2010 年環境問題授業・最終レポート抜粋
2010/08/14
今年も「環境問題」の授業がおわりました。http://kyoumu.ypu.jp/o.php?code=B110100
学生による授業評価の結果は、報告がありしだいこのブログで公開いたします。
実は、昨晩、3時半までかかって、約100通の、2010年の「環境問題」授業
のレポートを読ませていただきました。いつもぎりぎりにならないと何もできない、
試験の直前ににわか勉強をしていた学生時代とあまりかわっていません。レポートの
課題は「私にとって最大の環境問題」で1200字以上です。
読ませていただいて、「ほほう」と思った部分があるレポートをご紹介させていた
だきます(成績とは直接関係ありませんが)。
引用の仕方については、ここに紹介したレポートはかならずしもお手本として100点ではありません。http://ankei.jp/yuji/?n=287 などをご参考になさってください。
ワープロの書式から変換した結果、注などがすこしもとの書式から変わっているこ
とをおことわりいたします。
◎流されるままに、しかし意志は強く
私の意志は流されやすい。
「意志」という言葉を辞書で引くと、「ものごとをなしとげようとする積極的な気
持ち。強いはっきりとした意向」とあった1)。強いはっきりとした気持ちを、はた
して私はどのくらい持っているだろうか?
私は、今まで「環境問題」と言えば、地球温暖化、海面上昇、砂漠化、森林破壊・・
・・・・といった、地球規模の環境の変化ばかりに目を向けてきた。もちろん、これ
らも切っても切り離せない問題である。しかし、この「環境問題」の授業を受け、そ
のイメージはぐるりと変わった。自転車で日本2周をした人、半農半菓で生きるかっ
こいい人、森のコンサートが印象的だったあったか村、栄養を学ぶ者としては興味津々
だった食物の安心・安全に関するDVD、原子力発電について初めて深く考えることが
できた祝島の映画・・・・・・1回1回の話が、どれもつい昨日のことのように思い出
せる。お世辞ではないし、今までの先生方にもとても失礼だが、こんな授業は本当に
初めてである。夢中になって授業を受けていたら、あっという間に終わってしまった。
最初の授業が終わったとき、こう思った。
「環境問題ってなに?」
全ての授業が終わった今でも、この答えは見つからない。それでもいいのではない
か?とも思う。授業の内容が広義であったように、環境は動植物や大気などだけでは
なく、私たちの衣食住や身体にも深い関わりを持っている。そんなさまざまなテーマ
の授業で、さまざまな人から、さまざまな話を聴いたが、その都度、その話、その人
に共感してきた。友人と話をしていても、自分の意志は見落としたままでいる自分が
いた。間違ったことは話していないのだから当たり前なのかもしれない。しかし、ふ
と一人になって思い返してみると、決して全てに共感できるわけではないことに気が
ついた。社会心理学ではこのことを「集団の圧力」というようだ。これは集団メンバー
の考え方や志向、行動、好みなどを似通ったもの、あるいは同一にするようにはたら
きかける力のことである2)。人の話を聴くと、どうしてもその話に頷いてしまう自
分がいる。
つまり、私の最大の環境問題とは「さまざまな話に対して頷き、自分の意志がその
都度いろいろな方向に流されてしまうこと」である。
環境問題は規模が大きすぎるため、全ての分野において広い知識を持つことはでき
ないのは明らかである。そこで他の人の話や書籍、テレビなどから情報を受けて知識
を広げていくのだが、ここで注意したいことが2点あるように思う。一つ目は、情報
の正確さを確かめられないことである。数え切れないほどの情報が毎日飛び交う現代
では、どれが正しくてどれが嘘なのかどうか判断が難しい。溢れる情報の中から自分
が納得できる情報を見つけ出すのは、とても困難なように思う。二つ目は、人はその
人にしかない価値観や偏見を持っていることである。人は、自分以外の人の気持ちを
全て理解することはできない。そのため、自分とは違う価値観を持つ人から聞いた話
を、全て理解することも不可能なのかもしれない。
私は意志を強く持つことができる人になりたい。情報に惑わされず、正しい判断が
できるようになりたい。強い意志を持つことで、さまざまな環境問題に対しても、自
分の足元から考えることができるように思う。この問題を解決するには、まだまだ時
間がかかるかもしれない。しかし問題に気付くことができた。まずは流れるままでも
いい。しかし意志は忘れず、一歩一歩、自分はどうしたいのか?どうすればよいのか?
確かめながら歩いていこうと思う。
参考文献・資料
1)新選国語辞典 第8版、金田一京助 他、株式会社小学館、2003.12.20
2)社会心理学入門、南博、株式会社岩波書店、1998
◎食べること・生きること
1.はじめに
今回、環境問題を受講して、メディアなどで報じられている薄っぺらな表面の問題
ではなく、現場の生の声を聞くことができた。上関原発問題や、岩国基地問題、半農
半Xなどは特に私が心に衝撃を受けた講義であった。足元の声を聴く中で、私が思う
最大の環境問題とは何かと考えたとき、「食べること」ではないかと感じた。生きる
ために人間はエネルギーを使い、食料を生産し、消費する。食料を得るためなら戦争
もしてしまう。また、私たちの食べるものを生産するために、自らの生活を犠牲にし
ている人たちもいる。食糧が平等にいきわたらない世の中に矛盾を感じるとともに、
エネルギー問題は私たちの生活に直結していると考え、食とエネルギーをテーマに自
分の考えをレポートにまとめた。
2.食とエネルギー
食糧を得るために、私たちは作物の栽培をし、畜産や漁などをしている。さらにこ
れらを加工食品にするためには様々な機械を動員して製品を生産しなければならない。
世界各国の間で食物の輸出入が行われているが、今や自分の食べる分だけを作る時代
から、顔の見えない消費者への生産へと移行されている。食料生産の現場は、多くの
機器が利用されそれに伴って使用されるエネルギー(石油など)は計り知れない。こ
のように、食糧を生み出すためにはエネルギーが必要不可欠である。
ドキュメンタリー映画「いのちの食べ方(OUR DAILY BREAD)監督:Nikolaus G
eyrhalter、配給:Espace sarou、(2005)」では、食料の大量生産の様子をみること
ができる。映画に出てくる植物・動物は「いのち」ではなく、もはや「もの」として
扱われ、食料生産の現場は工業化され、いかに効率よく生産するかという人間の業を
見ているようでもある。日本は食料の6割を輸入に頼っているが、輸入に必要な輸送
機関の燃料だけでなく、食料生産に関わるエネルギーを輸出国に負担させているとい
うことでもある。もし、エネルギーの枯渇が起こり食料を輸入できなくなった場合、
現在の日本が100%食料を自給することは不可能である。第一次産業を支える人々の高
齢化が進む一方で、第三次産業の発達により若者の多くは都市に流出してしまう。こ
のような現状により食料を生産できる技術を持っている人が年々減少すると懸念され
ている。
飽食の時代と呼ばれている裏側で、日本と世界のエネルギー確保の問題が動いてい
るように思われる。
3.地球温暖化は本当に起こっているのか
エネルギー、特に化石燃料を消費することで二酸化炭素の排出量が増え、地球温暖
化に影響を与える。このような報道が多くのメディアで数十年前から取り上げられて
きた。しかし、地球は本当に温暖化しているのだろうか。
環境問題を取り上げた書籍によれば、地球温暖化は環境を破壊すると錯覚しがちで
あるが、地球の気温は常に変動しており、縄文時代や平安時代は今より気温は1、2度
高く、また400年前の中世の小氷河期も良く知られている寒冷期であった。現在起こっ
ている温暖化は普通に考えれば、太陽活動などの周期的な温暖化現象の一つで、400
年前の小氷河期からの回復期にあたると考えられる。以前、日本で気温が40度を超え
るところが出たのは、二酸化炭素により温暖化の影響ではなく、名古屋や東京の都市
化の熱が南風で東北方向へ流れ、盆地や平野で最高気温を出したのに過ぎないのでは
ないか、とある[参考文献「食料がなくなる!本当に危ない環境問題」、武田邦彦著、
朝日新聞出版、(2008)]。また、逆に寒冷化が起こると食料生産量は減少し生物は生
育出来なくなるため、人間の生存も危ぶまれる。つまり温暖化のリスクよりも寒冷化
によるリスクの方が高いと考えることもできる。
温暖化に配慮しようと、アメリカではバイオエタノールの生産が始まったが、食糧
の不足による餓死問題を抱える国がいる中で、トウモロコシなどの人類の活動に必要
な糖質源をエネルギーに利用するのは間違っている。また、畜産のための飼料には穀
物が必要であり、先進国が食肉を求めるあまりに、本来穀物を必要とする人々への分
配が途切れてしまっている。地球温暖化を懸念するあまり、食糧問題という本当に大
事なことが見えづらくなっているように感じる。
4.食と自然環境
かつては、生産することによって同時に豊かな「自然」が形成されていた。自然環
