島からのことづて)530年前の記憶を生きる――済州島民と与那国島民の交流
2010/10/03
東北学安渓連載1ー図1済州島漂流民が訪れた島々
屋久島の雑誌『季刊・生命の島』に連載させていただいていた「島からのことづて」
は、発行人の日吉眞夫さんが長逝されたために、2009年1月発行の84号に、61回目の
記事を書かせていただいたところでおしくも終刊となりました。
2010年の4月に山口で赤坂憲雄さんとお会いしたことが、きっかけとなって、赤坂
さんの『季刊東北学』の25号から連載させていただけることになりました。そこで、
「島から
のことづて」というタイトルを復活させていただきました。
ゼロ回目として、2010年の夏に出た『季刊東北学』24号に、安渓遊地の単著でアフリカの旅と神話を生きる人々を書かせていただきました。 http://ankei.jp/yuji/?n=993
今回は二人で書いていますが、500年を超える伝承がいきいきと伝えられ、その伝
承を生きたものとして実践するという試みをかいてみました。
本物は写真も入っていますので、お買い求め下さい。
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/find/tohoku.html
島からのことづて①
五三〇年前の記憶を生きる――済州島民と与那国島民の交流
安渓貴子・安渓遊地
Takako ANKEI & Yuji ANKEI
◎済州島から与那国島への漂流記
島々を旅して人に出会いお話を聞くとき、話し手が心の扉をあけて記憶の泉からの
ことづてを語って下さることがあります。一五年ほど前から、アフリカや沖縄の島々
で学んだ暮らしの智恵を生かすことを夢見て、山村に引っ越して田を耕し薪を焚いて
暮らすようになって、ようやく心の扉の合い鍵の束が少しずつふくらんできたような
気がしています。
ここでご紹介する沖縄県与那国島のN子さんとは、二〇年来のおつきあいです。お
会いしたのは与那国島で初めてのときと、一〇年ほどたって石垣で一時間ほどお会い
しただけですが、たくさんの教えを受けるようになりました。時おり電話が集中的に
かかってきて、季節の巡りにそって島の暮らしの深い記憶が届けられます。最近では
暮らしや方言を書いた分厚いノートの束もお預かりするようになっています。
二〇〇七年三月はじめのこと、私たちは初めて済州島を訪ねました。済州大学校の
所蔵する奄美沖縄の空中写真の閲覧が主な仕事でしたが、この旅にはもうひとつの目
的がありました。一四七七年という年に難破した済州島の船が与那国(よなぐに)島
に漂着し、三人の男が救助されてそれから二年三ヵ月かかって島々を護送されながら
ついに故郷に帰りついたことを記録した有名な「朝鮮王朝実録」(伊波、一九二七な
ど)があります。この人たちの残した見聞録は、八重山の人々の暮らしが初めて文字
に記された重要な記録なのです。私たちの八重山地域研究のなかでどれほどお世話に
なったかわからない、金非衣(キム・ビイ)、李正(イ・チョン)、姜茂(カン・ム)
の三人の漂流者のお墓か顕彰碑にでも詣でてみたいと思ったのでした。
時の王様成宗の公式記録係は、一四七九年の五月に三人からの短い聞きとりを載せ
ています(「成宗大王実録」巻百四)。それがよほど珍しい話だったのでしょう、六
月にもう一度くわしい聞き書きが登場します(同巻百五)。人名や地名にあてた漢字
の多くがふたつの聞きとりで違っていますから、別の役人の手になるものと思われま
す。六月のものは「俺等」で始まる、まさに聞き書きといってよい詳しいものです。
一四七七年の二月一日に、貢納のため特産物の柑子(みかん)を載せた船に一四人
が乗り込んで済州島を出たあと、強風のために漂流。東に流され南に流されして十四
日目に島影が見えたところで船が壊れ、金非衣ら三人だけが一枚の板にまたがってい
るところを、漁民の小舟二艘に救われます。はじめは言葉が通じなくて、木の葉に「
朝鮮國」と書いて見せても理解されません。三人は、まず米のかゆとニンニクを与え
