中国電力)上関方式による合意の取り付け方――地域の方の講義から @tiniasobu #kaminoseki #iwaishima #genpatsu
2011/03/04
3/4訂正 定価1200円でなく1000円でした。
原発いらん!山口ネットワーク・三浦翠さんが
山口県立大学でしてくださった講義からの抜粋です。
全文は、安渓遊地編『続やまぐちは日本一――女たちの挑戦』弦書房
に載っています。定価1000円+税です。アマゾンでは、中古が245円から500円で
あります。新品がほしい方は、y@ankei.jpにメールをくだされば
送料とも1000円でお譲りします。原発賛成の方でも反対の方でも同じ値段です。
でも、無関心の方に一番おすすめ。
http://genshobo.com/?p=1301
小さな農業の幸せ
三浦です。広島の町で子育てをしながら過ごしていて、有吉佐和子さんの『複合汚
染』を読みました。そして、スーパーで買う野菜も、安心して子どもに食べさせられ
ないなと思いました。夫は、十二歳の時、広島で被爆し当時は高校の教員をしていた
のですが、思うところがあって、暮らしの拠点を、私が育った山口県の鹿野(かの)
という山の中の小さい村に移しました。そしてわたしは無農薬で小さな畑や田んぼを
つくって暮らし始めました。三十年近く前のことです。
実は、最初の年に勧められて除草剤を使いました。小さな生き物の悲鳴が聞こえる
ように感じて辛くてね……。「こんなふうにしてまで人間は生きなきゃいけないんだ
ろうか?」と思いました。そして「どんなに大変でも絶対に除草剤はまかないぞ!」
と決心して、次の年からは、完全に無農薬に切り替えたんです。
稲を刈り取った後、春になるとそこに、レンゲがいっぱい咲きます。レンゲの中に
寝ころんで空を見ていると、そこはそのまま宇宙なんですよね。宇宙があって、地球
があって、そこに私がいるという感覚です。「これで良いんだ。もう他に何もいらな
い」という感じで、すごく満たされます。本当に幸せにしていたんです。畑に行けば
野菜、田んぼではお米が穫れる。安心して暮らして、すごく幸せでした。
お茶も自給しています。自分で少しずつ収穫して、加工もして一年分のお茶にして
飲むんです。鹿野あたりではけっこうやっている人がいますよ。
チェルノブイリの衝撃から
そんなとき、チェルノブイリ原発の事故がありました。一九八六年の四月二十六日
のことでした。その時は、八千キロも離れた所のことだし、そんなに気にもかけず、
それまで通りに暮らしていました。ところが、一年ほど経って日本にもチェルノブイ
リの放射性物質が降ったこと、それがお茶の葉などにもかなり付着していたことを知
らされたんです。もうすっかり飲んだあとですよ。
その時、私はすごーく腹が立ちました。「この小さな田んぼが私の宇宙」という幸
せは、目の前の小さな田畑を大事にしているだけでは守れないということに気づいた
んですね。チェルノブイリの事故があって初めて、原発がどういう物かを実感できま
した。八千キロ離れていても「お隣」だし、私はチェルノブイリの被害を受ける
「地
元」に住んでいたんですね。
その当時から山口県では、瀬戸内海の上関町・長島というところに原子力発電所計
画がありました。こういう物が近くにできることは、大変なことだ。どうにかしなく
ちゃいけない。と強く思うようになりました。夫と相談して「まず、自分たちの足下
に原発を作らせないように、何かをすることが大切だ」と考えて、二人で動き始めま
した。とはいっても、自分達だけでは何もできないわけで、夫のサークルの仲間とか、
いろんな事をいっしょにやっていた友達とか、知り合いに呼びかけて、集まって始め
たのが、「原発いらん!山口ネットワーク」です。会の名前もみんなの提案で決まっ
たんです。初めてのことばかりで、何をしたらいいか分からない中で、色々なことを
してきました。手探りで何でもやってみるというのが、私たちのやり方でした。講演
会とかを開いて、みんなで原子力発電のことを勉強するに従って、知らずにすごして
