴを皮ごとは食べない私たちだが、このリンゴは皮ごとすっかり食べてしまっ
たのだった。
アルベルタはもう1軒の農家に寄った。入り口を入ると広い土間の仕事場兼物
置で、機械やたくさんの工具、農産物などが整然と置いてある。そこを通り抜け
て奥の居間に行くとお客さんと食事をしている風である。失礼してしまった、と
思ったら「いいのよいいのよ、もう終わるところ。さあ入って」と迎え入れられ
た。それは8月にハビエル・ブリエバさんと始めて来た時お手伝いに来ていた年
配の女性の家だったのだ。私たちを皆に紹介してくださる。80歳だというこの家
の主人は羊を飼っていて現役、お元気だ。昔ながらの農家に見えたこの家の、家
の中は新しく、台所では料理用の薪ストーブがはめ込まれ、赤々と火が入って美
しい。日本の私たちの家も薪ストーブで暖房や料理をしているというと、話がは
ずむ。客間で本格的な寒さのシーズンの出番を待っている暖炉式の薪ストーブも
見せてくださった。薪が至る所に積んであるわけである。パッチとアルベルタの
民宿の客用の台所にもあったナバラ製だという機能的そうな料理用ストーブ。重
さは200キロ以上ありそうだが、時間があったら工場に見に行ってみたい。でき
たらひとつ買って帰りたいと衝動的に思ってしまった。でも、薪をよく使うのは
こういった田舎の事情であり、パンプローナでは電気やスチーム暖房がほとんど
だ。
用件が済んで出口まで送ってくださった主婦は置いてあったキノコをアルベル
タに持って行きなさいと手渡す。こんなにたくさんいただけないわとアルベルタ
は恐縮しながら結局ひとかかえいただいて帰った。「この季節、このキノコを食
べないと秋が来たような気がしないの。あなたたちにごちそうできてよかった。」
と家に帰って、夕食のしたくをしながら、キノコ入りオムレツの料理法を教えて
くれながらアルベルタはうれしそうだった。
農家民宿の舞台裏
2日目の午後は、昼寝から起きるとパッチに頼まれた仕事が待っていた。足を
くじいているパッチの代わりに民宿の水事情を証明する写真を撮影するというの
だ。水源地は、カラマツの人工林を抜けて谷道を細い川ぞいに上がった所で、ブ
ナ林の谷間にかなり大きな新しい水槽がある。そしてその近くにはやや小さいが、
古い水槽がある。ところが、民宿でシャワーなどに使っている水は、いずれの水
槽からでもなく、古い水槽の横にあふれてたまる水を、小さなろうとのようなも
ので集めて送っているのである。これは、上の水槽はパッチ一家より先にこの辺
りに別荘を建てた四軒の家のもので、パッチ一家はその仲間には入れてもらえな
かったし、別の水槽を作って利用することも、水が減るといって、拒否されてい
るのだ、という。この状況を打開するためには、川の最上流部の利用許可を取っ
てしまうのが得策だと考えて、南のアラゴン州の州都サラゴサまで直訴に行くの
だという。
インターネットで紹介するための、家の各部分の写真も頼まれて、デジカメで
撮影したりしたあと、その夜はよもやまの話に花が咲いた。
翌朝目覚めて窓を開けると谷は霧に包まれていた。戸口で呼ばわる声に出てみ
ると、全身霧雨に濡れた男の人が立っている。なにやらたいへん怒っているよう
だ。実は、きのうキノコをもらった隣り(といっても2キロ先)の家の80歳にな
るご主人で、パッチの家の二頭の犬が彼の羊たちを追いかけ回したというのであ
る。たしかに犬が見あたらない。アルベルタとパッチがあやまったり、なだめた
りしたのだが、大変な剣幕で、自動車で送ろうという私たちの申し出も断って、
遠い山道を歩いて帰っていかれた。「はやく犬たちを捕まえないと、銃で撃たれ
てしまうわ」と言い残して、アルベルタが犬を探しに出かけた。
アルベルタが犬を探す間、足が痛いので留守番をしていたパッチとともに残さ
れた私たちは、薪ストーブにあたりながら、農家民宿のできるまでのこと、パッ
チのこれまでのこと、エネルギー自給を決心するまでのこと、などの自分史の続
きを聞いた。そうするうちに、こんどは、別の年配の男性が訪ねてきた。日本人
が来ていると聞いたので見に来たらしい。ベルツォラリ(バスク語の即興歌の名
手)だと紹介されたので、まず私たちが1曲だけなんとか覚えたバスク語の民謡
を歌った。まるで農家民宿(Benta)の宣伝のような愛の歌で、バスク語の歌の
名手Mikel Laboaミケル・ラボアが歌っている曲だ。下線部の助詞がみごとに日
本語と対応して快い。「僕の」は標準バスク語ではnireと習ったが、ここでは
nereと歌われている。
#Bentara noa 宿へ行き
_ _
#Bentatik nator 宿から帰る
_ __
#Bentan da nere gogoa 宿に僕の魂がある
_ _
#Bentako arrosa krabelinetan 宿のバラとカーネーションに
_ _ _
#Hartu dut amodioa 愛を見つけた
すると、おじいさんは大変な喜びようで、
おお、バスク語を勉強したのか。それは50年も前のなつメロだよ。実は私も大
人になってから勉強して歌えるようになったのさ。
とバスクの歌をさびた声で次々に歌っては、スペイン語でその意味を説明して
