廃村熱中人)滋賀県東近江市 茨川(いばらかわ)をたずねる #民俗学者の菅沼晃次郎さんと出会う__RT_@tiniasobu
2021/02/03
2021年2月3日 誤変換とわかりにくいところを修正。
2020年8月26日(水)の『農業共済新聞』に掲載された、Heyanekoさんの連載記事の5回目です。
記憶に残る廃村旅 5 民俗学者の菅沼晃次郎さんと出会う
茨川(いばらかわ) 滋賀県東近江市
「HEYANEKOのホームページ」の中に設けた「廃村と過疎の風景」というページが軌道に乗った2000(平成12)年は、全国各所の廃村に足を運び、1か月以内に探索の記録をまとめてアップした。私は38歳、年間10回強も廃村を目指す旅をしたのは初めてのことだった。
滋賀県鈴鹿山麓の廃村
茨川は、ネットでの情報交換でその存在を知った。近くには蛭谷、君ヶ畑という茨川と同じく木地師(お椀やお盆といったロクロを使った木製品を作る職人)ゆかりの里があるので、これらもあわせて訪ねた。
00年7月20日、大阪・堺の実家を出発し、名神高速を走り、八風街道の杠葉尾から入った茨川林道は、オフロードバイクにはもってこいの道だった。
林道の終点、茶屋川の流れに橋はない。裸足になって川を渡り、渡った先の小屋を見ると「八幡工業高校山岳部」の看板があった。後にこの山小屋は、小学校の分校跡校舎(65年閉校)を再利用していることがわかった。中に入った錆びたトタン屋根の「名古屋大学ワンゲル小屋」も、村があった頃からの建物の様子だ。
小屋の先にある天照神社には、再び裸足で川を渡らなければ行くことができなかった。
茨川に続いて訪ねた蛭谷の筒井神社では、民俗学の第一人者
菅沼晃次郎さんとの出会いがあった。ご挨拶に続いて、「廃村探訪で茨川へ行ってきました」と話すと、「それは良い趣味やね」との言葉をいただき、話が弾んだ。「自分の目で見て、耳で聞いたことを文章にまとめるのは楽しい」という菅沼さんの話には、大いに共感した。
菅沼さん主宰の滋賀民俗学会の月刊誌「民俗文化」は、この年の8月号から16年3カ月間購読し、8回投稿した。菅沼さんは17年2月に逝去され、会誌も53年の歴史に幕を下ろした。
菅沼さんからの便りでいただいた「廃村の記録を残すのならば、地元の方から喜ばれるようにしたほうがよいと思います」という一文は、私にとってとても大きな指針となった。
浅原 昭生 (Team HEYANEKO 代表)
以下は、安渓遊地のしゃべくりです。前回の鹿角八幡平の宿は、やっぱり「ゆきの小舎」でした。Heyanekoさんに教えてもらったところでは、その場所は、八幡平字老沢(おいさわ)といって、もともとの住民2軒が移転して、昭和49年にいったん廃村になった場所でした。そこに、昭和58年から、おゆきさんと、夫さんの佐藤郁男さんが住んでいる場所だったのだそうです。
鳥越健三郎さんに師事し、大阪から移住して53年間も滋賀県で民俗の研究誌を出し続けた菅沼晃次郎さんが2017年2月に亡くなられたあと、産経新聞が、その足跡を追う記事を載せています(添付のpdf)。Heyanekoさんへの助言、 「廃村の記録を残すのならば、地元の方から喜ばれるようにしたほうがよいと思います。」まことにまことに。しかし、またそれはたいへん難しいことでもあります。安渓遊地と安渓貴子で「話者が筆を執る」という取り組みを考えて、二人で産婆役をして、何冊かの本をひるぎ社の「おきなわ文庫」のシリーズで出していただいたこともあります。その1冊の『崎山節のふるさと』が、Heyanekoさんの目に止まったのが、廃村熱中人のご縁のはじまりでした。おきなわ文庫は電子書籍版で今でも読んでいただけ
ます。以下のサイトのトップがこの本の無料
