異文化の共存と平和)もしいま幕末の#月性(げっしょう)がいたら への答えの例 #発達障害 #インクルーシブ教育
2024/02/06
教員として、学生たちに教えられ、また行動へ向けて背中を押されることがあります。
毎回の課題での問いかけは、「寝るな、起きよ、立ちあえ!」という、相手に対する切りかかりでもあります。応答の切れ味は、さまざまですが、ときに、こちらがばっさりやられてしまうほどあざやかに鋭く、心のいちばんやわらかいところにぐさりと刺さることがあります。そんな例を共有しておきます。小レポートと、それを膨らませた大レポートです。
幕末維新の長州僧一月性・島地黙雷・大洲鉄然・赤松連城・香川葆晃 (動画77分)を題材に。
https://youtu.be/PU7FrrLnb8Y
課題
台湾有事を見越してという掛け声とともに、軍事費を大幅に増やし、戦争ができる準備が、着々と進められています。山口から南を見渡せば、岩国基地・馬毛島(種子島の西)・奄美大島・沖縄の辺野古と高江・宮古島・石垣島・与那国島といった軍事基地建設とともに進められようとしています。とくに、震災やテロで人々がパニックになっている時に、一気に進められる政策は十分気をつける必要があります。こんなのを「ショック・ドクトリン」というのですね。
現在の日本では、予算の中で、食料の確保や、その生産に関わる人への収入の保証、医療・看護・福祉の現場で働く人達への待遇の向上などは、あとまわしにされているように見えます。
もしも、僧月性やその教えを受けた人たちが、今の時代に生きていたら何を考え、どのように行動したでしょうか。幕末のように、やはり武器を取って戦おうと呼びかけるでしょうか。
まず、月性という人の特徴を、箇条書きにして、それを踏まえて、どうすれば、すべての人が尊重され、違う考えや違う文化をもった人たちと平和に共存できるかという文化人類学の授業でとりあげ、めざしてきた目標を、あなたがこれからの生活の中で達成することができるのか、あなたなりの考えを述べてください。(200字以上)
課題への答えの小レポートの例を、御本人の了解を得て貼り付けておきます。
月性の特徴
・自分がした経験から感じ取り学ぶ心をもっている。
・自分がしてきた経験の中で感じ、学んできたことを人に伝える力がある・自分が他者の伝える力を引き出すことができる
・ただ、異文化を否定するのでなく異文化を知ったうえで自分の考えを述べ、自分の文化を生きることの必要性について述べている。
・自分が学んできたことを自分の生き様で弟子たちに伝えている。
・人の心を動かす言葉をもっている。
私が月性の特徴の中で感銘をうけたところは3つある。
1つ目は「自分がした経験から感じ取り学ぶ心をもっている」
2つ目は「自分がしてきた経験の中で感じ、学んできたことを人に伝える力がある」
3つ目は「自分が他者の伝える力を引き出すことができる」である。
これらを踏まえてすべての人が尊重され、違う考え方や違う文化をもった人たちと平和に共存することを実現するために私が達成すべきことの3つを論じる。
1つ目は「自分がしてきた経験から感じ取り、学ぶ心」である。私は小学校3年生の時に不登校になったことがきっかけで発達障害と診断され、小学校6年生から中学校3年生までの間特別支援学級に在籍していたという経験がある。
この経験から学校では、普通学級はみんなが平等であることを求めること、学校はいつも普通学級に合わせて行事や授業を行っているということに気づけた。だから、人とは違った角度から物事を見れること、人と同じでなくても良いといった考えをもち、行動することの大切さを学べた。
2つ目は上記のような「自分がしてきた経験の中で感じ、学んできたことを人に伝えること」である。
特別支援学級で過ごしていると友達が普通学級の人から「気持ちが悪い」「障害者軍団」などと言われることがあった。私はなぜそのようなことを言われるのかわからなかった。その時に先生と特別支援学級の現状を伝えるために、文化祭でスピーチ発表をすることを提案された。
そのスピーチの内容は、特別支援学級が毎日体育館で体育をすることが「ずるい」といわれているが、時間割がないという理由があること、勉強したい気持ちがあり、それを訴えても授業担当の先生が来てはくれないため、自分たちがしたい勉強ができないということ、学校が普通学級に合わせて行事や授業を行っていることが私たちにとってはとても苦しいことを訴えた。
そのスピーチをしたことですべての人の理解を得ることはできなかったが、たくさんの人から反響があり、普通学級の人が特別支援学級によく来てくれるようになった。そして普通学級の人と友達になることができた。この経験から自分が人に伝えれば、少しでも理解を得ることが出来るということを知った。
私がこのスピーチをすることが出来たのは、先生や周囲の人の支えがあったからできたことである。私が普段から疑問に抱いていたことを引き出し、スピーチを実現するために時間を割き、様々な困難に立ち向かってくれた。
