國分直一先生の論文の中の古文を訳す(9/22台湾大での原住民研究シンポにむけて)
2011/07/17
國分直一先生(1908-2005)記念シンポジウムが9/22に台北であります。安渓遊地・
貴子は、ソウル大学校の全京秀先生らとともにお話をさせていただくことになりまし
た。
國分直一教授典藏與原住民研究研討會
議 程
時間:2011年9月22日(四)
地點:臺大圖書館B1國際會議廳
指導單位:行政院原住民族委員會
主辦;單位:國立臺灣大學圖書館
行政院原住民族委員會臺灣原住民族圖書資訊中心
これにあわせて、國分先生の遺作となる大論文集の日本語版と中国語版が出ることに
なっているのですが、中国語の翻訳を担当している方からSOSが届きました。
本居宣長の『玉勝間』などが引用されていて、もう訳さずにそのままにしようか、と
いう相談でした。
慣れないことですが、数時間にらめっこをして、以下のようなものを送りました。>太字の部分が安渓の仮訳です間違いに気付かれた方は、高校時代の古文の知識
で苦戦中の私あてお教えください。
近世知識人の地方民俗発見
 ;
國分直一
序にかえて
ここで言う近世とは、幕藩体制の確立した徳川時代を指す。この体制の維持、強化
のために考案された参勤交代制は交通の発達を促し、旧教派宣教を締め出すための鎖
国政策と相俟って、国内商工業の発達を促すことになった。
江戸・大坂・京都・博多のような大都市とは別に、交通の要地における宿場町の発
達、沿海海運の発達による港市の出現がみられた。
鎖国政策はとられたが、唯一の国外への開かれた窓となる港市として長崎があった。
しかし国外への開かれた窓とはいっても、わずか約四〇〇坪程の扇形の埋立地に居住
の許されたオランダ人と、中国の交易者を通しての世界への窓であった。
鎖国後、定着した幕藩体制の下で、大都市には豪富を誇る商人の出現がみられるが、
一般的にみても、都市の商工民の生活にはゆとりが生まれている。その上、市民の中
には、封建体制とは直接関係をもたない、比較的自由な知識層も形成されてくる。そ
れらの中には、学問研究に専念するもの、医者、画家等が含まれる。
江戸後期になると、蘭学にとりくむものが医者の中に出現するが、少なくともそれ
までは、医者は本草学の立場に立っていた。一方において、江戸後期には国学の興隆
がある。このことは、体制と密着していた儒教教学の思想からの解放を進める上で、
極めて重要な意義があったと思われる。国学のほかにも、天文学、地理学のような実
理の学に立つ研究者もあらわれている。
江戸時代には、都市を離れて、地方を旅行する者が次第にみられるようになる。
僧侶が諸国を遍歴する例は早くからみられたが、この時代には、庶民が、伊勢の聖
地を訪ねたり、信州の善光寺詣に出かけるような信仰的な旅行もあった。
しかしそのような旅行のほかに、自由な立場に立つ知識人の旅行もみられた。中で
も目立ったのは、医者の旅行であった。ただし当時の医学は蘭学によるもののほかは、
本草学を踏まえたものであったから、その立場の医者には、新しい薬草を見出そうと
する意義が秘められている場合もあったであろう。
その他にも、自由な眼をもつ俳人や画家の旅行もあった。松尾芭蕉は、東北を旅し
て『奥の細道』を残したが、これは文学的旅行であった。
辺境の庶民の土着文化の中に、仏教思想や儒教思想の影響を受けていない、わが民
族の古層の文化を発見できたのは、そのような自由な立場に立つ旅行者によるもので
あった。
そのような発見のほかに、幕末には、意外な地方文化の発見もあった。
辺境の島嶼に遠島の刑に処せられたことから、その島嶼の住民の生活文化を、島民
をとりまく自然とのかかわりにおいて、愛情深く取り上げている者がある。薩摩藩の
名越左源太である。
幕末には、帝政ロシアの南下の急が薄々感じられたことから、幕府の配慮による蝦
夷地、すなわち北海道から、より北域に及ぶ探検も行われている。その探検的調査に
は、幕臣の中の知識人が起用されている。この場合はアイヌ文化とのかかわりを考え
