わが師)「#國分直一_先生のとっておきの話」のビデオからの文字起こし RT_@tiniasobu
2022/11/02
「國分直一先生のとっておきの話」で 動画を検索していただくと、Youtube上に10本の動画が見つかると思います。
そのビデオの内容を文字起こししたものを、小冊子にしたて、ビデオテープにつけて無償配布していたことがありました。
内容としては、やや整理して『遠い空 國分直一 人と学問』(海鳥社)におさめましたが、オリジナルの文字起こしのままのバージョンをここに公開しておきます。
pdfでもつけておきますから、プリントしてお楽しみください。
聞き手:
劉 茂源
安渓遊地
平川敬治
村崎真智子
檜垣みどり
異文化にふれる――少年時代の事など
聞き手:劉 茂源
――「異文化にふれる」というテーマで、先生の少年時代の事についてお話を伺いたいんですが……。台湾時代に回覧雑誌の中に先生がお書きになった、凄い量の自伝のコピーがここにあるんですよ。これは恐らく出版社が飛びつくと思いますよ。絶対、ベストセラーになりますよ。
いやぁ、きまりの悪いことばかり書いてあって……。
――これが出版になったら、芥川賞は大丈夫ですよ!
いや、そんな(笑い)。……こういう物を書くと、どうしても「告白」を入れますからね。
ウソを書くと面白くないので……。そうすると、後で読んで決まりが悪くなりますね。
私は明治四十一年に生まれました。四月の終わりぐらいに生まれて、ひどい嬰児時代というのを静岡で送って、その年の終わりくらいに、母に台湾に連れて行かれたんです。父がいましたのは「高雄」ですね。
――台湾の一番南の方ですね。
高雄は当時は「打狗」と書きました。ターカウという種族のいた所ですね。深い湾がありまして、向こう側は旗後(きご)そして、こちら側が哨船頭(しょうせんとう)と言いまして、哨船頭の方は開発地でした。
旗後は福建系の漁民達、それから中国から来る華南貿易船のジャンクと言うのがありました。そういう貿易商などがいて、これは非常に面白い世界でした。全部赤い煉瓦の家で、底面には全部赤煉瓦を敷いてあり、僕らにとっては異国的な情緒を感じる良い街でした。そこで私は育ったんです。
先程申しましたように、大体は福建系の世界ですけど、ちょっと南には広東系の人たちもいて、そこへ華南から絶えず「ジャンク」が入りました。
それから日本から来た人達も、色んな所(地方)から来たのがゴチャゴチャにいた訳ですから、僕の幼少年時代というのは、様々な種族文化の世界の中にいたような物ですね。それで私の少年時代は、海岸に出て中国の華南から来るジャンクを見るのが楽しみの一つでした。僕は、ジャンクの構造について、少年の目を通して非常に良く掴んでいました。
出航の時などには、媽祖(まそ、航海安全の女神)が祀ってありまして、鐘を叩いて祭事が行われる事などが、分かりました。丸太を切って、自然面を外に張り合わしている。僕は、台湾の人に「これはどういう意味ですか?」と聞いたんですが、「接触したときに故障が少ない」んだそうです。それから、優れた構造だなという事が少年の目に分かったのは、中に「仕切り」がしてあるんです。その意味を聞いたら、「どこか故障が起きても、浸水はその部分で抑えることが出来る」そうです。日本の舟などは皆、そんな構造を持ってませんからね。これは非常に優れた構造なんです。
後に、ニーダムの『中国の科学と文明」という本を読んでみましたら、これが「中国の舟の構造の優れた点で、世界的に優れた点だ」と書いてあるんですね。それが「何から来るか」と言うことは、少年の僕には分かりませんでしたが、ニーダムは「竹」だと言うんです。竹は「節」があるでしょ。これから、アイディアを得たと言うんです。ニーダムはそういう事を書いてました。
それから、巨大なジャンクなんですけど浮きすぎるんです。それで安定が取れないんで、砂を積んでくるんです。あるいは陶磁器類を大陸から積んできます。安いので、陶磁器類をどんどん積んできます。だから、当時の台湾下層社会の人々は、陶磁器をどんどん使っていました。そうして舟の安定を取るのだ。という事が、少年の目には良く分かりました。また、ルドルフ=ホンメルが大変面白い習慣だとして、一九三七年に書いていますが(國分直一訳『中国手工業誌』法政大学出版局)、綿をピンピンピンピンと叩く道具で……。名を「綿弓」と言います……。
――私の小さい頃にもありました。
ああいう風にして、古い綿をほぐして新鮮な物にして使う。一つの知恵だなあと思います。
それから、「ツォーマーユー」と言いまして、大きな木を割ってクサビを打ち込みながら、落花生の油を採る道具があります。そういう物を見まして、中国系の技術に、早い時期から興味を持ちました。後に中国系の物質文化・技術に興味を持つ「基礎」というのは、その頃に、知らず知らずに入っていたと思いますね。
それから、中国の婦人がなかなか強いというのは、僕はその頃、良く分かりました。夫婦喧嘩をすると、御婦人が門口に立って、自分の伴侶がどんなにけしからん奴か演説をするんです(笑い)。僕は言葉が分からないから、ポカンとしてよく聞いていたもんですよ。
「中国の男達はけしからんと言うけど、中国の御婦人は強いなぁ」そういうのを、自然と色々と学びましたね。
今の僕は、ズボラでだらしない事で有名なんですけど、その頃は、非常に几帳面な少年だったようです。寝る時もキチッとこうして寝るんです。恐らく、寝たらひっくり返っちゃうんだと思いますが……。そういう非常に几帳面な少年でね。小学校から帰ってくると、その日の事をことごとく憶えていて、親父やマザー(母)の前で実演するんです。体操などは、部屋中跳び回って実演する。そういう几帳面さがありましたが……。その几帳面さが続けば僕は秀才になったんでしょうけど、段々ずる賢くなりましたので……。今のような体たらくです。
――ちょっと、こちらに面白いスケッチがあるんですよ。先生の少年時代の物ではありませんが、名残が残っているようなので……。
そうですねぇ(笑い)。
――手の振り方とか、歩き方が名残がありますね。
当時は、総督が巡行してくるんです。安東(貞美)
という大将が総督だったんですが、総督が巡行してくる時に、先生は「総督さんが巡行してこられたらば、ちゃんとご挨拶をするんだ。みんなで号令してちゃんと挨拶するんだ」と言っていたんです。それで僕が先生に「どういう挨拶が一番正しい挨拶なんですか」と聞いたら、「それは、最敬礼と言う用法があるんだ」と教えてくれたんですね。みんな並んで、金ピカの帽子を被った安東大将の車が通るときに、先生の言われたとおり、僕ひとり前に出て最敬礼をしたんです。そしたらみんながゲラゲラ笑うし、総督はそんな馬鹿な少年に会釈したりする訳でもありませんから……。そういう少年だったことを思い出しますね。
あ、それから、ひとつ世界観を持っていました。「地面は平べったい物であり、天はこういう(といって手でお椀型を描く)円形の物で、地と天がくっつく所があるだろう……。」と思っていて、これが世界だと思ってましたね。母がよく「どこまで遊びに行った?」と聞くんですよね。すると「天と地がついた所まで行った」という、空想的な報告をしたりしました。そんな少年でしたけど、マラリアにやられたものですから、弱い虚弱な少年でした。
もうその当時は、石川啄木の「時代閉塞の現状」が明治四十三年に書かれる頃ですから、段々悪くなっていく。しかしようやく欧州戦争の後、少し回復して日本は大正デモクラシーの時代になりますね。そういう時期が中学の時期です。夏目漱石や、大正デモクラシーの読み物等を読んだりした時期です。しかしすぐに、宮本顕治の「敗北の文学(文芸世論で芥川龍之介も取り上げた)」などが出てきます。そういう時代になりまして、文学界では「プロレタリア文学」などが幅を効かすようになりました。そして時代がひっ迫してきますから、若い僕たちは「民俗学」などやってて良いんだろうか?という懸念があったんですね。私が卒業論文で「変革期の時代」を扱うことになったのは、そのためなんです。
つまり私の社会的な生活環境からくる、異文化から教えられる事。自分には持っていないような事を持っていましたから、むしろ異文化に憧れました。そして山に入るようになってからは、いっそう「原始文化」を理解もするし、憧れるようになりました。
片方では、社会的なインパクトが強まってきたものですから、もう「これを切り抜けるには社会革命しかないな」と思うようになりました。しかしそれに身を投じると、ようやく「学問に一生をかけたい」という――まぁ儚い望みですけど――持っているに関わらず、もし捕らえられてしまえば、「鉄の規則」ですからね。恐らく検挙されて、青年時代に死んじゃうだろうと……その心配と臆病さが、青年達の「共産主義青年同盟」等に入らなかった理由ですね。
そういう(共産主義)運動やっている人達は、僕を利用しましたね。彼らは、同志達の「往復書簡」の様な物は、みんな僕の所に持ってきました。僕は、曼殊院のお寺にいましたから、みんな阿弥陀様の下に入れておきました。刑事はまさか「国宝」の阿弥陀様の下に、社会主義者の往復書簡なんて入ってると思わないもんですから、目は付けていたけど、発見されませんでした。そういう変遷があるのです。
しかし、本当に安心して自分の研究に打ち込めるようになったのは、敗戦の後ですね。選挙法が変わって普通選挙が実行され、女性も男性と同じ政治的な力を持つ事ができる。それから、土地解放が行われる。そして共産党員は解放される。更には労働組合が成立する。苦しい時代から、もう夢のような時期へと転換していく訳です。そうすると、「すまないなぁ。すまないなぁ」と言うコンプレックスは、私から段々消えていきました。そして、研究に没頭できるようになりました。没頭できるようになりましたので、多少は本も書くことが出来ましたけど……。
没頭すれば、この世に生まれて生きてきた上で、それが生き甲斐の一つになるなあ、と思うことが出来ることが、私の心の「安心」を段々と固めてくれました。しかし、戦前はとても辛い思いでした。同志達、つまり獄中で死んでいった友人達の事が、いつもいつもコンプレックスでありました。
――今、先生は素晴らしい学問的な業績を残されていますが、もちろんこれからもお書きになられると思われますが……。
いや、もう駄目でしょう。
――いやいや先生、大丈夫ですよ。結局一口に言いますと、少年時代に既にそういう環境にいたので、それが先生の人格形成にとってプラスになった。そういう事でよろしいんでしょうか。
僕もそう思いますね。少年時代に異文化の中にいたという事は、もう僕の生涯を決定したと言っても良いと思いますね。それから「異文化に対する尊敬」そういうものを持ち得た事は、僕は本当にありがたい事だと思いました。親父が良かったんですね。
――そういう事を通して、それから高砂の原住民の社会に入って行かれたんですね。
そうです、そうです、そうです。
――私は終戦後の学生時代に一度、先生にお聞きした事があるんです。そのとき先生が「劉君、そんなやたらに人の伝記を読んだら駄目だよ」とおっしゃられたのを憶えていますね。先生はアルピニストの伝記を読んで寿山に登られて、それで山から落っこちたんでしたよね。それで眼底神経をやられて、更に耳もやられたと。そういう記憶ありますよ。
そうですよ。こっち(右眼)が駄目になりました。後は耳も……。
――先生。登山は随分台湾でなさったんですよね。大覇尖山は一番最後に行われたんですよね。
大覇尖山は、初登山を目指して失敗しました。
――僕が戦後に、先生の薫陶で大覇尖山に登ったときに、まだロープが残ってましたよ。あれは先生がお付けになったんですか。
そうですよ。あれは非難されました。
――いやだけど僕は、登る人にとっては、あれはかえって良かったと思いますよ。
そうですか。リベット(鋲)を打ち込んでありました。これは大丈夫なんでけど、ロープは段々腐食するので、後から来る人に大変な惨状を起こすと言う……。それで批判されました。
――それは、ありますけど……。それで最近、取り除いたらしいですけどね。先生が台湾に残された足跡なんですけど、ほとんど先生は台湾に、幼児の頃から少年時代・青年時代を過ごされた訳ですね。少年時代にそういう異文化に接された事が、今日の先生の人格・学問の形成に役立っていると思いますが……。
「そうだ」と私自身も思っていますね。知らず知らずに異文化に接した事から、自分の学問形成のひとつの「道」が出来ていたように思います。
――その他にもお聞きしたい事はたくさんあるんですが……。例えば台湾の「纏足」の事とかありますけれど、この次の機会にお願いします。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
棉の木のある学校――京都を経て再び台湾へ
聞き手:劉 茂源
――先生、次は「棉の木のある学校」というテーマですが……。これは「棉の木のある学校」というのは、台南一高女だと思うんですけど……。
そうです。
――そこに先生が来られるまで(つまり京都大学時代)の学生生活、それとどういういきさつで台南一高女に来られたのか?そのあたりで、お話をお聞きしたいと思っております。お願いいたします。
ハイ。さっきも話したように、その頃の僕自身は自分の生活体験から「異文化の問題」「民俗学的な問題」に興味を持っていましたけど……。その頃はボアズの本でも「プリミティブ・アート」の研究が一冊出ているだけです。僕らが憧れたボアズのもので、向こうの大学の教養課程で、よく使われている「習俗」とか「カルチャー」とか「文化」とか非常に大きな総合的なボアズの研究があります。しかし、そんな物が出ていない時です。まだ「やろう」と言っても、そういう「漠然たる憧れのようなもの」を持っていただけで、本当に卒業論文をそういう立場で「書く」という事は、とても考えられませんでした。
一方、社会的な緊迫感が段々ひどくなっていく時ですから、私は片方では「唯物弁証法」にかぶれましたので、「『下部構造』の上に『上部構造』としての政治や思想形態という物は構成される」という、マルクスやエンゲルスの立場ですね。「そういう立場から関わりを持とう」と思ったんですね。そういう風に歴史に関わりを持てば、少なくともこの疾風怒濤の時代に、多少自分の学問が寄与できるかも知れない。そういう気負ったような気持ちでした。
前期の封建制度が崩壊して、後期の封建制度が形成される時期を扱ったんです。ところがその頃、西田直二郎先生の「(日本)文化史序説」と言うのが出ていまして、先生は「上部構造の転換」を押さえているんですね。段々、先生の個人主義みたいなのが出てくる時期なんです。それは、どういう下部構造の変化の上にこういうものが支えられているのか?ちょっと自由主義的な思想も出てきます。堺の商人達の中に、特に見られるんですね。そういうものを「下部構造の転換」という観点で捕らえようと言う論文を書いたんです。僕は、原稿が大体書き上がった十月の終わりくらいに、僕が非常にショックを受けた著書が一つ出るんです。それは共産党員の野呂栄太郎が、「日本資本主義発達史」と言うのを書いたんです。
見たら、この本は「下部構造」に非常に強く入ってるんですね。「しまった」と思いましたけど……。
――先生と同じ切り口だったんですね。
「上部構造」は西田先生がやってる。「下部構造」は僕と同じように野呂栄太郎が「日本資本主義発達史」の中の非常に重要な部分でやっている。しまったと思いましたけど、野呂は「上部構造との関連」までは掴んでないんです。西田先生は「下部構造との関連」を掴んでないんです。でも僕は、両方の関連を押さえた。それで、「これでいくより他ない!」と思って提出しました。それは、経済学部の小島祐馬なんていう教授は、とても褒めてくれました。僕は成績はあまり良くないんですが、それだけは「優」をもらったことを憶えています。ところがそれをやってる最中に、「滝川幸辰事件」が起きたんです。滝川幸辰(ゆきとき)
先生は刑法の教授でした。ヒューマニストの刑法学者として非常に評判の良かった方なんですが……。僕らは彼の刑法講義に憧れて、聞きに行ったりしました。彼は「刑法読本」と言う本を出した時に、「刑法は罪人を処罰するためにあるんでは無くて解放するため、罪人をこの世の中から無くすために、刑法は存在するんです」と言う根本思想を述べているんです。
国民精神(論)的傾向が強くなって、異国文化に対する排斥が強くなってくるでしょ?そういう時に先生は、刑法読本の巻頭の写真に、中国服を着た奥さんの写真を入れたんです。それは恐らく「時代批評」だと思うんですね。衣装による、時代への一種の抵抗だと思うんですね。
――滝川先生の奥さんは中国人ですか?
