異文化の共存と平和)#与那国島 に残る #フガヌトゥ #口頭伝承 #済州島 #漂流民 #1477年
2024/02/08
제주도에서 여나국으로 표류(1477년)한 것으로 추정되는 전설이 여나국도에 전해지고 있다. 아래는 이를 알게 된 학생의 리포트다.
"이 구전설화를 듣고 저도 후가누투 사람들이 섬의 문화와 규칙을 소중히 여겼던 것처럼, 섬 사람들이 낯선 후가누투를 환영하고 새로운 문화를 받아들이고 존중했던 것처럼 사람과 문화, 그 안에 담긴 생각과 역사를 존중할 수 있는 사람이 되고 싶다고 생각했습니다."
済州島から与那国島への漂流(1477年)のことを伝えると思われる伝承が、与那国島にあります。以下は、それを知った学生のレポートです。
「この伝承の話を聞いて、私もフガヌトゥの人たちが島の文化や規則を大切に守ったように、島の人たちが見知らぬフガヌトゥを歓迎し、新しい文化を受け入れ尊敬したように、人や文化、そこにある思いや歴史に尊敬の気持ちをもって接することの出来る人間になりたいと思った。」
私が大学の講義で話すことは、すでに定説になった間違いのないことを伝えるということはめったにありません。いまも試行錯誤、どこにいくのやらという、湯気のたつような、どこかまだ生っぽい芯がある話を共有するのが好みです。
文化人類学のフィールドワークを例にすれば、ポーランド出身で、イギリス在住でしたが、第一大戦が始まって、イギリスの敵国のオーストリア国籍であったために、イギリスに帰れなくなって、メラネシアのトロブリアンド島に島流しのように滞在せざるを得なかったマリノフスキ。彼の本『西太平洋の大航海者たち』の序文を『金枝篇』のフレーザー先生が書きましたが、この本以後は、長期フィールドワークしないのは人類学者じゃない、ということになって、フレーザー先生などは「安楽椅子学派」として葬られることになっていきました。
だからといって、その本の内容を詳しく読んで紹介するという学説史の授業はたいくつ。彼が悩み、模索し、ひそかに差別的感情を抱きながら、フィールドに滞在した、その悩みを、まるごと自分ごととして受け止めて、あちらの岸へ跳ぶということがないと、結局なにもわかったことにならない。
そんな経験をなかなかできない教室で、どうやってフィールドワークのはらはらわくわくを伝えるか。
ここでは、5世紀半にわたって伝承されてきたに違いない、与那国島の漂流民伝承に耳を傾けるという内容を、ていねいに愛情深くうけとめてまとめてくれた、大学1年生の小レポートを、御本人の了解を得てシェアしておきます。
与那国島のフガヌトゥ伝承・済州島からの漂流民への五世紀を越える思いをつなぐ(47分) をみてください。https://youtu.be/uZKY1oeoes8
いつのこととはわからない大昔、どこからとも知れないところから島に3人の漂流民がやってきました。フガヌトゥ(他所の人)と呼ばれた彼らと与那国島の人たちの交流は・・・・・・ https://ankei.jp/yuji/?n=2469
「課題1」口伝えに伝承されてきた漂流民の伝承の内容を箇条書きにして、与那国島ではその記憶が滅びずに残った理由について、考察してください。字数は自由。文献の引用不要。
・猫や鳥などが騒ぎ出す。フガヌトゥの予兆か?
・海から三人の男が上がってくる。島の人間とは異なる身なりだった。
・あらゆるヨモギの香りを嗅がせ、食べ物を食べられるか確認し、米の飯、ノビル、ミティ【口噛み酒】、塩漬けの魚、みそ汁を食べさせた。
・フガヌトゥは魚を物珍しそうに見ていた。絵にかいてその日の事を報告していた。その際、横に何かの模様を描いていた。漢字ではないか?
・みかんの木を見て泣き出すフガヌトゥと共に泣く島の人々。
・ビディリという岩を拝むという習慣を島の人たちと共にフガヌトゥも守っていた。
・絵に月の絵を描いたり、軒にアカメシワの葉を毎日下げていたことから日を数えていたのかもしれない。
・稲刈りの季節になり音を立ててはいけないという厳しい謹慎をすぐに理解しともに協力してくれた。稲刈りも手伝ってくれ、とても上手だったことから島の人々に「マイカイマイフナー」【稲刈りおりこうさん】と別名をつけられた。
・山のものと海のものなどを組み合わせて料理を作ったり、子供たちとお話したり歌を歌ったり、新しい遊びを考えたりなど島の人々と沢山交流していた。島の人たちもフガヌトゥにおいしい料理を持っていったりしていた。月夜の晩に兄弟の儀を交わした。
・フガヌトゥにほの字になる娘もいたがフガヌトゥの故郷に帰りたいという気持ちを理解し与那国島に留まらせるようなことは一切しなかった。
・怪しい男たちがフガヌトゥを殺して持ち物や食べ物を奪おうとしたときに、島のものたちがその男たちを捕まえ追い出した。その男たちは台湾人で当時から台湾との交流があったことが分かった。
・フガヌトゥが焚火にお祈りをよくしていた。突然涙し、ムラヌウヤがたずねると、船で一緒だった仲間が5人亡くなったと語った。
・月夜に歌って踊って遊んだ。
・フガヌトゥは島を出ていった。その様子は「風に乗って去った」と不思議な表現をされている。船で追おうとしたものをムラヌウヤが止めた。その時の言葉は「私たちと同じ心を持った人たちだから無事親の元へ帰ったら報せが来る。待ちなさい。」とのことだった。