る上で意義深いものとなっている。それは山丹交易によるアイヌ文化への影響をさぐっ
てみてもわかる。すでに十八世紀後半の時期に、幕府の巡検使に随行して蝦夷地には
いった古川古松軒は山丹交易とのかかわりについて眼を光らせている。幕末、幕臣に
よる北地探検者は、より細やかに山丹世界とのかかわりを、その探検的紀行において
報告している。しかしそれら紀行を通じて、北方大陸地区とのかかわりをさぐる試み
は、本稿の主題として取り上げようとする問題とは別の問題となるので、他日にゆず
りたい。
一 学識者の民俗への関心
1 西川如見の固有文化発見
西川如見(一六四八~一七二四)は、鎖国時代における唯一の国外に開かれた窓と
しての意義をもった長崎の生糸鑑定を行う地役人の家に生まれた人であった。しかし
彼は、天文学・地理学を学び、交易経済に関心をもった実学系の学者であった。彼に
は、『日本水土考』『華夷通商考』のような、学問的論考のほかに、若干の随筆があ
る。その中に、町人、百姓の心得、教訓を随筆風に書いた『町人禹(ぶくろ)』『百姓
禹』がある。その中の前者には、仏法渡来以前の本来の民族的習俗を七月の盆行事に
見出している所がある。
或人の云。七月の盆を一偏に仏道の儀ともいひ難し。七月十五日を中元の日といひ
て、儒道にも位牌を祭る事あり。何れも祭りは三日又は七日を潔斎する事なれば、中
元の祭を致さん人は十三日などより潔斎勿論の義也。燈篭も強ち天竺仏法のみにあら
ず。古より唐土にありと見えたり。又日本にての聖霊祭の体も、一向に仏法のみに用
いるものにもあらず。みな萩、青萱の莚、土器、麻がらの箸など唐天竺の様子にはあ
らず。神道の玉祭の体なりといへり。
ある人がこう言っている。(陰暦)7月の盆行事は、一概に仏教行事とは断言でき
ない。7月15日は、儒教でも中元の日として位牌を祀ることがある。儒教の祭は、3日
とか7日を潔斎するものだから、中元の祭をしようとする人は、(盆行事と同じく)1
3日ごろから潔斎するのはもちろんのことである。灯籠もインドや仏教だけで使うの
ではない。昔から中国にもあると(書物に)見える。また、日本で精霊を祀るやりか
たも、仏教だけのものではない。萩(ハギ)を飾り、緑色のチガヤの筵、土器、麻の
繊維をとったあとに残る芯でつくる箸などは、中国やインドの風習ではない。これら
は、日本神道の(祖先供養の)魂祭のやり方であるという。
又さし鯖も仏法儒法にもあらず。神道の風俗成べし。仏法日本に渡らざる以前より、
七月に玉祭といふ事有し物にや。神道の祭は何れも吉礼に用る事なれば、もし鯖を用
ひて先祖の霊をことぶきし物か。夫を仏法渡りて盂蘭盆の説有しゆへ、両方を取合た
る物ならん。都にては盆の礼とて、したしき方へ往来する也。公家方にても盆の礼と
いふ事も有し。細川幽斎老吉田に閉居ありしを、島丸広郷和歌の師なる故七月十四日
盆の礼に吉田に參ると耳底記に見えたり。又躍も世俗の事ながら神道に近くて儒法仏
法にあらず。いづれにしても盆の祭はよき事也。
また、(鯖の腹を割って塩をいれた)「刺し鯖」(を盆に食べる習慣)も、仏教に
も儒教にもない習慣である。神道の風俗であろう。仏教が日本に渡ってくる以前から、
7月に玉祭という行事があったのかもしれない。神道の祭はいずれもめでたい祭であ
るから、ひょっとすると鯖を使って先祖の霊(の来臨を)を祝福したのかもしれない。
その習慣を、仏教が渡ってきて盂蘭盆という行事があったので、両方をとりあわせた
のであろう。さらに、都では盆の礼と称して、親しい家を訪ね歩いたりする習慣があ
る。公家の方々でも盆の礼ということもあったものである。細川幽斎(1534-1610、
戦国武将で歌人)が晩年(京都の)吉田で悠々自適の暮らしをしていたとき、烏丸広
郷が、(細川幽斎が)和歌の先生であるからということで、7月14日に盆の礼として
吉田に行った(and吉田神社に参った)と(細川幽斎の口述を公家の烏丸光広が筆録
した)「耳底記」に出ている。また盆踊りも世俗のことではあるが、神道に近い習慣
で、儒教にも仏教にもない。いずれにしても、盆の祭はよいことである。