境という土台を犠牲にして生産を上げることはなかった。つまり、かつては「自然」
が自給されている構造がしっかりと存在したのである。しかし、近代化技術が進歩す
る中で自然を破壊せざるをえない構造がいつの間にか出来上がってしまった。近代化
された暮らしの中で、自然との関係と関わりの深いのは食べ物である[「「百姓仕事」
が自然をつくる」、宇根豊著、築地書館、(2002)]。我々消費者の食べようによって、
環境は守られもすれば、壊されもするということが見えるような、食糧生産、供給が
なされていれば考え方は変わっていたかもしれない。田んぼは、単に米を生産する場
だけでなく、トンボやカエルの生命を育み、「自然」を生み出す役割も担っていた。
食料生産の効率化を求めることは、自然環境の自給の面を切り捨てるということであ
る。日本が食糧の6割を輸入に頼っていることは生産と同時に形成されるべき自然を
失ってしまうことでもある。
自然環境を「守る」のではなく、生産とともに「自給」されていたからこそ、かつ
ての日本は豊かな自然を維持してきた。食糧生産は単なる食糧のみの自給だけにとど
まっていないことを我々は改めて認識する必要がある。持続可能な社会とはこのよう
なことをいうのではないかと私は考える。そのためには、我々は自分で食べるものは
自分で自給するか、あるいは地元(自分の住む場所)で獲れたものを食べることが必
要である。これにより、食料自給率が上がるだけでなく、地元の自然を形成すること
ができるようになるからである。この基本に立ち返ることで食と自然環境が維持され
ることに繋がらないだろうか。エネルギー資源の少ない日本が海外のエネルギーに頼
らざるをえないことは変わらないが、我々の暮らし方ひとつでより少ないエネルギー
でも食糧生産は可能になると考える。環境問題は新たに生み出す技術が救うのではな
く、我々にできることはまだ数多く残っているように感じた。
5.おわりに
環境問題というと、これまでは地球温暖化やオゾン層の破壊などといったメディア
で大きく取りあげられているものに捉われすぎていた。本当に重要な問題を後回しに
してきた人間の代償は大きい。環境問題だけでなく世界は様々な問題を抱えているが、
その本質をメディアの情報に頼るのではなく、自分の目で、耳で、体で体感して考え
ることが重要だと感じた。
遠くの国々の問題を日本の中で解決することは容易ではないが、もっと足元を見つめ
周囲が今どのような状況にあるのかを探る視点を身につけ、行動に移すことが環境問
題を考える上で必要なことなのだと考える。
引用文献
『食料がなくなる!本当に危ない環境問題』、武田邦彦著、朝日新聞出版、(2008)
『「百姓仕事」が自然をつくる』、宇根豊著、築地書館、(2002)
◎「半農半X」と環境問題
始めに
環境問題とは何か、という問いに答えることは割合簡単だ。大多数の人は、地球温
暖化やオゾン層の破壊、気候変動などの地球規模の問題を答えるだろう。だが、環境
問題とどのように向き合えばよいのか、さらに具体的にいうと、実際に私たちにでき
ることは何なのか、という問いに答えることが出来る人が一体どれほどいるのか疑問
である。かくいう私も、今までその問いに対する明確な答えを持っていなかった。だ
が、私はある一つの考え方に出会い、この考え方による生活を実践している人たちの
話を聞き、これこそ私が環境問題に向き合う最善の方法であるのではないか、という
答えを得ることが出来た。その答えとは、半農半Xという考え方である。全てはまず
足元から始める必要があるのだ。
半農半X
では、半農半Xとは何なのか。この考えの捉え方は人によって少し異なるようだが、
私が最も深く関心を持った定義は
「自分たちが食べる分だけの作物を育てる『小さな農』を行いながら、好きなこと、
個性、天賦の才を生かした仕事をして一定の生活費を得る。お金や時間に追われるこ
となく、人間も地球もストレスから解放されるライフスタイルである」i
というものだ。簡単にいってしまうと、半分は農業をして半分は他の何かをして暮
らすということである。Xは何でもいい。半分会社員でも、半分お菓子屋さんでも、
半分大学の先生でも何でもだ。例えば、自分達の食べる米だけ、または野菜の数種類
だけでも自分達で作る。午前中はXにあたる何かをし、午後は農をする。あるいは普
段はXをし、休みの日に農をする。たったこれだけの「半農半X」の暮らしが、環境
問題に対する最大の解決策だと私は考えている。この場合の環境問題とは、なにも地
球温暖化や異常気象などの問題だけに限らず、人間が生活する上で立ちはだかる諸問
題全体を指している。
持続可能な暮らし
今の人間社会は、お金に依存しきっているといって間違いないだろう。お金がなけ
れば何も買えない、生きていけない。だから働いてお金を稼ぐ。この無限の連鎖が私
たちの生活にのしかかっている。そして、私たちはそのことを理解しながらもこの連
鎖から抜け出すことができていない。
だが、考えるまでもなくお金は食べることのできない、ただの紙切れだ。たしかに
食べ物を買うことはできる。逆にいえば、買うことしかできない。もしも今までのよ
うに食べ物を買うことができなくなったら、それどころか、お金になんの価値もなく
なってしまったら私たちは生きていけるだろうか。答えははっきりと「否」といえる
はずだ。
だからこその「半農」なのである。人は最低限食べる物さえあれば生きていける。
その最低ラインだけでも自分で何とかする、つまり持続可能な生活を送るための解決
策が「農」なのだ。そして、実際に大きな問題に取り組むための力が「X」の部分に
あたる。大きな問題にはどうしても多くの人の力が必要になる。そこで自分のできる
こと、得意なことをすることで、社会的な問題を解決し世間に貢献するのだ。このこ
とにより、日々の生活にどうしても必要なお金を稼ぐことも出来る。
私の「半農半X」
自分自身でも驚いたのだが、実をいうと、私は今まで知らずして半農半Xを実
行してきていた。具体的にいうと「半農半学生」だ。私の家では米は全て自家製
であり、多くの野菜は隣に住む祖母の育てたものだ。だから、私にとって農業はとて
も身近なものだ。田植えや稲刈りには当然のように参加してきたし、休みの日に兄と
どちらが多くの畑の草を取ったか競ったこともある。これからも、農業は私にとって
身近のものであり続けるだろう。そして、その身近であることこそが、私にとっての
環境問題に対する解決策の答えだったのだ。
i引用文献
塩見 直紀 半農半Xという生き方
http://plaza.rakuten.co.jp/simpleandmission/ (10/07/21ダウンロード)
参考文献
安渓 遊地 Ankei’s Active Home
http://ankei.jp/yuji/(10/07/23/ 最終アクセス)
大下 充億 自然菓子工房欧舌
http:/www/oh-shita.com(10/07/23 最終アクセス)
◎人が人らしく生きること
はじめに
人らしく生きること。それは個人個人で変わってくるものであろう。環境問題の講
義を受けるまでの私は、人らしく生きる、ということは先人たちが築いた文明、技術
に沿って生きることだと思っていた。いや、今もそう思っている。しかしそれとは別
に新たな考えが私の頭には生まれた。人らしく生きる、それはつまり、自然と共に生
きることなのではないかと。このレポートでは環境問題から人が人らしく生きるとい
うことについて考えてみたい。
上関町原子力発電所開発問題
講義ではさまざまな題目で、いろんな方々の取り組みを聞くことができた。その中
でも上関町(祝島)の原子力発電所の開発問題について興味をひかれた。1でも述べ
たが、人らしく生きる、ということは先人たちが築いた文明、技術に沿って生きるこ
とだと私は思っていた。原子力発電所はそれにあたるものだろう。そもそもの上関町
原子力発電所開発問題とはどういう経緯で始まったのだろうか。
1982年に中国電力が山口県上関町四代田ノ浦に出力135万キロワット級の沸騰水型
軽水炉2基の建設計画を発表した。原発建設予定地は祝島の対岸、海を隔ててわずか
4キロ先だ。もしここに原発が建設されれば、祝島の島民は毎日原発と向かい合って
暮らさなければならない。また、祝島と建設予定地との間は豊かな漁場で、祝島の漁
師さんたちの生活基盤になっている。いや、漁師さんたちだけではなく、祝島の島民
はみんな、ここで獲れる新鮮な魚や貝や海草を毎日のように食べているのである。こ
の計画が発表された直後から島では当然激しい反対運動が起こった。おそらくこの時
点では島民のほぼ100%が反対であったと思う。しかし、その反対運動が個人攻撃
になってしまったために、原発そのものには反対の立場だが、その反対運動のやり方
に疑問を呈する人たちも現れた。過激な反対派は自分たちの反対運動についてこない
人たちをも推進派と称し、反原発デモの攻撃対象とした。それ以来、祝島は反対派(
9割)と推進派(1割)に二分され、対立するという不幸な状態が続いている。
私は島根県出身だ。島根県にも原子力発電所があり、平成18年10月から3号機の開
発も始まった。1号機にいたっては国産原子力発電所第1号として昭和49年に運転を開