くださった。長く禁止されていたバスク語が解禁になって、たくさんの民謡や即
興歌がまたおおっぴらに歌えるようになったことの楽しさとほこらしさがこめら
れていた。
犬を探しに行ったアルベルタは牧場や山の中を探し回って、昼過ぎに疲れ果て
て帰ってきた。
こんなに帰ってこないのは、羊を追いかけまわして殺してしまったのかもしれ
ないわ。羊は農家の大切な財産なのだから、そんなことをした犬は殺されても文
句はいえないの……。
そんなアルベルタの苦労も知らないで、私たちがパッチと話していたこと。
バスク語教育を受けて
僕の名前は、パッチ・ゴンサレス・マルチン・ルイスだ。スペイン人は姓とし
て、父方と母方の両方を名乗るからどうしても名前が長くなるんだよ。1964年に
バスク地方のギプスコア県アンドアインという村に生まれた。父はナバラ州の人、
母はスペイン南部のアンダルシアのグラナダの人だよ。
スペインで初めてできた、バスク語で教える小学校に入って、4、5年かよった
な。スペイン語だけが公用語で、バスク語やカタルーニア語といった地方語は、
長いフランコ独裁の時代(1939~1975年)ずっと公の場で使うことを禁止されて
いたんだ。友だちがバスク州のサンセバスチアンの大学に行って、その帰りにバ
スク語をしゃべっていたというので、警察にひっぱられたことがあったなあ。
そんなわけで、どこからも支援はこないから、親たちが金を出し合って先生を
雇い、校舎といっても名ばかりで、普通の家の一階が牛小屋兼物置だから、その
壁にペンキを塗った程度のことで、別の「教室」に移るときは通りを横切って別
の家にいったんだよ。生徒は30人近くいたと思うよ。両親は、自分はバスク語が
できなかったけれど、バスク語を主に話す地域の人たちに僕をとけ込ませたいと
思って、バスク語を使う学校に通わせたんだとおもうな。フランコが死んでから
は憲法も変わって、バスク語で教育が受けられる公立学校もちゃんとした私立学
校もできたんだよ。
13歳の時、父の仕事の都合で、フネスというナバラ中部の村に引っ越した。そ
こは、バスク語使用圏じゃなかったので、僕は上手に話せない。今、ここに住ん
だら近所の人たちはみなバスク語ができるから、息子にはなるべくバスク語で話
そうとしているんだよ。やっぱり言葉は大切だから。
つれあいのアルベルタは、お母さんがイタリアのフィレンツェの人だけれど、
ナバラの人と結婚して、フランスとの国境の海岸の町、オンダリビアに住んでた。
彼女はそこで生まれたから、イタリア語もバスク語もできるんだよ。お母さんと
は毎日イタリア語で電話しているし、息子にもイタリア語とスペイン語をまぜて
話している。バスク語とあわせてうちは3つの言葉のまぜこぜだな。それと、お
客さんのためには、フランス語と英語も話すから5つか。
地球に良いことは自分にもいい
ここに農家民宿を作るときに、「エネルギー自給の宿」ということを考えたの
は、25歳のとき、「GEAヘア(ガイアのスペイン語)」という千人ほど会員がい
る雑誌の編集にかかわるようになったせいかな。自然住宅とか自然農法(パーマ
カルチャー)とか、バスク州の原発計画を止めたり、北西部のアストゥリアス州
の熊を救えとか、いろいろな環境問題についての取り組みを雑誌で取り上げたし、
バスク支部で年に5回ぐらい発表会をやったりしたよ。そうする中で、こんな暮
らしをしていたら、あと50年もしないうちに地球の破局が来る、ということを確
信するようになった。地球にいいことは、必ず自分にもいいんだ、と納得するよ
うにもなってきた。それで、地球にいい生活を自分でも実現してみたいと思って、
土地を探し始めた。ところがどっこい、ここらでは長子相続で、土地を分割する
ことを極端にいやがるんだな。ひどい過疎なのに、譲ってもらえるような土地や
家はめったなことでは見つからない。それが現実だった。
この家との出会い
ようやく見つけたこの家は、もともとは倉庫だったのを小作人の宿舎として使
っていたのを40年も放ってあったという荒れ果てた家で、電気も来ていない、水
もないというところだから、なんとか売ってもらえたんだ。
まず第一に考えたのは、風水(フェンシュイ)だったな。バスクにも伝統的に
風水によく似た考え方があるので、違和感はないよ。方位と色と形、いろいろ考
えるべきことがあるけれど、入り口の方位が特に大事なので、これを南側から東
側に移したんだ。それから、小さかった窓を大きくするために、その部分の石壁
を下から上まで全部取りのけて積み直しさ。大きな石で一個300キロのがあった
りして、そりゃ大変だった。それから、屋根裏を住める高さにするために、屋根
を1メートルほど上げたんだ。暖房は電気ですることも考えたんだけれど、電磁
波の悪影響が心配でやめた。それで湯が通るポリプロピレンの管を家中の壁に
2000メートルも埋め込んで、お湯を通して暖房するんだよ。
本体工事に1年半かかったな。客間は5つあって、下から順にウラ・ルラ・エグ
ラ・スア・アイセアと名付けてあるんだけれど、バスク語で水・土・木・火・風
という意味なんだよ。そして、ここらの習慣に従って、玄関の入り口の上にはエ