立ち読みバージョンなのはなんという偶然でしょう。https://bpub.jp/okinawa-ebook/series/5b78f52a-ea60-494d-9fd2-437bc0a80110
安渓遊地の廃村との出会いと、それからの研究の足取りの一部を、以下に載せておきたいと思います。伊谷純一郎先生に師事して、人と自然の人類学のフィールドワークをするなかで、私が研究のスタイルで、大きな影響を受けたのは、地質学から世界単位の研究に進んだ高谷好一(たかや・よしかず)さんでした。彼は京都大学から故郷にもどって、滋賀県立大学の教授になり、自分の足もとを見つめながら『地域研究から自分学へ』2006年、京都大学出版を書きました。山口県立大学大学院での安渓の講義が、新やまぐち学の看板をかかげつつ、「人類学・地域学・自分学」の三本柱になっているのは、その影響でしょうね。
「西表島の廃村で過ごした日々??わたしの初めてのフィールドワーク」という安渓遊地の文章から、始めと終わりのところを抜粋しておきます。
廃村での調査
フィールドワークにあこがれて進学した大学院で、伊谷純一郎先生はこう言った。「君の行く所は一か所しかない。西表島の鹿川(かのかわ)村や。」広げた地図の上で先生が指さすあたりは、しかし、空白になっていた。廃村が行き先だった。考古学と文化人類学の隙間を狙うというチャレンジだという。アフリカ行きという私の夢はこうして砕かれた。
鹿川村は遠かった。神戸から石垣島までは船で五〇時間以上かかった。さらに西表島西部まで五時間。さらに船に乗って到着する船浮村から海岸を歩き川を渡り山を登り沢を下って最短でも四時間はかかる。
伊谷先生・研究室の助手の原子令三さんとともに降り立った鹿川村の浜辺は、人が住んだ跡などまったくないように見えた。緑の木々に覆われた急斜面が海に落ち込んでいる。藪の中に入ってみると、敷地らしいものが段々に連なり、陶器のかけらやガラス瓶などが点々と落ちている。人工的な石積みの跡もたしかにある。とりあえず人工的なものを探して、藪の中を歩き回る。
このような隔絶された場所で人々はどんな暮らしをしていたのか。いつごろまで住民がいたのか。そして、どのように無人になったのか。それらの謎を、いまここに残されたものを組み立てて推理小説のように解いてみないか。それがタンザニアでの民族学的考古学(エスノアーケオロジー)を夢見る伊谷先生から与えられた課題だった。
疲れ果てて夕方の浜に降りてくると、もっぱら海ですごしていた原子さんがイセエビの仲間のゴシキエビを二匹捕まえてきていた。御馳走であった
。
藪の中には、サキシマハブもいたが、たくさんのダニや、もっと小さくて痒みの激しいツツガムシ、蚊を始めとするいろいろな羽虫が私たちを待ち構えていた。満潮で身動きがとれず、マングローブの湿地にテントを張って寝たこともある。いずれにしても久しぶりに現れた人間は虫たちの御馳走であった。
ここが延べ三か月を過ごした初めてのフィールドだったから、後のアフリカ研究を含めて人間のいるところでのフィールドワークに大きな不満をもつことがなくなった。(中略)
鹿川村の史料の発見
この研究を始めた一九七四年の七月、当時の文部省資料館で私は「復命第一書類 八重山島管内西表嶋 仲間村巡検統計誌」という文書を見つけた。「第廿八冊」とあり、ほかに「第二冊 石垣島大川村」や「第三十五冊 鳩間嶋」があった。一九八五(明治一八)年から翌年にかけて、田代安定という探検家が八重山の村々をまわった詳しい調査結果である。当然鹿川村も訪ねていると思われるが、報告は見つからなかった。遺跡でのフィールドワークと聞き取りを組み合わせた私なりの復原結果を、実際に当時の現場を見た記録と対照できる日を心待ちにして史料を探し続けた。