始している。つまり私が生まれる前から、私の出身県には原子力発電所が存在してい
た。私にとって原子力発電所があるのは当たり前だったのである。
少し話が逸れたが、上関町の原子力発電所開発問題を聞いたとき、私は上関町の人々
がどうしてそんなに反対するのか正直疑問だった。しかし映画「祝の島」を観てもう
一つ疑問が浮かんだ。「必ず原子力発電所が必要なのだろうか」と。ここまで島民の
みなさんにストレスを与え、関係性を壊してしまうような原因となってしまうものが
果たして必要なのだろうか。多くの人を犠牲にしてまで作る必要があるのだろうか、
何か方法があるのではないか。
原子力発電のリスク
この「祝の島」を観てから原子力発電について調べてみた。原子力発電の詳しい発
電方法等は専門用語や専門知識が必要なのであまり理解はできなかった。しかし、メ
リット・デメリットは理解できた。まずメリットは、核燃料の交換頻度が低い事や核
燃料物質の国際的な入手ルート・価格がほぼ確立し安定している為に、化石燃料型の
発電に比べて相対的に安定した電力供給が期待できる、発電時に地球温暖化の原因と
される二酸化炭素を排出しない等のメリットが挙げられる。反対にデメリットは、も
ちろん事故のリスクは避けられないこと、ウランから核を作る際に発生する劣化ウラ
ンの軍事転用等が挙げられるが、特に放射性廃棄物の処理についてが一番だろう。こ
の放射性廃棄物には低レベル、高レベルがあり、高レベル放射性廃棄物にいたっては
二分間傍にいるだけで致死量に達する放射線を浴びてしまうのだという。さらに未だ
に最終処分地が決定していない。アメリカやロシア等の広大な土地を持つ国は例外と
して、様々な国で高レベル放射性廃棄物の処理に問題を抱えている国は多いのだとい
う。つまりこんな危険なものの処理を先延ばしにして、日本は原子力発電を続けてい
る。
人らしく
原子力発電は確かに人の技術の結晶であるかもしれない。しかしそのせいで人が苦
しんでしまっていては本末転倒である。さらに、原子力発電所を運転したとき、必ず
人体に無害であるというわけではないらしい。私は初めて原子力発電について様々な
ことを知った。原理云々についてはもちろんのこと、それで傷つく人たちがいるとい
うことも知った。無くなってしまう物があるということも知った。その無くしてしま
う物がとても大切なものであるということも知った。果たして原子力発電は、そういっ
たものを犠牲にしてまで必要なものなのだろうか。私の結論は「NO」である。自分た
ちでは処理できないものの開発を進めて、何が「国民のため、地元住民のため」なの
だろうか。面倒なことは全て未来に任せ、一時だけ豊かであればいいのだろうか。そ
んなことは断じてない。平井憲夫さんという方がこう話していたという。
「最後に、私自身が大変ショックを受けた話ですが、北海道の泊原発の隣の共和町で、
教職員組合主催の 講演をしていた時のお話をします。どこへ行っても、必ずこのお
話はしています。あとの話は全部忘れてくださっても結構ですが、この話だけはぜひ
覚えておいてください。その講演会は夜の集まりでしたが、父母と教職員が半々くら
いで、およそ三百人くらいの人が来ていました。その中には中学生や高校生もいまし
た。原発は今の大人の問題ではない、私たち子どもの問題だからと聞きに来ていたの
です。話が一通り終わったので、私が質問はありませんかというと、中学二年の女の
子が泣きながら手を挙げて、こういうことを言いました。「今夜この会場に集まって
いる大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。
どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、
ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふり
ばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。
原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が
高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もす
るでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」と、泣きながら三百人の大人
たちに聞いているのです。でも、誰も答えてあげられない。「原発がそんなに大変な
ものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。
まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気が
なくなってもいいから、私は原発はいやだ」と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転
に入った時だったんです。「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。
私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う。「
二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。でも私は北海道から逃げない」
って、泣きながら訴えました。私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことが
あるの」と聞きましたら、「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話した
ことはない」と言います。「女の子同志ではいつもその話をしている。結婚もできな
い、子どもも産めない」って。担任の先生たちも、今の生徒たちがそういう悩みを抱
えていることを少しも知らなかったそうです。これは決して、原子力防災の八キロと
か十キロの問題ではない、五十キロ、一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きて
いるのです。そういう悩みを今の中学生、高校生が持っていることを絶えず知ってい
てほしいのです。」
これを読んで私は何か分からないが胸の中がもやもやした。こういった苦しみ、私
自身知らなかった苦しみ、電力会社や国は知っているのだろうか。担任でさえ気付け
なかったのだ、当然知っているはずが無い。しかし必ずそこにある苦しみ。私は何故
かすごく悔しい気持ちだ。国とか電力会社に対してじゃない、それは多分、今まで何
も知らず原子力発電が当たり前だと思っていた自分に対してだと思う。何も知ろうと
しなかった自分に対してだと思う。だからこれからは、知っていきたい。人らしく生
きるっていうことは、自然と共存することもそうだと思う、先人たちの築いた文明・
技術に沿って生きるのもそうだと思う、でも私は知っていくことだと思う。まずは知
り、その上でどうしていくべきか。私が考える人が人らしく生きるということはそう
だと思う。今の人々は、まず知ろうとしていない。だからいろんな問題に対して簡単
に流される。私はそうはなりたくない。そのことに環境問題の講義を受けて気付いた。
これから私は、人らしく、犠牲になってしまっている人たちの苦しみや悲しみも、い
ろいろなことを知って、流されないように生きたいと思う。
◎『自然エネルギーと原子力発電――選択すべき道とは』
上関に原子力発電所を建設するという計画が持ち上がってから、27年が経過した。
約30年という長い年月の間、島民と電力会社、または島民同士で原子力発電所建設
をめぐる戦いが行われてきた。島民が原子力発電所建設を反対する理由として挙げら
れているのが、自然環境の破壊や漁業への影響、原発事故の恐れのためである。しか
し、このような問題は、上関や祝島の人々だけの問題ではなく、私たちの問題であり、
地球全体が取り組むべき問題なのである。講義のなかで「ぶんぶん通信no,1」がとり
あげられ、そのなかで、スウェーデンの取り組みが挙げられていた。「スウェーデン
は電力の自由化が進み、自然エネルギーだけを選択できる仕組みもとられている。ス
ウェーデンでは持続可能な社会をつくる市民の取り組みがすでに始まっている。」と
あった。日本では、居住地域ごとに電力会社が決められており、市民によって選択す
ることはできない。また、環境問題についても、どこか他人毎のように感じられる。
鎌仲ひとみ氏が撮ったDVDのなかで、日本の電力供給の状況をスウェーデンの人が知っ
たときの反応には、同じ地球に住む者として考えさせられる。また、「汚い電気」と
いう言葉が耳に残っているのだが、では、今地球が抱える環境問題を考えるとき、自
然エネルギーはどのようなことをもたらすのだろうか。
現在、日本や世界が使用している電力は主として化石燃料やウランなどのエネルギー
資源によって支えられている。しかし、近年これらの資源の枯渇が心配されており、