いた大切なことや、現場の人しか知らなくて一般には隠されていることとか、様々な
ことを知ることになりました。
例えば、ゴメリという町が、チェルノブイリから二百三十キロほど離れたところに
あって、そこは、ものすごい被害を受けています。上関に仮に原発ができたとしたら、
半径二百キロの輪をかくと、中国五県と九州がすっぽり入ります。そんなものが、日
本にはすでに五十三基あります。原発については、いろいろな宣伝もあります。みな
さんは、何が真実で何が真実でないかをきちんと見分ける力をつけていただきたいと
思っています。
原発はいやだ、やめてほしいと思っても、上関町の外に住んでいる私たちは、決定
権がないわけですね。上関に住んでいる人は、町長を原発反対の人を立てれば、それ
を拒否することができます。他にも土地を売らないとか、いろいろな拒否の方法があ
りますけど、周りに住んでいる私たちには、何も権利はない。ただ声を上げると言う
こと以外に、何もないので、とにかく上関の周りを見て、取り囲むような形で、「ネッ
トワークを作って、声を上げていこう」というのが私たちの考えです。例えば、新聞
に意見広告を出します。「私たちは上関に原子力発電所は要りません」ということを
はっきり言う意見広告です。このときは中国電力の消費者がいる中国地方五県全体を
カバーする新聞に意見広告を出そうと考えました。初めてのことで、四苦八苦して、
一口千円のカンパを集めてこれまでに二回出しました。
原発計画の進め方「上関方式」
中国電力は大きな会社だから、知り合いが中国電力に勤めている人とか、お父さん
が中国電力の社員の方とかが、この中にもいらっしゃると思います。私が話している
のは、中国電力全体が悪いというのではなくて、原子力発電を進める場合に、中国電
力という会社がやっていることを、私たちはずっと見てきました。その経験を話して
いますので、中国電力という企業全体がこんなふうだとは、思わないでください
ね。
中国電力は山口県の場合、最初に田万川(たまがわ)町、それから萩市、豊北(ほう
ほく)町と、日本海側をずーっと回って、建てさせてくれ!と言ってきたんですよ。
でも住民の方が、すぐに断っちゃたんですね。
豊北町では、中国電力が「原発を建てますよ」と言った翌日には、漁協が総会を開
いて「反対」を決議して役場も何もかも巻き込む、すごい反対闘争になりました。そ
れで、中国電力は退陣せざるを得なくなりました。すごく自然が豊かなところです。
住民の方の反対で、すぐに終わってしまったんですね。そこで、中国電力の人は考え
ました。「建てるよ」と言ってから行ったのでは、たちまち断られてしまうので原発
を造ることができない。そこで、上関については、別の手を考えました。それが「上
関方式」と言われている方法です。「正面から行ったのでは駄目だ。裏から回ろう」
と言うことになったらしいのです。
上関町の町長を二十年つとめた片山さんという人がいます。町会議員を一期休んで、
毎晩のように、自分の家で宴会をしました。みんな不思議に思いながら見ていました
が。地域の有力者が呼ばれては酒を飲み、夜中に「カステラの箱」を抱えて帰ってい
くんです。
――(学生)あの、その箱の中には何が入っていたんでしょうか。
カステラの箱の中にカステラだけが入っている場合には、「カステラをもらっ
た」
といいます。上関町の有力者を、「原発に協力すれば町にはすごいお金が落ちる
ぞ」
という形で、どんどん抱き込んでいったわけです。これが上関方式。
上関町は、長島という島にある上関と対岸の室津が主な集落ですけれど、漁業と農
業を中心とする平和な地域でした。地域の役員として区長というのがいるのですけど、
例えば選挙でも「今度の選挙は誰々にするけぇ頼むで」「あぁ、ええよ」という感じ
の土地柄だったらしいんです。区長さんが片山さん呼ばれては、「これは良くなる。
金が入るぞ」というふうに言われて、みんなそっちになびいていったわけです。原発
に対して、ほとんど何の知識もないわけですから……。それで町長選挙になって、片