いや、日本人ですよ。それなのに中国服の写真をね……。それで、解説も何もない訳ですよ。それを見て、皆は異様に思いながらも「ひとつの抵抗をやっているな」「抵抗的で批判的な写真だ」と、皆思ったんですね。僕らは「歴史」の学生なのに、その本買って持ってましたよ。そしたら、文部省から「危険思想家だから辞職しないといかんぞ」という「辞職勧告」が入って、そして法科と経済科の大ストライキが起きるんです。学生達も先生達も団結してましたね。僕も、卒業論文を書きながら、ストライキのデモンストレーションがあると参加して、彼らと一緒にデモンストレーションをやったりしましたが、下賀茂署の刑事は、それをずっとチェックしてましたね。それで酷い事をやられました。着物を脱いで(デモを)
やっていますから、ワイシャツに「印」をポンポンと押しつけておき、後で行動を調べるのです。それですぐに僕が曼殊院にいることが分かって、絶えずやってきました。
そのとても辛い時期、残っていれば「島原の留置所に入れられるだろう」と言う時期に、台湾の恩師が、「どうも聞くところによると、國分は今非常に危ないらしい。放っておけば恐らく共産党に入って、潜ってしまうだろう。今、救い出してやろう。」という事で、先程ちょっと話しましたけど、学生主事から呼び出されて「君、もうそんなに苦しんでるより、台湾に行きなさいよ。恩師が心配してるよ」と言うもんですから……。
そして、行ったその学校の庭に亭々たる棉の木があるんですよ。そして春から夏の頃に、柿色の花が咲くんです。何とも言えない美しい暖かい花でね……。今でも思い出すと懐かしい花です。街には鳳凰木がありましたし、駅には巨大な榕樹がありましたし、その傍には刺桐ですね。火炎のような花が咲くんですね。中国の泉州(『東方見聞録』のザイトゥン)はその花が咲いているので有名ですが……。
そういう、歴史のある美しい街。そこに、前嶋信次先生がいました。後に慶応大学の教授になり、有名になりましたが……。その時は、台南一中の教師をしていました。そして、石賜唯という郷土史の研究者がおりました。とても素晴らしい人で、前嶋さんは石先生と組んで、一生懸命郷土史の研究をやっていたんですね。僕も誘い込まれまして、石先生には随分お世話になりました。そして本当に、清朝中国のエッセンスのようなものを、台南で獲得しました。良い思い出になりました。学生達も純真だし……。
良家のお嬢さん達が入ってきてますからね。上品で頭が良くて……大変良い印象を持っています。
――台南と言えば、一府二鹿(ロク)三マンカと言って、台湾で一番最初に開けた都ですね。次が鹿港(ロッコウ)で、三番目が台北のマンカですね。
先生は一高女におられたんですよね?一高女は、学生がほとんど日本人だったんじゃないですか?
そうです。そうです。非常に優秀な良家のお嬢さん達が、入ってきましたね。台湾の方でした。
――いつか先生が、紅頭嶼調査に行きましたよね?戦後、一番最初に台南に行かれて、劉なんとかというお医者さんがいましたよね。その時に、台湾に残った先生方の歓迎会をやりましたよね。先生は人気があって、教育者として素晴らしい生活をされたという事ですが……。
いやあ、人気なんてなかったと思いますけど、教師というのは、そういう楽しみがありますね。学生との接触。いつまでも忘れないで憶えていてもらえると言うのは、楽しみがありますね。それから、どんどん知的にも成長してきますから、それを眺める楽しみもありますね。あの頃は、女子教育は素晴らしいものだと思いました。ヘーベルの「婦人論」なんて夢中になって読んだ事を憶えてます。後に台北に引き出されましたし。ポジションが変わると、勉強がしやすくなりましたが、今度は時局がひどくなりましたからね。
――台南に十年ぐらいおられたんじゃないですか?
そうです。九年ですが……。
――九年ですか……。その間に、台南一高女、又は台南一中ですか……。その頃に先生は、考古学での遺跡の調査なんかを、随分精力的にやられたんですよね。例えば、牛稠子だとか……。それは、今の台湾考古学の基礎になってますよね。
そうですね。地形によって、登場する文化が違ってくるという事は、その次に押さえたんです。一番奥の奥の方の砂丘の台地。これは恐らく海進時代には孤島のように囲まれていただろうと……。その次に登場した物は古いに違いないと……。それから段々海退が進むにつれて展開する物は、新しいだろうと……。そういう形で編年をやったんですよ。それが台湾の最初の編年なんですね。発掘調査での編年ではなかったのですが。
その頃は「社会的な研究」なんて、全く出来ませんからね。そうすると、どうしたら精神の空白を埋めることが出来るかというと、そういうものに打ち込む事しかないんですね。それで旧制高等学校時代に、山の中に閉じこめられている可哀想な高砂の人達。「彼らこそ主人公」である事を、僕は証明してやろうと思いましてね。海岸の考古学的調査をやり、山には入っては高砂の物質文化の関連を押さえる……。そういう「エスノアケオロジー」的な調査に没頭したんです。もう、手も足も出ない時期ですからね。そうしてるうちに否応なしに、流れに浮かぶうたかたの様に押し流されて、戦争になっちゃったんです。
台南の九年間というのはそういう時代でした。
――だけど、その九年間というのは、台南台地は、台南から鳳鼻頭まで伸びて、中坑門の辺りも調査されて、離島の方もされていますね?先生が台湾で一番最初の彩陶を発見されたのはこの時期ですね?
大湖貝塚の黒陶も僕のプランで発見しました。彩陶も桃仔園で…………。
――良文港とどっちが先ですか?
良文港の方が先ですね。
桃仔園等も、海軍の分校だから警察が付いてて、「(発掘は)地形変化だ」とか言ってね、一尺も掘らせてくれないんですよ。
桃仔園(後に海兵団が出来た)は、「海軍の分校を造る」と言っていた、そこの主任である中佐の方が「ここからたくさん、色々な物が出ていますが、見て頂けないか?」と言ってきたんですが、どんどんパワーシャベルで敷地を掘ってました。軍港の港湾形成中でしたから……。しかし非常に寛大で、(敷地に)入れてくれましたね。但し彼(主任)自身が興味があったんですね。それで「石膏を持ってきて復元してくれ」と言ってました。それで、石膏の缶を担いでいって、復元作業をしたりしました。しかし、重要な物は持ち出しできないんです。
――やっぱり駄目だったんですか?
でもね、彩陶のような物は中佐が気付きませんから、僕は持ち出して実測図にしたんです。ただ、黒陶と彩陶の層序がどう関係するのか、調査が出来ないんで分からなかったんです。張光直さんが鳳鼻頭をやってから、ようやく分かったんですね。
――そうですか。しかし台南という街ですが、一口に言いまして日本の「京都」のような街だとよく聞くんですが……。古い街ですが、お寺でなく色んな廟がたくさんあるんですよね。
そうですね。武廟や文廟があるしね……。それがまぁ、何とも美しいんだなぁ。その廟が赤い……。
――また古い物がたくさん残ってますよね。路地だとか……。
媽祖様のお顔等が、また美しいお顔でね……。真っ黒なお顔なんだけど、何とも美しい……。
――まぁそういう所に行かれたのは、先生には良い思い出でしたね。
それから今度は、台北に来られた訳ですね。後でまたお話をお伺いしたいんですが今回はこれで……。ありがとうございました。
「兵隊紀」
聞き手:劉茂源
――先生。次は「兵隊紀」というテーマですが……。先程先生は、徴兵検査で甲乙丙の「丙種」だったとおっしゃられましたが、丙種でよく兵隊に行きましたね。
丙種でも使わなくてはならん程、戦況がひっ迫したという事でしょうね。丙種でも皆、兵隊に採られました。
――それは確か……僕の記憶ですと、昭和二十年四月十八日ですよね?学校がそのまま兵舎になったんです。先生、あの時の部隊名を憶えてらっしゃいますか?
えーっと……。青木少将のいる「雷神部隊」でしたね。
――では、僕達の部隊名をご存じですか?
いや、憶えてません。
――「一三八六三部隊」です。
あっ……そうですか。それは全く憶えてません。
――それからしばらく、三部隊から現役の兵隊が訓練に来て……。僕らの??に来て……。ふた月か三月経って「現地派遣」という事で、「宜蘭濁水渓」の方に入っていったんですよね。
そうですね。宜蘭濁水渓に入りました。
――あの時は僕は「ロンピア」にいたんです。先生は高砂集落の「牛闘社」に居られたと……。
そうですね。
――先生。その時のお話を、ちょっとお伺いしたいんですが……。
先生。情勢が緊迫してきましたよね。確か、柳原中尉から「いざ米軍が攻めてきた時のための、台北へ撤退するための逃げ道を踏査してこい」と言う命令を受けて、行かれたのを憶えてますけど……。
その時は兵隊時代ですけど、その前に、グラマン戦闘機の洗礼を受けてます。昭和二十年というと、終戦のギリギリの時ですね。その正月に、金関丈夫先生と調査に入って……。
――卑南の発掘ですよね?台東??の……。
はい。例の「マラリアのニセ診断書」で学校を休んで調査した時です。
あの時は、組み合わせ式石棺の中に、ふたりでよく逃げ込んだものです。金関先生は、体が大きいので苦労して……。何かゴソゴソやっているので、「怪しい」と思って銃撃したんだと思いますけど……。グラマンが行った後、薬莢を手に取ってみると煙が出るんですね。そういう大変な経験をしました。その後すぐ、兵隊に取られたんです。
その時は、「こんなに近くにグラマンが来て、どんどんやるならもう駄目だろう……」と思ってました。
――あの時は、艦載機動部隊がやってきたんでしたね。アメリカの第五三機動部隊という……。もうずっと波状攻撃で……。
襲撃された時は、のちに沖縄県知事をなさった屋良朝苗という、大変立派な先生が居られました。あの方も一緒でした。彼は伍長でしたからね……。
――いや先生、兵長ですよ。指揮班にいました。
兵長と伍長とどっちが(階級が)上なんですか?