また、これらの化石燃料の大量消費にともなう二酸化炭素排出量の増加や環境汚染物
質の排出などの様々な問題によって、京都議定書などに見られるような環境問題に対
する取り組みや「持続可能な再生エネルギー社会」を創ろうとする取り組みが世界規
模で始まっている。化石燃料の枯渇や環境汚染、二酸化炭素排出の問題によって、新
たに注目されたのが、自然エネルギーである。自然エネルギーとは、太陽エネルギー
と地球の運動によって、その地域に周期的に生み出される利用可能な安全でクリーン
なエネルギーのことである。太陽光や風力、水力、バイオなどがこれに相当する。自
然エネルギーは、文字通り自然によって生み出されたものであり、環境に悪影響を与
えることないとされている。しかし、本当に悪影響はないのだろうか。
先に述べたように、自然エネルギーは、太陽エネルギーと地球の運動によって生ま
れたものであるため、エネルギーとして見れば、環境に良いエネルギーと捉えること
ができるだろう。だが、生み出されたエネルギーは、集められ、工場で加工されるこ
とによって私たちが使用することのできる電気となる。つまり、集めたり加工するた
めには、工場が必要であり、その建設のために沢山の重機が使用される。もちろん、
重機からは二酸化炭素が排出されている。環境に良い自然エネルギーを利用しようと
しているはずなのに、その過程では、沢山の二酸化炭素を排出しているのだ。視点を
かえてみると、工場の建設には多額の資金が必要になり、建設したあとも、太陽光を
集めるパネルや風力を集める風車は風雨にさらされるために、その劣化も早いだろう。
そのため、メンテナンスが必要になり、そこでも多額の資金が必要になるのだ。ぶん
ぶん通信のなかで、電気自動車がでてきた。電気自動車は二酸化炭素や窒素酸化物、
硫黄酸化物などを排出しないため、大気汚染を起こすことはない。その点においては、
環境にやさしい自動車だといえるだろう。しかし、電気自動車の動力源である蓄電池
の廃棄はどのように考えるのだろうか。また、電気自動車の需要の増加は、電気の供
給の増加にもつながる。もし、電気自動車が主流になれば、日本に原子力発電所が多
く建設されることは考えられないだろうか。ここで、原子力発電について、もう一度
考えたい。原子力による発電は、その発電過程においては二酸化炭素の排出は少なく、
環境負荷が少ないとしている。しかし、チェルノブイリに見られるような原発事故で
も分かるように、その危険性は非常に高い。また、発電過程では環境への負荷が少な
いとしているが、排出された雑固体廃棄物は焼却され、ダイオキシンと共に放射性物
質を大気や海水中へ放出している。つまり、環境への負荷が少ないと言っているが、
それは矛盾しており、よりひどい環境汚染が原子力発電によって起こっているのだ。
そして、原子力発電のもとになる資源に注目してほしい。日本国内で原子力発電のも
とになる資源、二酸化ウランは手に入らないため、外国から輸入している。ウランは
鉱山にあるため、採掘作業をしなければ手に入れることはできないのだが、そのウラ
ン鉱山の採掘労働者の殆どは、先住民である。採掘現場にいる人は、先住民が殆どで
黒人も少数であり、白人は存在しない。原子力がもたらす人体や自然の影響を考えれ
ば、その資源であるウランが人体にどのような影響を及ぼすものなのか。想像するの
は容易なことだろう。
自然エネルギーとウランによる原子力発電は、両者ともに、環境や人体に良い面と
悪い面の両方を備えている。それでも自然エネルギーが良いとされるのは、原子力発
電の危険性や、それがもたらす環境汚染が自然エネルギーよりも少ないからだろう。
つまり、何を重視するかで、環境問題に対する取り組み方も大きく変わるのだ。建設
やメンテナンスに多額の費用が必要で、建設中に使用する重機は多量の二酸化炭素を
排出するが、その後もたらされる自然エネルギーによる電力供給を重視するのか。そ
れとも、利便性を求め、発電過程で二酸化炭素排出の少ない原子力発電を選び、大気
や海を汚し、ウラン鉱山にいる採掘労働者を被爆させるのか。重視しなければならな
い問題は山のようにあるが、私たちは様々な視点と知識をもって、選ばなければなら
ないのだ。「地球温暖化」という言葉を見て欲しい。日本でも、諸外国でもない。温
暖化は「地球」で起こっているのだ。これから、地球に住む地球人として、より広い
規模で一体となって問題を考える必要があるだろう。
〈参考文献〉
(1)楢木野美郎「光も風も水も氷も雪もバイオもみんな宝もの」東洋書店 2007.5
/2
(2)坂井哲郎「自然エネルギーや燃料電池・原発は地球の救世主か?」東京図書出
版会
2003.5/20
(3)小澤徳太郎「スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」」朝日新聞社 2006.2/25
◎原発をどう受け止めるか
私がこれまで講義を受けて来て印象に残ったことは上関の原発計画とそれに反対す
る島の人々との姿であった。国や電力会社がどういう対応をしてきたか、実際の現場
ではどのようなことが起こっているのか、何故島の人々は反対し続けているのかとい
うことを講義の中で学んだ。だが、私は原子力発電というものが根本的にどんなもの
なのか、どんな問題を抱えているのかなどをきちんと分かっていなかった。そこで、
原発が抱える問題や課題を原発に賛成・反対の両意見、先日受けた講義内容から見て
いき、私自身は原発をどのようなものとして受け止めていくのかを述べていくことに
する。
2.原発について―肯定意見―
まず、原発に賛成している意見からみていく。『偽善エネルギー』の著者武田邦彦
氏が言うには原発にもさまざまな種類があり、チェルノブイリのような技術が未完成
の時に造られた「うまく行けば、うまく行く」というような危険なものから、水を使っ
た安全装置が作動する技術的には安全なものまであり、日本の原発は後者のものであ
ること。また、前者のような「危険な原発」と「原爆」はすぐにでも止めるべきだと
主張している。
日本の原発は技術的には安全だと武田氏は主張しているが、それでも問題があるの
だという。一つ目は地震の問題だ。日本では地震では倒れない原発を造ることができ
る技術はあるのに造らない。原因は国が建設の認可を出す際に「不完全なもの(地震
学)で判断して完全なもの(原発の安全)を求める」いう形をとっていること。だが、
官僚は自身の責任問題になるのを避けるため「地震学でも予測できなかったら仕方が
無い」と言い訳を準備しているのであり、結果として「地震が起こったら倒れる原発」
が建設されるのである。この対策として、初めからその地域を襲った最大震度以上の
耐久性を原発に持たせること、大地震が予測される地域には造らない事を挙げている。
二つ目は核廃棄物の問題。だが、核廃棄物は今の日本の技術で適切に処理し一度きち
んと埋設すれば安全であり、放射線のレベルを自然界にある放射線と同じにしてしま
えば影響はないと著者は言う。
だが、原発や廃棄物処理も政府や専門家の秘密主義によって危険な状態にある。闇
で核廃棄物の埋設地を決めたり、住民への説明会に専門用語を用いて解りにくく伝え
るなど事例はいくつもあり、政府がいい加減だったり業者が利益をむさぼっている今
の状況では危険なままだ、というのが武田氏の主張だ。
3.原発について―反対派の意見―
原発に反対する人々が言う問題点でまず一つ目は核廃棄物の問題だ。「低レベル放
射性廃棄物」は青森県六ヶ所村につくられた埋設センターに運んで埋め捨てている。
埋め捨てるといっても、埋めた後も管理をつづけ、三百年経ったらやっと捨てたこと
になる。「高レベル放射性廃棄物」のほうは、数万年は管理をつづける必要がある。
日本では再処理を基本方針としており、高レベル放射性廃棄物は深い地層のなかに埋
め捨てることとされている。そうすれば超長期の管理をしなくともよいという。(1)
だが、活断層は2000年に1回は動くといわれているので、1万年の間でも日本中の活断
層が5回ずつ動いてしまうことになる。日本に「安全な地中」はないのだという。(2)
安全な最終処理の方法が確立されていないのが現状だ。
二つ目は平常運転時にも労働者の被爆を伴うということ。原子炉のメンテナンスの
為に停止した直後の炉内は放射能がひどく、重装備していても被爆してしまうという。
被爆全体の九五パーセント以上が、電力会社の社員以外の人たちのものである。いま
日本の原発で働いている人たちのなかから、毎年、数人から十数人、あるいはもっと
多くの人が、ガンで死ぬと言われている。放射線被曝の危険性の評価は研究者によっ
て大きな開きがあって、予測されるガン死者の数にちがいがでてくるのだ。原発だけ
でなく、ウランの鉱山や原発で燃やしたあとの燃料の再処理工場などでも、大勢の人
たちが放射線を浴びながら働いている。この人たちの被曝なくして、原発は動かない
のが実情だ。(1)他にも、大事故の危険性がある、電力供給の安定性を脅かす、情
報のねつ造・操作が常に付きまとうといったことが挙げられる。
4.7月16日の講義を受けて
私は講義の中でドイツの原発が事故を起こしたらどうなるかというシミュレーショ