西川如見は、盆行事をみる上で、比較文化的立場に立っている。彼は儒学を修めて
いたので、唐土の風俗と照らし合わせ、同時に天竺(印度)の仏教の習俗とのかかわ
りを問題にしている。その上で、儒法、仏法両方にかかわりをもたないものに、わが
民族の古層の民俗を見出し、それを「神道の風俗」であると述べているのである。
西川如見は十七世紀の後半から十八世紀の初期にかけて活躍した人であるが、十八
世紀を通してみると、学者、医者、画家、その他文人において、誠に多彩な人物が登
場活躍している。それらの人々の中から、辺境の庶民文化の中に、わが民族の古層の
文化を発見した人々をひろってみたい。
2 本居宣長の辺境文化への着眼
本居宣長(一七三〇~一八〇一)は伊勢松坂の商人小津三四右衛門定利の長男とし
て生まれたが、父の死後、家業が衰えたことから、京都に出て堀景山に漢学を学び、
さらに医学を堀元厚に学んで、姓を祖先の姓の本居に改め、実名を宣長と改めたので
あった。
京都にいたころから契沖の著述に親しみ、古代文学の研究に関心をもつようになっ
ていたが、一七五七年、松坂に帰って小児科医を開業してからは、賀茂真淵の著述に
学び、後、賀茂真淵に入門して、学究を深めていった。 彼には、多くの古典をめぐ
る研究的著作があるが、筆者がここで取り上げようとするのは、彼の随筆集『玉勝間』
である。同書は、宣長の畢生の大著となった『古事記伝』の執筆が着々と進められて
いた寛政五年(一七九三)以降没年に及んで認め続けられていたものであった。
筆者は、宣長がその学問的研究を展開させる上で、日常、どのような思索を行って
いたものであろうかと思いながら、『玉勝間』をひもといたのであった。筆者が最も
強い感銘を受けたのは、宣長が庶民、とくに辺境の庶民の土着の生活文化の中に、わ
が民族の古層の思想を見出していることであった。宣長は単にその発見を書き残して
いるのではなく、古典に照らして検証を行っているのである。
日本民俗学の基礎構築の進められた時期に柳田国男に協力した折口信夫がとった方
法、すなわち民間伝承を通して、古典の思想を追体験し、古典を通して民間伝承の思
想の深さを探ろうとする方法は、すでに宣長によって取り上げられていたことを知っ
たときの感動を忘れることができない。
宣長がその方法を見出すことになったのは、次の事情によるところがあったと思わ
れる。
一つには、彼自ら美濃、京都、大和、紀伊などを度々旅行していたことによるもの
であろう。その上、彼には、辺境の地方にわたる諸国に多くの門人をもっていたこと
から、辺境の庶民文化について報告を受ける機会にめぐまれていたのである。
医を業とする宣長は、民俗の研究者が広く探訪を試みるような形で研究を進めるこ
とはできなかったことはいうまでもない。しかし諸国の門人との交流を通して、発見
の喜びにひたったり、問題意識を深めることもできたのであった。その場合、彼には、
検証を進める上で、古典があったのである。
以下、若干の引用を通して、宣長の方法を窺い、なお、古典を通して、見事な洞察
の加えられているものをあげてみたい。
(1) 讃岐ノ國人女をよばふに藁を結びておくる事 (『玉勝間』巻十三所収)
さぬきの国の人、女をよばふに、藁をむすびておくるわざあり、此事、かの国にて
も、城下などいふやうのところの人は、しらぬを、なべての所の里人どもは、皆する
事也、 かくのごとく結びておくるに、いなといふ返事には、
かくのごとく引分てかへし、あはむといふかへりことには、 かくのごとく、結びめ
を、中へ引よせてかへすなり、もし万葉に玉梓といへるは、かかる事にはあらじか、
今の世に、草の実の仁に、玉づさといふがあるも、件のわらの結びざまに似たりと、
かの国の山田六郎高村が許よりいひおこせたり、
(1) 讃岐(今日の香川県)の国の人が、女性に求愛するときに、藁を結んだもの
を贈ること(安渓仮訳以下同じ)
讃岐の国の人は、女性に求愛する時に、藁を結んでおくるという習慣がある。この
ことは、讃岐でも、城下町などの人は知らないが、どこの田舎でもみなすることなの