――兵長は「兵隊の長」ですから、伍長は更にその上なので、「伍長」の方が上です。
そうですか。そうすると、そんなに高い地位じゃないですね。
――何か「塩水爆雷」みたいのを作る、火薬の実験をされていたんですね。
そうですね。宜蘭濁水系の粘板岩を粉にしたもので、あれで目潰し弾を製作するための「小屋」と言うか「研究所」を持ってましたね。
彼が、「この戦争どうだ?」と言うので、僕は「この戦争は、全然勝つ見込みはありません。イデオロギーから言っても、八紘一宇だなんて、そんなイデオロギーが成り立つはずがない。中国への出兵だって、侵略の意味しか無いじゃないですか」って、言ったんです。すると、非常に純情な方ですから怒ってね……。野太い声で「國分君。そんな馬鹿な事を言っていいか!憲兵に殺されるだろう。」と僕に忠告してくれました。
しかし戦後、(私達が)琉球に行った時には「自分はこういう環境の中で、教育を受けました。自分は地下運動もやりました」と先生達の間で言いました。
それに対して「あなたの思想は良く分かりました。あなたの歴史観の正しい事が、良く分かりました」と言ってくれましてね。僕は、非常に嬉しかったことを憶えています。しかしその頃は、屋良先生の思想は一般の思想だったでしょうね。
――ああいう環境の下にいたら、そういう事を言わざるを得ない様な状況だったんですか。
そうですね。だから僕など非常に異質な存在だったんでしょうね。本当「どっかで隠れてて、鉄砲で撃たれても仕様がない」ような存在だったかと思います。
――先生。話はちょっと前に戻りますけど……。
卑南では、グラマンの襲撃下で発掘されましたよね。あれは、台湾考古学史上に絶対に永久に残ります。というのは、もちろん「危険を冒して発掘された」という学問的精神と、もうひとつは、始めて住居跡を発見したということです。これは、台湾の考古学における一番最初なんですよ。その住居跡について、先生はプランを出された……。
ハイ。そうですね。今の(調査あるいは発掘)は、ちゃんと平板測量器を使って、測量しますね。でも当時、平板測量器なんて、持って歩ける時期じゃないですね。そこで画板を置きまして、アリダードだけ持って行ったんです。そして大地の上に寝まして、アリダードを覗いて測ったんですよ。僕が図を作ったんですけど……。自分で測って、自分で図を作るというのはね……。金関先生も手伝って下さいましたけど……。そして平面図が出来たんです。
――あれは、台湾における考古学史に、将来ずっと残りますよね。
そうですね。今の西南文化の研究というのは、あれの展開ですからね。
――西南研究は別に新しい発見ではなくて、先生があの頃に、既に発見しておられた後に、それを基礎にして広がったんですね。たまたまそこに、鉄道を通すという計画で、そこを掘ったらば出てきたという事みたいですが……。
それから、台湾中央山脈の調査ですね。あれは僕が役に立たん兵隊でしたから……。殊に右眼は、ロッククライミングで失敗して、見えなくなっていましたから、左眼で銃の照準を付けるんですね。僕、殴られました。「お前はどうして、右眼で照準付けないか?!」といって……。
――え?!誰にですか?
いや、兵隊に殴られましたね。「僕、こっちの眼が見えないんです」といっても、「眼は開いてるじゃないか?!」と言われて……。それは、辛い思いでした。
――こっち??の眼で照準する、と言ったら逆になりますよね。
しかし、こっちの眼が見えませんからね。照準できないんですね。殴られた事を憶えてますね。
――現地に部隊が行きますよね。卑南に、いえピヤナンですか?あそこで藁葺きの兵舎を造って、その時に、僕の記憶では休みを利用して、先生は近辺の調査をされていましたね。
寸暇を惜しんでやりましたね。それから「牛頭」辺りの藁小屋で、夜寝てると青大将のような蛇が足のとこを、何度も歩くんですね。何度も怖くてね……。それから、食べ物がないでしょ。芋の茎なんかが落ちてると、それが欲しくてしょうがないんですね。まさか、拾って食う訳にも行かなかったんですが……。ところが面白い事が、ひとつありました。
若い兵隊が、僕に「手紙を書いてくれ」と頼みに来るんですね。「書いてくれたら芋をやる」と言うんですね。どんな手紙かというと、その青年はある「人妻」に恋愛をしていたんですね。それで、無理な事を言うんですよ。「色の付いた封筒は無いか?」紙も無いときだから、そんな物ある筈ないんですけどね。僕は、ノートを破って手紙を書いてやりましたが、どんな手紙を書いてやったかというと、
「この人は、あなたを好きらしい。しかし、この人があなたの所に来たらば……、この人はけしからん人だから、知らん顔をしなさい。ものも言わん方が良いでしょう。」と書きました。彼は字が分からないので、僕に頼みに来るんですからね。それで僕の所へ来て、怪訝な顔をするんですね。「手紙を持っていったら、怒ったような顔をしたよ。どういう訳だ?」と言われた、そして「あなたに芋をやると言ったけれども、やらない!」と、そういう事がありました(笑い)。これは、僕が思いだして非常に面白い思い出のひとつです。
それから、兵要地誌の作成命令が下ったのは、もういよいよ、絶望的な状況だったからですね。いよいよ部隊を引き揚げて、山の中に逃げた時の準備ですね。だから、条件は、
・ どの道を三方から上がれるか。
・ どこにはどの位の労働力があるか。……でも、労働力なんか無いんですよ。女性しかいないんですからね。
・ 粟の備蓄はどの位あるか。
そういう事を皆、いちいち略図を書いて記録を作っていくんです。それを僕が命令を受けましてね。その時は、学生諸君も僕より上官でしたけど……。そういう人達を、何人か連れて上がりました。その時は僕がキャップですから、皆よく言う事を聞いてくれました。その時初めて、ひとつ面白い発見がありました。百歩蛇は、台湾南部のパイワン族の「聖なる蛇」なんですね。それから頭目家が生まれたと言うんですが……。北部にはいないと思っていたらいるんですね。
――いや、居ますよ。
いるんだそうですね。
それで、ずっと歩いて行きましたら、大きなキノコの様な物が立ってるんです。で、僕は「すごく大きなキノコだね。このキノコ何だろ?」と言ったんです。すると「先生!大変だ!蛇だ!」と言うんですよ。大きな百歩蛇でした。彼はそれを首に巻いて、その日のキャンプの所まで行って、焼いて食っちゃったんですが……。それがひとつの災難でした。
もうひとつは、宜蘭濁水渓で、川を渡るときに流されました。ゲートルを履いてますから、(水の)抵抗があるんですね。ザアッと流されて、そのまま目も鼻も分からんようになるそうですね。ところが、タイヤル族の青年が助けてくれました。自分も一緒に飛び込んで体をぶつけて、僕を岩の上に押し上げてくれました。そして、僕は岩の上に押し上げられると同時に、彼の背中を掴みました。ふたりとも助かった訳ですけど……。タイヤル族は恩人です。そして山を越えていくんですけど、健康な高砂族の女性達は、無聊を囲ってるんですよ。男性が皆、兵隊に取られ、あるいは様々な人夫などに取られてますから。
――「高砂義勇隊」とかって、ありましたしね。
純情な、良い娘さん達でした。「兵隊さん、遊ぼうよ、遊ぼうよ」って言うんですね。「可哀想だな」って思いました。男性が皆いないんですね。ピヤナンを越えたら、リンゴがなっていたのでビックリしました。その頃からありました。
――あそこじゃないですか。中央山脈を越えた、すぐ西側のサラマウの方でしょう?
大きくはないけどリンゴがあるんです。
――あそこは、二十世紀(梨)もなってるんですよ。
今もいっぱい作ってるそうですね。
そして台北に出てきたら、天皇の「終戦のお言葉」がありました。もう兵要地誌など、何にも役立ちませんから、それで大急ぎで原隊の雷神部隊に帰ったんです。そしたら将校達の間に、一斉に自決するという話が出てるんです。これにはビックリしました。
名前は忘れましたけど、バシー海峡で遭難してやってきた古参の兵隊がいました。僕はその人に「せっかく戦争がこれで終わったのに、自決してどんな意味があると思うのか」と言ったんです。その人は「意味ないなぁ」と言うんですね。それで僕は「どこをどう通っていけば粟があるのか、どういうシェルターがあるのか。これだけ資料を持っているんだ」と言いました。そして「この資料を持って、できるだけ若い学徒兵を連れて、山に入ります。(もし)自決命令が出たら僕は脱走します」と言ったんです。そして、その古参兵は「僕も一緒に行こう」と言ったんです。そしたら、「自決は止めろ」という指令が出たんです。脱走しないで良かった。脱走すれば、また、銃殺されていたかもしれませんけど……。「兵隊記」と
いうのはその頃のことを、書いたんです。非常に辛い思い出を書きました。
――先生、あの頃、宜蘭濁水渓に行った頃は、糧食は充分あったようなんですけどね……。米軍の上陸した後に備えて、備蓄して蓄えていたらしいんですね。
はあ、それでですか。
――先生、朝御飯がお粥になったのを、覚えておられますか?
はい。お粥の重湯みたいになってましたね。お米が浮いてましたね。
――お粥にシマホロギクが入ってましたよね。その野生の菊を取りに行かされたんですよ。トゲがついていますので、皮をみんな剥いで、それを切って、雑炊みたいに作ってましたね。それを食べたら、みんな腹下すんですよね。野生の味ですから。あれには、もう参りました。
そうです。それから覚えてらっしゃるですか?「蛇捕り隊」と言うのも、ありましたよ。
――「蛇捕り特攻隊」と言ってましたよね。選ばれた奴は「陣地構築」をやらなくて良いから、一日中遊んでるんですよ。
――大喜びですよね。
「お前ら、蛇は捕った?」と聞かれたら、「今日は捕れなかった」「今日は一匹だ」とか言っておけばいいし……。だから一匹捕ったら、現地の娘と遊んでるんですよ。捕ったら彼ら、焼いて食べますからね。みんな羨ましがってね(笑い)。
――だけど持って帰ったら、分隊で分けてましたよ。長さにすれば二センチぐらいのこんな小さな一切れずつでしたけど……。
悲惨な時期ですね。
――そういう、いやな時代もありましたけど、そういう時代を過ごして今、幸せな時代になりましたが、そういう「苦い経験もありました」ということを……。
そういうことですね。そういう時を過ごして、ここでこうして劉さんと話ができるなんて、夢のようだなぁ。「人生の不思議」だなぁ。
――あの頃、「宜蘭濁水渓の平野に米を植えなくちゃいけないだろう」と考えていたんですけどねぇ。
本当に夢のようですねぇ。
――でも何回も、嫌なこともありましたよ?「米軍の機動部隊が寄ってきたから」というので、みんな実弾を渡されたのを覚えてますよ。
悲惨な訓練でしたよ。宜蘭濁水渓の真っ黒な砂の上でね……。
――あれ、先生もやらされましたか?私もやらされましたよ。
裸になって、泥を体に塗ってね……。ツツガムシがいましてね。体の柔らかい所に付くんですよ。演習が終わったら、みんな裸になってね、ツツガムシ取りをやるんですよ。悲惨でした。僕は肘の内側にやられたんです。小さな、蚤の何分の一かの大きさの赤い虫でね。それが(皮膚に)食い込むと、四十度くらいの高い熱が三十日くらい続いて、心臓がやられて死んじゃうんですね。悲惨な時期でしたね。
――戦争はやっぱり、したらいけませんよね。戦争は絶対反対です。
いや、僕も戦争は絶対反対だな。
――本当に、ありがとうございました。
「留用の四年間」
聞き手:劉茂源
――先生、今度は「留用の四年間」というテーマで、戦後、先生が残されて、残務整理と考古学的な資料の整理、その四年間の出来事等についてのお話を、お伺いしたいんですが……。その前に、これを……(と言って、手元の分厚い冊子を取る)。その当時、先生はこんな回覧雑誌を、お作りになってましたよね。素晴らしい、こういう切り絵が入った表紙ですが、こんなのがあの頃あったんです。この中に挿し絵も入っていまして、こういうイラストがあるんです(と言って手元のイラストを出す)。立石画伯の描かれた絵で……。この説明がまた、素晴らしいんですよ。先生。少し読ませていただきます。
「國分先生、深夜勉学の図。日本の女房が気に掛かる。彩色土器が気に掛かる。早く一年経てば良い。ゆっくり一年経てば良い。帰りなんいざ(帰去来兮)。いや、いや、留まりまりなんいざ」これ、方言ですかね(陶淵明「帰去来辞
」の訓読)。
こういう素晴らしい、本ができてねぇ……。こっち(もう一冊)の本もその回覧雑誌なんですが……。それ等も含めまして、ひとつ宜しくお願いします。
戦後、私が兵隊を解除されて帰って参りますと、初めに台北師範では「征用」と言う辞令が出ました。「セイヨー」のセイは「征伐」の「征」で、「懲らしめに用いる」というような意味のようです。戦争に負けちゃいましたし、日本の「技術者」や「多少は何か役立ちそうな者」を懲らしめのために残しておく。と言うような意味だと思います。
――先生、それは誤解ですよ。「セイ」というのは、「徴用」の「徴」、だから「残して徴用する」の意味です。「懲らしめる」という意味ではありません。
そうですか。後に「聘用」という言葉に変わりました。大学に行っていた頃は「これは懲らしめで残されたか」と、思ってました。
――そうではありません。
初めは、イェール大学からきた学校長の所で、しばらくは英語を担当させられたことを、覚えています。それからすぐに、編訳館を担当することになりました。さっき話したチャンスがありましたが、許寿裳先生の所で、浅井教授らと一緒に編訳館に用いられました。そのとき聞いたんですけど、「知的な接収」という言葉が使われました。我々は「頭が良い。素晴らしいアイディアだ」と思いました。僕など、大して「知的接収」にならないんでしょうけど……。それでも多少なりとも、先史考古学のようなことをまともにやっている人があまりいなかったので、やったことの資料も残し、やった内容を、もし講義や論文で残すことができたら、これまで長くお世話になった、台湾への「せめてものご恩返しができる」という自覚は
あ
りました。ただし段々窮迫してきましたので、家族は帰してしまいました。家族は、家内の父親が熊本の阿蘇の山裾の閑村に帰って、医者を開業していましたから、家族のことは、そう気にしないで良いようになりましたので、単身残りました。始めは編訳館の中で、先史時代の資料と報告のようなものを書きまして……。後に、「二・二八事件」という事件があったんですが……。でも僕はその六ヶ月ほど前に、台北の大学の「考古人類学教室」に移行しました。
――そのときに、李済先生が来られたわけですか?