したがって、3つ目はこれからは「自分が他者の伝える力を引き出すこと」である。これから私は自分の経験を人に伝え少しでも不登校で苦しんでいる子ども、発達障害があり生きづらさを抱えている子どもの支えになっていきたいと思っている。私の話を聞くことで、私の考えを受け継ぐのではなく、子ども自身が自分の考えをもち、そのことを人に伝える力を持ってほしいと思う。そうすることは国や言語、生活様式といった文化ではなく、自分自身が自分であるといった自分の中の文化を創ることでもあると思う。「私は日本人である」ではなく、「私は私である」という認識や姿勢は異文化と関わる際に、「その人はその人」として認めるということにつながると私は思う。このような考え方を持つことで同じ国や文化を生きていてもみんな違うし、違うからこそ面白く楽しい世界なのだと感じることが出来るのではないだろうか。
以上は、小レポートです。これを踏まえて、文献で視野を広げた大レポートが提出されました。
これも、御本人の了解のもとで、公開しておきます。もとのタイトルは、以下のようなものでした。
世界の少数派と呼ばれるこどもたち(国ごとの学びの場・支援について)
インクルーシブ教育の観点から―共生社会の可能性
私から提案したのは、タイトルが4つもあるので、次のように主題・副題の2つにしてみては、というものでした。
〝少数派〟と呼ばれる子どもたちとともに創る共生社会――
インクルーシブ教育の国際比較が照らす日本の未来
以下本文です。このサイトでは字下げができませんので、引用文は、下線を引いておきます。
インクルーシブ教育を実践することは、共生社会の実現のための一歩である。本稿では、世界の少数派と呼ばれる子どもたちの国ごとに学びの場、支援を比較検討し、インクルーシブ教育を行うことが、共生社会の実現を促すという可能性を論じる。はじめに、「インクルーシブ教育」とは、文部科学省によると「人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な機能等を最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組み」と記載されている。しかし、インクルーシブ教育の現状として一木は下記のように指摘している。
障害者権利条約(以下、条約とする)では、障害者は障害のない人と同じ場で学ぶインクルーシブ教育を受ける権利があると明記し、締約国に分離教育制度からインクルーシブ教育へ移行するよう求めている。ところが、日本の状況を見ると、特別支援学校や特別支援学級の在籍者数が増加しており、条約に逆行する現象が起きている(一木 2023: 49)。
さらに一木はこの問題の背景として「インクルーシブ教育を受ける権利が保障されていない日本の法制度」を挙げ「一般的に、子どもは誕生後、保育所や幼稚園を経て小学校に入学する。だが、障害のある子どもは、制度として認めていない、条件整備が整っていないなどの理由で、保育所入所や幼稚園入園を断られる場合が多い。」と述べている。このような問題が生じる根本的な要因として、多数派(マジョリティ)と呼ばれる子どもたち中心に学校や社会の仕組みが今まで作られてきたこと、そして今もなお、それが継続されていることが背景になっていると考えられる。
そのため、現在の日本の学校は、障害を持つ子ども、多数派とは異なる性的指向をもつ子ども、外国にルーツを持つ子ども、社会的養護を必要とする家庭の子どもなどいわゆる少数派(マイノリティ)と呼ばれる子どもたちを排除しやすい仕組みになっていると考えられる。
一度立ち止まって考えてみてほしい、学校の建物は身体障害をもつ子どもが安心して過ごせる場所として作られているだろうか、学校の体育祭の徒競走、ダンスなどの競技は病児が楽しく行えるように考えられているだろうか、学校の授業は、字が読めない、書けない、算数が出来ない、といった一部の「わからない」「できない」を抱える子どもに対して個別に教育が行えているだろうか、その「わからない」、「できない」ことに対して、みんなと同じやり方で対処させるのでなく、自分に合ったやり方を共に見つけ、寄り添う教育ができているだろうか、このように、現在の日本の学校教育は、みんなと同じであることを強制するため少数派にとって必要な支援や配慮を平等、公平といった多数派の観点から排除する。そういったことから子どもたちの間に少数派も多数派もお互いに「自分はあいつとは違う」といった差別意識が高まるのだろう。そして、少数派はより、少数派になり、多数派はより、多数派になっていくといった少数派と多数派が強く分断されていく構造がつくられていくと考えられる。このままでは健常者と障害者のお互いの溝を深めるばかりであり、共生社会の実現には程遠い。したがって、この状況を改善し、共生社会の実現を促進させるためにインクルーシブ教育の導入を進めるべきである。参考として海外のインクルーシブ教育の取り組みを挙げる。まず韓国のインクルーシブ教育の実践例を以下に挙げる。