グスキロレの花を飾る。これは、花は太陽をあらわし、とげとげの葉が魔よけに
なるんだ。
エネルギーは、電気については、2.4キロワットの太陽光発電パネルと、小型
風車だ。高さ27メートルの塔を建てて、3キロワットの風車を載せてある。ひと
つの重さが240キロのバッテリーを14個並べているけれど、これが高かった。太
陽温水器もあるんだけれど、隣地の植林されたカラマツが陰になって思うように
暖まらないね。ここは不在地主が伐らしてくれないんだよ。料理と給湯は、一番
空気を汚染しない天然ガスを使っているよ。風呂やトイレの水もわずかな谷水を
ためて使うんだけれど、夏場しか帰ってこないご近所の人たちが、使わしてくれ
ないんで、絶対量がたりなくてものすごく苦労しているよ。明日は、ここから
200キロ南のアラゴン州のサラゴサの町にある河川局まで出頭して、水源利用の
許可をもらいに行くので、あなたたちに現場の写真をとってもらったんだよ。
ここで、犬探しから帰ってきたアルベルタが割って入った。
もともと私は、電柱を立ててもらって電気を引くつもりだったのよ。ところが、
パッチときたら、自然エネルギーで自家発電するっていうじゃない。最初から喧
嘩よ。塩化ビニールは使わないで極力自然に配慮した素材を使うとか、クレーン
を借りないで人海戦術でやるとか、環境を大事にする理想はいいんだけれど、余
分に経費がかかる話ばっかりなのよね。財布を預かる側としてはたまったもんじ
ゃないわよ。パッチときたら、夢がいっぱいで――そこが良いところなんだけれ
ど――なんでもやりっぱなし。後始末はみんな私なのよ。今日だって、雨の山の
中を声を枯らして走り回ってきたのは私。
好きで結婚はしたんだけれど、だいたい、パッチと違って、町育ちなのよ、私。
でもねえ、この家ができ上がってみたら、まだ2年ほどにしかならなくて、水の
こともバッテリーのこともまだまだ大変なことが多いんだけれど、ここの暮らし
がすっかり気にいってしまって……。今度は友だちを連れてまたきっといらっし
ゃいね。きっとよ。
ケニアで聞いたレンタカー屋の老主人の人生の知恵の結晶である「女こそ一家
の柱だ。屋根を支える柱、すべての土台だ。女が家を支えているんだよ。だいた
い考えてごらん、男を支配できるのは女だけじゃないか」(安渓遊地、2006:
205)という言葉をしみじみ思い出しながら過ごした、なかなかに起伏の多い3日
間だった。再会を約し、抱き合ってわかれた。それにしてもあの犬たちはどうな
ったのだろうか。
7.ナバラは再生可能エネルギーのショウウィンドウ
ナバラ州立大学とアパートの行き帰りのバスの中から、パンプローナの町を取
り囲む山々の稜線上に、白い大風車がたくさん立ち並んでいるのが見える。青い
空に緑の山並み、その稜線に並ぶ何十という白い風車は、一幅の絵のようだ。カ
メラを望遠にして写真をとりながら、ナバラでの再生可能電力(日本ではグリー
ン電力と言うことが多い)をはじめとする自然エネルギー利用についてもっと詳
しく知りたいと願った。
この願いは、ナバラの観光について話を聞きに行ったことをきっかけにみたさ
れることになった。持続可能な観光と持続可能なエネルギー利用を組み合わせる
ことで、農山村の振興がはかれるのではないか、という私たちの問いかけに、す
でにそのような取り組みが始まっていて、6月末にちょうど第1回の発表会がもた
れるというのである。
A.アイバール再生可能エネルギー教室
場所は、サビエル城から遠くない、サングエサの町から10キロほど離れたアイ
バールという村だという。メールで予約をし、できれば近くの農家民宿に宿泊し
たいという希望を伝えた。返事には、農家民宿はどこも満員で、サビエル城のお
膝元のホテルなら空いているというので、そこに
2泊することにして、バスの都合で前の夕方にパンプローナをあとにした。
そこにあったのは、Aula de Energias Renovables de Aibar/Oibar、つまり
「アイバール村(バスク語地名ではオイバール村)再生可能エネルギー教室」とい
う看板が掛かった、倉庫のような建物だった。中に入ってみると、地球環境問題
やナバラでの再生可能エネルギーの取り組みなどについての大きなパネルが何十
枚もかかっていて、風車の模型や太陽光発電パネルの実物、木材を燃えやすく加
工したペレットなど、いわゆる自然エネルギーについての非常に包括的な教育プ
ログラムをおこなうことを目的とする場所であった。
ここを中心にして、6月17日から3日間の予定で、サングエサを中心とする15の
自治体の連合体であるBaja Montanaつまり、ピレネー山麓地方でのエコツーリズ
ムを考えるというフォーラムが開催された。
プログラムによる、1日目の午前中は、「再生可能エネルギーと観光を結びつ
けるために」という勉強会、午後は地元のワインの試飲、昼食を経てアイバール
の村の見学。翌日は、一般の人々向けのプログラム。さらに3日目は、お祭で、
太陽熱で料理を作るとか、自然住宅づくりやヨガなど、1日目に参加したそれぞ
れのカサ・ルーラルを経営する人々の得意とするサービスが目白押しに並んでい