その直前です。宮本延人さんが教授でした。僕は「副教授」という辞令をもらいました。そのときまでに、ミュージアムは爆撃を受けてましたから、あらゆる資料が、爆砕物の下にみんな埋まってました。民族学の資料も、埋まってました。厚いガラスケースの中にありましたから、ガラスがもう滅茶苦茶に割れて、天井の漆喰壁などのいろんな物の下に埋まってました。僕は(瓦礫を)片付けるのに、六ヶ月ぐらいかかったと思います。それから拾い出して、原簿と照らし(合わせ)、原簿がないものは皆、新しく書いておくと……。向こうの要望では「『中文』と『英文』にしろ」と言うんです。中文にできないので、皆、英訳して英文にして……。それから、中国の方に直していただいた(簡単なものは、僕が漢字で書きました
けど)のを、覚えています。そういう生活が、初めの生活ですね。若干の時間があると、地方に調査に出るという訳です。それから、今まで不充分だった「どこそこの貝塚の、貝の種類が分からない」と言うと、貝塚へ採集に行ったりしました。そして、二年目の二月二八日に例の事件が起きたんですね。その後は、今までの親日系の教授は皆お辞めになって、傳斯年が来るんです。
――アメリカ制度になる訳ですね。
台湾の総督は、陳儀長官でした。ところが、長官はアメリカの大使だった魏道明が来るんですよ。すっかり体制が変わってしまいましてね。大学の知り合いも、それからどんどん変わっていきました。これまでの親日系の人は、だんだん退いて……。最後まで残ったのは、農学部の干景譲先生です。そして、歴史研には「日本の研究陣に匹敵するのを連れてくる」と、傳斯年先生は言われましたが……。それは、例の李済、薫作賓のあの一団の人達ですね。
――「殷墟発掘」の、あのスタッフですね。
そうです。それから、民族学ではゼイさんが来ましたし、後は凌純声も来ました。民族学では一種の「壮観な時代」ですね。
――先生。最後に台湾を引き揚げてお帰りになるときに、僕達師範の学生が皆集まって、送別会をしたんですが、覚えてらっしゃいますか?
はい。良く覚えています。
――僕も忘れていたんですが、奥様の一子さんが出して下さって……。そのときの寄せ書きがここにあるんですが、この寄せ書きは、日本語と中国語のチャンポンなんです。上の見出しは、完全な中国語ですね。下に書いてあるのは、中国語もあれば日本語も入ってますけど……。こういうおおきな寄せ書きを奥様の尽力で、探し出していただいたんですけど……。
これ、彼女は大事にしてました。
――それで、いつ書いたか覚えてないんですけど、見たらここに僕の名前があるんですよ。これ懐かしいですよ。
そうですね。僕も、いちいち懐かしい。
――これを書いたのは、先生がお帰りになる八月の前ですから……。どこでしたか?
僕も今、思い出せないんですが。先生覚えてますか?
いや、全く覚えてません。
それから二・二八事件のときは、僕は金関先生とご一緒に、曾文渓の調査をしていたんですが、「台北で暴動が起きた」というんです。そしたら汽車は、新竹まで来たら止まっちゃったんです。台湾大学の学生が指導して、汽車止めちゃったんだそうです。それで、中国の精糖会社の技師が、妙齢のお嬢さんを連れていました。もう暴動が起きていますから、中国内地系の方というのは、ことごとく脅迫されていました。金関先生と僕は新竹の駅で、お嬢さんを連れた中国の技師を誘いました。「あなた方は危険があると思うから、すぐに我々は、ホテルに避難するから行きましょう」と言ったんです。それで、ホテルの一番奥の部屋に、その技師を連れて(英語の通じる方でした)新竹に四日くらいいましたかね。お嬢さんがいる
ものだから非常に心配して……、とっても可哀想でした。それから僕は、金関先生と相談して、「この方達、台北に連れて行きましょう。金関先生の所に置いてくれますか?」と言ったら、「良い。僕の所に連れてこい。二人を救おう」と言われました。それで僕はマダムに頼みました。「このお嬢さんに、スカートをやって下さい」スカートの姿になれば、内地(中国)の人かどうか分からなくなりますからね。お父さんの方は、背広を着てました。お嬢さんだけ扮装を変えれば良いから……。非常に心配しながら「どうしたら良いんだ?」と言うので、「話が通じても通じなくても、日本人が話してれば日本人と思うだろう」と言うことで、仕方ないので、下手なイングリッシュで話しながら駅に行ったんですが、こうして耳を傾ける
?
?
?で
すね。「君、今話しているのは何だ?あなたは何だ?」「僕は日本人です」「日本語じゃ無いじゃないか。こっちは中国人だ」と言うんですね。そして、なんぼ弁解しても駄目なんですわ。「この人達は技師だから。本当に技術者なんだ」と言っても、(首を横に振って)許さないんですね。結局、二人を連れて行ってしまいました。それはいつまでも消えない、何とも辛い思いでね。
――あぁ。そしたら先生、救えなかった訳ですね。
救えなかった。
――それは、お気の毒です。
「もし、あなたが我々を妨害するなら、あなた方を殺す」と言うんですね。
――そういう事があったんですか。
そういう所まで、行ったんです。それで台北に帰って駅降りたら、装甲車で銃撃してくるんです。金関先生と二人でドブに飛び込んだんです。銃撃が去った後に、飛び出して帰って行きましたけど、それから後、一ヶ月間はどこにも出れないんです。そのときにこの回覧雑誌、この分厚いのができた訳です。ちょうど戦争の末期に、日本の東京では紙の配給ができなくなりまして、三省堂が中止になって、東京書籍株式会社と言うのができるんですね。台北にも、その支店ができたんです。こんなにこの回覧雑誌のもとになった原稿用紙を持ってました。戦後、支店長に会って「原稿用紙下さいませんか?我々は寂しくて仕方がないから、みんなで書いて回覧雑誌を作ります」と言うと、「どうぞ。使ってください」と、大変な
ボリュウムの紙をくれましてね。そして金関先生を中心にして、書きました。それがこれです。そのメンバーに森於菟先生などもいるし、早坂一郎先生のような人がいるわけですね。
――先生、二・二八事件があって、大変な時を過ごされましたね。今、台湾では若干解放されて、野党ができて二・二八事件のことも検証していますけど……。そういう、嫌な時代もあったと言うことなんですね。だけど、あの中国人の親子を救えなかったというのは、先生、残念だったですね。それはもう、ベストを尽くされたんですから。
長く、心の底に残ってねぇ。
――先生のお気持ち、良く分かります。
「どうしたら良いか」と泣きたいような、思いでしたね。
――いや本人も、先生のそのお気持ちは分かってると思いますよ。先生、本当にありがとうございました。
金関丈夫筆「國分先生行状絵巻」
聞き手:安渓遊地
――これから、「金関丈夫筆―國分先生行状絵巻」という、一九四八年に書かれた手紙の紹介を、やや紙芝居的にやらせて頂こうと思います。最初に出ておりますのが、「一、講義をする國分先生、学生は二人」で(1)、中身が「考古学と史学の違いについて」です。この家内の手紙には、私を愛しているとは書いてありませんが、この手紙は私の名前がかすかに濡れた痕があります。これは考古学的に見ると、家内が私を愛している証拠です。
――これは、教えておられたのは戦後ですね。
台湾大学文学部の教室です。
――次に参ります。これは鶏小屋を作る國分先生ということで(2)、手前の人物が金関丈夫先生になります。今夏は私の家内が生まれて始めてヒヨコを孵しました。自分で孵したのではありません。めんどりに孵させたのです、という出だしになっておりまして、國分先生のために配給があったために、それで鶏や猫など沢山の動物が生きておりますという話になっています。
――当時は、配給制だったんですか?
そうです。金関先生は鮮やかに、一本梁を渡しまして……。僕は(体重が)軽いもんですから、天井に上がっています……。
――これは、金関先生のお宅の非常に不思議な、上から見た食事風景の絵です。煙が上がっているのが(タバコを吸うので)、金関先生ですね(3)。
――それからこれは、離れの六畳にいらっしゃった「國分先生の部屋」なんだそうですが(4)、動けるのは、中央の二畳くらいで、後は本と石器・土器とでいっぱいです。赤い線が「活動範囲境界線」です。と言うふうに書いてあります。
――ここには、五人の人物が見えておりますが、実際には二人しか居ません(5)。向かって左上の二人は、アメリカの雑誌でしょうか?それを読んでおられる、金関先生(煙の人物)と國分先生です。右下は、その一時間後、一所懸命洗濯をしておられる國分先生。しかし、國分先生の心の中は、奥さんの一子さんのことと、娘さんの則子さんでいっぱいだ。と書いています。これは、金関先生がお二人に送られた手紙ですが、非常に暖かいものがあると思います。
――これは、食後の腹こなしの図(6)とありまして、「三本勝負の光景」です。応援団が「國分先生しっかり!おへそが見えます」と言うと、「悳君、負けるな!」という声が飛んできます。悳君と言うのは、どなたですか?
金関先生の三男で、後に世界的な生物学者になるのです。
――これは、女難に遭う國分先生(映画館にて)(7)とありまして……(中略)。実際にあったことなんでしょうか?