られ、夕方になって初めて米のお握りと濁り酒と魚の干物をもらいますが、魚はどれ
も見たことのないものばかりでした。島民は浜辺に草で小屋を建て、ここで三人は一
週間をすごします。やがて、三つの村にわけて分宿し、一軒ずつ順番にまわって養わ
れる日々が続きます。島の名前は「閏伊是麼(今の韓国語で読むとユンイシマ)」。
そこでの見聞は非常に詳しく、島の風俗・自然・農業などにおよびます。
実は、これが台湾にほど近い国境の島・与那国(よなぐに、今の方言では《ドゥナ
ン》)島だったのです。島は一周が歩いて二日ほどの大きさで、「酋長」はおらず人
口は一〇〇人ばかり。島びとの容貌は自分たち(済州島民)と変わりなく、婦人は耳
に青い珠を下げ、みな裸足でした。男は髪をひもで結び、女は短くても膝までの長髪
です。家には鼠がおり、田で使う牛と鶏と猫を飼っているけれど、牛も鶏も食べずに
死んだら埋葬していました。一度植えて二度収穫できる稲作をしていて、粟もあるけ
れど、あまり好きではないようすだ、などと報告は続きます。
さらに「俺等が郷土を想って常々涕泣していると、島の人が去年の稲穂を取り出し、
田にある未熟の穂を抜いて、並べて東に向けて吹いた。これは今年の稲が去年の稲の
ように熟したら風が吹くから、それで故郷に帰るという意味だと思った」と書き留め
られています。五月の稲の収穫後、七月末になって南風が起こったので、一三人の島
人が一艘の舟に乗り込み、三人を乗せて出発します。
一昼夜半で着いたのが、「所乃是麼」でした。現在の韓国の発音では、これは「ソ
ネシマ」と読むのですが、西表島西部の祖納(そない)集落のことだと思われます。
なぜなら今でも祖納の人は自分たちの村のことを《スネシマ》と呼んでいるからです。
ここに五ヵ月とどまったあと、三人の漂流民は、波照間島・新城島・黒島・多良間島・
伊良部島・宮古島と送られ、通訳もいる沖縄島に到着、首里城で琉球国王の尚真に面
会してねぎらわれ、薩摩・長崎・対馬を経てソウルにいたり、足かけ三年を経てつい
に故郷に帰ることができたのでした(図1)。この三人の証言が、八重山や宮古の島々
の庶民の生活について現存する最古の貴重な記録となりました。
◎与那国島にだけ残る漂流民《フガヌトゥ》の伝承
時は流れて、一九八九年一一月のことです。私たちが西表島にいるときに、済州島
出身の著名な民俗写真家であった金秀男(キム・スーナム)氏がやってきました。「
五百年前、私の祖先がお世話になった西表島のみなさんに、お礼を申し上げ、交流を
深めたい」とあいさつして、西表島の人々から大いに歓迎され、酒を酌み交わし、私
たちもキム・スーナムさんと共に踊ったのでした。翌一九九〇年には、本誌の連載で
おなじみの民俗学者の高光敏(コウ・クァンミン)先生が西表島を訪れ、済州島のテ
レビ局も取材しました。
このようないきさつから私たちが長くあこがれていた済州島を二〇〇七年三月に訪
問することができました。日本語がお上手な高先生は旧知の仲のように私たちを迎え
てくださいました。「できれば三人のお墓や記念碑にでも詣でてみたい」と申しあげ
たところ、庶民の古い墓などは残っていないという返事で、済州島の人々自身が、金
非衣らのことを全然知らないのだ、と嘆かれました。
済州島から帰国した翌日の三月一二日に、N子さんから電話がありました。蔵書を
整理していたら、中から出てきた紙切れを見つけた。そこに今ではすっかり忘れられ
ている不思議な伝承が書いてあった、というのです。それは、四〇年ほど前、彼女が
小学校の時に書きとめた高齢者からの聞き取りでした。紙切れは、四枚のものと二枚
のものがあり、どちらも同じ伝承の違うバージョンのようでした。以下は、この日を
皮切りにそれから二年近くかかってN子さんから届いた電話での語りを聞き書きの形
にまとめたものです。
◎昔話を聞くのが大好きな子どもだった
お話は、《ダランカチユー》ではじまっている。これはもう高齢者しか使わない方
言で「大昔ね」という意味なのよ。大昔ね、いつのことかは分からないけれど、《フ
