世界の宝)防府市で見つかった陳澄波の絵「東台湾臨海道路」(陳澄波基金会のfacebookその1から)
2015/12/23
上山満之進と三哲文庫11539626_896616663708563_5815687048282700411_n
陳澄波の絵と現場の写真11917480_896616660375230_6450146577841097708_n
防府市での陳澄波の絵の再発見は大きな驚きと喜びをもって、台湾では伝えられました。
【陳澄波の進行式】
最近ほんとに「陳澄波」が熱い。「東台湾臨海道路」の作品が日本で見つかったことが、各界の関心を引き起こしています。そこでこの作品について私達は連載の1回目の説明をしましょう。
日本統治時期の台湾の第11代総督・上山満之進(1926―1928)は、台北帝国大学(現在の台湾大学)を就任中に設立しました。台湾の美術展覧会も任期の内に始りました。彼は、原住民族に対して特に関心を持って、自ら見回って訪問して台湾の各山岳地帯の原住民族を理解して、原住民の言語、宗教、風習などの人民の実情を尊重する方式で統治することにしました。しかし、彼は1928年に解任されました。前例に従い、歴代総督が台湾を離れる時、総督の政治的業績を顕彰し感謝して懐かしむため、台湾のすべての官吏が募金して贈呈しました。上山満之進は、1万3千円の餞別を受けとり、そのお金をどのように運用すれば台湾に役立つかを深く考えて、1930年にこれを退任記念として台北帝国大学に寄付することを決定し、
原住民族の調査研究およびその刊行物の印刷刊行に用いることにしました。そして、自宅に掛ける1枚の台湾の景色を描いた絵があることを望みました。陳澄波は上山の委嘱を受けて東部に向かって、東海岸のタッキリ(現在の祟徳集落の旧名)をその大きな断崖を描写しました。完成した作品は日本に運ばれました。
晩年に上山満之進は、故郷山口県防府市の三哲文庫の計画と建設にすべての気力と財力を投じて、亡くなる前に完成を見ることはできなかったものの、幸運にもその後代が遺志を受けて竣工して、そして上山満之進の遺言状によって遺品は三哲文庫に寄付されました。陳澄波の大きな絵画はその中の一つです。戦後、三哲文庫は防府市図書館と改名して、後に建築が古くなったため、図書館は何度かの移転を経て最近は、防府駅の近くに移って、陳澄波の作品は静かに図書館の地下室に眠ることになりました。陳澄波自身は、この絵を描き終わった後、作品の写真を撮り、それがアルバムの中で保管され、妻の張捷がそれを保存していました。
日本にある原作と、嘉義の作品の古写真として保管されていた情報が、85年後の今、児玉識教授の人づてに頼んだ1通のメールによって、双方が互いに結びつくにいたりました。
児玉識教授は防府市図書館の依頼により、防府市の歴史を文章にまとめました。彼にとって、上山満之進は不可欠な人物で、出会いの数か月前に上山満之進寄贈の遺品の明細書の中に「台湾東海岸の景色を描いた大きな絵」があるを発見し、上山満之進の伝記を検索して、陳澄波が委託を受けて絵を描いたことを知りました。児玉教授は、初めはインターネットを利用して陳澄波の資料を探し求めて、そしてメールによって嘉義を訪問することを望んでいることを伝えました。8月24日に82歳の児玉教授は、夫人と連れ立って初めての外国旅行として台湾に赴き、2日間にわたって台北教育大学、228紀念公園を訪ねて、嘉義市内の陳澄波ゆかりの場所、更に陳澄波の一生及びその故郷の発展を理解することができました。
私達は、メールを受け取った後に、もちろん保存していた古い写真を確認するなど、毎日情報収集に努めて、児玉教授の来台の前に急いで山口県を訪れ、まず防府市図書館で作品を確認しました。一瞥で、作品の画面の油絵の顔料はほとんどはげ落ちていないこと、制作時の額縁がきちんと残っており、枠の上の図像は蘭嶼タオ族のトーテムであり、裏側には、台展の出品ラベルが貼り付けられていることを確認しました。全体としての作品の保存状態はとても完全で、本当に驚かされました!