そうですね(笑い)。
――これは、蛮人になる國分先生(8)。立石画伯が國分先生をモデルにして、台湾の方々の生活の様子を絵にした。そのときのものです。
これは、台湾省の博覧会の時のものです。そのとき、先史時代の生活と高砂族の生活との関連を、金関先生が絵にしたんですね。立石さんが絵を描くんですが、モデルがいないんですね。僕に「裸になれ」と……。
――このとき先生は、「早ぉ書いてくれんと、風邪引くがな」と、京都弁でおっしゃったことになっています。
更に立石さんは、「國分さんみたいな、やせっぽちじゃ駄目だなぁ」と言われて(笑い)。
――ハイ。今出ておりますのは、五、虜になる國分先生(9)という絵で、國分先生が夜遅くなっても帰ってこないと「あ、また松山和尚の虜になったな」と言う風に、皆思ったそうですが……。これは写真家の松山虔三(右)さんです。
有名な方です。日本にライカ(ドイツ製のカメラ)を持ち込んだ最初の人です。
――大学の教授って奴は、何だって揃いもそろつてボケ茄子みたいな奴ばかりいるんだろう。國分さんはまだ助教授だから見込みがある。あんなカボチャのウラナリみたいな連中に仲間にはいらないように気をつけなさいと、おっしゃったそうです。
――六、北京駅を見る國分先生(10)。孫悟空の出てくる「西遊記」ですが、これは、化け物の濃厚なラブシーンでして、「先生の目玉が飛び出している」という場面でございます。非常に誇張された漫画になっていますが……。金関先生の筆の才能というのが、如実に現れていると思いますね。
そうですね。傑作ですね。
――七、日僑学習書を教える國分先生(11)。「皆さん、今日は山内一豊の妻の話をします」そう言って、國分先生は黒板に「山内一子の妻」と書きました。生徒「一子と書いて(かずとよ)と読むのですか」先生「いや間違いました。一子は奥さんの方でした」生徒「一豊の奥さんが一子ですか?」先生「いや、また間違いました。一子は僕の奥さんですむというようにトンチンカンな教え方をしていたと言うのはフィクションでしょうか?
そうです。そうです。金関先生のフィクションです(笑い)。
――八、遺跡を調べる國分先生(12)。遺跡を調べるのは考古学者の習性ですから、國分先生は今でも遺跡へ出かけてゆきます。しかし、新しい遺跡が見つかると、以前には「しめた」と言っていたのに、近頃では「しまった」と言います。これでまた日本に帰るのが三ヶ月延びる。かわいい奥さんが見られない。
――で、その気持ちを、立石画伯が(ハムレットの姿で)「土器と奥さんの手紙で悩んでいる」(13)。「あなたの夢を見ましたといのがローマ字で立ち昇っています。ハムレットの「To
be here, or not to be here, that Is the question」と金関先生は書いておられます。
――九、賛美歌を歌う國分先生。(14)英語の勉強のために、國分先生はディクソン夫人のバイブルクラスへヒアリングの練習のためにでかけていたそうです。
――クリスマスの余興には、困らないようになった。と書かれています。先生、クリスマスには(賛美歌を)歌われましたか?
そうです。「Onward Christian Soldiers」という歌を歌ったのを、覚えています。
――十、インチキも言う國分先生(15)。國分先生は近頃、スミスさんという米国人に日本語を教えに行きます。そして、「私は東京で生まれて、京都で勉強したから、日本語の一番良い教育を受けたのである」と自己紹介したそうですが、これは少しインチキではありませんか(笑い)。と言う風に書いてあります。
スミスさんは精糖会社の技師ですね。
――金関先生は、「六十(歳)過ぎて学ぼうというのは、大変偉い」と書いておられます。
――このスミスの奥さんが、國分さんが帰るときに「good-bye」と言って握手して、いつまでも手を放してくれないので、國分さんの右の腕は、随分長くなったそうです(16)。これは、事実ですか(笑い)?
これは、フィクションです(笑い)。
――そうですか(笑い)。
――私が一番好きなのが、ここなんですが……。十一、遠慮する國分先生(17)。國分先生は何一ついけないところのない人ですが、ただ一つ遠慮深いので困ります。……ある日國分先生は勉強に夢中になって夕食の時間を忘れ、研究室を出たときは、もうだいぶ晩くなっていました。そのまま帰ってくればいいものを、手数をかけるといけないからと考え、私の家を通り越して、わざわざ街まで外食を食べに出かけたのです。すると、どうです。遠慮をした罰があたって、自転車もろともドブの中へスッテンコロリンとはまってしまいました。めでたしめでたし、という話になっています。
――それから、これは本邦初公開ですが……。これは、昨年のクリスマスの余興に書いた漫画です。酔っぱらっている赤ちゃんのキリストは、誰だかお分かりでしょう(笑い)。これは國分先生です。それで、眼鏡の博士がいたりしますが……。ヨゼフが立石画伯です。マリアは誰か分かりません。と言うんですが……。これは金関先生の自画像ですね。こういったものが今、國分先生の手元に残されているんですが、本当に金関先生が、國分先生とご家族のことを非常に愛して気遣っておられたということ。また國分先生が、そういう人間的な付き合いをなさっていたということが、良く分かるという、とてもありがたい物だと思うんですけど……。これを貰われた時、御家族はどういう感じで読まれたんでしょうか?
金関先生に対して、それはもう感激したらしいですね。
――金関先生のお書きになったものは、まだ他にもあると思うんですけど……。金関先生は、どこで「描く才能」の様なものを、身につけられたんでしょうか?
どこで身につけたか知りませんけど、京大の骨学の講義など、両手で人物を描いたそうですね。左と右で同じように書いたそうです。そういう才能はありました。
――奥様の一子さんの話が頻々と出て参りますが、國分先生は「帰る帰らんの記」等というのを書いておられまして、先生は「帰ろうか。しかし帰れない」という、そういう板挟みになっておられたと言うことですが……。台湾で、ご結婚なさったんですか?
そうです。
――どうも、とても素晴らしい物をお見せいただきまして、どうも大変ありがとうございました。
こうして(台湾に)残っている間に、僕の父親はこっち(日本)で亡くなりました。しかし、亡くなったという通知が一年後に着きました。そういう時代でした。台湾との交通が悪くて……。
――あぁ。そうですか。ですから、非常に貴重なメッセージになったわけですね。どうもありがとうございました。
失礼しました。どうも。
紅頭嶼(蘭嶼)の思い出
聞き手:劉茂源
劉茂源:「紅頭嶼の思い出」ということでお話をお伺いします。紅頭嶼も、先生は戦前戦後もあわせて何度も行かれていますよね。三木淳さんというカメラマンがいますが、私も同行して20日間ほどいたんですよね。帰りの船の便がなくなって困ったことがありましたね。今はこの写真にあるような大集落はなくなっていますが、その時の写真を撮っています。平凡社が出している『太陽』という雑誌ですよね。第4号だったと思います。特集「海の高砂族」というテーマでした。その後で先生にお聞きしたんですが、東京で写真の個展をするということでした。
國分:僕、見に行けませんでした。
劉:そうですか。あれが、単行本の写真集になるといいですね。
國分:そうですね。すぐれた写真ですからね。
劉:ここに、あのころの紅頭嶼の美人が出ていますね。
國分:その前にですね、金関先生とドイツ人のシュワーベさんと一緒に入った 一九四七年、海洋研究所の所長の馬廷英さんも一緒でした。
劉:りんしがくでんの調査で行かれた。
國分:まず、その時の話からこちらに移りましょうか。
中国系の学者たちはようやく大学の接収が終わって一息つくと、自分達もなにか台湾で調査をやりたいということで李済先生も山へ入るんですが、馬廷英先生は海洋研究所の所長ですから、紅頭嶼をねらったんですね。それで日本人の学者も参加させてやるっていうんで、金関先生と僕が参加させてもらいました。それから貝の専門家の金子寿衛男(かねこ・すえお)という早坂先生のところの講師の方、それと、ドイツ人の生物学者シュワーベさんという人、われわれはそういう人たちでひとつのグループになって入ったわけです。そのときですね、金関先生がよくお書きになっている「槍ぶすまに囲まれる」という事件がその時ありました。これはまだお話ししていませんか。
劉:はい。
國分:それではお話しいたしましょう。実は私は考古学的な興味から、彼らがずっともっていた伝来品をずっと集めていました。彼らは布地を非常に大事にしましたから、しまいに僕は持っていったあらゆるシャツもなにもかもを石器と交換しました。最後は台北に着て帰るワイシャツだけになりましたけど、ワイシャツの袖までもいで渡しました。だから袖のない形で帰りました。
劉:チョッキのようなかたちですね。
國分:はい。みんなに笑われました。「その恰好はなんだ」と。そんな思いをした調査だったんですけど、ヤユウ社という所の海岸にイガンという三角形の岩場がありましたね。そこに、金子寿衛男さんがあそこに「お骨があるよ」と僕に言うんですね。
劉:カニトアンですね。
國分:いえ、単なる墓地ではなくて、親戚、縁故者のない人たちを葬むって行くところだということが後で分かったんです。それで、そのときは僕はおろかだったんですが、まだ帰る前ですからちゃんとワイシャツをきていました。白いものを着て、真っ黒な火成岩の岩場に上がったから、ヤユウ社からよく見えるんですね。金関先生も真っ白い半袖のシャツを着ていましたし、
蔡滋理さんという先生のところの講師の人も真っ白なシャツを着て、三人真っ白なシャツを着たやつが、真っ黒な火成岩の岩場に上がったからよく見えるんです。それで島では大騒ぎになったっていう事は僕は知らないんです。降りてくるまでは。岩頭に累々と遺骨があるんです。遺骨のあるものはすでに嵐で崖下におちて海の中に消えてしまったものもあるんですね。それから板を組んで、組み合わせ石棺のように板を組み合わせた跡などもあるんですね。先生にこの遺骨はどうですって聞いたら、非常に貴重なヤミ族の形質人類学の資料だとおっしゃるんです。それでは、完全な頭だけここから持っていきましょう。それから四肢骨も持っていきましょうかと。それから、なにか困ったときに野宿でもするつもりだったのか、毛布を
持っていたんです。その毛布に7体分くらい包んだんです。私は一番体は小さかったけど、一番敏捷だったもんですから、それを全部包んで頭に乗せて岩場を降りて来たんです。それで金関先生も非常に喜ばれて、これでヤミの形質人類学がすっかり分かると。そしてヤユウ社に近寄ったら槍ぶすまに囲まれちゃったんです。僕はですね、ヤユウ社に寄ってお水をもらおうと思ったんですよね。
劉:その後、イモウルド社にもどられるですよね。
國分:そうそう、その時いろいろなことがわかったんです。その岩場に行く間にたくさんの枯れ木が立ってて、そして、サザエのようなものがかけてあるんです。それはみな後でわかったんですが魔よけらいしんです。そこは大変な恐ろしいアニト(悪霊)の世界だったんですね。それでこれも後でわかったんですけど、身寄りのない人は、たたりがあるっていうんで、これも彼らのカニトアンという普通の集落のお墓にほおむらないんですね。それで岩頭に置いて、嵐になって消えれば消えれというふうに岩頭に置いてあった。ところがその彼らのいうアニトになったものを担いで降りてきたものですから。それはもうはっきり分かってるんですね。白いシャツを着て工作しましたから。彼らは、男という男は全部出ましたよ。
長い槍を
持って。
劉:木製の。
國分:はい。しかも兜をかぶっていました。それで僕はヤユウ社に近づいた時、「ああ、これで殺されるな」と思ったんです。せっかく台湾に残って多少の仕事はしたと思ったけど、ここで殺されるなと。自分たちに他意はないから、彼らに対して失礼なことをしようっていうんじゃないから、もしあなた方が怒るならば、もとの場所にちゃんともどしますと。僕、スケッチとりましたからね。スケッチも持っていてもとの場所にちゃんと戻しますから、もし、失礼なことがあったら許してください、と言おうと思いましてね。蔡滋理さんと二人で近づいたんです。向こうにいけば、日本語のわかる人もあるだろうと思ってね。いっせいに、近寄るごとに槍を振り上げたんです。そして非常な大きな声を出した。僕はすぐにわかったんで
す
ね。ああ、僕らはアニトを持ってるんだ。そのアニトを伴って部落に入られれば、大変な災いが部落に入るんですね。それであんなに怒ってるんだということがわかったんです。それからすぐに部落に近づかずに引きかえして海岸のほうに出ると、部落の騒ぎは静かになって、ただ、しかし、もう凝視してるんです。槍を持って。それで僕安心したんです。「ここで殺されないですむな」と直感したものですから、「先生、さんご礁の海浜の砂の上を走りましょう」と。それで、しかしこれをもって帰ったらイモウルド社で大騒ぎだろうと。船が入っていれば、そのなかに何もいわずに船に積んでしまいましょうと。ちょうどそのとき汽船が入っていたので。8キロくらいあるんですよね、あの距離が。
劉:うん、ありますよね。