山さんが町長候補に立った時、初めて町の人全体が、何が起こっていたのかを知るこ
とになりました。原子力発電の話が、この町にあるのだと言うことも同時に知らされ
たわけです。
地域をひきさく金と政治の力
そういうふうにして、原発を争点とする初めての町長選が行われたのが、チェルノ
ブイリ事故の二年前の一九八四年でした。そういう計画があることを初めて知った人々
は、急遽、向井さんという、小学校の元校長先生を候補に立てて選挙をしました。向
井さんの方は、「原発をつくったら大変なことになる」いって運動したですけど、片
山さんの方は、「原発をつくる」ということを言わないんです。開票してみたら原発
反対派陣営の方は、結局四十二%くらいしか取れなかったんですね。その結果、片山
氏が町長になって、それ以来二十三年にわたって、選挙のたびにこの比率はほとんど
変わりません。
中国電力は、株主総会で発表していましたが、公にできる金額だけで三百億円以上
を上関の原発計画のために使っています。例えば、「原発見学旅行」というのがある
のですけど、婦人会とかで、みんなを集めては原発を見に行って、一泊泊まって、色々
飲んだり食べたりして、ただなんです。八回くらい行った人もいて、飛行機で北海道
の「泊原発」に行くのが、一番人気だという話も聞きました。上関町の入り口のとこ
ろに、「中国電力上関原子力発電所立地調査事務所」というのがあります。そこに五
十人の社員が常駐しています。その人達は、上関に原子力発電所をつくるために、「
立地工作」といって土地を売ってくれという交渉や、反対派を推進派に引き込むこと
をするために働いている人たちです。推進派の家の就職の世話もしてくれます。とに
かく田舎なので、お互いによく知り合っているわけですよ。そういう人間関係の情報
も集めて、その家について、その人の親戚がどことどこにあって、娘はどこに勤めて
いて、どこにお嫁に行ってるとか、家族がどこに勤めているとか……。人口が六千人
くらいですから、もうその人達の一戸一戸の情報については、役場よりずっと詳しい
といいます。その上で、弱点をみつけて反対派の切り崩しをはかるわけです。そうい
う活動の結果、上関は「引き裂かれた町」という状況に陥っているんだと私は思うの
です。
私たちがネットワークを作ってから、土地の人の話をざっくばらんに聞いた中で、
例えばこんな話があります。大阪の方の学校で教えていらっしゃった方が、「私は定
年になったので、こっちへ帰ってきたんですけど、原発が原因でたった一人の弟と一
言も口をききません」と言われました。七十歳を越えて故郷に戻った人にとって、そ
れがどんなに悲しいことか想像できますか。私は、原発計画がそういう町の状況を作っ
てしまうことに対して、本当に憤りを感じています。
選挙に対しても、すごい介入が行われているようです。反対派の有力議員を落とす
ために、同じ一族から推進派の候補者を立てさせるなんてこともあります。私が見た
例では、選挙の前に、反対派の人のところに、子供さんの会社の上司が挨拶にくると
いうので、仕事の漁を休んで家の掃除をしているんです。ところが、あっちでもこっ
ちでも家の掃除をしている。息子を連れて会社の上司がやってきて、今度の町長選に
ついては、票のとりまとめをよろしくお願いします、というような話があるんだと聞
きました。「投票は自由なんだから、口約束はしても入れなきゃいいじゃないか」と
思われるかもしれませんが、「誰と誰は引き受けます」といって名前を挙げた人に対
して推進側から聞き返しがある。しかも上関なんかは、投票の単位になるブロックが
全部小さいんですよ。有権者がせいぜい百何十人というようなところで、投票箱が一
つある訳です。開票するときは、これはどこの地区の投票箱だというのがすぐ分かる
わけです。そして、きびしく票読みをしていますから、入れると口では言ったけれど
実際には入れてないというのは、ほとんどの場合分かっちゃうんですね。
祝島のとりくみ
上関町の役場があるのが長島の北の端で、南の端に田ノ浦という浜があって、ここ
が上関原子力発電所の予定地になっています。一番近い集落は四代といいますが、そ