教育現場では、幼稚園、初等学校、中学校、高等学校の子ども達に対して年2回以上、障害理解教育を行うことが義務付けられています。具体的な取組としては、障害理解教育の優秀事例を表彰したり、初等学校や中学校等の教員や保護者等を対象にした訪問型の障害理解教室や専門家による体験型の障害理解教育が行われたりしています。また、障害のある子どもの人権保護の強化を目的として、人権侵害を予防するための研修や広報を行ったり、障害のない子どもや教員を対象に障害のある子どもの人権教育を年2回実施したりしています。こうした人権教育は、特殊学校や特殊学級の子どもにも、年2回以上実施されています(独立行政法人国立特別支援教育総合研究所インクルーシブ教育システム推進センター、2019: 3)。
この韓国の取り組みから、健常者の子どもに対して障害理解教育を行うことは日本も同様であるが日本では障害のある子どもに対する人権教育は十分ではないことが読み取れる。よく、「違い」を感じているのは、健常者の子どもだという考えがあるが障害のある子どもも健常者の子どもに対して「違い」を感じていると私は思う。例えば健常者だから普通に生きられる、障害者だから不幸な人生であるといった障害者側の無意識の偏見である。このような偏見をなくすためには自分以外の他者の苦しみ、辛さを理解することが相互理解を促すといった点で非常に重要であると思う。
次にアメリカのインクルーシブ教育の実践例として以下の2つを挙げる。
1,障害のある子どもに対しては、連邦法によって無償で適切な教育を行う場合、「最少制約環境」の条項に基づき、可能な限り障害のある子どもが障害のない子どもと共に教育を行うことが目指されています。このため、障害等のある子どもの95%が、「通常の学校(regularschool)注1」に就学しています。残りの5%の子ども達は、「特別な学校(special)注2」、「寄宿施設」、「家庭・病院」、「矯正施設」等で教育を受けています。
2、小学生に肢体不自由や聴覚障害、視覚障害、学習障害についての理解を促すプログラム(「障害シミュレーションプログラム」)が開発されています。このプログラムは、子ども達が障害のある人が経験する困難さについて話し合い、考えることを通じて、障害に対する理解を促すものです。教育現場では、例えば、1つの教室の中で特定の学習活動が、個々の子どもの学び方に合った内容で複数展開されています(独立行政法人国立特別支援教育総合研究所インクルーシブ教育システム推進センター、2019: 4)。
この2つの実践例からアメリカと日本のインクルーシブ教育の仕組みや構造が考え方から全く異なっていることがわかる。特に2つ目の実践例の障害者シュミレーションプログラムは日本の教育も大変参考にできることがある。例えば日本の教育現場での合理的配慮を「ずるい」と一部の子どもが訴えるといった問題がある。しかし、こういった問題に対して野口(2023)はこのように述べている。「もし、周りの子が「ずるい」と言うのであれば、私は人権について学ぶ絶好のチャンスではないかと思います」さらに野口(2023)は、「合理的配慮はゼロをプラスにする、ということではなく、マイナスをゼロにするためにあります」と述べている。この言葉のような理解を促進させるためには、なぜこのような支援や配慮が必要なのかを健常者側が理解することが非常に重要であると思う。なぜなら健常者の子どもにとって障害者の子どもの「わからない」、「できない」、は経験したことがなく未知であり、わからないことが当たり前という状況であるからだ。そういう状況にある子どもが、障害のある子どもと同じ空間で学ぶということは自分ではない、他者に対して考えることであり、自分と他者の違いを見つめ、自分を見つめる機会になる。そうすることで○○君にも苦手なことがあるけれど僕にも苦手なことがある。というような寛容さを身に着け、どのようにすれば、一緒に生活できるだろうかという考えや工夫も子どもの中で生まれてくるのではないだろうか。
とりわけ私が興味を持ったのは、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの北欧4国のインクルーシブ教育のシステムである。北欧4国のシステムの特徴として、石田と是永は下記の点を挙げている。
1 国、地区や県にあたる行政区と連携しながら、(我が国よりは小規模の)市にあたる基礎自治体が中心となり、校内外資源を活用しながら各学校が教育に責任を負う(Göteborgsstad、2015: 9)。2 児童生徒が大人に意見を述べやすい法的整備と倫理的配慮の社会的背景がある。3 このような社会的背景と関心の中、子どもの権利侵害に関しては早期に介入が行われる。4 他方で、学校では、挨拶・着席・身辺整理のような生活習慣に関連した「しつけ」側面への関心は低い。5 職種による役割の明確化と職種間の連携、各種資源の利用で、教諭は授業・教育活動により専念する体制がある。6 特別支援学級やグループへの児童生徒の移籍は、年度・学期にとらわれず柔軟に対応する。7 保護者との連絡および児童生徒の調書は電子化されている。8 一方で、支援に関する情報共有、打ち合わせ、評価等は校内会議や連絡調整会議のほか記録を用いない廊下や昼食を取りながら職員室での会話も利用するなどインフォーマルな形式も多用する(石田・是永、2017: 8)。
