出すぎる杭)種子島西之表市伊関・長野広美さんのお話「島への帰還」 RT_@tiniasobu
2022/11/22
2009年に、みずのわ出版から出してもらった安渓遊地・安渓貴子『出すぎる杭は打たれない――痛快地球人録』という本があります。花崎皋平さんが、あたたかな書評をしてくださっています。http://ankei.jp/yuji/?n=893
でも、この本を買ってもっている人はとっても珍しいと思います。
実は、宮本常一先生との共著の形で、2008年に自費出版で出した『調査されるという迷惑』の初版が、意外によく売れて、儲かってしまったのです。15歳の宮本少年へのお父さんの十か条の教えからしても、お金は稼ぐよりも使うのが難しい。そこで、その剰余金で、絶対に売れないだろうタイトルの本を作ることにして、できあがった本のほとんどは、話し手のみなさんにお礼として配ったのでした。
おかげさまで、この本は売れず、儲けを消すという目的を達成できました。『風の谷のナウシカ』のアニメでできたお金をつぎ込んで、結果的には大赤字になる高畑勲さんの1987年作品・長編ドキュメンタリー『柳川堀割物語』ほどではありませんが、有名な宮本先生の名前を借りて、金儲けをするというような結果を避けることができました。
いっぽう、『迷惑本』の二刷以後は、みずのわ出版の負担で増刷し、その印税分を本でいただく、という形にしてもらって、現在は7刷です。宮本先生の著作権を継承しておられる宮本千晴さんは、増刷のたびに、印税分の本をそっくり宮本常一資料館の売店用に寄付してくださっているよしで、ありがたいことです。
文中 rubyというのは、ふりがなの指示ですが、このまま残しておきます。宝石のように小さい活字だったから、こんな外来語が付いたのですね。
話し手の長野広美さん(現在、西之表市議会副議長 https://cdp-japan.jp/member/4270/%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%BA%83%E7%BE%8E )のご快諾により、ここに掲載します。
島への帰還―種子島西之表市伊関・長野広美さん
二〇〇二年三月に「ふるさとの再発見」を卒論のテーマにしているゼミ生の大学三年生たちとともにあちこちを旅した締めくくりとしてruby種子島たねがしまを三泊で訪問しました。すばらしい天候とよい出会いにめぐまれ、学生たちは大満足でした。
そうした出会いの中から、長野広美さんのお話を紹介します。長野さんは、北種子の東海岸の村にお母さんと住んで、祖先が残した田を耕しながら、ふるさとの暮らしと自然を守るとりくみをしなやかに展開しておられる女性です。長野さんは、現在「ruby馬まruby毛げruby島しまの自然を守る会」の事務局をつとめ、手塚賢至さんとのご縁で私どももメンバーになっている「ヤクタネゴヨウマツ(ヤッタネ!)調査隊」の種子島在住メンバーでもあります。そうした個人運動・市民運動を母体として西之表市の議員にもなっておられます。
(昨年の議会での活躍の様子は、https://www.youtube.com/watch?v=q7_hZ6Fjz94)などで見られます。)
時代を吹く風が変わるのを敏感にかぎ当てて、転ぶことを恐れず、つねに人より半歩先を風を切って颯爽と歩いてこられた、長野広美さんからのメッセージ。深い共感と感動をこめて聞かせていただきました。特に、アフリカやパリを経て山口県の山村に住まいを定めた私たちの歩みと長野さんの歩みが共振してくる様子にわくわくさせられます。
議会中でご多忙にもかかわらず、長時間にわたってお話をしてくださった長野さん、滞在中、物心両面にわたって私どもを支援してくださった中種子町の岩坪博秀さん、町茂男さんご一家に心から感謝申し上げます。
島を出てアメリカの大学へ
私は、戦後十年ほどして種子島に生まれました。母は神戸で、種子島出身の父と結婚したあと、思いもよらず島に住むことになりました。父が帰るというもので、母はそれに逆らうわけにもいかなかったそうです。そのせいか、母は、私に対して「あなたの人生はここではなくて、他所にあるから」と言い続けました。島での教育も方言ではなく標準語を話しなさいという時代でした。また、高度経済成長の時代でしたから若い人たちが島から出て行くというのが当たり前でした。高校を終えるまでの私の十八年間は島を出て行くためのものだと考えていました。
島から出るのであれば距離はもう関係ないと思って東京の短大に行って、卒業後は栄養士になって、鎌倉に二年間勤めました。しかし、都会の生活になにかこう自分がフィットしないんです。そこで海外旅行に行ってみようかなと思いました。行くならせめて三ヵ月くらいは行きたい。私は資格を持っていたし、年齢的にも再就職はできる。そこで、とりあえず勤めていた病院をやめました。