である。(図)このように結んで贈ると、「いいえ」という返事には、(図)のよう
に結び目をほどいて返し、「お会いましょう」という返事は、藁を引いて結び目をし
ばって返すのである。万葉集にある玉梓(たまあずさ)という言葉(便りを伝える使
者が梓(あずさ)の杖を持っていたところから、使者を指す言葉だったが、のちに巻い
た手紙の中ほどをひねり結んだもの、多くは恋文を指すようになった)は、ひょっと
するとこういうことだったのではないだろうか。現代に、(カラスウリという蔓)草
の実の種で(玉あずさの略と思われる)「玉ずさ」と称するものがあって、この藁の
結んだものに似ていると、讃岐の国の山田六郎高村が書き送ってくれた。
この興味深い連絡の方法をもっていた讃岐の里人の社会が無文字社会であったとは
思われないが、無文字社会にさかのぼっても、何らかの交信の手段のあったことが示
唆されていて興味深い。
「万葉に玉梓といへるは、かかる事にはあらじか、今の世に、草の実の仁に、玉づ
さといふがあるも、件のわらの結びざまに似たり」とする宣長の門人山田六郎高村の
所見に対し、宣長はコメントしていないが、興味深い資料として書きとめておいたも
のであろう。
物質文化にふれたものもわずかにではあるが、取り上げられている。
(2) さはぼくり(『玉勝間』巻七所収)
土佐ノ国にては、沢木履といふ物有て、深き田におりたつには、おちいるまじきた
めに、はく也と、かの国人かたりき、
サハボクリは、タゲタ、ナンバ、カンジキ、ワヅケ、ゲローアン、イタブクリなど
と、所によって、色々によばれている。弥生時代の登呂遺跡や山木遺跡の出土遺物の
中にも見出されていることから、早い時代から使用されていたものであることがわか
るが、宣長には、珍しいものと思われたものであろう。
(2) さわぼくり
土佐(高知県)の国では、「沢ぼくり」というものがあり、深い田に降り立つとき、
深みに陥らないために履くのだと、土佐の国の人から聞いた。
(3)木綿の布 (『玉勝間』巻十二所収)
いにしへ木綿といひし物は、穀の木の皮にて、そを布に織たりし事、古はあまねく
常の事なりしを、中むかしよりこなたには、紙にのみ造りて、布におることは、絶た
りとおぼえたりしに、今の世にも、阿波ノ国に、太布といひて、穀の木の皮を糸にし
て織れる布有、色白くいとつよし、洗ひても、のりをつくることなく、洗ふたびごと
に、いよく白くきよらになるとぞ、此事、出雲ノ国の千家ノ清主のもとより、ちかき
ほど、書のついでに、いひおこせて、かの国より得たりとて、そのちひさきさいでを、
見せにおこせられたるを見るに、げにいとかたく、色しろくきよらなる布にぞ有ける、
こはかの阿波ノ国人に、なほよく尋ねあきらめまほしきこと也、又これを思へば、他
の国々にも、あるところ有べきを、ひろくたづねしらまほしきわざなりかし、
(3)木綿の布
大昔、木綿といったものは、穀(かじ)の木の皮で、それを織って布にすることは、
昔はどこでも普通のことだったのだが、中昔からこちらは、紙を作るだけで、布に織
ることはなくなったと記憶していたのに、現在でも阿波の国(徳島県)では、太布(
たふ)といって、カジノキの木の皮を糸にして織る布がある。これは、色が白くてた
いへん丈夫である。洗うときも、糊をつけなくても、洗うごとにますます白くうつく
しくなるのである。このことは、出雲の国(島根県の一部)の千家ノ清主から、最近
手紙のついでに教えてもらって、阿波の国から入手したといって、その太布のちいさ
い切れ端を見せてくれた。それを見るとたいへん丈夫で、色は白く美しい布であった。
この作り方は、阿波の国の人に、もっとくわしく尋ねてはっきりさせてみたいことで
ある。また、これから考えてみると、他の地方にもこういう布を作るところがあるは
ずで、広く尋ねて知りたいと思う技術であることだ。
宣長が親しくしていた出雲の千家清主から阿波国で太布とよばれていた穀の木の皮
からとった糸で織った布について、サンプルをつけて知らせてもらった時の宣長の興