こ
からは山の反対側なので予定地が見えません。予定地が正面に見えるのが、同じ上関
町の祝島です。祝島だけは、ずっと九割以上の人たちが反対で結束して、毎週月曜日
の反対デモを続けてもう九百回を超えています。
祝島の人たちが反対し続けているのは、四キロしか離れていない目の前に予定地が
あるということや、タイの一本釣りを中心とする漁業や、京阪神方面からの釣り客の
案内などの、島の大切な産業への悪影響を心配する気持ちがあるわけです。でも、「
上関方式」の働きかけや立地事務所の工作にもかかわらず、反対で結束してきた背景
には、実際に原発の中で働いた経験のある人たちが祝島にはいたということが大きかっ
たのです。
原発の中での被爆労働については、最近はだいぶ知られるようになってきました。
祝島の人たちが例えば福島第二原発で働いていたとき、こんなことがありました。放
射性物質がもれたのをふき取ったりする作業のあと、体から出る放射線が基準より下
がるまでシャワーをあびたりしてようやく出られるわけですが、その時使った水はす
べて目の前の海に流されるのを、そこで働いていた人達は、はっきりと見ました。ま
た原発の中で使われていた汚染した足場用の丸太が、何事もなかったようにトラック
に積んで運び去られました。それを見た祝島の人が「あれは、いったいどこへもって
いくんだろう」と聞いたら、「そういう要らんことは聞かないでもいい!」と叱られ
たというんですね。とにかく、どんなにうまい宣伝がされても、自分たちはあの
原発
の中で働いてきたんだ、とても人間がまともに働けるようなところじゃない、だまさ
れないようにしよう、という現場を見た人たちの生の声が祝島の人たちを動かし
たと
いう面も大きかったんですね。
日本の原子力は、二十二万人が働いていて、売り上げが二兆円を越えた年もある巨
大産業です。上関原発は、二基で九千億円の予算とかいわれています。電力会社は私
企業とはいえ、そんな大きな国家プロジェクトに対して、お金はないけれど人脈を作
り智恵を集めて、私たちのネットワークは「そんなものはいらない」という声を上げ
続けているわけです。
最近では、長島の田ノ浦が、瀬戸内海でももう残っていないようなすばらしい自然
と生物多様性がある場所だ、ということがわかるようになって、生態学会などの専門
家たちもたくさん研究にこられるようになり、「長島の自然を守る会」という自然保
護団体もできています。また、裁判も六つぐらい行われていて、順調に原発が建設で
きるという状況ではないんですが、それでも建設へ向けた動きがなかなか止まりませ
ん。
若者たちに励まされる
国際的な交流も盛んです。グリーンピースも応援してくれますし、セイクリッド・
ランとか国際平和巡礼などの先住民族運動との交流もあります。
最近、同じように原発計画のある韓国・プアンの町を訪れたことがあります。そこ
では、町の中央の交差点に毎晩二千人ぐらいの人が出て、台風の時でもひるまずに反
対デモをやっていました。そのとき、機動隊が八千人ぐらい出て、デモ隊を蹴散らし
ました。人々は、いったん教会に集まり、それからまた町に出ていきました。その時
に私も居合わせたんです。何人もパトカーに詰め込まれてつれて行かれようとしてい
ました。
そのとき、ひときわ背が高い若者がいて、彼はぱっとパトカーの下にもぐり込んだ
のです。それで、結局みんなとりもどしたんですけれど、そういうふうに体が動く若
者がいることに私は大変感激しました。デモのあとの集会で、あいさつをしたら、若
い人が多くて「日本から、われわれのおかあさんぐらいの年齢の方々にきていただい
てありがとうございます」といわれました。
上関にかかわって、一番強く思うことは、原発計画によってひきさかれた人々のき
ずなをどうやってもとにもどすか、ということです。ある漁師さんが「わしらの代に
はむずかしい」ということを言われました。でも、みなさんの代には可能なんで
す。
これでひとまず私のお話を終わらせていただきます(拍手)。
以上、掲載責任者 安渓遊地