たまたま日本で知り合ったベトナム人の難民家族がアメリカ合州国に渡ったので、アメリカを選びました。アメリカに三か月滞在しているうちに「あ、アメリカの大学も面白いかもしれない」と思ったんです。
私の少し前までは、よほどお金がある家か、超エリートだけが留学してたんです。ところが日本が豊かになって、私でも留学できるようになってきました。人に迷惑をかけなければ何をしても許される時代になったかなと思ったんです。私はその時代のはしりで、そのあと、普通の日本人がたくさん留学するようになりましたね。
大学で、もう一度勉強しなおそうと思ったから、ニューヨークの北の大学の一年生に入りました。あらゆる科目をとりました。数学、歴史、音楽、美術、社会学。女性学も。ありとあらゆる自分の関心のあるところをとりました。それは本当によかったと思っています。ものの考え方、捉え方、社会の見方だとか、とてもいろんなものを与えてもらった。あと、アメリカの社会は女性たちが「あなたはあなたでいいのよ」と認める部分があったし、社会人になってから大学に入るというのが一般的だったので、大学のキャンパスの中でも非常に自由な雰囲気もあるし、議論をするにもいろんな考え方が入ってくるわけです。高校を卒業して大学へ、というのでなくて、幾つになっても学ぶ姿勢をもつという、すごくいい刺激を与えて
もらったなと思います。
資金もないし、仕送りももちろんありませんから、大変でした。休みの時に一生懸命アルバイトしたお金で授業料を払って、手持ちのお金が全部で二、三万円しかない状態が普通でした。
マンハッタンで就職
その後ビジネスを勉強しました。アメリカは大学間の移動もかなり自由で、卒業はハワイ大学。その後、ニューヨーク・マンハッタンのウォールストリートの証券会社で働きました。株式市場で買ったり売ったりしているセクションでした。
ちょうどアメリカはバブル絶頂期で、すごいお金持ちの世界の中に飛び込んだんです。すべてお金を中心に回る、これまでの世界が逆転するような環境でした。
私は、アメリカのいちばん底辺の本当に貧しい人たちも見ましたが、また片方でお金が湯水のように流れるのを見ました。このあいだワールド・トレード・センターが破壊された、そのすぐ近くに私は勤務していました。あのWTCビルのてっぺんにトップ・オブ・ザ・ワールドというとんでもない名前のレストランがあって、そこでお昼にビジネス・ランチを食べたりしていました。下をのぞくとはるか下をヘリコプターが飛んでいたりするという、今思えば魔物のようなビルだったんですね。
その時の私にとって、家族や種子島は、はるか遠くにありました。まあ、たまに手紙を書いたりはしてたんですけれど、「私の人生は私のものよ」という、そういう気持ちで生きていたんですね。
私の祖父は百歳で亡くなったんですが、その時はまだ元気でした。私がとても尊敬している人だったんです。明治の人は関心が広いんですよね。新聞なんか隅々まで見てるから、アメリカで何が起こっているかということを両親よりも知っていました。祖父は、私がアメリカに行くといったら、「やってごらん」と言って励ましてくれました。
勤めていた証券会社の上司が鹿児島出身の人だったんです。それを祖父に告げたら「お前、それは百万の味方を得たと思え」と喜んでくれたんです。でも、それを聞いた時、すごいショックでした。そこにふっと種子島が見えた気がしたんです。祖父の一言には、後に私が島に帰るきっかけを与える力があったと思います。実際は、もう二年ニューヨークにいることになったんですが……。
自分の中のアジアに出会って帰国
私がアメリカに行って得たいちばん大きなものは、自分が東洋人だ、そして日本人だという自覚がもてたことです。
私の育った時にはアメリカとかヨーロッパの文化がすぐれたものとして入ってきていたから、私が初めてニューヨークに行った時には、自分も当然白人系の顔をして歩いていると思っていました。
メトロポリタン美術館という大きな美術館の、印象派の絵をよく見て歩きました。ちょっと別の部屋を見ようかなと入ったのが、アジアの絵のコーナーでした。仏様の大きな壁画でしたが、思わず涙が出てきました。韓国からきた絵でした。ここで、生まれて初めて自分が東洋人だなと思ったんです。
