歴史をほりおこす)やまぐちの塩の物語 抜粋
2024/09/15
まだ印刷されないのですが、勉強したいというリクエストがありますので、出だしの部分と、引用文献だけを公開しておきます。
やまぐちと世界を結ぶ塩の物語
安渓遊地
1.製塩以前
韓国珍島【ちんど】のソポリ村を山口県立大学の学生たちと訪ねたとき、 村人はキムチ用の大量の白菜を漬けるために海水を汲んできて使っていました。きれいな海水が使えるなら、わざわざ塩を作ったりする必要はないのです。沖縄県の西表島では、海中の岩の上に、波で自然に溜まった海水が、南国の強烈な太陽で蒸発して、 天然の塩ができる季節があります。南米ボリビアのウユニ塩原や、同量の砂金と交換されたサハラ砂漠の塩も同じようにできたものでしょう。
しかし、湿潤な日本では、温泉の熱を利用した青森県の例はあるものの、火を使って製塩をすることがほとんどでした。それでは、やまぐちに住んだ人たちは、どんな方法で塩をつくってきたのでしょうか。
2.土器での塩作りは縄文時代から
21世紀に入ってから見つかった、やまぐちの製塩遺跡のひとつに、瀬戸内海に面した上関町の長島・田ノ浦遺跡があります。ここは「奇跡の海」と呼ばれるほど生物多様性の豊かな里海【さとうみ】ですが、この浜に行く時、筆者はいつも海水を味わってみるのですが、他の海では味わえない、さわやかな旨味があるのに驚かされます。
ここは、約6000年前の縄文時代前期から人が住み始め、中世にまで約5000年もの間、人々が住んで利用しつづけた場所で、奈良時代には製塩が行われた遺跡であることがわかっています。田ノ浦遺跡の縄文時代後期には14基のドングリ類の貯蔵穴が確認され、これは山口県内では2例目の貴重なものです。石器の種類も豊富で数量も多く、大分県の姫島産の黒曜石【こくようせき】や香川県のサヌカイトなどの石材や剝片も多数出土。ここが縄文時代には瀬戸内海の石器生産の拠点で、水上輸送による交易が盛んだったことがわかります(谷口ほか、2011)。
日本での土器製塩は、3000~4000年前の縄文時代に関東と東北で起こりましたが、この技法は広まりませんでした。2000年前の弥生時代、現在の岡山市の児島付近で本格的な土器製塩が始まりました。この技法は、瀬戸内海沿いに広がり、古墳時代の3世紀頃から、広島、山口、福岡、熊本と分布をひろげ、福井、石川、三重、愛知にも拡大して、各地で独自の製塩土器が作られました。古墳時代後期の山口湾から山陽小野田市の本山半島にかけての遺跡からは、ワイングラスに似た柱状の脚部がついた「美濃ヶ浜式土器」という製塩土器が出土します。
奈良時代の8世紀から9世紀の瀬戸内海の製塩土器は、東から西へ4つのタイプに分類されていますが、田ノ浦遺跡からのものを含めて、やまぐちのものは、おおまかに言えば瀬戸内海西部から九州北部にかけて広く分布するタイプに属しています(山内、1985)。
そして、田ノ浦の奈良時代から平安時代にかけての層からは、都や国府などの役所や寺院で使用されていた土師器【はじき】や須恵器【すえき】、緑釉陶器、朝鮮系軟質土器、役人の帯の金具などが出土しました。このことから田ノ浦では九州と西日本各地、都との交流が盛んに行われ、官営または有力者による組織的な製塩が行われた可能性が高いと考えられました(石井ほか、2006)。
3.遣唐使の時代に都に送られたやまぐちの塩
『万葉集』には「塩焼く」という表現が多数見られます。そして、6巻935番歌の「・・・・・・淡路島松帆【まつほ】の浦に朝なぎに玉藻【たまも】刈りつつ夕なぎに藻塩【もしほ】焼きつつ海人【あま】娘女【おとめ】 ・・・・・・」と歌われているように、「藻塩」に関わる表現も、4回登場します。
古墳時代から平安時代にかけての製塩遺跡である、知多半島西岸、東海市の松崎遺跡からは、多数の製塩土器が出土しました。7〜8世紀の層から出土した土器上の植物プランクトンである珪藻【けいそう】の遺骸を調べた結果、どの土器にも多数の珪藻がついていること、その大半は、土器が埋まっていた砂浜に生息する種類ではなく、ホンダワラなど大型の海藻類に付着する種類であることが明らかになりました(森、1999)。顕微鏡を使う考古学によって藻塩の存在が立証されたのです。興味を持たれた方には、広島県呉市のその名もゆかしい藻刈町の「藻塩の会」が「古代製塩遺跡復元展示館」で、藻塩づくりの体験学習を提供しています(藻塩の会ウェブページ)。
