北の島からのことづて)岩下明裕さんからのたより
2007/02/09
◎「島のことを書いて金をもうけたら、半額でいいから島に返すんだよ!」>とは、安渓が西表島の石垣金星(いしかき・かねほし)さんから受けている地域研究者への励ましの言葉ですが、山口県立大学の同僚だった畏友・岩下明裕さんがそれをきっちり実行して
おられることを知りました。
朝日新聞 北海道版
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000000702010004
■岩下教授が寄付 根室市に100万円――市、領土関連資料充実へ
根室市は31日、北大の岩下明裕教授から、第6回大佛次郎論壇賞の受賞を記念し
て同市に寄付の申し出があったと発表した。市は岩下教授の意向を受け、寄付金を「
エトピリカ文庫」の開設に充てることに決めた。
岩下教授から「国境地域の発展のために役立ててもらいたい」というメッセージも
伝えられたという。寄付額は同賞副賞の半額の100万円。
「エトピリカ文庫」は、北方領土問題や国境問題などの幅広い資料を網羅する予定
で、来年度の早い時期に同市内の北方四島交流センターに開設する。(引用おわり)
◎一躍、時の人になった岩下さんが、朝日新聞社の雑誌『一冊の本』2007年2月号
に投稿した原稿が届きました。安渓遊地・貴子の『島からのことづて――琉球弧聞き
書きの旅』(葦書房)と同じタイトルにしたから、という律儀な挨拶つきでした。光
栄なことです。岩下さんの許しを得て、手紙の一部と本文全文を引用させていただき
ます。
「戦略的な議論を展開するときでも、私は自分の原点を忘れてはならないと常に自
分に
いいきかせています。安渓さんの本のポジショニングを思い出しながら、この一文を
書きました。このタイトルにしたのもそれを考えてのことです。大義名分を振りかざ
しながら、自分の身を安全なところに置くような人間に、私はあまりなりたくはあり
ません。またお目にかかれるのを楽しみにしております……」
島からのことづて
岩下明裕(北海道大学スラブ研究センター)
I
怒られることを承知で言うのだが、北方領土問題はどこか水俣病問題と似ていると
思う。私は学生時代に数日、水俣に滞在したことがある。当時、水俣病患者の支援の
ため、各地からたくさんの人たちが現地を訪れていた。彼らは水俣で見聞きしたこと
を都会にもち帰っていく。彼らの報告は各地で様々なネットワークに繋がり、それに
よって水俣病患者の支援運動は維持され、発展する。
これ自体、感謝すべきことに違いない。だが、現地での受け止め方はいささか複雑
であった。各地から訪れる支援者たちにとって、水俣訪問は非日常であり、一回性だ。
支援者たちは、患者たちを運動のシンボルとみなし、ちやほやする。彼らにとっては
一度きりのコンタクトかもしれないが、現地で迎える患者たちにとってこれは日常の
世界だ。毎日、毎日、ちやほやされ、もてはやされることで患者たちの気持ちの内面
に何が起こるか、そしてその繰り返しが患者たちの自立や自由を妨げうると想像する
支援者はほとんど存在しなかった。「聖地巡礼」を果たした彼らは、自らが良き支援
者たることに満足し、都会の日常へと戻っていく。現地の記憶はいい想い出になるだ
ろう。
北方領土問題についても、現地の外で暮らす多くの「支援者」が根室を訪れる。納
沙布岬にたち、貝殻島を望遠鏡で臨むのは欠かせぬ儀礼だ。旧島民の話をきき、資料
館を訪れる。根室で見聞きしたことを彼らは都会にもち帰る。そして、北方領土問題
の大切さを廻りの人にアピールする。北方領土問題に関する運動もまたこの現地と各
地をつなぐ不断の交信ネットワークを通じて発展してきたことに疑いはない。
しかし、私個人も含めて「支援者」の多くがどこまで本当に現地のことを考えてい
るのか、と自問するとき、私には十分に答えられる自信がない。シンボルにされやす
い根室の人たちは最近、こうはっきり言い始めている。「運動のための運動はやりた
くない」「彼らは東京に帰れば日常生活が待っている。だが、私たちは根室に住まな
ければならない」。支援する側はこう自問するべきだろう。私たちは運動のことを考
えるあまり、大事なことを忘れていたのではなかったのか、と。そこで私は運動のシ
ンボルそのものである北方領土の島々の立場にたって考えてみた。
ⅠⅠ
北方領土に関わる運動の大義は、それが国家の原理や主権にかかわる問題にあると