私が素晴らしいと思っていたヨーロッパの絵とか芸術的な表現というのは、肉感がいっぱいで、リアリズムという現実的なものを一生懸命表現しようとしていた。ところが仏様の顔は、たった一本の線で顔を表現するわけでしょう。そこにあったのは「平和」でした。ヨーロッパやアメリカの絵が、人間のなかにある感情を表現しようとしているのに対して、仏様はすべてを超越するような、トータルなもの、静かなものでした。
これをきっかけにアジアとはなんなんだろう? 日本人とはなんなのか? を考えるようになりました。アメリカでたくさん出会うアジアの人々に親しいものを感じるようにもなりました。
西洋の文化に日々たっぷり触れて、オリエンタルな自分への満足感が生まれていました。そして、必ずしもここにいなくてもいいかなと思えたんです。そこで、日本に帰ってみることにしました。
私が職を得たのは外資系の証券会社で、東京駅の近くで、目の前に皇居が見えるような一等地でした。仕事のパートナーはアメリカ人だし、自分の友達というのも、外資系の証券会社に勤めている、ある程度似たような所得と学歴の人たち。そこには病気の人もいなければ、いろんな障害をもつ人もいなかった。いろいろな社会問題――ゴミの問題にしても学校の問題にしても――が一切入ってこない社会にいました。
でもなにか満たされないものがあったし、とても不安なものを感じていました。そういう会社で働く、超エリートといわれる人たちが道具にしか見えなかった。なんか疲れている。その人たちが本当に人としてその社会のなかで生かされているのだろうか、と。
一九八〇年代の終わり頃の、そういう私の直感的な疑問が実際の社会問題として激しく出てきたのは今ですね。十年をこえる時間がかかっています。
人混みで転んでぞっとしたんです
朝、出勤する人たちがみんな吸い込まれるように電車に乗って自分の事務所に向かって歩いていきます。ある時、私は迷路のような地下街で転んで、階段を踏み外して、両手をついてしまいました。怪我はしなかったのですが、大きなカバンがバタン! となって大きい音が響きわたりました。「あ、しまった、恥ずかしい!」と思ったんですが、ぞっとしたのは次の瞬間でした。誰一人「大丈夫ですか?」と声をかけるどころか、振り向きもしない。なにもなかったかのように歩いていく人たちの後ろ姿……。日本の超トップ企業のエリート、頭も賢い、社会的責任もある、普通の人間にはうらやまれるような人たちが通ってるはずなのに、その人たちは振り向きもせず、「大丈夫ですか」と声をかける余裕もないんだ、
と気づきました。
そのころからです、日本の企業が世界的な競争の中から、どんどん落ちていき始めたのは。人が集まっている所では、一人ひとりが生かされていればこそ組織としての力も発揮される。それができなくなってきていたんですね。
私は、その時経済的にはそこそこの生活をしていました。でも、買い物依存症に陥っていました。毎日必ずデパートかなんかに行って物を買い込まないと耐えられない。すごく強迫観念がありました。
ボランティアは自分でやらなきゃだめ
一九八〇年代の後半だったんですが、ある国際協力のNGOが、エチオピアで飢餓で苦しんでいる人たちのために募金を集めているという新聞記事を見ました。私はエチオピアの友達もいたものですから、関心をもって、思いきって電話してみました。結果的にそれは「飛んで火に入る夏の虫」だったんですが。
訪ねて行ったNGOのオフィスは御茶ノ水にあったんですが、私のいた立派なビルとは比べ物にならない小さな雑居ビルで、雑然といろいろなものがある。そのなかを人が一生懸命働いていました。あまりにも一生懸命働いているものだから、ついつい「あのう、ボランティアしましょうか」と言っちゃったんです(笑)。
もちろん寄付もしたんだけれど、月に一度行ってイベント表をつくるという仕事をしました。イベント表をつくると、どんなことをやっているのか見えてきます。そのうち時間がある時にはオフィス・ミーティングを聞きにいったりするようになりました。そこでエチオピアの片田舎の話を聞いたりするうちに、これまでとはぜんぜん違う海外の人たちの暮らしが見えてきました。これは何かしなければいけないなと思った。
その団体の事務局長に、こういうチラシやポスターを作ればどうですかとか、いろんな提案をしました。事務局長に言えばその下に当然部下がいるわけだから、話は進むだろうなと思って、何回か助言をするのですが、彼はその度にフーンと冷たい反応なのです。あなたたちのためを思ってやってあげているのに、なんて失礼な人、と思った。それでも性格ですから、またしつこく言ったら、「長野さん、だめだよ。自分でこうやりたいと思ったら自分でやらなきゃ」と言われた。これは私にはカルチャー・ショックだったんです。私はそういうことを初めて教えてもらった気がしました。「あ、ボランティアというのはこういうことなんだ」と目覚めた。そして、これは面白い、と思い始めました。私たちのいろんな問題の根本に