る。その中に、子ども向けの環境教育のプログラムも組み込まれていた。
われわれは、1日目の勉強会に参加して、自然環境保全や農山村振興について
の意欲と経験をもつたくさんの人たちと親しく交流することができた。2日目は、
NGOの責任者の若い女性、Montse Guererroモンツェ・ゲレッロさんにインタ
ビューさせてもらった。それだけでなく、展示パネルの原稿のpdfファイルや、
発表に使われたパワーポイントファイルなども惜しげなくコピーさせていただい
たので、ナバラのエネルギー事情というのがだいぶ詳しく飲み込めたのであった。
以下は彼女の説明とインタビューの抜粋である。
B.ナバラの再生可能エネルギーと観光の現状
――ここは、NGOですか。
そうです。2004年9月に開所するにあたっては、ナバラ州政府ほか、いろいろ
な所から補助金をもらって始めました。専従は今のところ私一人で、まだ自立す
るほどの収入を上げるまでにはいたっていません。
――ナバラのエネルギー事情について教えてください。
1993年までナバラ州では、水力発電がある以外はほとんどのエネルギー源は他
からの輸入にたよっていました。ごく小規模な水力発電をのぞいては、地下資源
を消費して大気中の二酸化炭素を増やすか、大きなダムで河川の生態系を破壊す
るようなものしかなかったんです。1992年のリオデジャネイロでの環境と開発に
関する国連会議のあと、ヨーロッパ全体で、再生可能エネルギーへの転換の必要
性が認識されるようになりました。それで、ナバラ州政府としても風力発電を始
めてみることにしたんですが、まず、パンプローナ市内から見えるPerdonペルド
ン山脈の稜線沿いに試験的に建てて、住民の意見を聞きました。すると86%もの
答えが、あれはいいものだ、という内容で、否定的な意見は、わずか3%しかな
かったんです。これに力を得、ナバラは海に近く山脈がいくつも並んでいるとい
う好条件のために、良い風が吹く場所が多いことを知ったナバラ州政府は、半官
半民の会社EHN(エー・アッチェ・エネ、ナバラ水力発電会社)を中心に、ど
んどん風車を建てることにしたのです。たいへんなスピードで風力発電は普及し
て、2005年現在は33か所の風車公園に、合計2000基を越える風車が設置されてい
ます。しかし、グラフで分かるように、2003年から2004年にかけて頭打ちが来ま
した。送電線の建設コストや、自然が保護されているピレネー山中には建てられ
ないなどの制約のため飽和状態に達したのです。そこで、今後は20年で寿命がく
る風車を現在の660キロワットから1500キロワットの大型のものに建て替えるこ
とによって、発電量を伸ばそうとしています。単に大型にするだけでなく、変圧
器なしに送電線に直結できるようにするとか、2年に1度のギアオイル交換が不要
になるとかの、技術革新も進んでいて、それがコスト削減にもつながります。
2004年にEHNは民営化されましたから、これまでナバラ州政府の庇護のもとに
ほとんど独占的にグリーン電力事業を進めてきた状況も、よい意味での競争にさ
らされるようになってくるでしょう。
もうひとつ、ここからすぐ近くのサングエサの町にEHNが建てたバイオマス
発電所があります。これは、麦わらとかトウモロコシの茎とかを燃やすプラント
ですが、もともと光合成で大気中の二酸化炭素を固定したものだから、地下資源
とは違って、燃やしても二酸化炭素を増やさないんです。そのおかげで、グリー
ン電力は6ポイントほど増えています。太陽光発電は、まだまだこれから延びる
でしょう。ただ、まだ珍しいので、せっかく設置したパネルが盗まれるという事
件が起こっています。
――2005年のグリーン電力による自給率はどのくらいですか。
目標としては70%というところです。2010年には、EU各国がグリーン電力を
21%以上にすることが定められていますが、ナバラはこれをはるかに超過達成し
ています。パイオニアとしては、2010年には100%グリーン電力による自給を実
現する、というのが、ナバラの夢です。ただ、電力消費も伸びていますから、こ
のままではいくらグリーン電力を増やしても追いつかないのではないか、と危惧
されます。環境教育と省エネがやはり大切になるということですね。
――スペインでは原子力発電はどうなんでしょう。
現在、7か所の原発がありますが、モラトリアム状態といいましょうか、寿命
が来しだい閉鎖していくのを待つという状態で、増やすことへの国民の理解は得
られていません。だって、ナバラの先進的なとりくみのおかげもあって、法整備
と住民の協力があれば、二酸化炭素の排出抑制にしても、グリーン電力でここま
でやれるということがはっきりしたんですもの。
――グリーン電力と観光のかかわりについて教えてください。
このサングエサを中心とする地域には、観光客はよく来るんですが、例えばサ
ビエル城に来ても、たいていは日帰りで、あまり地元にお金が落ちないんです。
小高い丘からなるアイバールの町はローマ以来の石造りの家々と美しい町並み
で、そこに人々が暮らしています。お年寄りも子供も道や広場にたむろし、遊び、