ンの映像を見て非常にショックを受けた。映像にするとよりリアルに伝わって来たが、
放射能に汚染された町と人、多くの死者。周辺諸国にも甚大な被害を与え、日本でも
このようにならないとも限らないと思ってしまうものだった。また、このデータを提
示したドイツ政府は国民に対し本当に正直だと思う。鳩山元首相が地元の原発に使う
機器の製造会社の利権と結び付いているために、原発推進の立場にいると聞いた時は
たったそれだけの為に地域の人を危険にさらしているのかと憤りを感じた。同じ原発
問題でも政府によってこうも対応が違うものなのかとがっかりしてしまった。
5.これまでの意見と講義を踏まえて
原発にはまだまだ乗り越えられていない問題が多い。核廃棄物と放射能による被爆、
汚染被害の問題のみならず、情報操作も看過できないものだ。だが、そのなかでも私
が一番問題に思うのは今の国や企業が闇で物事を決め、情報を正しく公開しないとい
う事だと考える。国や大手の企業が公に公表するものは正しいものだと大概の人は信
じてしまう。
だが、上関原発の生態系調査を見ても分かる通りずさんな調査を正当なものとして
公開するなど、嘘ではないが真実でもない情報を流すのは誰も納得しないし、闇で勝
手に物事を決定してしまうと、2で述べたように本来問題の無かったことが大事故に
つながることにもなりかねない。安全性が全く保証されないばかりかそれを隠そうと
し続ける原子力発電に私は絶対反対だ。事実を隠し、放射能を浴びる人がいて初めて
動く発電所など信用できるものではない。
6.まとめ
今回原発について調べていたが、原発による放射能が一番の問題であるため、上関
のような建設時の生態系の環境破壊について述べられていることが少なかったのが残
念だと感じた。だが、原発は建設される前も後も大きな問題を抱えることがはっきり
した。発電による利益よりも不利益の方が格段に大きい原発など、使わない方が賢明
ではないのかというのが私の意見だ。
参考文献・HP
武市邦彦『偽善エネルギー』(幻冬舎 2009年)
(1)原子力資料情報室 http://www.cnic.jp/
(2)原子力発電って大丈夫なのか?
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/200704/contents05/theme05.php
(2010年7月14日最終アクセス)
◎原子力発電所の影響
授業で何度も取り上げた上関原子力発電所設立の反対問題。島民の9割以上が反対
の意思を表しているにも関わらずなかなか問題は解決されていない。今回のレポート
は、原子力発電所の危険性を論じていき、原子力発電所の実体を理解したい。
まず、原子力発電所とは一体なんなのであろうか。「原子力発電所は、「原子の火」
を動力源とした発電所である。原子力発電所では火力発電所の重油ボイラーの代わり
に原子炉が設けられ、その原子炉の中で中性子によるウランの核分裂反応を制御しつ
つ定常的に起こさせ、発生する熱エネルギー「原子の火」によって高温の水蒸気をつ
くり、それで発電機のタービンを回転させて電気エネルギーを取り出す仕組みになっ
ている。」(①)とある。このときの「原子の火」が熱エネルギーを発生させるとき
に毒性の強い「死の灰」やプルトニウムなどの放射性物質を大量に生み出すことが問
題になっている。どのくらいの量が排出されているかと言うと伊方原子力発電所一基
が一年間操業した後には、広島原爆がまき散らした「死の灰」の訳600発分と長崎原
爆に使用されたプルトニウムの約40発分とが作りだされるという。これらの放射性物
質の人体への影響を見てみる。放射性物質の毒性は、絶えず四方八方に出ている目に
見えない光線である。もし、人間がこの放射線を受けた場合には、身体を構成してい
る細胞や遺伝子などが変質し、重大な障害を引き起こすというのだ。原爆や原子力発
電所事故のような急性放射線障害として現れるのではなく、より目立たない晩発性の
障害をもたらす。晩発性障害には癌と遺伝子的障害がある。癌症状が現れるまでは個
人差があるものの数年ないし数十年の潜伏期間が存在する。遺伝子的障害には、生殖
細胞の遺伝子が放射線の作用を受けて引き起こされる。変質した遺伝子は数世代によっ
て民族全体に拡散した後に、変質遺伝子を両親から受け継いだ子にはじめて不良な性
質があらわれるという恐ろしい結果を招く。これらの晩発性障害には、放射能のしき
い値はないといわれており、人間の体に影響を与えないという意味での許容量は存在
しない。日本が原子力発電所周辺の住民に対して法的に定められている放射線の許容
量は、1年間に500ミリレムである。放射性物質を30年間、あび続けて成人になると、
毎年、癌患者が48000人生じ、22万人ないし220万人の遺伝的障害が子孫に現れるとい
う調査報告がある。これらのことを考えても原子量発電所の代償としてもあまりにも
大きすぎる。
何気ない日常生活を暮らす中で原子力発電所があると安心した生活が送れるはずも
ない。常に放射性物質に怯え、子孫の未来を脅かすような生活にしてはならない。ど
んなに原子力発電所設立側が安心を掲げていても、100%の安心は原子力発電所を建
設しないということである。ぜひとも早急に原子力発電所設立の中止が確定しなけれ
ばならない。
参考文献
①『原子力発電の危険性』 高橋昇 技術と人間 1976年
②『高速増殖炉 もんじゅ』 小林圭二 七つ森書館 1994年
③『チェルノブイリからの証言』ユーリー・シチェルバク訳松岡信夫 技術と人間
1988年
④『原発はなぜ危険か』 田中三彦 岩波新書 1990年
◎未来を守るために
山口県上関町には現在、原発施設が建設されようとしているが、上関の対岸に位置
する祝島の人びとは過去数年に渡りこれに対して猛反対し、反対運動に乗り出してい
る。地域の人々が体をはって原発に反対したのも美しい海を守りたいという一心あっ
てのものだと思われる。
過去の原発事故で有名なのが、1986年の4月に発生したチェルノブイリ原発事故で
ある。この事故の被害により多くの人々が避難や移住を余儀なくされ、多くの人々が
亡くなり、自然が破壊されるなど多大な被害を引き起こした。事件が過去となった現
在でも苦しんでいる人々も少なくないという。原発は現在だけでなく未来まで、人び
とや自然を蝕んでしまうものである。その影響は人間だけに留まらず、その地に棲む
生物たちや自然の生態系をも変えてしまう恐ろしいものである。この悲劇は繰り返さ
れるべきではない。
これは私個人の意見だが、人間がこの地球にいる限り、環境問題には終わりがない
のかもしれない。なぜなら祝島の人びとのように自然を壊さないことを願う人々が大
勢いるにも関わらず、人間の都合だけで自然を破壊し、開拓していく人びともいるか
らだ。しかしそんな中でも、人間と自然は共存していくのがやはり一番の理想である
と私は考える。
またこの講義の中で先生がおっしゃっていた『足もとから平和をつくる』という言
葉に非常に感銘を受けました。人と環境とは決して切っても切り離せない関係なので
あり、これからの未来の地球のためにも環境を守り、さらには共存していく方法を我々
は見つけていくべきなのである。
◎今、私達にできること
「原発反対!!」授業を終えた今でも、祝島の人たちの強い思いが頭をよぎる。山
口県の南東部、上関町にある祝島は、瀬戸内海最後の聖域といわれるくらいの海の地
である。そして豊かな自然と漁場のもと、島の人々は自分達の手で農業や漁業を営み、
自然と共存しながら本当の意味での豊かな生活を送り続けてきた。「他のものはなに
もいらない。きれいな海と山さえあれば生きていける。」映画の中の島の人々はそう
言い切っていた。
原子力発電とは、地球温暖化の影響となる二酸化炭素を排出せずに少燃料でエネル
ギーを得ることができる発電方法である。しかし、原発が建設されると事故が起こっ
たり自然環境が壊れたりという問題が懸念されている。この計画が発表されてから祝
島の人々は15年以上反対運動を続けている。原発が建設されれば、環境だけでなく地
域社会も破壊され、子々孫々に渡って放射能汚染という危険性を残す。自分達が守り
続けてきた自然に恥じないためにも、そしてその宝を未来へと残していくためにも、
島の人々がまさに命をかけて環境を守ろうとしている姿に私は心を打たれた。
しかし、私達はというとどうだろう。地球温暖化問題を例に挙げる。地球温暖化は
現在ある様々な環境問題の中で最も被害が大きく、懸念されている問題である。実際、
日本で異常気象による自然生態系の変化や、大規模な台風やハリケーンの到来、集中
豪雨、それによる水不足など、目に見える問題として現れてきている。それにもかか
わらず、私達は温暖化防止に必死で取り組んでいるだろうか。日本で炭素税の導入や
エネルギー消費量の大きい製品などへの規制が未だ行われていない中、私達は依然と
して豊かなライフスタイルから抜け出せていない。例えば、大学ではクーラーの温度
を下げたり、誰もいない教室でもクーラーをつけっぱなしにしている学生はたくさん
いるし、近場に行くのにどうしても楽で速い車を使ったりする学生もたくさんいる。
このような小さなことから環境問題を意識し、気を配る学生が1人でも増えれば山口