あるのが自分とその問題とがどうつながっているかという主体性の問題なんですものね。
だんだんボランティアの時間が長くなっていきました。五年ぐらい、エチオピアのためのお金を集めるチャリティ・ウォークというのを企画して、その実行委員長をやりました。一年に二ヵ月か三ヵ月、そのために一生懸命働いた。昼も夜も。いろんな人たちに集まってもらってグループをつくる。役割分担をして、企業に行ってお金もらったりもする。支援してくれる女性たちの所にいって、説明したり……。
ウォーク・ラリーなので、十キロぐらいなんだけど、何回も何回もそのルートを歩いて、チェックポイントを調べて、地図を作って、という作業を重ねていくんです。大変だけど、すっごい面白かった! 何もストレスがなかった。いろんな人たちと会う時に、その人たちとも、お互い一銭ももらってないのだから平等でしょ。しかも、私はそれまで同じような所得層とか、同じような発想の人たちの集団の中にいたのに、若ーい学生さんもいれば、おじいちゃんもいる。中には中学生が大人びた顔して、生意気な子がいたり、女性たちもいるし、それまで出会うことがなかった人たちと出会った。そこには、人を縛るものがなくて、みんな自由な意志でそこに集まってきて、一生懸命議論していた。その中ですごく充実した時間を
過ごすことができたんです。
エチオピアに行って会社をやめる
「私ねえ、アフリカに行ってみたいと思うんだわ」。ある時、NGOのスタッフの隣に座っている時に、私なにげなくこう言ったの。私は香港にもタイにもシンガポールにも行ったことがあるから、次は、みたいな感じでね(笑)。
そのスタッフがすぐに「あ、長野さん、エチオピア行きませんか?」って言ってくれて、思いがけずアフリカ行きが実現するんです。
成田でいきなり飛行機に乗り遅れちゃったりしながら(笑)、エチオピアもアジスアベバという首都からまた飛行機に乗って、さらに車に何時間も揺られてやっと着くような、すごーい田舎に着きました。そこが、私が協力しているボランティア団体が活動している場所だったんです。
ところが、その集落には井戸がひとつもない。子供たちはみんな裸足。家にはトイレも付いてないし電気も来ていない。家も、「三匹の子豚」の藁葺きの家のように、文字どおり吹けば飛ぶような家が多かったです。「うゎー、これはすごい!」貧しいとは聞いていたけれども、その生活の質というのは、想像をこえていました。
でも一週間いるうちに、子供たちとか、おばあちゃんとかが、私に声をかけてくるんです。その集落に来ていた前の前のスタッフの名前がサチコっていうんです。その集落の人たちは日本人の女の人を見るとみーんな、「サチコー! サチコー!」て呼びかけてくるんですよ(笑)。私も「サチコ」って呼ばれて、「はーい」とかいいながら、その人たちの生活を見ていると、目が慣れるにつれて、なにかすごく押されるものがあったんです。
その頃、私は外資系の証券会社にいて、自分の生活の質は落とせないわ、と思っていた。その一方で、私は一生懸命ボランティアしてお金を集めていたんです。私がお金を集めないと、あの人たちが大変だ、NGOのスタッフが大変だ、だから私がお金を集めなきゃという強迫観念。ところが、そのエチオピアに実際行ってみたら、私がなにか援助するなんてのは、吹けば飛ぶような、せせら笑われるような小さなものでしかなかった。もう、その人たちの貧しさってどん底なんです。飢えがあって、せめて子どもたちに朝晩食べさせたい、という親の願いと努力というものは何世代も前から続いていたものだった。国際協力でNGOが何億円といい、政府が一兆円近いお金をばら撒いているけど、それが何なんですか? そこに
住んでいる人たち
が自ら生活を良くしよう、毎日子どもたちのために明日こそいい生活をしよう、安定した生活をしよう、というその努力に比べたら、それは微々たるものだったんです。
だから国際協力をしようという時に、この人たちのためではなくて、自分の生き方としてなにかやれたらな、と思いました。こう考えることですごく肩の荷が降りて、「あ、日本にはきっと同じような思いをする人たちや勘違いする人たちがたくさんいるだろう。まだ気がついていない人たちがたくさんいるだろう」と思って、私はいよいよ証券会社を去って、そのNGOの広報スタッフになりました。
このとき実は、私が働いていた外資系の証券会社の同僚は、全員が私に「よかったね」と言ってくれたんです。女性が、自分の生き方として自分にこだわったものが選べるという時代背景ができてきたんです。いくつには結婚しなさいとか、そんな給料のいい会社をやめるなんてとんでもない、という以外の考え方が通るようになってきた。