おしゃべりを楽しんでいます。山の頂きにはローマとゴチック様式が半々の教会
があります。2000年の歴史と文化を味わうことができる村です。ここはまた、キ
リスト教の昔ながらの巡礼の道も通っています。眺めがすばらしい。畑となだら
かな山々に囲まれた独特の地形です。ローマ以前からの人と自然とが持続的に暮
らしてきた自然が残っています。麦類やブドウ、オリーブの畑、羊や牛の牧草地
と山々がひろがっています。村のすそにある教会の塔の上にはコウノトリが巣を
作り、子育てをしています。
――景観としてはかなり違いますけれど、日本でも里山・里地といって、人間
と自然が長く共存してきた環境を守って生かそうという動きがあります。
このような歴史・芸術・文化・自然の魅力に加えて、再生可能エネルギー生産
の多様な現場がここで見られるのですから、この2つの資源を生かした複合的な
観光をエコツーリズム・グリーンツーリズムとして打ち出せば、宿泊客も増える
でしょう。ちょうど、古い家を改装したホテルがオープンを控えて仕上げをして
いますから、あとで希望の方は見学に行きましょう。
アイバール再生可能エネルギー教室では、グリーン電力を中心とした地球環境
問題への環境教育をセットした1日から7日のエコツーリズムのプログラムを用
意してあります。どうぞご利用ください。今回の展示会は、その宣伝のための第
1回目の取り組みです。
C.イスコ山脈の風車公園にて
8月に入って、現場を訪ねることにした。風車公園とワラ発電所の見学を、モ
ンツェ・ゲレッロさんにお願いして、アレンジしていただいた。アイバールの村
からほど近いイスコ山脈の風車公園の現場で説明を受けていると、ハゲワシが風
車に近づいてくるのが見えた。
――ハゲワシなどの鳥への被害ということはどうなんですか。
州政府主導でどんどん建ててしまったので、猛禽の保護区の近くのような、本
来建ててはならない場所に風車が建ってしまった例はあります。でも、こうして
見ている限りでは、鳥たちは、風車のことがわかっていて、それと遊んでいるよ
うにも見えますね。
――だいぶ風を切る音がするようですが。騒音への苦情はありませんか。
最低でも人家から1キロ離して建設することになっていますから、苦情は出て
いません。むしろ、村に土地使用料という名目で補償金が入って、52基建ってい
るアイバール村では、毎年6万5000ユーロ(日本円で910万円ぐらい)にもなりま
すから、隣りの村と誘致合戦になったという面もありました。もっとも、ナバラ
人らしく、そういうあぶく銭はほとんどをお祭につぎ込んでしまうんですよ。パ
ンプローナのサンフェルミンに似た祭がどの村にもあって、1週間ぐらい続きま
すから。それと、EHNは、環境教育への投資として見学客にも配慮して、ずい
ぶんお金をかけた石造りのコントロール室を作ったり、近くにあった伝統的な雪
貯めの室を観光用に修復してくれたりということもしています。
D.サングエサのバイオマス発電所
サングエサのバイオマス発電所は、やはりEHNのプラントで、2002年から稼
働している。ヘルメットを借りるところから、案内・説明まで、すべてモンツェ
嬢がとりしきってくれた。まず、200人ぐらい収容できる講義室でDVDによっ
てプラントのあらましの説明を見てから、見学用通路を通って現場を見るように
なっている。それによると、ひとつ300キロから400キロの長方形にパックされた
干し草を毎日10トン積みトラック45台から50台分ほどずつ受け入れ、重さと水分
含量を自動測定して燃焼炉に送り、蒸気タービンを回して発電している。これに
よって、二酸化炭素削減効果は、年間16万トンに達する。全自動運転で休日も休
まないため、受け入れ口に3日分のワラの備蓄ができるように配慮されている。3
万7000キロワットの能力でフル稼働するようになってからは、ナバラの全電力消
費の6%をまかなっている。
外から見ると、煙突からは完全無色の排気が出るため、操業しているとはわか
らないくらいである。以下は、発電所の中を見ながらの質疑応答である。
――温排水の温度と放流先は?
取水温度プラス10度に調節して、エブロ川に放流するようになっています。
――焼却灰はどうしていますか。
重さで6%ほど出ますので、取りに来てくれるならワラを出してくれる農家に
無料で返すことで、土地がやせるのを防ごうとしていますが、現実には難しくて、
業者に処分を依頼している部分が多いのです。
――ワラの品質というのはありますか。
大事なのは湿度が低いことです。25%未満というのが基準です。トラックから
おろすときに3つずつはさんで、その時に自動で湿度も測りますから、湿ったワ
ラがあれば、真ん中になるように積み込むのが、農家の知恵というものです(笑
い)。
――それにしても、穀物をとった後の麦わらで発電ができるとは思ってもみま
せんでした。やればやれるものなんですね!ワラ以外の物も燃やせますか。
いちおう、細かく砕いてパックした形になっていれば、材木などの森林資源も
燃やせる設計にはなっています。
――今年(2005年)のような干ばつだと燃料が不足するのでは?