県立大学全体での地球温暖化への貢献ができるかもしれない。
授業で、様々な環境問題に取り組んでいる大人達の話を聞いて、大量生産・大量消
費の生活ではなく、祝島のように自然と共存して生活しているのはほとんどが年配者
の方であった。しかし、これからの地球の未来を担っていくのはまぎれもなく私達な
のである。そのことをしっかりと意識するためにも、環境問題への関心を高めるため
にも、私は、環境問題に取り組んでいる大人達の話をよく聞いて、まずは「よく知る」
ということから始めていきたいと思う。
◎関係ない?!環境問題―私にとって最大の環境問題―
「私にとって最大の環境問題」は、人間が環境問題を自身の問題ととらえていない
こと、何が起きているか知らなかったり、関心を持たないことであると考える。現在、
人間の生活スタイルは変化し、地球資源の大量生産・大量消費をしている。現代社会
の生活はひどく便利であるし、日本に住む私たちは飢えや貧しさをほとんどの人が知
ることはないほど、豊かで物に溢れている。しかし、その便利さや豊かさの裏では、
原子力発電所の建設や森林伐採がおこなわれ、環境破壊によってさまざまな生物たち
の住処や命が奪われたりしている。私たちは、目の前の豊かな生活にとらわれ過ぎて、
その裏側にある問題に気付いているが、見て見ぬふりをしている。もしくは気付こう
としない。多くの人が身の回りで起きていないことに対しては自分には関係が薄いと
思いがちなのだ。
例えば、上関の原子力発電所の問題。原発建設予定地から約4キロ離れた祝島の住
民は、28年間原発の建設反対活動をし続けている。祝島周辺の海は、自然にあふれて
いて、絶滅危惧Ⅱ種のカンムリウミスズメやスナメリなどが生息している場所だ。こ
のことを知っている人がどれくらいいるだろうか。私自身、授業を受けるまで知らな
かった。また、仮にこのことを知っていたとして、自身が日常の中で何かを変えてい
こうと考える人がどれくらいいるだろうか。問題を身近にとらえていないからこそ、
行動に移す人は少ない。祝島の人は命をかけて、この島を守るために問題と戦ってい
る。私たちが環境問題を考える中で足りないのは、このような姿勢ではないか。
だが、中には環境を守るために自ら活動している人もいる。あったか村という村で
活動されている白松博之さんだ。あったか村では、炭窯をつくったり、お風呂を薪で
たいたりと、自分たちの使うエネルギーは自分たちで自然から供給しようとしている。
また、化学物質を出さない、持ちこまないといった点もあったか村の特徴である。(
ウェブページ「山里フォーラム のんたの会 あったか村」より)白松さんは、「場
所やアイデアは、周りに転がっている」とおっしゃっていた。環境問題は、自分の努
力じゃどうにもならないとか専門家の調査とか力が必要だとかいう考えを変え、落ち
ている機会に敏感になり、自分にも環境を変える力があるということに気がつくこと
が私たちには求められると考える。
とは言うものの、そんなに簡単に文明の益から離れて農村の方に住んでみたりと、
生活を変えられるわけではないし、田舎の方に住んでいる人は、今やほとんどが高齢
者である。私たち若者は田舎を不便だと毛嫌いしがちな傾向がある。若者の田舎離れ
を改善するために何ができるだろうか。
やはり、田舎に都会よりも魅力を感じられなければ田舎に住もうとは思えないだろ
う。では、田舎の魅力はなんだろう。そう考えたとき出てくるのは、豊かな自然と人
間関係の深さだ。これらをウリにして若者が田舎をいいなと思えるようにする。本来
の自給自足の生活を体験してみたり、と現地でその生活を実際に体験してみることも
良さを知るために重要なことだと思う。体感しないと分からないことはたくさんある。
そこで、そういった体験ができる場を設けてはどうか。例えば、山口県立大学の地域
共生演習(ウェブページ「地域共生演習2010」より)のようなものである。また、学
校外の人でも参加できるような活動を企画し、参加してもらう。体験がよかったと思っ
た人は周りの人に話すだろう。人間の口コミの力はすごい。人から人へ伝わっていく。
少しでも多くの人がしってくれればいいなと思う。
生活を支えるのは自然。(2009「聞き書き・島の生活誌①」より)これを忘れては
いけない。私たち一人一人ができることは、知ることだ。知らないと何もできない。
環境問題は、私たちの暮らし方と密接に関わっていて、解決方法は足元にあるという
ことに気付き、そこから自分にできそうなことを簡単なことでもいい、1つでもいい
から見つけていく。それが大切だ。
引用ウェブページ
地域共生演習2010(2010年7月19日参照)
http://www.yamaguchi-pu.ac.jp/index.php?M_ID=1203&B_ID=3045
山里フォーラム のんたの会 あったか村(2010年6月30日参照)
http://www.haginet.ne.jp/users/attakamura/
引用文献
当山昌直・安渓遊地=編 2009
『聞き書き・島の生活誌① 野山がコンビニ 沖縄島のくらし』ボーダーインク
◎上関原発建設 私にとって最大の環境問題
今問題になっている上関発問題に関して、原発が与える影響について、上関だけの
問題ではなく身近な問題として考え述べていく。
上関原発建設の理由は、エネルギーの安定供給と経済性を維持しながらCO2排出を
最大限削減するには原子力開発の推進が極めて有効な切り札となることであるとされ
ている[しかし、原発を進めてもCO2排出は減らない、電気が余るなどいくつもの反論
がある。]。(ウェブページ 「環境@エネルギー」より)
上関原発の与える影響はどのくらいのものなのか。まず、上関にいる様々な貴重な
生物の住処を奪うことになりかねない。汚染物質の蓄積により、例えば、スナメリの
数が減少する。これは、スナメリだけの問題ではなく同じ魚を食べる私たちの問題で
もあるのである。原発事故が起こる可能性もあり、地震で原発に影響が出て放射能漏
れを起こすような事になれば、被害は瀬戸内海沿岸全域に及ぶようになる。上関原発
で大事故が発生した場合の急性死の確率を出した京都大学原子炉実験所の資料がある。
それによると、上関町は100%とある。私の友達の地元は95%とあった。(ウェブペー
ジ 「ストップ!上関原発!」より)事故が起きた時、被害に合うのは上関の住民だ
けではないのである。また、上関原発問題が与えた影響はどのようなことなのであろ
うか。問題が与えた影響について、次のことがある。過激な反対派は自分たちの反対
運動についてこない人たちをも推進派と称し、反原発デモの攻撃対象とした。それ以
来じつに15年間[今では28年間である。]、祝島は反対派(9割)と推進派(1割)に
二分され、対立するという不幸な状態が続いている。この間、伝統の「神舞」も2度
中止になっている。かつて誰もがお互いに助け合って生きてきた人たち同士なのに、
今は対立する派閥の人とは互いに話もあまりすることがない。(ウェブページ「祝島
ホームページ 上関原発問題」より)ということ、上関ではないが東海村の原子力施
設の事故によるイメージダウン(全文同様)などの、自然破壊の影響だけではなく人
間関係や風評被害による影響も出ている。
国内に原発がある地域は他にもある。私の地元は島根県であるが、島根にも原発が
ある。3号機が建設中である。実際、これまでトラブルが何件も起きている。全国の
商用原発54基の保守点検状況を5段階評価する制度を導入した経済産業省原子力安
全・保安院は9日、多数の点検漏れなどが発覚した中国電力島根原発1、2号機(松
江市)について「許容できない課題がある」として最低評価の「1」と発表したとあ
る。(ウェブページ「島根原発 保守点検状況 5段階評価で最低の1に」より)価正
直今まで原発に関してあまり関心がなかったのだが、上関の原発問題を聞くにつれて
地元の原発に対して不安が出てきた。貴重な生物がいるわけでもなく、たくさんの自
然があるとは言えないが、少なくとも環境に影響が出てしまうことや、事故に対して
住民が不安になることには変わらない。
実際にそこに住んでいなければ本当の怖さやそこがどれだけ大切な場所なのかはわ
からないと考える。中国電力の上関に対する調査があやふやであったり、重要な問題
であるのに少ない人数で建設が決まってしまったりということが起きているのも、住
民の気持ちを分かりきれていないからではないか。原発を建設したとして、自然や人
間関係やイメージダウンなどの責任が取りきれるのか。祝島の人は中国電力に対して
このような思いも抱えているのではないかと考える。住民と建設する側がお互いに話
を聞きあい十分理解することが必要であると考える。上関に建設しなかったとして、
他の所に建てたとしても必ず何らかの影響は出てくるはずであるので、一番の解決策
は、原子力に頼らなくても良くなるように我々自身が努力することであると考える。
引用 ウェブページ
環境@エネルギー
www.energia.co.jp/atom/kami_menu.html(2010年7月3日参照)
祝島ホームページ 上関原発問題 ストップ!上関原発!