日本ではほとんど忘れられた人であった田代安定の「鹿川村巡検統計誌」をついに見つけたのは、それから三七年後の二〇一一年、台湾大学の図書館だった。復命第一書類第三十冊としるされたそれは、一九枚の用紙をとじ合わせた報告書だった。彼が訪ねた明治一八年当時、鹿川村には一九戸の家があり、そのうち三戸は士族であった。住民は五九人で、そのうち女が三一人だった。一五歳以下の子どもが三〇人(半分の一五人が五歳以下)で、人口の約半分である。
米の生産高は、五三石(八・五トンほど)とかなり大きく、半分ほどは人頭税として上納するが、残りは自給と物品購入にあてられた。サツマイモは主食でひとり一日二キロほどとして、四万六〇〇〇斤(二八トンほど)と田代は積算している。ウシは二三頭、ブタは意外にも五頭しかいなくてすべての「豚便所」にブタが飼われていたわけではないことがわかる。ヤギはおらず、猟犬が一七頭いた。
購入額の大きなものは、一五俵の塩(同量の米と交換)、鍋、かんざしなどであり、布や紙、煙草や酒は自給していた。照明用の石炭油一斗は、ガラス瓶に入ってきた可能性があるが、ランプそのものの購入はない。
別の史料だが、明治三〇年に崎山村の役人だった崎原当貴の日記によると、鹿川村には、東京で開かれた博覧会のために、ヤコウガイの殻を出品することが命ぜられていた。
歴史文書を見ると、鹿川村が隔絶した環境で自給自足で生きていたというイメージはみごとに覆り、西表島の中でも外部の人々との交流がもっとも頻繁な村のひとつだったという事実が現れてくる
。
廃村研究からの視点
廃村は単なる人口減少の結果ではない。自らの故郷というアイデンティティの喪失でもある。中でも村で祀っていた神々への祈りが途絶えたことへの強い自責の念をもつ住民がいることを、廃村関係者に次々に会ううちに気づかされた。その気持ちに少しでも寄り添おうとする中で、廃村の記録を残す編集のお手伝いをするという「話者が筆をとる」という新しい取り組みが芽生えた
。
誰も振り向かないようなテーマで、忘れられたような場所でのフィールドワーク。その結果は、学会発表しても論文を書いてもまったく注目されないという結果につながった。それでも西表島に通い続け、地域の人たちとの関わりを続けた。
単に生活や文化や言語を記述するだけではなく、生活を支えた技術や知識の体系についてもその全体像を知りたい。とくに、生活を飛躍的に変えるきっかけになった技術革新については、その前後に何が起こったのかを詳しく調べたい。そんな思いから、廃村調査の次に取り組んだのは、大正末から昭和の初めてにかけて八重山在来稲作に起こった農業革命だった。在来稲とその栽培法、台湾からの新品種群「蓬莱米」の導入の過程について、残された品種の解析を含めて詳しく調べた。その結果、農業技術としては、八重山は台湾やさらに南の島々との結びつきが強いことが明かになったのだった。
そのあと、古代的稲作の研究者から、西表島の無農薬米の産直という住民運動にのめり込み、伊谷先生から「学問はアグレッシブであることが必要やが、この人はアグレッシブすぎるな」と評されるようにもなった。
その後のアフリカ地域研究も含めて、五感をフルに働かせて現場で集めた物的な証拠に、現地住民からの聞き取りと、歴史的な文書を照らし合わせるという手法を取るようになっていったのは、スタートの廃村研究の影響が大きい。そして、あらゆることに素人だった廃村調査こそが、ひとつの学問分野にこだわらずあらゆる越境を繰り返しながら総合的に地域とその課題を捕らえていくという学問への基本姿勢の出発点となったのだった。
以上は、安渓遊地@生物文化多様性研究所 でした。