おっしゃるとおりで、頭の痛い問題です。ワラは家畜の飼料でもありますから。
農家との10年契約で一定量のワラを確保することになってはいますが、今年のよ
うに極端に足りない年にはどうしても取り合いになりますし、余る年には、市場
価格より高く買うことになって、経済的にはあまりペイしない発電所です。でき
て3年になるのに、2号炉建設の話が出ないのは、おそらくそのためでしょう。
E.カパロッソのバイオディーゼル燃料製造プラント
再生可能なエネルギーへのナバラの取り組みは、電力部門だけではない。燃料
の分野でも、植物油から作る、軽油に替わるバイオディーゼル燃料(スペイン語
ではビオディエセルという、以下BDFと略)の大型プラントが、パンプローナ
の南のCaparossoカパロッソ村の近くで、やはりEHNによって操業を始め、市
内のセルフ給油所で給油できるようになったと2005年夏には大きく新聞で報道さ
れた。EHNにメールを送り見学を申し込んだところ、対応してもらえることに
なった。レンタカーを借りて行ってみると、入り口で待っていたのは、なんと旧
知のモンツェ嬢だった。彼女はEHNの広報係も一手に引き受けているらしい。
銀色のパイプのお化けのようなプラントの横には、原料の植物油のタンクや、
製品のタンク、メタノールなどの必要な薬品の小さめのタンクなどが並んでいる。
年間3万5000トンの植物油を処理してほぼ同量のBDFに加工している、という
ことは新聞で読んでいた。一日あたりに直すと、100トン弱である。山口県にあ
る使用済み天ぷら油の加工プラントが、下関市長府では日産200リットル程度、
萩市の旧福栄村で日産40リットルというミニサイズのものだから、まさに桁違い
の大きさである。レンタカーにBDFを入れて走ってみたが、排気ガスが臭くな
いし、馬力もなんら遜色がないようだ。日本で捨てられている使用済みの食用油
をBDFに加工すれば、自動車燃料の2%をまかなうことができる、という記事
を読んだことがある。ヨーロッパでは、排気ガスをクリーンに押さえたディーゼ
ル車のセダンが環境にやさしい車として人気である。日本の自動車メーカーも小
型で燃費のいい、しかも排気ガスのきれいなディーゼル車を作って欲しいものだ。
そうすれば、BDFの活用の道ももっと開けるだろう。以下は、見学しながらの
質疑応答である。
――原料油は、地域で生産されるものですか。先日の新聞にはこれで3万ヘク
タールの農地が活用される、と書いてありましたが。
残念ながらすべてではありません。実際には、国際市場で買い付けるので、ア
フリカなどの安いパーム油などが主力になっているようです。現在EUでは、10%
の作付け制限(減反)を実施しています。ただし、油料作物はこれが適用されな
いので、その意味では農民がナタネなどの原料を生産する動機付けになりますし、
事実作付けもされています。ただ、ナタネへの補助金が、1ヘクタールにつきわ
ずか45ユーロ(6300円)しかありません。それならば、穀物として売って、残っ
たワラも1トン10ユーロで発電所に売れる、大麦、小麦、ライ麦やトウモロコシ
の方をなるべくなら作りたいとナバラの農民が思うのは自然なことです。
――原料をいくらで買っているのでしょうか。
それは、EHNに聞いても教えてもらえないでしょうね。私も知りません。一
方、BDFの売値の方は、軽油と同額に定められています。これはBDFが安く
売られた場合に被る影響を回避するための石油業界からの圧力によるということ
ですが、このところの原油高のせいで、売り値がずいぶん高くなっていますから、
収支としてはかなりうまみがあるのだと思われます。次のもっと大きいプラント
を作る話が出ていますから。それから、EUでは、2015年までにBDFが占める割
合を5%に高めるという取り決めがあることも付け加えておきましょう。
――副産物としてグリセリンができるはずですが。
年に3500トンほどでます。これを、化粧品などにも使える品質に精製して、高
く売るという計画で、グリセリン精製用の加工ラインを併設してあるのですが、
プラントが完成してみると、精製グリセリンの相場が下がっていて、当初予定し
た価格では売れないようです。思ったようにはいかないものです。
――最後に若干の残渣が出るそうですが、見せてもらえませんか。
それは、工場の裏の方で、危険ということで、あらかじめ許可を取らないと見
せてもらうことができません。
8.おわりに
ナバラのグリーンツーリズムについて語り残したことは、パンプローナの西で
廃村になっていたアルギニャリツ村を復活させて、健康に配慮した住宅づくりを
通した農家民宿に取り組んでいる建築士兼大工であるフアン・ルイスさんの家族
との出会いである。訪れた宿は、それぞれに特色があるが、地元にあるもの、昔
からあるものを大切に生かして、新しいアイデアをとりいれているのが共通点だ
った。エネルギー自給、床や壁面の温水暖房、薪の料理ストーブや暖炉、コルク
の断熱材など。いずれもプラスチックは極力使わない。都市では得られない田舎
のよさ、地域の人々が維持してきた自然とのふれあい、ゆっくり流れる時間、美
味しい空気、本当の安心・安全。そういったものが確かにここにはある。そうし
た農家民宿をとりまく里山を含めた、実に多様なナバラの森の探訪記もまたどこ
かに書いてみたいと思っている。
グリーン電力については、ここで報告した以外に、風車のタービンづくりでは
職人芸的な技術をもち、EUの新エアバスプロジェクトにも加わっている
MTorres社を訪問したり、ナバラ州立大学で再生可能エネルギーの研究を行って
いるJose Luis Torres Escribano教授らにも教えを請うたりした。今後の課題は、
官主導でおこなってきた再生可能エネルギー利用の意味を、いかに生活者のレベ
ルまで浸透させるか、ということであろう。その意味で、いまナバラ州が環境教
育に力を入れて始めていることは理解できる。
環境教育への取り組みについては、パンプローナ市立で、教会を改装した「サ
ンペドロ環境教育博物館」や、やはり市内にある「ナバラ環境資料センター」な
どを訪れて、担当者へのインタビューもおこなった。しかし、環境問題を学ぶに
は、体験学習がもっとも有効であると考えている私たちとしては、単なる展示や
説明を越えたアイバール村の再生可能エネルギー教室のプログラムに新鮮な魅力
を感じたため、ここではその活動の報告が中心となった。
ナバラは、これまでにわが国ではあまり報告されていない、さまざまな魅力と、
われわれの生活を見直すためのたくさんのヒントを持っている地域である。例え
ば、日本では厄介者として田んぼで燃やされるか、よくて田んぼにすき込まれて
いる稲ワラは、当然活用できるバイオマス資源であるし、里山の手入れを兼ねて
出てくる竹や間伐材のペレット加工などによるバイオマスとしての活用も岩国市
などで始まっている。風がナバラほど安定して吹かず、台風対策も必要な西日本
では、風車はナバラほどの成功を収めないだろうが、逆にいたるところにある小
さな流れを活用した小水力、マイクロ水力発電には、ナバラにない大きな可能性
があると考えられる。さらに、日本では、二酸化炭素を削減するためには原子力
発電を増やすしかないという宣伝があるが、もっと手近で安全度も高いたくさん
の取り組みが実は可能だったのである。
ナバラ州でのグリーンエネルギー生産は多様性に富みかつ成長産業でもある。
その上環境にもいい。地球温暖化についての京都議定書の約束をEU全体で実行
に移そうと努力する中で、スペイン各地でもとりくみが行われ、その中でもナバ
ラが最先端を風を切って走っている現状が熱く伝わってきた。その他にも、エネ