さらに児玉教授の嘉義市への来訪後、われわれは蘇花道路に車を走らせて、道中絵が描かれたであろう場所を探しました。折りよく祟徳のガソリンスタンドで給油してから、折おりよく見つけたガソリンスタンドの横の小道を入ってみたところ、折よく途中で1人の原住民族のおばあさんに出会いました。このように折よく絵を描いただろう場所を見つけることができたのです。しかし私達は海岸に下りることしかできなかったので、風景と絵を比べて、ある比較的似ている地点まで退いて、その位置に立って、そこから上昇して下を見ると想像してみました。そして、断崖を見たとしたら、原作そのままの姿が小さく見えるだろうことに驚きました。陳澄波がどうしてそこを選んで絵を描いたのかを推測することができたのです。
これは「東台湾臨海道路」の作品を追跡した私たちの記録です。児玉教授にとっては、上山満之進の調査がほぼ終わって、陳澄波の認識とこの作品の保存、展示に対してちょうど理解を始めた時点、私達にとっては、古写真、新聞の報道、原作、絵を描いた場所という4つの画面をつづり合わせて、作品の正面からだけでない、陰の意味をたずねることがちょうど始まる時となりました。それは、必ずや改めてこの絵にもうひとつの新しい生命を与えることとなり、それによって、陳澄波という才能の本当の「進行式」をとりおこなうことができるでしょう。
以上は、原文から機械翻訳を元にした安渓遊地のなんちゃって訳で、正確な原文をわからないで訳しているので間違っていたらごめんなさい。どなたか 進行式 を日本語にしてください。
メーラーの都合か出ない繁体字があるので、それは日本の漢字に置き換えたところがあります。
https://www.facebook.com/chengpofoundation/posts/896615277042035 を紹介します。
2015年9月10日
【陳澄波進行式】
「陳澄波」最近真的有點曙黶C再加上〈東台灣臨海道路〉作品日本現蹤,又引起了各界的關注,對於這幅作品我們應該要好好的交代一番~
上山滿之進,日治時期台灣第11任總督(1926-1928),台北帝國大學(現今台灣大學)在其就任期間設立,台灣美術展覽會也始於任内,對原住民尤其關注,親自巡訪了解台灣各山區原住民,採取尊重原住民的語言、宗教、風俗等民情方式治理,但1928年就卸任了。依例,歴代總督離台時,為感念總督治台的政績,全島官員贈送紀念金。自從上山接受一萬三千圓紀念金後,深思如何運用而有益於台灣,於1930年決定將此紀念金全數捐給台北帝大,作為調査研究原住民之用,印行刊物,且希望能有一幅台灣風景的作品掛於自家中,作為紀念。陳澄波為此受託前往東部,描繪東海岸的達奇里(崇徳部落的舊名)大斷崖,繪製完成的作品被運回了日本。
上山晩年投入全部心力及財力於故郷山口縣防府市三哲文庫的規劃及建設,雖在去世前未能完成,有幸其後代承接遺志完工,並依照上山遺囑將遺物捐給三哲文庫,陳澄波的大作則為其中之一。戰後,三哲文庫改稱為防府市圖書館,後因建築物老舊,圖書館幾經遷移至現今的防府火車站附近,陳澄波的作品就這樣靜置於圖書館地下室。至於陳澄波本人,當時作畫完後,為作品留下一張照片,存放於相本中,由張捷保存了下來。
存放於日本的原作、嘉義的作品老照片,85年後的今天,因兒玉識教授託人的一封來信,開啓了兩方的交集。
兒玉識教授受防府市圖書館之託,撰寫防府市歴史。對他而言,上山滿之進是一位不可或缺的人物,數月前從上山的捐贈遺物清單中發現寫有「臺灣東海岸風景大額」,査詢了上山的傳記,得知陳澄波曾受託作畫,開始上網蒐尋陳澄波的資料,並來信希望前來嘉義拜訪。8月24日82歳的兒玉教授偕同夫人生平第一次出國,來到台灣,不到兩天的時間,到訪了台北教育大學、二二八紀念公園,以及嘉義市内與陳澄波相關的地點,為的是能更了解陳澄波生平及其生長的故郷。
而我們,在接到來信後,當然是先比對留存的舊照片、蒐集的日日新報,然後就鐘p在兒玉教授來台前,先到防府市圖書館確認作品。親眼看見,作品畫面的油畫顏料幾乎沒有剥落,當時製作的外框仍然保留,框上的圖像還是蘭嶼達悟族的圖騰,背後送展的標籤緊貼在框上,整幅作品保存的相當完整,實在驚訝!且在兒玉教授來訪嘉義後,驅車至蘇花公路,沿途尋找可能的作畫地點,序寫I在崇徳盈加油站加油,序寫I從加油站旁小路進去,序寫I在小路上遇見一位原住民阿婆,就這樣序寫I找到作畫地點。不過我們只能下到海邊,比對畫作,退到一個較相似的點,站在那位置,想像從那位置上升往下看。看到斷崖時,震撼不比看見原作小,大概可以揣測陳澄波為什麼挑了那裡作畫。
這是我們的「東台灣臨海道路」作品現蹤的追尋記,對於兒玉教授而言,上山的調?暫時結束了,對陳澄波的認識及該幅作品的保存、展示才正要開始了解。對於我們,把老照片、報紙報導、原作、作畫地點四個畫面署x了起來,僅僅是作品正面,在它背後意義的探尋才正要開始,必定需重新給予它一個新生命,陳澄波也才能真正的「進行式」起來。