そういう時代の流れがあって、こんどは若いみなさんの番なんですよ。たとえば、何歳までに大学を卒業してそのあとは就職してとか、そういう固定観念をそろそろなくしてもいいのではないか。回り道しても、自分がほんとうに何なのかを追究していくという生き方もあっていいんです。
島にもどり自分のこととしてかかわる
その団体で広報の責任者を五年間していた間に、私はエチオピア、ラオス、ベトナム、カンボジア、タイの農村などに行きました。それまでは、五つ星のホテルに泊まっていたのに、こんどは電気のない所、トイレもない所、そういう社会を見ました。その中から得られた日本の社会への見方、それはほんとうにたくさんのものを与えてもらった。たしかに国際協力は相手の役に立つことが大前提ですが、それ以上に日本の社会がそういう人たちとつながることによって、得られるものがたくさんあるんです。
だから、若いみなさんはできるだけ海外に行ってください。アジアはとても近い。その先はふるさとに戻ってくるわけですが、自分たちが持っているものが何なのかを知るために外にいくことです。ほとんどの人がそのきっかけすら気づかないで、日々の生活をしているわけで、これから先は、特に自分と異なった人たちとの交流の仕方については、どんどん取り入れていってもらいたいと思います。
そんなことをしてるうちに私の父が肺がんで「あと何ヵ月」といわれました。私はあわててしまって……。他人のことは一生懸命やっておきながら、ふっと振り返ると、私は自分の家族に対して何もしていない。やっとそこにたどり着いたんですよ。
私はアメリカに行き、東京で外資系の会社に働いて、やっとNGOというものの存在を見つけることができて、さらにそこで動いてみてやっと自分と家族とのつながりに気づくことができるようになった。すごい遠回りをしたと思いました。でもそれはある意味でしょうがなかったですね。
一人で種子島に帰ってきて三年になります。父とは三か月だけ一緒にすごすことができました。すごい楽しかった。
国際協力でも、環境の問題でも、何でもそうなんですが、他人のことじゃないんです。一人ひとりのことなのです。でも、行ったこともない、見たこともない人たちのことを自分のことと感じてちょうだいと言ってもそれは難しいでしょう。
私は、種子島と屋久島の間にある馬毛島という地域の問題にかかわったり、議員になったりしています。東京でエチオピアの問題に取り組んでいた時とは違って、種子島に帰ってきて初めて、人に「なぜ」を説明する必要がないことに気づいたんです。
種子島には、私が生れ育って、田んぼとか畑とか、私の血の中にはずうっと過去からつながっているものがある。私の父が亡くなった後に、田んぼが私には残されています。その田んぼは私が小さい時に、両親が汗を流して働いた田んぼで、その前には祖父が、さらにその前の先祖たちが、代々守ってきた田んぼだった。母が田んぼとかプロだったのに、もうお手伝いもしてくれなくなって、今は基本的には私がひとりで田んぼをやっています。(一同拍手)
「ちょっと農薬入れるのやめようかな」なんて偉そうにやったら、雑草がすごく生えて(笑)、それでも取ったの。手押し除草の機械をくっくっと転がしていくのです。土を起こすことで根っこに空気が入って生長がよくなり、雑草も取るというものでしたが、私は力が入らないから、がっがっとただひたすら前へ進むだけだったのですが、もう泥まみれになりました。
そういう作業をやりながら、「私のふるさとは私を育んでくれたけれど、私の人生は私のもの」と言って出ていった私が、長い旅を経てやっとふるさとに戻ってきてみると、「あ、これは次に残さなきゃ」と思った。そして、父が亡くなって初めて「自分も必ず死ぬんだ」と意識しました。人は誰でも必ず死ぬというけど、それはずーっと先のことだと思っていました。もちろん年齢的なものもあるので、みなさんはこれからだけど。
答えは、これも時代の変化だと思う。これまでの世代、私の親の世代は、戦後すぐから生きてきた人たち。ほんとに食うことに一生懸命だった。日本の社会にとって開発をする、企業をつくる、営利目的の活動をするということは、ほんとに大事なことでした。いま、私は、開発をしようとする人たちにノーと言っているのではないんです。これからの私たちが若い皆さんに引き継ぎたい社会のあり方は、自然を搾取する形のものでダメだと思います。もちろん食べていくことは大切だから営利活動をダメだとは言わないけれど、その開発と環境のバランスはもっと見直してもいいんじゃないかな。そのための行動だと思っています。