文字が書かれた木簡【もっかん】の研究から、奈良時代の平城京の役所や西大寺といった大寺院では大量の塩が消費され、その塩は、若狭国・尾張国知多郡・周防国大島郡・同吉敷郡神崎郷などで生産され、租税の「庸」あるいは「調」として都に送られたことがわかっています。製塩土器の破片もあるのですが、木簡と一緒には出てきません。そして、興味深いことに、若狭国の塩の木簡は、日付よりかなり後に廃棄されるものがあり、その年代のずれは、最長で20年にもおよぶのに対して、周防国の塩の木簡の年代のずれは最長で3年に留まりました。この結果から、1)荷札としての木簡をつけて貢納された塩は、遺物として残らない植物性容器入りだったこと、2)若狭や尾張の塩が長持ちしたのに対し、周防の塩は早く使わないと溶けてしまったことが推定できます(馬場、2013)。
長持ちする塩というのは、潮解性のある塩化マグネシウム(にがり)を加熱して酸化マグネシウムに変えた焼き塩だったと推定されます。塩炊きをすると土器は結晶化する塩分によってばらばらに壊れるため、土器に入った状態で流通した塩というのは、焼き塩だっただろうと考えられます。
平城京に塩を送った周防大島の遺跡からは、製塩土器が見つかっていません(塩と暮らしを結ぶ公式サイト・川島尚宗氏のまとめから)。一方、ごく近くの上関の長島・田ノ浦の浜では、製塩土器を用いた塩づくりが同時期に行われていたのです。
人々が周防大島や田ノ浦で製塩していたころ、外国に向かう船もすぐそばを航行していました。『日本書紀』『続日本紀【しょくにほんぎ】』によれば、646年から779年にかけて派遣された遣新羅使は27回におよびました。第十次遣唐使は、736(天平8)年の8月の第一船が、唐人のほか、波斯【ペルシア】人、婆羅門【ばらもん】(インド)僧を率いて帰国し、第二船では、林邑【りんゆう】(インドシナ)僧も来日しました(中丸 2021)。天平時代には、思いのほか多様な外国からの人々が異国の文物を携えて瀬戸内海の航路を行き来したのでした。そうした国際交流の航路にあたる場所で、やまぐちの製塩は開始されていて、田ノ浦遺跡から出土した朝鮮の土器は、新羅からの帰路の船が製塩の現場に立ち寄った証拠とも考えられます。
4.大陸からの鉄釜の導入と塩田の登場
8世紀前半、天平年間の「周防国正税帳」「長門国正税帳」によれば、すでに製塩に平たい鉄釜が使われはじめていました。周防国のもので「径五尺九寸」とあります。天平尺は、29.6センチですから、直径175センチ近い大きなものでした。製塩土器を使わなかった周防大島では、こうした新しい製塩具が使われたのかもしれません。また、石川県羽咋【はくい】郡滝町の8世紀の遺跡からは、塩田と鉄釜用の直径2.5メートルもある炉のあとが見つかりました。大陸から導入された最新技術の鉄釜だけでなく、塩田も同じ時期にセットで登場したことがわかります(大林、2004)。
海水を汲んで、砂浜に撒き、太陽と風の力で蒸発させて濃縮する技法を「揚浜【あげはま】」と呼びます。一方、干満を利用して海水を導入するのが、より新しい「入浜【いりはま】」です。入浜は、室町時代に瀬戸内海の赤穂【あこう】で開発され、赤穂から阿波へ、さらに讃岐・安芸・周防(三田尻)へと伝わって、その後は全国に広がりました。村上(1982)は、朝鮮の塩田も視野に入れて、揚浜と入浜の関係と技術の発展を詳細に紹介しています。
長年にわたる改良を重ねた入浜式塩田は、江戸時代から1955(昭和30)年頃まで瀬戸内海の経済を支えました。そのようすを、山口県防府市の「三田尻塩田記念産業公園」に復元されている入浜や塩炊きの設備で見ることができます(写真1)。
ーーーー中略ーーー
9.ユネスコと「夢塩プロジェクト」
山口県でも、日本海側の油谷【ゆや】湾での「百姓庵」の塩が2007年にスタートしました。最近では、光市牛島【うしま】の「月咲【つきえみ】」の塩があります。ここの海水は、なめてみるとまるで「塩味の出汁」のような旨味と海藻のさわやかな後味があるといい、塩づくりの指導をしている海藻研究者の新井章吾さんによると、地下水脈を通って、山からの森のミネラルと酸素を豊富に含む真水と地下海水が混じり合ったものが、島の浅場に広く湧き出しているのです(ソトコトオンライン)。筆者が上関町長島の田ノ浦の海水をなめて、その味のすばらしさに驚いた経験を、この節の冒頭に紹介しましたが、田ノ浦も豊かな里山と海底湧水に恵まれた海です。奈良時代に、田ノ浦が公の製塩の場として選ばれたのは、あるいは、その塩の味が格別に優れていたからかもしれません。