國分:もう必死になって担ぎましてね。そして、イモウルドに帰ると、ちょうどいる船に担ぎ込んで、イモウルドでは何もわからない、それからヤユウ社の連中もおっかないことですからね、ひとこともイモウルド社に連絡しない。それがこの槍ぶすまに囲まれた話として金関先生が随筆を書かれてずいぶん有名になったんです(『南方文化誌』法政大学出版局、1979年)。
劉:それで先生、ちょうどここに三木さんが撮られた写真があるんですよね。ちょうどこういうような銀の兜をかぶったこういうような人たちに。それは先生怖かったでしょう。
國分:いやあ、怖かったよ。槍持って怒ってますからね。これは打ち殺されて終わりになるなと思った。なんともつらい思いでしたね。
劉:先生それは、生きた心地がしなかったでしょう。
國分:やられたと思ったよ。
劉:第一巻のおわりと思われましたか。
國分:それはそう思いましたね。
劉:しかしそういう貴重な資料が今、台湾大学の医学部に入ってますよね。
國分:はい、入っています。
劉:今、その資料を使っている人、こういう苦労をされたことを知らないでしょうね。
國分:まったく知らないでしょうね。
劉:どれだけ苦労をして持ってきたということを知らしてやらんといかんですよね。
國分:そうですね。その意味はね、縁者のないものはたたりがくるので、それで自分たちのお墓にほおむらないんですね。英語で言えば ”platform
exposure”
ていうんですけど。曝葬ですね。曝葬はずっと南西諸島から広くあるんですけど、山側、九州の山側あたりにもあるんですね。先史から古代にあるんですが。一系の思想だと思いますね。
劉:曝葬と風葬はまたちがうんでしょうか。
國分:風葬と同じです。風葬は、柳田先生などは風葬という言葉を使われました。同じです。
劉:それからもうひとつ、戦後、自分が先生に同行して行ったとき、面白かったですよね。
それが三木さんのこの写真ですよね。夜な夜ないろんな話が出まして、駐在所に泊めていただいて。行く前に米を買って行ったのを覚えています。
國分:覚えています。
劉:途中でタクシーのタイヤがパンクしちゃって。それで船に間に合わなかったんですよ。
國分:船、行っちゃった。
劉:だからそこで一晩泊まって。汚い木賃宿のように畳が一畳の所に泊まってひっそり寝て。覚えてますか。
國分:覚えてます。
劉:それで次の日に漁船が出て、その漁船に乗せてもらったんですよね。警察局から外人の係りの人がついて来られて。その人がまあ監視役ですよねその人。そこで先生、僕は二つ思い出があるんですが、一つは先生が牧師になられたんですよね。
國分:そうです。
劉:戦後ですね、あのころ、高砂に物資が戦争中なかったんですよね。終戦と同時にアメリカの宣教師がぱーっと入り込んで、粉ミルクと衣服を持ってきたら、みんながいっぺんになびいちゃったんですよ。
國分:そうです。
劉:それともうひとつ。高砂には宗教というものはないんです。アニトはあっても。霊魂というものはあっても。だからいっぺんにそういうあれになったんです。日本から来られた偉い先生ですから、牧師と思い込んでいるらしいんですね。先生なにか説教してくださいと。だから先生は牧師になって行かれたんです。だから僕はね、「先生、今夜行かれるなら僕が聞きに行きます」、っていったら、「君、聞きにくるな!」と。
國分:それはですね、アメリカの女性の宣教師が入っていました。えらいですね、ヤミ語を覚えて、「聖書」のヤミ訳をして教化をしていくんです。僕、偉いと思うんですよね。それで、その牧師さんたちが帰ってしまった後に、ヤミのインテリの中に助手をした人が牧師代わりをして日曜ごとに礼拝をしまして、船小屋の中で礼拝をやってるんです。その椅子はですね、浜の丸い石です。丸石をずーっと並べましてね、その上にお尻をのせて、それから黒板がありましてね、黒板は、あるところとないところとありましたが、宣教師の助手をした人が、牧師代わりのお説教をするという。ぼくは、毎日それを日曜日ごとにそれにいったんですよ。様子を見にですね。そしたら、あんまり熱心に見てるもんだから、彼らは僕を牧師だと
間違
えたんですね。こんなに熱心に見てるんなら、日本から来た牧師だろうと。それで僕になにかキリスト教の話をしろっていうんですね。僕はまだ梅光(梅光女学院大学)とも関係のない時でしたからね、大変困ったんですが、何かしろっていうんですから、こういう話をしたのを覚えています。そうそう、その時ですね、彼らは、アメリカの牧師さんは、死んだらば天へ上がると、神様の元へ行くと言っていると。本当か。自分達は死んだら、アニトになる。死っていうのは、死者は非常に恐い。しかし死んだら天に上がって神様の近くに行くのは本当か?と僕に聞くんですね。みんな聞くんですよ。ヤミ族の人が。
劉:ヤミ族の人が。
國分:そうそう、丸石の上に座っている人達がね。それで僕はこういう話をしたんですね。あなた方は絶対に人殺しをすることもない、物を取ることもない、嘘をつくこともない、今度の戦争だって何にも関係ないだろう、そういうあなた方のような善良な方々がね、そういう人たちが亡くなったときに、アニトになるってどうしたって考えられない。それは当然、必ず、天に上がって、神様のお側に行くに違いないんだと、そういう話をしたんです。彼らは「そうか、そうか」と非常に感動して聞いているんですね。それが、牧師に間違えられた事件です。
劉:まあ、そういうことがあって、もちろん國分先生は、ご自分で自分は牧師だと言われなかったけど、彼らは先生を牧師だと思いこんでいるんですよね。
國分:そうでしょうね。
劉:まあ、それと関係があると考えられませんけれど、次の日ですよね、一軒ずつ民俗調査で入っていって、出てくるときですよね、先生犬に噛まれたの。覚えてますか。
國分:やられた、やられた!ふくらはぎをやられた。
劉:先生が一番最後だったんですかね。
國分:そうです。
劉:いや、一番最後は僕ですよ。僕には噛みつかんで、二番目の人に噛みついてますから。これなんか祟ったんでしょうね。で、それがあってですね、僕は心配したんですよ。狂犬病がいたら大変って。だからそれから一週間、僕、先生が寝付かれるまで僕は起きてました。なんか「ワンワン」って吠えられないかなと思って。それで紅頭嶼を引き揚げて、台南に行ったら、まず病院の劉先生に実はこうこうで、と言ったら、いや、一週間経ってるから発病してなかったら大丈夫ですよと言われましたね。
國分:それならよかったんですけどね、もう見込みないっていったんですよ!
劉:ああ、見込みないって言ったんですか。
國分:そう。もう時間がたってるからね。もし病気を持ってたらもう駄目ですって。
劉:そうだったんですか。ああ、いまさら注射が効かない。
國分:そう。僕、がっかりしましたね。それからいよいよ発病したら、劉さんに噛みついてやろうと思ったんですよ(笑)。
劉:それがなくてよかったですよ。今日ここにおられるのもね、先生が発病されなかったからよかったんですよ。面白いお話をありがとうございました。
南島への思い
聞き手:安渓遊地
――國分先生、「南島への思い」ということで、金関先生の波照間島調査、國分先生もご一緒になった、そのころの事を主にお話ししていただきたいと思うのですが。
金関先生は京都大学の助教授時代に沖縄の調査をなさいまして、そして、沖縄の遺跡から出た人骨を主題にして、すでに学位論文を出しておられました。その頃の強烈な思い出があって、美しい守礼の門を再びくぐることができなければ、自分の一生は非常に不幸な一生だというような随筆をお書きになって、沖縄の方々は大変感激したということを聞いています。
しかし、私が沖縄の調査に参加することができるようになりましたのは、まあ金関先生のお陰でもありますが、柳田国男先生のお計らいです。私は帰るとすぐに石田英一郎先生が民族学協会のメンバーに加えてくださいましたし、梅原先生は考古学協会のメンバーに加えてくださいました。そして柳田先生が日本民俗学の会員にしてくださいました。そして柳田先生は例の「海上の道」で有名な論文をお書きになりましたが、いよいよ沖縄もようやく戦後の混乱から回復してきたのだから、ひとつ、沖縄の文化の総合研究をやらなくちゃいけないとお考えになったわけですね。ご自分はもうだんだんお年をとっておられましたから、現地に行って調査をするということはなさいませんでしたけど、柳田先生のお名前で研究費を取って
くだ
さいまして、そして、柳田先生の研究室から酒井卯作さんが民俗できまして、金関先生が一番の調査隊の隊長で、永井昌文先生が助手として参加された。それから沖縄からは多和田真淳先生が考古学の方面と、それから栽培植物の権威として参加なさった。私は考古学の発掘の担当者としてつれていってもらいました。そして初めて沖縄に入ったわけなんですが、ちょうど昭和二十九年のデイゴの花の咲く頃で、なんとも美しい季節でした。私が初めて台湾から引き揚げて来たときに、商船大学の日本丸の船の上から眺めた沖縄の首里や那覇の山河っていうのは惨憺たるもので一片の緑もありませんでしたが、昭和二十九年に私が金関先生のお供をして行ったときには、すでにずーっと緑が回復していまして、「あー、沖縄はよくなったな
あ
。」と先生もおっしゃるし、僕なんかも安堵の気持ちがいたしました。
――先生、これをちょっと見ていただきたいのですが、金関先生、國分先生とともに台湾におられた川平朝申先生、結核予防協会の会長をなさった、その方から来た絵はがきを拡大したものなんですけど、那覇市崇元寺とありまして、「誇った尚真王朝の琉球文化はこんな姿で残っています。」そして一番最後のところに、「再び守礼の門をくぐることができなかったことをかえすがえすも残念に思います。」その無念が現れています。もう一枚は浦添ようどれのお墓の絵です。そして、これは守礼の門あたりの、これだけがわずかに残ったものであるという説明を川平先生がされています。それから首里の城跡が後ろに見えていますが、その手前に広がっていますのが小学校の校舎です。そして、児童がかわいそうでなりません、と
い
うことが書かれています。こういうことがありましたから、金関先生も子ども達に本を送ろうというようなことをお考えになったんだと思いますが。これは摩文仁の丘で牛島中将が最後のすさまじいものをようやく台湾にようやく連絡がつくようになって送って来られて、そういう状況を踏まえて、ふたたび沖縄へ行ってみたいというふうに先生はお考えになったということですね。
多和田先生は農業試験場の所長をしておられましたが、奥さまは戦争中に爆弾でお尻をやられまして、そしてそこが化膿して腐って、非常に惨憺たる症状になった時に米軍が来て、おそらくどこかに捨てるつもりでトラックに奥さんを無理に乗せたそうです。歩くこともなにもできない奥さんを乗せたそうです。多和田先生はつれていかれてどこかに捨てられたら大変だと思って飛び乗ったらたたき落とされたということです。そのまま奥さんの消息はわからないというそういうお話を聞いたんですが、もう頭が上げられないんですね。悲惨で残酷で悲しくて頭が上げられなかった。こんな苦しみをこの島の人たちがなめたのかと思うと、調査に来ました、というような顔はできないという深刻な思いがしました。
ただ波照間はですね、戦火は受けていませんでしたので、これはほんとの「果てのうるま(沖縄の古称)」という説があるくらい果ての島なんですけれども、島の方々は島の人たちは意気軒昂としていました。自分達は米軍の世話になんかならんよと。自分達は捕れば魚もとれるし、貝もとれるし、粟も作っているし、自分達は世話にならんと非常に健康たるものでした。僕は驚きましたのは、家々に、皇室の天皇の写真をかかげているんですね。天皇のために今度の戦争があってこういう目にあったというような、そういう思いの強い時ですから、不思議な思いがいたしました。なんとも純真な人たちなんですね。それで、よく僕達のために発掘地を、山田さんという農家の方でしたが、発掘地を許してくださいましたし、それから、
お芋
などを弁当に用意してくださったりして、大変お世話になりましたけれど、しかし、労働を提供してもらうことは不可能なのです。毎日の暮らしで精いっぱいの生活をしていますから。
それで、六メートルに六メートルの三本の短冊形のトレンチをあけたんですけれど、そして厳しく層序的に遺物をあげたんですけど、そういう作業がすんだら、金関先生もそれから多和田先生も、それからそのほかはですね、先生の助手をしていました永井先生もみんないってしまいました。多和田先生は植物調査、それから金関、永井先生は人体の形態測定にいっちゃった。後は僕がやらなくちゃならないんですね。平板測量機を立てまして、ポールを立てて、自分で覗いて、行って計るという、そういうつらい調査をやりました。
ところが、そういうような調査の仕方で完全な測量ができるはずはありませんので、大変心配しましたけれども、沖縄に帰りましたら、ディーゼンバッハという司令官がいまして、こういう実測図があると言うんですね。飛行機から撮った写真を実測化しているんですね。それをくれましたんで、金関先生が僕の測量図と合わせているんですね。ひやひやしました。國分君の測量だめだといわれると困るなと思っていました。「あー、正確だね、君、一人でやっても正確だね。」と言われたのは今でも僕は嬉しく思っています。
そのころデイゴの花が真っ赤に咲いてですね、緑が燃え上がってですね、非常に濃厚なタッチを、油絵をタッチを思わせるような情景だったものですから、先生は興奮しちゃって、「ゴッホだ、ゴッホだ、ゴッホだ。」といって歩かれた、その時のことをよく覚えています。