奮がわかるように思われる。
「かの阿波ノ国人に、なほよく尋ねあきらめまほしきこと也」と記し、また「他の
国々にも、あるところ有べきを、ひろくたづねしらまほしきわざなりかし」と書きつ
らねているところは、民俗研究者が、何らかの発見を契機に、広い調査を進めていこ
うと意気込む事情に似ている。
太布の本来の姿は、樹皮の靭(じん)皮(ぴ)を水にさらして、叩いて作製した樹皮布
に起源している。その樹皮布は Tapa,Tape,Tafe と変容はあるが、タフ系のよび方で
広く南太平洋水域の島々において製作されていたこと、又漢代華南の通邑大都で、榻
布(答布)と同系のよび方をされていたものも樹皮布であったことを宣長が知ったら、
どのように驚いたであろうか。
(4) 土佐国に火葬なし (『玉勝間』巻七所収)
土佐国には、火葬といふわざなし、さる故に、かの国人は、他国の、火葬にするこ
とをかたれば、あやしきわざに思へりとぞ、これもかの国人のかたりけるに、そは近
き世のさだめかととひしに、いにしへより然りとぞいへる、
(4)土佐の国に火葬なし
土佐の国には、火葬という習慣がない。だから、土佐の人は、よその地方では火葬
にするということを聞くと、不思議な習慣だとおもうのだと、これも土佐の人が語っ
ていたが、「それは最近のことでしょうか?」と聞いてみたら、「大昔からそうなん
です」という返事だった。
近世において都市が発達するにつれて、火葬は普及していったとみられるが、辺境
の地には、古来の葬法が伝習されていることを語る資料として、かかげたものであろ
う。
(5) 信濃国の或村々の神事にうたふ歌(『玉勝間』巻十三所収)
ある人のいはく、しなのの国の、天龍川の河上なる、川村和田きさなどいふ里々の
神事に、湯釜に湯をわかしたぎらせて、そのめぐりに、幣を立おきて、夜ふけて、そ
の釜のほとりに、里人男女、老たる少き、うちまじりつどひて、その幣をとり持て、
うたふ歌、
おゆめすときのな、おみかげこぐそく、やくもだのぼれく、
(5) 信濃の国(長野県)のある村々の神事に歌う歌
ある人によれば、信濃の国の天竜川の川上の川村・和田・きさ などという村々の
神事に、茶釜に湯をわかして沸騰させ、その廻りに紙の御幣をたておく。夜が更ける
と、その釜のまわりに村人の老若男女が集まって、その御幣をとってこんな歌をうた
うという。
お湯召す時のな、お身陰漕ぐそ?、八雲田登れ
http://www2.otani.ac.jp/hi/miyashita/2005_thesis/0248074/nomura.html
宣長は農事や神事・祭事に関心をもっていたことは、『玉勝間』に収載されている
項目を見るとよくわかるが、この信濃の川村、和田、きさなどという村の神事とその
際に村人の歌う歌「おゆめすときのな…」、古層の祭式と思想が窺われることから、
宣長の関心をひいたものであろう。
耕して天に至ると言われるような千枚田に、湯釜にたぎらされた湯の湯気の這い上っ
ていく情景に神のみ影の立ち上るのを里人たちは実感したものであろう。「ある人の
いはく」とあるので、伝聞によるものであることがわかるが、貴重な記載である。
(6)出雲大社金輪の造営の図(『玉勝間』巻十三所収)
「出雲の大社の御事」なる記事の後に、同社造営について次の記事がかかげられて
いる。
出雲ノ大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり、中古には十六丈あり、今の世の
は八丈也、古の時の図を、金輪の造営の図といひて、今も国造の家に伝へもたり、其
図、左にしるすが如し、
(6)出雲大社金輪の造営の図
出雲大社の神殿の高さは、上古には三二丈あったが、中古には一六丈となり、現在
は八丈である。大昔の時の図を、金輪の造営の図といって、いまも国造(くにのみや
つこ)の家で伝え持っている。その図は左に示した通りである。
大型木柱を用いた建造物は、縄文時代にさかのぼって、東北地区において知られて
いるばかりでなく、日本海沿岸部において、新潟から北陸地方にわたって出現してい