ルギーを逃がさない家の構造や素材、さらに節電の工夫など、実に多様な取り組
みがあった。EU全体でもこれらを強力に推進し、ナバラ州はEUから先進的事
例として表彰されてもいる。
2006年度にサビエル生誕500年を記念して盛大に行われる記念行事に合わせて、
山口県からも多数の県民がナバラを訪問する予定である。私たちは、グリーンツ
ーリズムやグリーン電力に興味と意欲をもつ県民のみなさんとともに再度ナバラ
を訪問して、今後相互に交流を深めようと計画しているところである。
謝辞
Jose Luis Iriarte Angel副学長を始めとする、ナバラ州立大学の先生方・職
員の皆様には、大学の受け入れ、留学生交換に向けた共同作業、フィールドワー
クでの便宜供与について、公私ともに大変お世話になりました。大学付属高等語
学センターのFrancisco J. Sierra Urzaiz所長、 スペイン語のJavier Perez先
生, バスク語のJuan Mari先生は、語学の教授を超えた、愛情にみち、時を得た
指導や助言を与えてくださいました。
グリーンツーリズムについては、ナバラ州文化観光局のJose Miguel Gamboa
Baztan課長とBeatriz Solaさんに全般的な情報をいただき、ナバラ州の農業改良
普及員のJavier Brieva1 Yoldiさんは、2度にわたって現地を案内してくださる
など、農家民宿の経営者と私たちの仲立ちをしてくださいました。多忙の中で対
応してくださった農家民宿や農家ホテルの経営者のみなさんにも感謝します。
グリーンエネルギーについては、アイバール再生可能エネルギー教室のMontse
Guererroさんとその愉快な仲間のみなさんに多くを教えられました。また、ナバ
ラ州立大学のJose Luis Torres Escribano先生は、大学における再生可能エネル
ギー研究の現状についてご教示くださいました。
ナバラでお会いした日本ファンのみなさんや、日本人のみなさんにもたくさん
の励ましをいただきました。泉類治先生は、私どものスペイン滞在中も、終始サ
ビエルの熱い思いをもって接してくださいました。そしてなにより、独立行政法
人化を控えて山口県立大学がもっとも多忙な時期にスペインへの派遣を実現して
くださった県立大学のスタッフのみなさんにもお礼を申し上げたいと思います。
スペイン語の要旨の作製にあたっては、ナバラ州立大学からの留学生Oscar
Tejero Villalobosさんの援助をうけました。
ありがとうございました。Muchas gracias. Eskerrik asko.
注
*1 Crypte de Mont Martre, 11, rue Ivonne le Tac。最寄り駅はメトロの
Abbes駅。パリの守護聖人となっている3世紀の人、サン・ドゥニゆかりの聖地を
イエズス会結成の場所として選んだいきさつなどの説明をしてもらうことができ
る。見学は、原則として週1回、金曜日の午後1時から4時までとされているが遠
方からの参詣については、随時対応してもらえる可能性がある。参詣希望者は、
事前にメールまたは電話で確認するとよい。メールzygmunt.blazy
nsky@wanadoo.fr、電話は01.42.23.48.94。
*2. だから、サビエルとロヨラらは、2人きりの時にはスペイン語とおそらくバ
スク語も話したであろうし、ポルトガル出身の学生を交えるときには、フランス
語とラテン語によって会話したのではないか、と想像している。バスク語が多様
な助詞を含めて、日本語やハングルや南アフリカのコイサン語族の言語とほとん
ど同じ語順であることに私は驚いたが、サビエルもやまぐちで日本語に出会った
とき、そのバスク語の知識が異なる文法の理解のために大いに役立っただろうこ
とは容易に想像できるのである。
*3 われわれが「ナバラ州立大学」と訳してきたUniversida Publica de
Navarraは、正確にはナバラ公立大学と訳すべきであろうが、ナバラ州政府発行
のナバラ案内の日本語パンフレットには、「ナバラ国立大学」と訳されている。
これは、おそらく誤訳というよりは、ナバラ王国の伝統を誇りに思うナバラ人の
心意気を示すものかもしれない。
引用文献
安渓遊地編、2006『続やまぐちは日本一 女たちの挑戦』弦書房
参考ウェブページ
日本語のウェブページ
・県立大学生へのスペイン留学の注意
http://nagarjuna.ypu.jp/ankei_activities/
・安渓遊地・安渓貴子のナバラ報告
http://ankei.jp/yuji/?c=o
・山口県とナバラ州の姉妹提携締結
http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/kokusai/navarra/top.htm(2005年3月28
日更新)
・山口市とパンプローナ市の姉妹友好都市関係
http://www.city.yamaguchi.yamaguchi.jp/somukokusai/friend/pamplona/
(2001年更新)
・風力発電タービンへの猛禽の衝突
http://www.d1.dion.ne.jp/~akaki_ch/windfarm.html(2006年1月16日参照)
英語のウェブページ
・ナバラ州立大学
http://www.unavarra.es/english/index.htm(2006年1月16日参照)
・EHN・ナバラ水力発電会社
http://www.acciona-energia.com/site_i/index.htm(2006年1月16日参照)
・スペイン国立再生可能エネルギーセンター
http://www.cener.com/?scc=2&pdr=2&idm=2(2006年1月16日参照)
スペイン語のウェブページ
・アイバール再生可能エネルギー教室
http://www.bajamontana.com/es/default.htm(2006年1月16日参照)
・ナバラ環境資料センターCentro de Recursos Ambientales de Navarra
http://www.crana.org/index.asp(2006年1月16日参照)
・ナバラ州内のカサ・ルーラル案内(予約も可能)
http://www.casasruralesnavarra.com/(2006年1月16日参照)
・アルギニャリツ村・健康住宅づくりの学校
http://es.geocities.com/escuelabioconstruccion/(2006年1月16日参照)
・ウルスカ民宿
http://www.urruska.com/(2006年1月16日参照)
・パッチとアルベルタのエネルギー自給民宿
http://www.kaanoetxea.com/(2006年1月16日参照)
Energias Renovables y Turismo Rural en Navarra, Espana:
Un peregrinaje alternativo hacia una forma de vida sostenible
Resumen:
Los autores visitaron la Universidad Publica de Navarra en Pamplona
de abril a septiembre de 2005, gracias a un programa de intercambio
entre la Prefectura de Yamaguchi y la Comunidad Foral de Navarra.