しかし、地形測量では非常に単純な測量をしました。トレンチに沿って一本、海岸のリーフまでずっと海面までおろしたひとつの線をとって、もう一つはですね、海岸線に沿ってまっすぐ一本の線をとって、そして、それのエレベーションをとる作業、それしかやっていません。それも僕一人でやったんですからね、とても大変でしたけれども。そういう思い出があります。
その時にですね、歩きますといたる所にお墓に陶器が捨ててあるんです。捨てられた陶器を見ますと、よだれがでるほどすばらしいものなんですね。日本の古い古陶磁が。ですからずいぶんこちらから物が入っていたんですね。先生はそれを採集されまして、持って帰られたんですが、ご自分で所有しなくて、柳宗悦さんの日本民藝館に全部入れられました。あそこにある、柳さんの民藝館の資料は金関先生、僕も一緒に採集しましたが、その資料です。それで僕は立派な人だなあと思いました。古伊万里のようなね、おそらく何十万するかわからんようなものが捨ててあるんですね。波照間の人たちに聞くと、死者とともに忘れられていった資料なんですね。かまわないっていうから、採集して帰って、民藝館にあげた。
その後東京に帰ってきて、柳田先生のところに二人で行ったんです。波照間の人は先生元気でしたよ。けしてひるんでいませんでしたよ。「自分ら米軍の世話なんかにならんでも生きて行ける。」と言っていましたよ、と。先生もとても喜ばれてですね、「そうか、それはすばらしい」というんですね。それで「天皇が大変ご心配になっているから、すぐに明日、天皇のところに行きなさい。天皇は非常にご心配になっている」と。天皇は痛烈な戦争責任感を僕は持っていたと思うんですね。それで、すぐ侍従長に先生は電話をしていましたけど、僕は汚いなりをして、兵隊靴を履いていましたし、困っちゃいました。そんな汚いなりで天皇の所に行くわけにいかんだろうと、池田敏雄が洋服を貸してくれました。ところが彼の洋服が
こん
なに長いんですね。その袖を折りまげて着ていったことを覚えています。それから靴はですね、なんか鯨の油かなにかをぬってくれました。こうしたら少しは見やすいだろうと。柳田先生にこんな恰好でいいですかと言ったら、「かまいませんよ。とにかく天皇に様子をお聞かせしなさい」と。
そして行きましたら、そうですね五十分ぐらいスライドをお見せしました。僕がスライドをくってですね。こんな伸びるようにして、ご自分は心配しているもんですから見ているんですね。その後で、フランス大使とかなんとか、ヨーロッパから帰ってきた方々が天皇の側近でいるんです。そういう人たちを囲んで、このくらいの部屋で座談会のような、みんな他の大使は謹んでだまっているんですが、天皇はお一人で質問をするんですね。我々に質問をして。僕は感心しましたね、日本の原始文化との関連が気になるんですよ。「縄文とどう関わりがありますか。弥生はどう関わりがありますか。」非常に僕は感心したんです。それで金関先生は「天皇は、新制大学の先生ができるよ」と、そんなことをおっしゃっていたのを思い出し
ま
す。
それから帰ってきたら、柳田先生が「陛下はどういうふうなことでした」と非常に心配しているんですね。自分が計画した調査で天皇をなぐさめたい。彼は大変な天皇びいきな人ですからなぐさめたいんですね。ただ、金関先生は勘違いされて、いや、「不愉快なことはありませんでした」と言ったんですね。そしたら柳田先生はびっくり仰天して「へーっ?」とかいってましたが、いや、「陛下はどういうふうにご感想をお持ちになったのか」と聞き直しました。それで金関先生は気づいてですね、先生はいろんな規則的なやかましい、不愉快なことがたくさん、何はいかんとかこんな服装では許さんとかいうことで
不愉快なことがあると思って行ったんでしょ。そんなことはないっていっているんですけど、柳田先生はひたすら天皇の気持ちを心配しているんですね。それでよく了解して、「非常に関心を持たれて安心されたようです。」と言ったら、柳田先生のお喜びの顔がね、いまでも目に浮かびます。
それから僕が本当に感心したのは、金関先生はその時撮ったイーストマンのカラーフィルムを柳田先生に全部あげましたね。学会で発表した後に全部あげました。大変立派ですね。
それから、僕に言うんですね。波照間島には今読むものが何にもないと。ひとつ何か集めて送りましょうと。僕も手伝ったんですけど、雑誌だとか、参考書だとかね、そんなものを集めるだけ集めて送りました。それは非常な喜びだったと思いますね。島の人に。
新城祐介という人が波照間の巡査でした。その人がずいぶんよくしてくれました。その人の弟が下関の豊浦の結核療養所に入院していました。僕はまた感心しましたのは、金関先生がわざわざやってこられて、新城さんの弟さんを見舞いましょうと。そのころはまだスライドを返す前ですから、彼にスライドを見せてですね、あなた早くよくなって下さいよ、あなたの故郷はこんなんですよ、それから村の人たちはこんなに元気にしてますよ、と。涙の出るような話をして、新城さんは非常にそれから元気を回復して、後に退院されました。看護婦さんと結婚して今、川棚においでです。
――「沖縄に触れることなくすごす日本人の一生は不幸である」と金関先生がおっしゃった、それは波照間に限りませんけど、沖縄の人たちの優しくて強い生き方、それと金関先生があたたかく沖縄の人に接してきたというそういうあたりのハーモニーを感じますね。
そうですね。金関先生と沖縄の人々との間には、胸にせまるエピソードがいっぱいあります。それから台湾で持っていたあらゆる沖縄関係の文献を全部入れたんですね。それが少しずつ抜かれた。みんな文献がほしいときだったでしょうからね。結局は散逸してしまったことを先生は非常に残念がっていました。
――今また、石垣島に立派な図書館もできました。各島々にこども文庫という活動もできておりますから、金関先生の願いは自然に叶えられていると思いますね。
ブルとにらみあう――ベトナム戦争と綾羅木郷遺跡
聞き手:平川敬治
――國分先生は国内でも数々の発掘調査をなさいましたが、今日は山口県の下関にあります綾羅木郷遺跡についてのお話をお聞きしたいと思います。ちょうど綾羅木郷遺跡の調査のありました頃、私は中学生でした。テレビで流される遺跡破壊のニュースを拝見しまして考えさせられました。この遺跡は遺跡の内容も素晴らしいものでしたが、開発と文化財の問題に対して社会的な関心を呼びましたし、大きな市民運動をも起こしました。今回それにまつわる話を先生にお聞きしたいと思います。
はい、綾羅木の遺跡の発見は明治30年代に遡るんです。その頃からあったということは分かってましたんですけども、その後砂に埋まってしまって、形跡が分からなくなってしまったんですね。ところが、昭和40年にここに大きなひじょうに大きな竪穴遺構があるだろうと、それも大きさじゃなくて、たくさんの竪穴遺構があるだろうと見当がつきましたのはベトナム戦争のためです。ベトナム戦争でカムラン湾の硅砂ですね、硅砂は鋳物業者が鋳物の型にするために使ってた真っ白なひじょうに綺麗な新鮮な砂なんですけど、そのカムラン湾の硅砂を輸入できなくなったんですね。カムラン湾の硅砂っていうのは、ほとんど手を加えないでも98%もの純度の高い美しい硅砂だと言われているんです。それを米軍が占領したため
に
硅砂が輸入できなくなったもんですから、日本の鋳物業者は血眼になって硅砂の出るところを探したんですね。
綾羅木郷遺跡のある台地は洪積世の古砂丘で、弥生時代以降に形成された新しい砂丘が覆っています。だから、一番上層は黒い耕土になっていました。耕すための黒い土になっていましたが、すぐその下は赤、砂が酸化した赤い層になっていました。これは洪積世のリス・ウルム間氷期で亜熱帯性の暑い時代に酸化したものだと言われておるんです。その赤い層を3m、厚いところでは4mくらいありますけども、そういう砂を除きますと下に真っ白な硅砂の層があるんです。それに目をつけまして、瓢屋産業っていう硅砂、こういう産業をやっている資本家が村の方々にですね、権利金を与えて、そしてそこを掘る権利を獲得するんです。権利を獲得した後に、ブルでもって上の層を剥がしながら、硅砂を取り始めました。弥生時代
の
遺跡はこの赤い層の部分に掘り込まれ、一部硅砂の層にも達しているのがありました。それでたちまち竪穴が出てきて、そして豊富な遺物を含んでいる竪穴が壊され始める。それが40年で大騒ぎになったんですね。
その当時私は下関水産大学校におりましたけど、これはひじょうに重要な問題になったということが分かりました。だけど下関には考古学系の大学もありませんし、僕の処にもそういう講座はありません。その大規模な破壊に対して、大至急に大きな調査をやるっていうことのためには、かなりの大きな組織がいるっていうことを知ってましたから、金関丈夫先生に頼んだんです。「先生、団長になっていただけませんか」とお願いしました。先生が団長になられれば、どんな考古学者でも来てくれると思いますよ。「それでは僕が団長になりましょう」ということで、金関先生を団長にして、そして綾羅木の調査が始まりました。
実際上は私が手だてを尽くしました。それから技術的には金関先生の息子さんの金関恕さんがひじょうに優れたフィールドアーケオロジスト(野外考古学者)でしたから、彼がやってくれました。そしてその頃から初めてトランシットを使って調査を始めることになりました。箱尺(スタッフ)を読みながら調査する、僕はまだ目が使える時期でしたから、箱尺(スタッフ)を読んだりトランシットを読んだりすることができた僕の最後の調査だったと思います。そして、40年、41年、42年と瓢屋産業に交渉して「僕らが調査した後で赤い層を剥がして下さい」と、「調査が済まないまでは我慢して下さい」と、そういう交渉を僕は強力にしました。もちろん市の援護射撃がありましたけども、強力にお願いしまして、瓢屋産業でもそれ
を
初めは了解してくれたのです。ただ、まどろしく思われたのは無理もないんですね、時間がかかりますから。そのときに「どのぐらいの純度があるんでしょうか」って言ったら、「ほとんどカムラン湾の硅砂と変わらない」って言うんですね。「すごくいい」って言うんです。「自分達はちゃんと鉱業権は得ているのに妨害されたらひじょうな損害になる」っていう。そういう立場はまだよく判るんですけれども、どうにもそのまま破壊されていくのはやりきれないものですから、彼らと交渉し交渉しですね、ほんとに雪の日も雪が降る日もやりました。夜はもうほんとにとっぷり日が暮れるまでやりました。
調査にはですね、下関市立大学の生徒も来ました、それから梅光女学院大学の短大や大学の方もきてくれました。水産大学の人達も来てくれました。それから市民が参加してくれました。市民が参加してくれたことが、瓢屋産業がですね、彼らが折れてくれた理由になると思います。市民の方たちがお茶の差し入れに、あるいはお菓子を持って来たりと。それから市役所では社会課の課長以下全部出てきて土剥がしの労働をしてくれたりしましたんで、そういう熱意に対してむやみにブルを入れてはならないというような彼らなりの気持ちがあったんだと思います。そして、次々資料実測して取り上げていったんですけれど、だんだん彼らは堪忍ができなくなったんですね。
で、42年の1月に東京教育大学の八幡一郎先生が定年になってお辞めになりまして、「自分の後を國分さんやれ」と言われるもんですから、僕は東京教育大学に赴任したんですけれども、その僕のいない留守にですね、その春に例の大破壊が起きたんです。それはもう一番うるさい國分が東京に行っちゃったという事もあったと思うんです。いつも抵抗して、自分らと接触してた「國分がもう向こう行っちゃった」と、それからもうこれ以上我慢はできないというので、10数台のブルを入れてそして破壊したんです。調査予定地を全部破壊したんです。向こうの意図はですね、こんなに滅茶苦茶にしたらもう調査の意味がないから彼らは諦めるだろうと思ったんですね。
それで、伊藤照雄(後、下関市教育委員会)さんから電話がかかってきまして、電話口で泣いてるんですね。「大変だと、ひじょうな大破壊が行なわれた」と、「どうかしてくれ」と、「すぐ、すぐ帰って来てくれ」と泣いてるんです。それで僕はですね、すぐ飛んでってもだめだと思ったんです。僕はその方法としては、今破壊を止めさせる方法としては、史跡に指定してもらうより他は方法はないんですね、史跡指定の指令が出れば、彼らが手つければ法律に引っかかりますから。
僕はすぐに、八幡一郎先生に電話で連絡したんです。八幡一郎先生のところに行くひまもないんです、もう緊急状態ですから。先生に、「先生、国の文化財の人たちを集めて会議をしているひまはもうありませんから、先生はご面倒ですけど電話で全部審査員の方たちに連絡をして、そして電話で決議を採っていただけませんか」と、そして「審査員の方達でこれを指定にするという意向がはっきりしたならば、文部省の方では恐らくOKを出してくれるでしょう」と。八幡先生に懇願したんです。そうしたら八幡先生は電話で全部審査員たちに連絡をした上で、文部省と交渉していただいたのですが、文部省のですね、そういう調査官の主任にですね、平野邦男さんがいたんです。彼は九州のですね、戸畑にある工業高等専門学校で
す
か。後、九州工業大学になりましたか?