ることが考古学的調査を通して知られている。木柱の大きさからみて、高層の建造物
の出現していたことが考えられる。
弥生時代には、鳥取県淀江町出土の収骨土器の頚部に、集落の一角に聳える高層の
営造物の刻画が見出される。
出雲大社の高層建築には、遠古の時代にさかのぼる伝統が秘められていたものでは
なかろうか。
宣長が、彼の門弟を通して、或いは親交のあった友人を通して、辺境の地方の民俗
文化について知見を深めていたことは、以上の諸例によってわかる。
『玉勝間』を岩波文庫に収めるに当たって、校訂を行った村岡典嗣は、「恰も山野
河海、都市村落を送迎する旅路を行くの感あらしめる。」と述べている。その多彩な
記載の中から、宣長が門弟、或いは知友を通してえた辺境の庶民の生活文化にかかわ
る記事をわずかに拾ったのであるが、別に辺境ではなく、彼が古都で拾った民俗的記
載にふれておきたい。
(7) 相撲人犢鼻褌の出立(『玉勝間』巻十一所収)
同書裏書に、予検舊記 一、正暦四年七月廿二日【戊申、】内大臣【右大将】於
粟田相撲人給食 【公卿五人会】凡并八番勇力、其後最手以下五人、犢鼻褌列立庭
中 一、見了帰入【下略】と有、犢鼻褌の出立、そのかみより有しこと也けり、栄華
物語ノ根合ノ巻にも、すまひの事をいへるところに、はだかなるすがたどもの、なみ
たちたるぞ、うとましかりけるとあり、
(7)相撲取りのふんどし姿での出で立ち
同じ本の裏書きに、「私が古い記録をみたところ、次のような記事があった。『正
暦四年7月22日(西暦993年)、内大臣(右大将)が粟田で相撲取りに食事を提供した。
全部で8番の取り組みのあと、最手(ほて、もっとも力の優れた者)以下、5人がふ
んどしで庭の中に並び立ったのを見終わって帰った(以下略)』」とある。ふんどし
姿での出で立ちはこんな昔からあったことだったのだ。『栄華物語』の「根合(ねあ
わせ)」の巻にも、相撲のことに触れたところで、裸である姿の者たちが並んで立っ
ていることが、嫌だった」と書いてある。
この記載は、相撲人は公共の場所においても、きまった形式の褌のままで、出立つ
ことが許されたことを語っている点において風俗史の資料としてよかろう。きまった
形式とは、前から見たとき、犢(子牛の鼻)の鼻面のように見える締め方を示す形式
で、今日の国技館の相撲人も同様の形式の褌を締めている。幕末、奄美大島に遠島に
処せられた名越左源太は、この形式の褌をつけている島民の男たちのスケッチをしば
しばかかげている。南海島嶼地区の水人たちは、皆この形式の褌をつけている。
(8) 霊屋 (『玉勝間』巻十
一所収)
栄花物語鳥辺野ノ巻に、一条ノ天皇の皇后宮のかくれさせ給へるを、をさめ奉る
事をいへるところに、鳥辺野の南の方に、二町ばかりさりて、たま屋といふものをつ
くりて、ついひぢなどつきて、こゝにおはしまさせむとせさせ給ふとあり、今の世に
御霊屋といふ名、此たまやなり、然れどもかのたま屋といへる物、今の御霊屋と、全
く同じとは聞えず、いさゝか事かはりてぞきこゆる、
(8) 霊屋
『栄華物語』の「鳥辺野(とりべの)」の巻に、一条天皇の皇后様がお亡くなりに
なったのを、埋葬するということを言っているところに、(火葬場のあった)鳥辺野
の南の方に2町ほど離れて、「たま屋」というものを作って、築地(ついじ)塀などを
築き、「ここに(霊が)来てくださるでしょう」ということになさると書かれている。
現在「御霊屋」というのは、この「たま屋」である。しかし、昔の「たま屋」という
物と、今の「御霊屋」とがまったく同じとは思えず、かなり様子がかわっているよう
に思われる。
栄華物語の記事にあらわれた高貴の人の素朴な霊屋と後代の霊屋を対比させて、霊
屋の本来の意義を考えようとしたものであろう。
近世において、国学の大成にかかわりをもった著名な学者はほかにもいるが、辺境
の民俗と古典を対比させて、わが民族の古層の姿をとり出しうることを教えてくれた
点において、宣長は、まことにユニークな存在であったといえよう。
以下略します。本が出るのをおたのしみに。