される。だが島々の立場にたつと、なかなか不条理な話だ。国家の原理や主権を護る
ために、わたしたちはこれまで何度も見捨てられたきたからだ。
読者のみなさんは、先の大戦末期、わたしたちがソ連に占領されていく過程を覚えて
おられるだろうか。このとき、当時の政府は他のより重要なものを護るためにわたし
たちを捨てたのだ。
読売・吉野作造賞を受賞した長谷川毅『暗闘:スターリン、トルーマンと日本降伏』
(中央公論新社、2006年)は、興味深い分析を記している。周知のごとく、ソ連軍に
よる千島諸島の占領は、1945年8月18日の占守島上陸作戦を皮切りとするのだが、戦
闘は日本軍がほぼソ連軍を圧倒していた。「大本営は、占守島での思いがけない戦闘
に驚いて、第五方面軍にたいし、正当防衛といえども『天皇の命令によって』いかな
る軍事行動をも禁止するという命令を出していた」「ソ連軍が占守島を占領できたの
は、主として、大本営が第91師団に勝利することを禁じたからであった」(同450-45
1頁)。
8月後半にかけて、ソ連軍は占領地域を拡大していく。だが「得撫島占領作戦はソ
連軍の準備不足を露呈していた」「やっと第二の偵察部隊を上陸させたとき、日本軍
の軍使が白旗を掲げて近づいた」「日本軍は降伏する意図をもってずっとソ連軍の到
着を待っていた」(同481頁)。日本軍は択捉と国後でも降伏の準備をしてソ連軍を
待っていた。そして、ソ連軍は当初、占領を意図していなかった歯舞諸島へと向かう。
「結局、スターリンは、思いがけず、歯舞諸島も含む全千島諸島を首尾良く手に入
れた。彼が成功したのは軍事作戦が素晴らしかったからではない。それは主として日
本が降伏の準備をしており、米国が千島にあまり関心をもたなかったからにすぎない」
(英語版289頁より抄訳)。長谷川はそこまで書かないが、ここには一つの反実仮想
が読みとれる。占守のように日本軍がわたしたちを守ろうとしたら、ソ連軍に占領さ
れることはなかったのではないか。当時の政府が、わたしたちを守る軍人の命を救う
ために降伏を決めたのであればまだよい。だが、わたしたちは他のより重要なものの
ために、ソ連のなすがままに放置されたのだ。
III
わたしたちの放棄を法的に確認したのが、1951年のサンフランシスコ平和条約であ
る。ただし、ソ連が条約に加わらなかったこと、さらに千島の範囲が明示されなかっ
たことで、放棄された千島に択捉・国後が含まれるかが論点となる。和田春樹はその
先駆的分析『北方領土問題を考える』(岩波書店、1990年)で、吉田茂が会議の演説
で択捉・国後を「千島南部の二島」とし、「得撫以北の北千島諸島」なる表現を使っ
ていることから、千島の範囲について当時の国際通念に同調していたとみなす(127-
129頁)。1951年10月、国会答弁の際、西村熊雄条約局長は、放棄した千島に南千島
が含まれると述べる。当時、択捉・国後が南千島と呼ばれていたことは誰もが知って
いた。
この意味で、「本土たる北海道の一部」とみなされていた色丹・歯舞の返還が、ソ
連との交渉の要諦に置かれたのは自然でもあった。ソ連側もまた、日本の希望と色丹・
歯舞占領の根拠の薄弱さを自覚しており、1955年の国交正常化交渉のなかで、二島引
き渡しによる平和条約締結を突然、打診する。フルシチョフによるこの提案は日本に
とっては不意打ちといえたが、交渉さなかの1956年5月27日、根室町で開かれた国交
回復促進根室地方大会は、「歯舞、色丹諸島の返還をもって日ソ交渉の成立を計り」
「この際としては色丹島、歯舞諸島、返還をもって一応の終止符を打つ」とした。
「平和条約締結後に二島を引き渡す」と明言した日ソ共同宣言が結ばれた10月19日、
地元根室は歓迎をもってこれを受け止めた。「四島返還」のイニシエーターとして地
元で敬われる、安藤石典元根室町長の未亡人すら霊前で「貴方ついに島が返りました
よ」と涙の報告をした(『根室新聞』1956年10月21日など)。12月20日、根室町議会
は「色丹、歯舞群島をもって平和条約を締結」と決議する。
あれから50年がたった。ソ連が引き渡すと約束した色丹・歯舞すら、いまだロシア
の手のなかにある。「領土こそが国家の要である。領土問題で譲歩するような国家は
滅ぶ」といういい方は転倒している。国家は自らが生き延びるために、いつでも容赦
なくわたしたちを切り捨てるのだから。
(『一冊の本』2007年2月号掲載予定)