――はい、そうですね。
大学になりましたね。そこにいた方で、著名な古代史研究の学者だった。彼がすぐに理解したそうです。これをすぐにやれと理解してくれたそうです。八幡先生とそれから平野先生がいたので、明くる日史跡指定できちゃったんです。それでその指定のそれが出ると同時にですね、河野良輔(山口県教育委員会)は言ったんですね。こういう風に指定になったと。彼らは手も何もつけられる事が出来なくなった。そういう事件が郷台地事件です。そのときに河野さんはあの、伊藤照雄さんやそこでやってた呆然としてる連中の真ん中にたってブルの前にたって手を広げてましたね。ひじょうに良く尽くしてくれたんです。しかし、僕がもし東京にいなかったら、そんなに早く片づかなかったと思います。僕は冷淡だと思われても、東京で工
作するより他は方法がないと思いましたから。工作をした上で綾羅木郷を訪ねてみまして、ほんとに呆然としてしまいました。そういう事件でした。
――國分先生、ここにですね、綾羅木郷遺跡の調査をやっている中、まさにブルドーザーが遺跡を破壊している写真があります。寒い中、國分先生が実測をおとりになってるんですね。そうする中、ブルドーザーが近寄ってくる。そのブルドーザーを睨み付けてる写真があります。これはずっと後に出ました『弥生文化研究』の中でも載ってるんですけども、日頃いつも微笑みを絶やさない國分先生がですね、この時はもうもの凄い顔をして睨み付けてる。これが凄く効いたんじゃなかろかという金関恕先生のコメントがあります。僕もこの写真を見ますとほんとに國分先生の遺跡に対する想いが伝わってきます。とても感動的で衝撃的でした。
――國分先生の綾羅木郷の調査はいろんな問題を投げ掛けまして、私も中学生で専門的なことは何一つ分からなかったのですが、唯、考古学者のひたむきなあの姿が今でも思い出されます。今日のお話も、いつもお優しい國分先生らしからぬ激しい言葉も時おり入りまして社会正義に燃える先生のお姿を拝見いたしました。どうも有り難うございました。」
ありがとう。
雑誌『えとのす』とわたしの夢
聞き手:村崎真智子、檜垣みどり
――先生の教え子の村崎と申します。
――私も先生の教え子の檜垣と申します。
――(村崎)『えとのす』ですけれども、一九七四年に発刊されたんです。私はちょうどこの時に、熊大の学生でした。それでよく授業中に紹介していただいたんですけども、最初から、三号で潰れるという話もあったんですけども、三二号まで続きました。『えとのす』に込められた先生の思いというものをお話下さい。
彼女は私が熊本大学にいた時の国文学の学生です。檜垣さんは僕の親友だった檜垣元吉さんのお孫さんです。梅光女学院大学の学生の時にお孫さんがいるっていうことを初めて知りました。
『えとのす』は熊本大学に考古学教室をつくるために呼ばれて実は二年間いたんですけど、その大学の終わりくらいの、いよいよ熊本大学とお別れしなくてはならんという、春でなくて前の時期にですね、藤田修司という新日本図書の社長がやって来たんですね。彼は沖縄のいろいろな民俗に興味をもっていて、そして沖縄の人たちを動員して、民俗採集をやっているということでした。僕のところに来て、「先生ここを辞めたらどうします」と言うわけですね。まあ僕は山口に娘がいるので、その近くにバラックを建てて、とにかく本を置くところがないので、「山口に帰ろうと思う」と言いましたら、「それじゃあ何か雑誌を出しませんか」と言うんですね。「まあ出すとして、僕は日本民族文化の形成は、海峡が形成されて後は
海
峡を通してできていると思うので、夢としたら海峡地帯というようなものを出したい。しかしお金がないから、まず朝鮮対馬海峡を中心にした小さな雑誌、昔やった民俗台湾のような程度のものを出したいなあ」と言ったら、「自分のところは金があります。出すならば、『太陽』のようなサイズのものを出し、カラーも入れましょう」と。僕はほんとに嬉しく思いました。それからこの雑誌が出来ることになりました。「それで海峡地帯では非常に限定されますので地域や地域相に従いつつ、地域の文化形成の片鱗を掴みながらその周辺世界との関連を見ていくようなものを雑誌の中に盛り込んでいきたい。そういうプランはどうです」と藤田さんに言ったら、彼は早稲田の西村朝日太郎先生の講義を聞いているものですから、すぐに
了解
して、よろしいと。結構ですと。自分は今沖縄に関心を持っているし、台湾にも出張所を持っている。だからまず出すなら南の方から出したらどうかというのでで、創刊号の『高砂族の歴史と文化』というのが一九七四年に出たんです。これはちょうど今から十六年前になりますね。
『えとのす』という題はですね、僕は金関先生に相談したときに、そうだね、人種とか民族という意味を「えとのす」という言葉は持っているので、ギリシャ語ですけどそれではどうですかって言われるんで、「なるほど、それはすばらしいな」と。それで決めたんです。先生は、最初に「えとのす」という字を書いてくださったんです。読めないんですね。これがそうです。それで次からは活字でひらがなの「えとのす」にしちゃったんです。ところがですね、一つ、『高砂族の歴史と文化』を出すために台北に社長も一緒に行くって言うんで行ったんですけれど、行ってみるとですね、ちょうどエイヴァハルトが来ているんですよ。ちょうど彼はカリフォルニア大学の教授でまだ定年前でした。エイヴァハルトが来ているという。そ
れ
でエイヴァハルトに会わないかって言うんですね。僕はエイヴァハルトというと、「ローカル・プルトゥーレン・イン・アルト・ヒーラー」という、有名なドイツ語の大きな論文を書いた人だという事は、知ってましたから、南中国を研究している素晴らしい学者だと知ってましたから…。彼に会ったらば、彼にも執筆してもらいたいなぁと思って、彼に会ったんです。そしたら彼は、初め「忙しいのに何者があらわれるか」と思ったんでしょうね。「自分は朝早くから仕事をしている。それに、食事は七時にするから、食事の時間だけ会う」と言うんですね。「時間を無駄にしたくない」というおつもりなんです。それで僕は、「お顔を見れば良いんで、五分くらいで良いんですよ。Few
minutes(数分)で良いんですよ」と言って、彼の所に行きました。そしたら今度は、話を始めましたら、帰さないんです。一時間くらい引っ張られてました。「忙しい」って、あんなに言ってるのに……。僕とのやり取りが、面白かったんでしょうね。
それから僕は、雑誌の話をしたんです。「『えとのす』という題にした」と言いましたら、そのときは非常に顔をしかめまして、「ストックホルムで、『Ethnos』という雑誌が出てるので、君が『えとのす』という題を雑誌に付けたら、コンフュージョン(混乱)が起こる」と言って、エイヴァハルト先生は、オブジェクション(反対)を提しました。僕は「(文体は)ジャパニーズ・レター(日本文字)で、字もジャパニーズのキャラクター(ひらがな)でやるんだから、混乱は起きません」と言ったんですけど、「それでも、諸外国で図書館で登録するときには、『Ethnos』と入れますよ。当然、混乱が起きる」と言うんです。僕はどうにもしようがなくて、困った顔をしたら、彼が助けてくれたんです。「『Ethnos
in Asia』ストックホルムの『Ethnos』じゃなくて、『(アジアの)えとのす』とすれば良いじゃないか。『Ethnos in
Asia』」と教えてくれたんです。それが、「えとのす」と入れて、上に「『Ethnos in Asia』」と、イングリッシュが入った理由なんです。
彼は興味も示してくれましたが、僕は彼に「沖縄は、中国文化がたくさん入っている所だから、沖縄を見て下さい」って言ったんですが、どうもケチなヒトらしいんですね。経済的に。それから「日本にも来て下さい」とも言ったんですが、「日本も沖縄もホテル代が高い」そういう小言は言われましけど……。そのまま、とうとうエイヴァハルト先生は、日本にも沖縄にも、おいでになりませんでした。とにかくさっき皆さんに、お話しした様な主旨で、えとのすを出したんですが、これに賛同して下さったのは岡正雄先生で、僕が書いた「巻頭の言葉は、これは優れている」と言ってくれたそうです。ただ僕は、岡先生に「原稿書いてくれ」と頼んだら、「自分はもう書けない」と言って「電報は一番短いのが十五字だから、十五字
く
らいなら書く」と、彼らしい諧謔をもって応えて来ました。それからまた、痛いこと言いました。「國分さん、君、出すと言うけれど、下関のような田舎で出すので、もし四回出せたら僕は首をやる」と言うんですね。癪にさわりましてね。「四回出せたら首をやる」だなんて、酷いことを言うなと思いましたけど(机上には三十二冊が積みあげてある……)、相手が岡先生だもんですから、「とにかく出そう」と思って……。第四号を出して、五号の準備ができたときに、先生に手紙を出しました。「先生、四号はもう出来まして、五号の準備は出来ました。いずれ、岡先生の首を戴きに行きますから」と手紙を出しましたら(笑い)、先生は何も返事をくれませんでした。そんなことがありましたが、
とにかくその後は継続して出しまして、三十三号ぐらいまで出しましたけれども、その頃になって行き詰まりました。というのは、どういう事かと言いますと……。その前に、東京で出していた「ドルメン」が潰れちゃったんです。で、「危ないなぁ」と思ってましたら、「ドルメン」の編集者に聞くと、「縄文文化関係のものを出したら、雑誌はやっていけるけれど、それ以外は雑誌が売れないから潰れました」と言うんです。「『えとのす』はどうか?」と言うので、「まだ保ってますけど」と言いましたが……。「えとのす」も考古学関係のものを出すと、全部売れるんです。でも民俗関係の物では、売れないんですね。フィリピンの先住民族の特集など、すごく面白いと僕は思いましたけど、これ売れないんです。売れないとき
は
、百部くらいしか売れないんです。百人くらい会員があったんです。「朝鮮対馬海峡を越えての交渉の問題」など扱っても、充分面白いと思うのに、これも売れないんですね。それで段々、編集者の上村さんは、機嫌が悪くなりました。そらそうでしょう。一生懸命やってて、百部しか売れない。その結果、たくさんの在庫の山と借金が残る。と言うんでは、たまったもんではないですからね。それから、重役陣の中から文句が出まして……。僕は「考古学だけ出す」というのは初めから主旨が違うんで、「考古学」「民族学」「フォークロア」、そして「文献史学」のような物を組み合わして、消えた文化のリコンストラクション(再構成)をやるのが我々の理想で、「それが出来ないんなら、きっぱり諦めますよ」と言って、中断して
し
まったんです。
だけども「こういうのをまた、続けて出せたら良いな」という夢がありますけれど、これは駄目だと思います。それから、あなた方のような若い方に、夢を託す訳ですけど、今は、僕らのように社会的な強烈なインパクトを受けたような時代じゃありませんし、そういう煩悶無しに本当に純粋に研究生活が出来るような時代になりましたので、ひとつ、民族文化の再構成のお仕事をやって戴きたいんですが……。その場合に、よく考古学者が「純粋考古学」なんてこと言いますが、そういう形でない……、人類の文化なんていうのは、非常に複雑な物ですから、考古学オンリーで、とても追跡できるはずがありません。他の関連科学の助けや協力関係というのも、重視しながら、ひとつお仕事をして欲しい。そう思います。
村崎さんの場合は、国文学から阿蘇研究に入ってらっしゃいますけど……、幸いに文献が読めますから、「文書類や文献類を通して、民俗学的な採集と組み合わせながら、再構成をする」というお仕事を、段々展開して戴いたら、良いと思います。
檜垣さんの場合は、非常にエスノロジーにも興味を持ってらっしゃるし、僕は期待しています。お祖父さんは、お孫さんのあなたが、そういう道に入って行かれたことを、恐らく「入っていったなぁ」と思っていらっしゃるだろうと思います。お二人にそういう期待をするということは、もっと若い方々に、同じようにそういう期待を持っているということです。「小さなセクションに固まらない」ということが、僕は大切だと思います。まぁそんな所でしょうか。余り偉そうなことは言えませんけれども……。
――(両人)先生、どうもありがとうございました。
國分直一先生のとっておきの話
おしまい
《製作》國分直一ファンのつどい
収録:一九九〇年十一月