www.iwaishima.jpdiscuss/discuss.htm(2010年7月3日参照)
原子力―yahoo!ニュース 島根原発 保守点検状況 5段階評価で最低の「1」に
(毎日新聞)
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/nuclear_fuel/(2010年7月9日参照)
◎国民の環境に対する意識の低さ―私にとって最大の環境問題―
私にとって最大の環境問題とは、国民の環境に対する意識の低さだ。それが今の環
境問題に必ずしも影響していないとはいえないだろう。では、私たちは環境問題に対
しどうあるべきなのであろうか。
人体や環境に多大な害を及ぼす原子力発電所。それは本当に必要なものだろうか。
答えはNOである。藤田祐幸さんは、「原発での発電量をすべて火力に置き換えても、
7割程度の稼働で事足りる計算になります。」(ウェブページ「日本の原子力発電っ
て大丈夫なのか?」より)とおっしゃっている。しかし国民は、原発を生きていくた
めには必要なものと捉え、政府も事実を揉消すことがある。それは岩国市の米軍基地
問題や、食品の偽装表示などにもいえることだが、日本国民は本当の真実を知らない
ことが多い。私も上関原発や岩国市の問題など身近にいながら知らないことが多々あっ
た。しかし、知識があれば止められた環境問題はあったかもしれない。だからこそ、
国民は自ら知識を得ようとする積極的な態度が必要となるのだ。
また、今の日本人は豊かな生活に慣れすぎてしまっている。環境破壊に対し口先で
は反対だと訴えても、実際の生活では環境破壊の主体者である。しかし危機が身近に
迫ってくると一変して態度を変え批判する。これではあまりにも都合が良すぎる。環
境破壊に反対するのならば、まず自分が環境問題に主体的に取り組む必要があるのだ。
祝島では無農薬栽培を行い、あったか村では化学物質を出さない自然な村づくりが行
われている。そういった人々に続き、私たちにもできることはたくさんある。例えば、
再利用可能なものを使い、ゴミの分別にも力を入れる。電気やコンセントのつけっぱ
なしに注意し、過剰なクーラーや暖房を避ける。ケニア環境副大臣のワンガリ・マー
タイさんは、「毎朝、時刻を知るだけのためにテレビを点けっぱなしにしている家が
あります。たとえば1000万軒の家庭が朝の1時間、テレビを消せば、9万9300キロリッ
トルの石油と14万7000トンのCO2を削減できます。」(プラネット・リンク、2005;3
3)とおっしゃっている。以上のように、小さなことでも皆が行えば大きな効果をも
たらすのだ。
また、私は公共機関の利用の促進を推進していくべきだと思う。一人一人が自動車
の使用を止め、皆で公共機関を使うことで、廃棄物や資源の大幅な削減に繋がるから
だ。実際にドイツのフライブルグでは、以下のようなことが行われている。「街の中
心は自動車の乗り入れを禁止し、代わりにトラム(市電)やバスが走っています。そ
して、自転車用のレーンもしっかり整備されています。(中略)街の外から来た場合、
トラムの近くに無料駐車場が用意されており、街の中心まではトラムを利用して行く
ことになります。さらに、トラムが走る線路は緑化軌道になっています。」(ウェブ
ページ「ecoライフスタイル」より)このような制度により、車大国のドイツは大幅
な自動車の削減へと繋げることができた。同じ車大国の日本に実行できないはずはな
いだろう。しかし、山口県のような人口の少ない地域では、バスや電車などの公共機
関は発達していない。需要が少ない面もあるだろうが、その結果自動車の利用を促し
多くの廃棄物を空気中にばら撒いている。実際に私の友人も、交通の不便から自動車
や原動機付自転車を使っている。それでは地球温暖化は止まらない。自動車利用を促
進させる高速道路の無料化を行う財源があるのならば、交通の便を増やすことに財源
を使ってほしいものである。
環境を改善しようという意識がなければ、必要な知識を得ることはできない。よっ
て何をすべきか分からない人もいるのかもしれない。しかし環境問題は、今生きてい
る一人一人の責任であり、これから生きる人々に大きな影響を与えるものだ。誰もが
住みやすい地球にしていくために、自分は何ができるだろうかと考え動くこと、それ
こそが環境問題に取り組むための第一歩だろう。
引用ウェブページ
ecoライフスタイル
http://ecolife.tappy-style.com/archives/cat207/post_41/(2010年7月2日参照)
日本の原子力発電って大丈夫なのか?