・ムラヌウヤが亡くなる。島のものたちがフガヌトゥが身に着けていた下着を墨で塗り【安渓注、下着と、髪くろぐろと元気だった印としての墨染の布】三枚入れて葬儀をした。
考察
私はこの伝承が滅びずに残った理由は、フガヌトゥと島の人々の絆、そして島の考え方にあると思った。
フガヌトゥとは外から来たものの事を意味する言葉であり、彼らは島の者ではない。言葉も通じない、身なりも外見も島の者とは異なる人間を何故、島の人たちは受け入れたのだろうと考えた。もし、私だったら突如現れた異郷の人間に優しくすることはできないだろう。しかし、島の人は彼らをもてなした。その優しさは、島の考え方にあったのかもしれない。また、興味からきていたのかもしれない。ただ、私はフガヌトゥと島の人々にはその時から特別な絆があったように感じた。
人々とフガヌトゥの特別な記憶は島の人たちにとって本当に大切なものだったのではないか。だからこそ、この記憶や伝説となり今も語り継がれているのではないかと思う。
このフガヌトゥ伝説では当時から台湾との交流があったのではないかという事が推測されるが、フガヌトゥと台湾の人では行動や考えがとても異なっていた。当時にとってフガヌトゥの三人の行動や人柄は珍しかったのではないかと感じた。その珍しさも伝承が残ったきっかけなのではないかと思う。
この伝承を聞いて、まず最初に浮かんだことは「認め合い・助け合い」という言葉だった。フガヌトゥと島の人々、全く異なる異郷の人々がお互いの文化を尊重し、交流し、助け合い暮らしていく。このようなことは今の私たちにとってもとても大切なことであり、つないでいくべきものであろう。しかし、今の世界ではそのような暮らし方が難しかったり、自分たちも誰かの事ではなく自分の事を考えて行動してしまう事もよくある。この伝承の話を聞いて、私もフガヌトゥの人たちが島の文化や規則を大切に守ったように、島の人たちが見知らぬフガヌトゥを歓迎し、新しい文化を受け入れ尊敬したように、人や文化、そこにある思いや歴史に尊敬の気持ちをもって接することの出来る人間になりたいと思った。
この伝承はフガヌトゥ、島の人々が今の私たちに一番大切なことを教えてくれる、そんな力を持っているのではないかと感じる。そのためにこの伝説は今も語り継がれているのかもしれないと思った。
「課題2」伝承者N子さんへのメッセージ
この伝承を聞いたとき、寂しいけど温かい、そんな気持ちになりました。多くの仲間を失ったフガヌトゥ、突如異郷の者たちが現れた島の人々、彼らにはきっと戸惑いや不安があったと思います。しかし、彼らはお互いを認め合い、尊重し合い、日々に新しい発見をし、ともに暮らしていきました。自分はどうだろう?と考えたとき、私はきっと彼らのように知らない文化や人々を認めることはできなかっただろうと思います。遠い昔から今の私へフガヌトゥと島の人々から大切なことを教えてもらえました。大切なことは「認め合い、助け合う」こと。この伝承を聞いて、自分は分かっているようで分かっていなかったことに気が付きました。何事にも目をそらさずに手を差し伸ばせるように。この伝承に何だか勇気をもらえました。
今まで、きっと私には分からないほどに大変な思いをされてこられたと思います。
私はこの伝承を聞くことが出来てよかったです。伝承を私たちにつないでもらえて、知ることが出来てよかったです。ありがとうございます。この伝承を私の中でも大切に記憶していきます。まだまだ、寒い時期が続くので、お体にお気をつけてください。
(引用終わり)
ちなみに、課題2の全文は、以下のようなものでした。
課題2. 課題1の伝承者のN子さんにあてた、はがき1枚くらいのメッセージを書いてください。
課題1の伝承を今に伝えているN子さん(1953年生まれ)は、幼い頃から体が弱かったために「この子に重い荷物(=役割)を背負わせれば、長生きできるかもしれない」と島のお年寄りたちは、考えました。その荷物とは、フガヌトゥ伝承をはじめとする、さまざまな島の口頭伝承でした。おじいさんおばあさんたちは、代わる代わる繰り返し繰り返し聞かせて、N子さんに覚え込ませました。
ところが、復帰後の激変する社会で食っていくために懸命にならざるを得なかった、N子さんの親の世代にはこの伝承は伝えられなかったのです。その結果、どうなったでしょう?
最後のお年寄りがなくなったとき、N子さんは、このフガヌトゥ伝承を知るたった一人の島びとになってしまったのです。その結果、この伝承を知らない他の人たちから、「口からでまかせを言っている」とか「また勝手な嘘を言っている」といった、心無い非難や暴力を受けるようになったN子さん。一時は精神を病んで、やけくそになって、書き留めたノートを燃やしてしまったり、意識のない行動などや記憶喪失のために、精神病院に入院させられるようなこともあったそうです。そして「このフガヌトゥ伝承を受け取る確かな人が現れるまで、この伝承は封印しよう」と決心したのだそうです。
コミュニティの中で、他の人たちと違うために、孤立して心を病んだN子さんは、紆余曲折を経て、今は島を離れて北海道で暮らしています。それでも、文字だけでなく、絵や動画で、与那国島の伝承や自然と共存してきた生き方を後世に伝えようとし願っておられます。https://dunanmunui.wixsite.com/my-site
書いていただいたメッセージは、すべて匿名の形で、島の伝承を後世に残すことを願っているN子さんに、はげましや感謝の気持ちをこめてお届けしますので、そのつもりでお書きください。