お話させていただきます)3/5 人の健康:流域まるごとを守る
2011/02/04
2011年3月5日と6日に山口大学の大学会館で開催する第5回有機農業技術総合研究大会
で、山口環境保全型農業推進研究会(山口かんぽ研)のメンバーとしてお話をさせて
いただくことになりました。屋久島の詩人・山尾三省さんのことば「流域の思想」を
柱にして、大規模な原発事故の時には、地球全体がひとつの流域であるというお話を
させていただく予定です。
スケジュールなどはチラシのpdfをごらんください。
土の健康:土のたべもの 橋本力男(堆肥・育土研究所)
作物の健康:根張りのよい生育 中川原敏雄(自然農法国際研究開発センター)
家畜の健康:牛と守る里の山 山本喜行(ふるさと牧場)
人の健康:流域丸ごとを守る 安渓遊地・安渓貴子(山口県立大学)
というお話の終わりを担当します。
人の健康:流域まるごとを守る
安渓遊地(山口県立大教員)・
安渓貴子(山口大パート教員)
1 アフリカの自給的な豊かさに学ぶ
1978年から1980年、学生だった私たちは「きれいな森があるところには、いい暮ら
しがあるだろう」という伊谷純一郎先生の言葉を信じて「アフリカの緑の心臓」だと
いうコンゴ民主共和国(当時ザイールと言った)の森で1年半をすごしました。8ヵ月
の間、森の中で村長の息子夫婦として暮らしたことで、「人間もまだ捨てたものでは
ないかもしれない」という希望をもちました(安渓遊地、2010a)。
IMFによるデノミにもかかわらず、破壊された経済のなかで、物々交換によって
元気をとりもどし(安渓遊地、1984)、石油が乏しい中で塩しか買わないで2099種類
もの料理をつくる食生活を記録し、学びました(T.Ankei, 1990)。とりわけ、熱帯
雨林で行われてきた伝統的な知識に基づいた焼畑耕作のたしかさ。狩猟・漁労・採集
も行い、家・舟・道具・薬草と、衣類以外はほぼ自給という生活(安渓貴子、2009)を、
楽しそうにおくる女性たちのきらきらした目と笑顔が、私どもに希望をくれたのだと
思います。息子夫婦として、その後も親戚づきあいは続いています。
2 内戦は資源争奪戦だと気づく
日本に戻って、以前から通っていた沖縄の西表島で、かつての自給的な暮らしのこ
とを以前にもまして教わりました(安渓遊地編、2007)。そしていつのまにか私ども
は親戚のように受け入れられるようになっていました。アフリカに暮らしたことが、
西表の人々との距離を縮めたのです。私どもが変わったのだろうと思いました。そし
て西表の産直(始まったばかりの特別栽培米)の手伝いなどにもかかわることになり
ました(宮本常一・安渓遊地、2008)。
アフリカで教わった知識や知恵を研究成果としてお返しするために、1986年夏から
1年半フランスに、家族で学ぶ機会をいただきました。そこで流行に左右されるアメ
リカ式とも、理屈が好きなイギリス式とも違う、息の長い地道な研究を尊重する姿勢
を学びました。そして、パリという大都会の暮らしもたんのうして帰ってきました。
チェルノブイリ事故の直後で、ヨーロッパ社会の受けた衝撃も感じました。
1990年のコンゴ訪問はショックでした。都市の荒廃が田舎の生活にもおよび、殺人
事件や才能豊かな女性が伝染病のため発病の晩に死亡するといった事件が起こってい
たのです。このあと、1994年のルワンダでの大虐殺、1997年コンゴ内戦から多くの国
が資源争奪に介入して泥沼の「アフリカ大戦」に拡大するという道を歩むのですが、
そうした崩壊の予兆を感じたのでした。
帰国してまもなく東京の大学に来ないかと誘われたこともありましたが、お断りし
て山口で暮らすことを決めました。アフリカの田舎にまで破壊をもたらす、先進国の
ライフスタイルと経済のありかたを足下から見直すことができなければ、恥ずかしく
て講義なんかできません。ましてアフリカに行くこともできない、と感じたからです。
3 自給を柱に暮らしを立て直す
小若順一さんの『ポストハーベスト農薬汚染』のビデオに出会ったことから、腰を
すえて、安心・安全な食べ物を探さなければならないことに気づきました。1993年、