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/200704/contents05/theme05.php(2010年7月2日参照)
引用文献
プラネット・リンク、2005『もったいない』、マガジンハウス
◎再生可能エネルギーとは
再生可能エネルギーとは何を指すものなのか。
風力、太陽光、バイオマス、小型水力、地熱などの再生可能エネルギーから発電さ
れた電力を再生可能電力という。従来の石油、石炭、ガスなどの化石燃料は温室効果
ガスを排出すること、大気汚染の原因となる SOxを排出するなどの問題を持ってい
る。また原子力発電は原料となるウランの供給が限られていることや毒性が何万年と
続く放射性廃棄物を作り出すという問題がある。一方で再生可能エネルギーは、自然
のサイクルを利用している。水力、太陽光、風力は二酸化炭素を排出しなく、バイオ
マス発電による二酸化炭素の排出は植物の二酸化炭素吸収量と同量である。また、地
熱と潮力も発電に使われている。大規模水力発電は、ダム建設に伴い環境破壊および
生物多様性に大きな影響を与えるので、河川を利用したものなどダムを伴わない小規
模水力発電が再生可能エネルギーであると言われる場合が多い。コジェネレーション
や廃棄物発電は従来の化石燃料からの発電と比較し環境に貢献するものである。コジェ
ネレーションは、発電を行う際に発生した熱を給湯地域冷暖房や工業生産に利用する
ものである。このため、 20~30%従来の発電方法と比較し熱効率がよく、二酸化炭
素排出を減少させることができる。
「再生可能エネルギー」の定義は、国、地域、場合などによって違い、大規模水力、
コジェネレーション、廃棄物発電などを再生可能エネルギーとしない場合がある。(
ウェブページ 「WWF グリーンエネルギー」 より)
今なぜ原子力なのか
原子力発電は放射能物質を扱うため、一歩間違えば大変恐ろしいものになりうるが、
世界のあちこちで発電の方法としてかなり普及しているのも利点があるからであると
考える。
原子力は燃焼反応を伴わない。つまり物を燃やさないため、環境に対する影響とい
う点では大変優れたものがある。また、日本がこれからの電力供給を原子力以外に求
めるとすると、水力は大半を開発し尽くしてきており、きわめて限られた小規模な地
点しかない。そうなると化石系燃料に頼ることとなる(逢坂、1988:50,67-68)。
なるほど、温暖化の元であるCO2を出さないという利点で重宝されているといこと
がわかる。しかし、原子力には化石燃料の場合とは違って、二酸化炭素やその他の公
害物質を出さないという利点がある半面、放射能の問題がつきまとうことになる(逢
坂、1988:51)。
ウランの供給も限りがあると考えると、やはり繰り返しいくらでも利用できる再生
可能エネルギーが一番望ましいと考えられる。
上関町の自然
上関町の原発問題は、上関町の人だけでなく各学会までもを巻き込む大きな問題と
なっている。なぜこれほどまでに原発設置に猛反対しているのだろうか。それは、全
国でも数少ない豊かな自然がほとんど手つかずで残っており、透明度が15mというに
きれいな海があり、そのために希少生物も多く生息しているためと考えられる。
上関町長島やその周辺海域が世界的に珍しい希少生物の宝庫であり、瀬戸内海で最
後に残された生物多様性豊かな場所であることが、長島の自然を守る会と日本生態学
会・日本ベントス学会・日本鳥学会などに所属する研究者との共同調査で明らかになっ
た。主な確認例としては①IUNC(国際自然保護連合)絶滅危惧種であるカンムリウミ
スズメの周年生息域②オオミズナギドリの世界初の内海繁殖域③貝類の進化の分岐点
にあるヤシマイシン近似種の繁殖域④世界で1固体しか確認されていないナガシマツ
ボの産地―などである。“瀬戸内最後の楽園”と評されるほど、他の地域では絶滅あ
るいは絶滅危惧種に瀕している生物がここでは健全に生息している。鳥類ではカラス
バト・ハヤブサ、水生哺乳類のスナメリ、原索生物のナメクジウオ、腕足類カサシャ
ミセン、植物のキンラン・ギンラン・ビャクシンなどがある(配布プリント)。
中国電力がなぜわざわざこのような所を設置場所にしたのかは定かではないが、原
発設置反対のためだけでなく、貴重な豊かな自然という点からも以後ずっと守ってい
かなければならない場所だと考える。
上関原発問題
1982年に中国電力が山口県上関町四代田ノ浦に出力135万キロワット級の沸騰水型
軽水炉2基の建設計画を発表した。原発建設予定地は祝島の対岸、海を隔ててわずか
4キロ先だ。もしここに原発が建設されれば、祝島の島民は毎日原発と向かい合って
暮らさなければならない。また、祝島と建設予定地との間は豊かな漁場で、祝島の漁
師さんたちの生活基盤になっている。いや、漁師さんたちだけではなく、祝島の島民
はみんな、ここで獲れる新鮮な魚や貝や海草を毎日のように食べているのである。
この計画が発表された直後から島では当然激しい反対運動が起こった。おそらくこ
の時点では島民のほぼ100%が反対であったと思う。しかし、その反対運動が個人攻
撃になってしまったために、原発そのものには反対の立場だが、その反対運動のやり
方に疑問を呈する人たちも現れた。過激な反対派は自分たちの反対運動についてこな
い人たちをも推進派と称し、反原発デモの攻撃対象とした。それ以来じつに15年間、
祝島は反対派(9割)と推進派(1割)に二分され、対立するという不幸な状態が続い
ている。この間、伝統の「神舞*」も2度中止になっている。かつて誰もがお互いに助
け合って生きてきた人たち同士なのに、今は対立する派閥の人とは互いに話もあまり
することがない。この状態はいつまで続くのだろうか。なんとかして元のような状態
に戻せないものだろうか。(ウェブページ 「祝島ホームページ 上関原発問題」
より)
*伝承によると今から千百十余年の昔、仁和二年八月、豊後伊美郷の人々が山城国
石清水八幡宮より分霊を奉持して海路下向中、嵐に会い祝島三浦湾に漂着した。当時
この地には三軒の民家があったが、生まれる子供は体が弱く生活は苦しかったが、彼
らは一行を心からもてなした。その時に教わった荒神を祭り、農耕(麦作)を始めた
ことにより、以後島民の生活は大きく向上。それからそのお礼にと、島民は毎年八月
に伊美別宮社に「種戻し」に欠かさず参拝をした。そして4年毎に伊美別宮社から二
十余名の神職、里楽師を迎え、本島を斎場として神恩感謝の合同祭事を行うようになっ
た。これが神舞神事の起源である。神舞では三隻の神船を中心に櫂伝馬船等、百余隻
に及ぶ大漁旗で飾った奉迎船が織りなす、勇壮な入船・出船の海上神事が行われ、古
式豊かに三十三種類の神楽舞が新調の苫で小屋掛けされた仮神殿で奉納される。(ウェ
ブページ 「祝島ホームページ 上関原発問題」 より)
共生への道
それぞれの利点や欠点を踏まえると再生可能エネルギーが一番望ましいと考えられ
るが、これはどこでも設置できるというわけではなく、気候や環境に大きく左右され
る。よって、火力発電や原子力発電も少しずつ取り入れながら電力を生産するという
方法が無難なのではないかと考えられる。電力会社や政府も、ただ一方的に計画を市
民に押しつけるのではなく、始めから話し合って両方が納得のいく案を実行した方が、
時間も費用もかなり削減できるのではないか。
(参考文献)
祝島ホームページ 上関原発問題
http://www.iwaishima.jp/(2010年7月22日参照)
逢坂國一著、1988『原発と人間』財団法人省エネルギーセンター
WWF グリーンエネルギー
http://www.wwf.or.jp/activities/climate/cat1277/cat1296/(2010年7月22日参照)
◎山口の環境問題からみる私の育った町
現在、山口では上下関町の祝島で原子力発電所の開発が地域の人たちの中で大きな
問題となっている。この問題が今後どのような形となるかは分らないが、私が生まれ
育った福岡県の黒木町でもかつて県と市民間の対立が起こるような大きな開発があっ
た。
それは、昭和24年に始まった出来事である。福岡県は矢部川流域の総合開発の一環として、洪水防止、農業用水の確保、発電等を目的とする日向神渓谷に県下一の多目的ダムの建設を計画した。昭和32年には約80%の関係者が同意したが、残りの20%は条件論や絶対論をもって反対し続けた。しかし、その願いも虚しく昭和33年に、ダム建設工事が開始された。完成までの3年間はダイナマイトの爆発音が山峡にこだまし、ブルドーザーやダンプカーが唸りを立て続けた。こうして昭和35年に完成し、ダムは操業を開始した。[ 矢部村の歴史:http://snkcda.cool.ne.jp/yabemurasi/2rekisi/index.html]
洪水調節、農工業用水、発電と日向神ダムは、下流域住民に多大の恩恵をもたらし
た。しかし、皮肉にも矢部村にとっては、耕地の減少や人口の流出をもたらし、過疎
化に拍車をかけることとなった。また、日向神渓谷の景観も大きく損なわれ、蹴洞岩
を中心とする奥日向神の景勝地を訪れる観光客も減少した。ダム建設当時、現在の県
道442号線沿いに植えられた千本の桜の木は、今現在も4月には満開となる。湖水と周
囲の杉木立に映えて、訪れる人々に息をのませる美しさを見せてくれる。しかしその
反面、渇水期になると湖底の村が現れ、住居跡や道路、橋などの名残がわびしさを誘
うのである。
私が生まれた時からあるこのダムは、年間を通して矢部川の水量を調節し、私たち
の生活に欠かせない水を与えてくれる。また、私も春には親に連れられ千本桜をよく
見に行った。良い面ばかりが印象に残っているが、過去を振り返ってみると日向神ダ
ムが矢部村の人々にもたらした精神的、経済的な影響はとてつもなく大きい。
近くに住んでいながらも何も知らなかった。ダムが無ければ下流域の人たちは、安
全かつ水にも恵まれた生活を送れていないであろう。直接体験された方の話を聞いた
訳ではないのでなんとも言えないが、このダムの開発が矢部村に何をもたらしたかと
いうと、はっきり言ってわからない。私たちはダムに守られている以上、過去に起き
たこの事実、そして、その後の矢部村の状況を知っておく必要があるのではないだろ
うか。感謝の意味も込めて、決して忘れてはならないような気がする。次に帰省した
時には久々に矢部村を訪れてみようと思う。
新たな試み、開発には多大なお金と人間が絡んでくる。祝島の未来が、どうなるか
はまだ誰にも分らない。デメリットもあれば、メリットもある。どちらが良いのかも
分らない。
信念を貫き通すこと、戦い続けること、これは簡単なことではない。しかし、本当
に守りたいものがあるのならば、私は諦めないでほしいと思う。
矢部村の歴史:http://snkcda.cool.ne.jp/yabemurasi/2rekisi/index.html