この北欧4か国のインクルーシブ教育システムの特徴からは、日本の教育にはない柔軟性があること、役割の明確化を行い、それぞれの職種がそれぞれの立場から支援を届けられる体制が構築されていることがわかる。特に、北欧4国のシステムの特徴の5の職種による役割の明確化という点は日本の教師の多忙感および、多忙化の改善につながると考える。
大石(2008)は次のように述べている。「そもそも教師が子供のサインを見逃してしまう背景には、教師の多忙間および多忙化がある」この言葉から、職種による役割の明確化と職種間の連携、各種資源の利用が出来る学校体制が求められていることがわかる。なぜならそのような体制が作られている学校は教師、SC、SSWなどの専門性をそれぞれに発揮しやすいからである。その結果として、教師の心にも余裕がうまれ、一人ひとりのことを見つめ一人ひとりの子どもにとって最善の支援を受けられることを保証されると考える。困っているのは障害のある子どもだけではない、一人ひとりの子どもに寄り添う教育が出来る学校、および、インクルーシブ教育体制が整っている学校は、少数派と呼ばれる子どもだけでなく多数派と呼ばれる子どもにとって求められていると思う。本来、インクルーシブは「包括」という意味をもつ。障害を持っていてもいなくても、肌の色が違っても、話す言葉は違っていても一人ひとりの子どもを包括することで「私たち、僕たちは一人一人違っている。しかし、違っているからこそ、おもしろくて大切な存在である」と思えるような心をつくることがインクルーシブ教育の本来の目的ではないだろうか。
したがってインクルーシブ教育をすることは、共生社会の実現につながると私は考える。世界のインクルーシブ教育の取り組みを通して私が考えたインクルーシブ教育を行うことで共生社会の実現を促すという点は下記の4つである。
1つ目は障害者も健常者の苦しみを理解すること。2つ目は健常者が障害者の「できない」「わからない」を障害であるからということを理解し支援すること。3つ目は、支援する人も包括される体制を整えること、4つ目は障害者も健常者も一人ひとり違っていることを互いに理解しその人自身として互いに対等に向き合うということである。
そして最後に、私たちは将来生活を営んでいく中で、国籍が違う人、障害を持っている人、性的マイノリティである人、様々な人たちと接する機会が多く求められるだろう。そんなときに、自分との違いを感じる場面が必ずあると思う。生活様式、考え方、価値観、生き方、違いを感じる程度は様々であるだろう。しかし、その違いのとらえ方に、インクルーシブ教育の可能性が見えてくると私は考える。インクルーシブ教育にはすべての人を包括するとともに、誰も排除しないという意味も含まれている。生きてきた国が違うから、障害があるから、性的マイノリティの人だから、「違う」と考え「排除」するのでなく「その人がその人自身であるからだ」という認識をし、関わっていくこと、「違い」とともに生きていくためにその人の中の文化を大切にし尊重しながら、自分には何が出来るだろうか、と考え行動すること。このような「違い」のとらえ方をインクルーシブ教育は私たちにもたらすのではないだろうか。
誰もが誰かの文化では少数派になりうるし、いつも私たちは多数派少数派、健常その境界を行ったり来たりしているのだと思う。そのことをだからこそ面白い、楽しいと感じられるような心を持っている人に私はなりたい。そして、その面白さや楽しさを伝えていくことで共生社会の実現につなげていきたい。
引用文献
石田祥代・是永かな子(2017).心理的・福祉的諸問題に注目した義務教育諸学校における児童生徒支援に関する研究デンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドにおける支援システムモデルの特徴と課題から.北ヨーロッパ研究、13、9.
一木玲子(2020)、障害者権利条約から見た日本の特別支援教育の課題:誰も排除しないインクルーシブ教育を実現するために.アジア太平洋研究センター年報、17、p49-56.
大石英史(2008)、「気になる子」たちへのかかわりから見えてくる教師の課題.研究論叢.第3部、芸術・体育・教育・心理=Bulletin of the Faculty of Education, Yamaguchi University. Pt. 3/山口大学教育学部広報戦略部編、58、37-49
野口晃菜(2023)、マジョリティ中心の社会における自分の立ち位置を知ることー社会モデルに基づく支援とはー、日本心理学会、p22-23
独立行政法人国立特別支援教育総合研究所インクルーシブ教育システム推進センター(2019)、諸外国におけるインクルーシブ教育システムに関する動向、p1-20