シルクロードに連なる文物を収め、1998年にユネスコの世界遺産に指定された正倉院が建てられた時代の平城京。そこでの塩の木簡と製塩土器の出土状況を思い出してください。当時の新式の鉄釜で量産され、税として若狭国や周防国から大量に届く塩とは別に、昔ながらの土器に入った田ノ浦などの塩が、天平時代の人たちに高級ブランド品として賞味されていた可能性はないかと想像をたくましくしてみるのも楽しくはありませんか。
それから1500年の時が過ぎた現在、ユネスコスクールに指定され、全国から生徒を受け入れている山口県立周防大島高校は、このたび山口県立大学の付属高校になることが決まりました。地域の文化と世界を結ぶさまざまなプロジェクトが始まっていますが、2022年からは、周防大島の塩作りのベンチャー企業に生徒たちが積極的に関わって、新しい製品を創っていくという「夢塩プロジェクト」も開始されています(川本、2022)。
やまぐちと世界史を結ぶ塩の物語に、あなたも加わって味つけしてみる機会があるといいですね。
参考文献
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伊藤昭弘、2004「明治初期山口県における『防長塩田会社』 の成立過程」『社会経済史学』 70(2): 155-175。
大林淳男、2004「講演要旨『塩の道』――とくに「古代製塩法」について」『豊橋創造大学短期大学部研究紀要』第21号: 79–86
川本裕司、2022「山口・周防大島の塩が半世紀ぶり復活、スイーツにも使い道広がる」『朝日新聞』2022年7月1日版。
郡司健、2023「長州藩における天保の改革と会計制度の変容――天保期〜安政期における長州藩会計制度の検討」『大阪学院大学商・経営学論集』48(第 2): 27–94。
後藤陽一監修、1988『平生町史』平生町役場。
谷口哲一・後藤義拓・米田浩晃・山本寛子・中原香織編著、2011『田ノ浦遺跡 Ⅱ』山口県埋蔵文化財センター調査報告、74 。
中丸貴史、2021「病の起源とその願望――遣新羅使・和泉式部・藤原師通を語るテクスト生成」『物語研究』 21: 129-151。
中原邦平、1911『忠正公勤王事績』防長史談会。
野口武彦、2006『長州戦争――幕府瓦解への岐路』中公新書。
馬場基、2013「文献資料から見た古代の塩」『塩の生産・流通と官衙・集落』奈良文化財研究所研究報告第12冊: 11–35。
平池久義、1999「長州藩における撫育制度について: 組織論における革新の視点から」『下関市立大学論集』43(1): 25–48。
防府市教育委員会、1969『防府市史 下巻(増補版)』防府市教育委員会。
前田廉孝、2022「『財政専売』 の時代: 日露戦後の塩専売制度批判」『日本海水学会誌』76(3): 183–186。
松岡利夫、1960『防長塩業史料集』山口県塩業組合連合会。
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森勇一、1999「先史~歴史時代の地層中の珪藻化石群集と古環境復元への応用」『Diatom』15 : 127–147。
柳澤京子、2017「長州戦争と労働者」『比較日本学教育研究センター研究年報』13: 112-117。
山内紀嗣、1985「8、 9 世紀における内陸地域の製塩土器」『天理大学学報』36 (3): 141–156。
山下聡一、2004「十九世紀三田尻六ヶ所塩田について」『市大日本史』7 巻: 76–108。
参考ウェブページ
塩と暮らしを結ぶ公式サイト「くらしお古今東西」山口県
https://www.shiotokurashi.com/kokontozai/yamaguchi(2024年1月17日最終閲覧)
ソトコトオンライン、2019「山と里、海との循環。塩造りから始まる、瀬戸内版・持続可能な経済モデル」https://sotokoto-online.jp/local/834(2024年1月17日最終閲覧)
『防長風土注進案』産物・産業記載データベース
https://ds0n.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~bochofudo/(2024年1月17日最終閲覧)
藻塩の会ウェブページ
https://www.moshionokai.jp/(2024年1月17日最終閲覧)
どうしても先に全文を読みたいむきは、添付のpdfをごらんください。ただしパスワードを入力しないとよめません。ヒントは、「奇跡の海」とよばれるおいしい海水の味わえる場所の地名、すべて小文字のローマ字7文字です。