Navarra es bien conocida como el lugar de nacimiento de San Francisco de
Javier y es visitada por numerosos peregrinos en su viaje por El Camino
de Santiago.
En este articulo, describimos los encantos alternativos de Navarra:
sus recientes desafios en la introduccion de energias renovables y
turismo rural con el objetivo de alcanzar un estilo de vida mas
sostenible. Esperamos que este trabajo sirva como guia introductoria
para los japoneses, y especialmente para Yamaguchi, como un
peregrinacion alternativa a modo de testigo de los logros navarros, y
que sirva para hallar algunas pistas que nos conduzcan a nuestro
objetivo de asegurar un modo de vida mas sostenible para el futuro.
Guiados por miembros del Aula de Energias Renovables de Aibar,
visitamos el Parque Eolico de Izco, el Centro de Biomasa de Sanguesa y
la Fabrica de Biodiesel de Caparroso entre otros lugares. Fue una grata
sorpresa descubrir la exitosa reconversion a las energias renovables que
los navarros han desarrollado en el curso de veinte anos. Nos parecio
ademas alentadora la idea de el Aula de Energias Renovables de combinar
los recursos de la energia renovable y el desarrollo sostenible del
turismo rural en el marco de atrayentes programas de educacion
medioambiental.
Para conocer el turismo rural, como puede ser el de las casas
rurales, seleccionamos tres casos de interes con la idea de darlas a
conocer en Yamaguchi.
El primero es una pionera casa rural en Urrtsuka, cerca de Elizondo.
Se halla cerca de la frontera de Francia en la montana pirenaica. Se
trata de una de las primeras casas rurales de Navarra, habiendo
contribuido la familia propietaria a asesorar a la gente a cerca de como
abrir y mantener atractivas casas rurales para los visitantes. Ahora
recibe turistas de Espana y del resto de Europa. La esposa es
responsable de la gestion y su marido, un granjero, le ayuda cuando es
necesario. Los visitantes pueden experimentar actividades agricolas en
su compania.
El segundo caso fue el hotel rural en Arratats al norte de Pamplona. Su
principal objetivo es ser energeticamente autosuficiente gracias a las
energias renovables como por ejemplo un molino a pequena escala, que
posee paneles solares en la torre, y suministro de agua caliente a
traves de paneles solares. Depende ademas de un caudal para el
suministro. El dueno usa materiales no toxicos, lena vieja en
combinacion con un moderno sistema para el calentamiento de paredes con
tuberias de plastico para la conduccion de agua caliente. Han restaurado
completamente la casa original que estuvo abandonada durante mas de 40
anos. El proceso de restauracion de la casa transformada en casa rural
es de gran interes para los visitantes. Tambien resultan divertidas las
visitas a sus vecinos granjeros y un enorme roble que se encuentra en
los alrededores.
Estamos en estos momentos planeando organizar una asociacion de turismo
rural en Yamaguchi para visitar Navarra para intercambio de experiencias
con la ocasion del 500 aniversario de San Francisco Javier en Mayo de
2006.
Nos gustaria agradecer al Sr. Javier Brieva Yoldi del Instituto Tecnico
y Gestion Agricola y el Sr. Jose Miguel Gamboa Baztan y Sra. Beatriz
Sola del Departamento de Cultura y Turismo del Gobierno de Navarra la
oportunidad que nos brindaron de conocer casas rurales de interes. De
igual forma, nos gustaria agradecer a la Srta. Montse Guererro del Aula
de Energias Renovables de Aibar/Oibar por habernos guiado en nuestras
visitas a plantas generadoras de Energias renovables. Nos gustaria
tambien expresar nuestra mas sincero agradecimiento al Profesor Jose
Luis Iriarte Angel, Vice-rector de la Universidad Publica de Navarra, en
nuestro paso por la universidad y su fomento de los programas de
intercambio e investigacion. En ultimo lugar nos gustaria agradecer a
las numerosas personas e instituciones de Navarra que nos acogieron
calurosamente ofreciendonos su amistad y colaboracion.