津野幸人先生のお世話で鳥取の大山のふもとの村に1年を暮らして、再生紙マルチ稲
作での自給生活の豊かさと人々の暖かさを経験しました。ちょうど冷害とタイ米輸入
のパニックの年でした。
1995年から山口市の山あいの村に土地をもとめ、家を建て、半自給的な暮らしをめ
ざしました。家造りから山口での地産地消・心土不二をめざす暮らしです。
山口県の林業農家との出会いがあり材木の産直ができました。さらに基礎の石や、
壁土、その芯の木舞竹や稲藁、お下がりの畳や中古の建具までが地域からやってきま
した。そして、棟梁を始めとする職人の方々も、地元の方でした。家を建てることを
「普請」という意味が分かりました。「あまねく助けを請う」ことなしには家は建た
ないからです。そして「地元」への距離が近くなりました。山口県内に多様でおもし
ろい友人がふえて、つながってきました。
小作で1反百姓となり、農協の組合員になりました。環保研には2回目の大会からの
入会です。周防灘にそそぐ清流ふしの川の源流の飲める水で一切の化学物質をもちこ
まないで稲を育てるという暮らしを始めました。以来、お米を買ったことはありませ
ん。
4 流域の思想を生きる
ひとつの川の流域に暮らすものは、運命共同体です。源流に住む私たちが水を汚染
すれば、下流の人々や生物にはそれを避けるすべがありません。そんな時、「ここか
らは違う自治体だから」といった人間のひいた境界線には何の意味もありません。
山火事の時の地域の炊き出しや手伝いでは、ふだんみえない行政の境界をこえて助
けあうつながりが見えました。これも森や林がつながっていれば延焼の危険があるか
ら当然のことではありますが、ひとつの生物的な区域(バイオリージョン)を単位に
した暮らしを土台に据えることが大切であることを示す例です。
ひとつの川の流域、ひとつながりの森、ひとつの湖や内海、そんな自然の区域を大
切にして暮らす生き方をバイオリージョナリズムといいます。生命地域主義と言われ
るとよくわかりませんが、「流域の思想を生きる」――これならわかります。
上流で農薬を使えば、下流で無農薬の農業をすることは難しい。源流に産業廃棄物
や、一般廃棄物の最終処分場を作れば、飲み水が汚染されます。当たり前のことです
が、ひとつの源流を守っても、他の源流部が狙われるので、下流に住む人々は、安心・
安全な暮らしのためには、より大きな「流域」の全体に気を配らなければなりません。
それは、とうてい不可能なことに思えるかもしれませんが、それぞれの源流を守って
いる人々が下流の人々と連帯することによって実現可能になります。ひとつの流域に
生きるすべての生命が手をつなぐということです(安渓遊地、2010b)。
私たちは周防灘の最源流部を守りながら、瀬戸内海に注ぐすべての川の恩恵を受け
るすべてのいのちたちと歩調をあわせたいと思っています。そのとりくみの中でも、
大切なのは、上関原子力発電所の予定地の自然がすばらしいものであり、将来の瀬戸
内海のよみがえりの種子になるような生物がまるごとそこに生きているという発見で
す(日本生態学会アフターケア委員会、2010)。
チェルノブイリ事故のような、原発の過酷な事故の場合は、地球全体が一つの流域
となります。
足下の小さな農業を楽しむことは、このようにして、流域全体、ひいては世界全体
が安心・安全に暮らせるようになるための大切な気づきに満ちていたのでした。
引用文献
安渓貴子、1990 Cookbook of the Songola、African Study Monographs, Suppl.
13.
安渓貴子、2009 『森の人との対話』東京外大AA研
安渓遊地、1984 「原始貨幣としての魚」『アフリカ文化の研究』アカデミア出版
会
安渓遊地編、2007 『西表島の農耕文化』法政大学出版局
安渓遊地、2010a 「父たちの待つ村への旅」『季刊東北学』24号
安渓遊地、2010b 「足もとからの解決」『環境史とは何か』文一総合出版
日本生態学会上関アフターケア委員会、2010 『奇跡の海』南方新社
宮本常一・安渓遊地、2008 『調査されるという迷惑』 みずのわ出版