ガヌトゥ》という人たちが与那国にやってきたの。《フガヌトゥ》というのは、「余
所の人」ということで、《ダマトゥ》(大和)とか、《トゥー》(中国)とか《ウラ
ンダ》(西欧諸国)とかいう言葉があるのに、どこから来たのか分からなかったから
こんな呼び方をしたんでしょう。台湾でもなければ《コートーショ》でもなかった、
と言ってたけれど、《コートーショ》は何の意味かしら(注。紅頭嶼、現在の蘭嶼)。
とにかくほかには聞いたことのないちょっと妙な言い方なの。
《フガヌトゥ》は三人《ミタイントゥ》の男たちだったらしい。この人たちについ
ての記憶は断片的で、人ごとに伝える内容も少しずつ違っていたのね。現在八〇歳か
ら九〇歳ぐらいの私の両親の世代ではこの伝承を知る人は誰もいません。島の昔話を
聞くのが大好きな子どもだった私に、いま生きていれば一二〇歳ぐらいのおばあちゃ
んたちが、ようやく歩きだしたばかりのころからいろいろな話をして聞かせてくれた。
学校にいくようになって、それまでお年寄りに教えてもらった島の象形文字の《カ
イダー字》以外に文字があることを知って驚いたんだけれど、「あんたは字が書ける
人だから、ばあちゃんたちの言うことを書いて残しておきなさい」と言われて方言で
書きとめたものが、本に挟まっていて出てきた書き付けだった。おじいちゃんたちも、
私が、病弱で他の子どもたちと遊ばずに、親やうちのじいちゃん、ばあちゃんに連れ
られて田んぼや畑の畔で一人で遊んでいたためか、「この子に《フガヌトゥ》の昔話
を全部たたき込むことにしよう!」といって、知っている限りの伝承を教えこんだ。
紙にその話を書いたあと、小学校低学年だった私は、大人たち(当時三、四〇代)に
その紙を見せて「ねえ、こんなお話知ってる?」と聞いてみた。みんなは笑って「N
子、また一人で想像して面白いお話こしらえたの?いいね」と、誰もまじめに取りあっ
てくれなかったの。
◎漂流民が来た
《フガヌトゥ》が、与那国島にやってくる直前の伝承もあるのよ。猫や鶏たちが西
に東に走り回って大騒ぎをした。島の人たちは《クトゥ ウグリルン ヤー》つまり
「ただごとでないことが起こるね」と言っていたら、それがどうも《フガヌトゥ》の
予告だったらしいの。島についた時、《フガヌトゥ》たちは疲れ切っていた。よほど
空腹だったらしく、ご飯をあげたら《ンム!ンム!ンム!》と食べたそうよ。ものを
食べさせる前に、この人たちが体質的に島のものを食べさせても害にならないか、を
調べる必要があるでしょう。もうすぐ暗くなりそうな時間帯だったので、大急ぎで何
種類かのヨモギの葉を集めてきて、これをもんで臭いを嗅がせたところ、《フガヌトゥ
》の表情がいい表情に和らいだんだって。これなら大丈夫、島のものを受け入れられ
る体質だと判断して食べ物を与えた。それは、保存してあった《ヌヒル》(ノビル)
をつぶしたものと、米の飯と干した魚ともう一品だったと語られている。もう一品は
いま思い出せないんだけれど、ノビルには清めの意味もあるのよ。
《ムラヌウヤ》(村の親)という役目があって、この時は年をとった女性が《ムラ
ヌウヤ》だった。この人が中心になって、受け入れを進めたんだけれど、《フガヌトゥ
》たちをどこに寝せるかということで、《ムラヌウヤ》は、島で一番霊的な力の強い
女性《ムトゥかハマイ》さんに相談をして、家を建てるまでの間、《ムトゥかハマイ》
さんの屋敷に泊めた。与那国では生きている人に相談するのと同じように死んだ人に
も相談するから、この時《ムトゥかハマイ》さんが健在だったか、もう亡くなってい
た人なのかはわからない。でもお墓はいまもあるよ。
◎島の暮らしに慣れる
《フガヌトゥ》は島の人と言葉が通じなかったけれど、子どもたちと集まって、い
ろんなお話をしたり、歌ったりしていた。手拍子をうって、楽しく遊んだりもした。
そうそう、《フガヌトゥ》が子どもたちに教えた遊びというのがあって、薪を順番に
四角く高く積んで外から中へ飛び越えながら、引っかけて崩したら薪を取られるとか、
笠貝をどのくらい高く積めるかとか、雨の後に出てくる足の多い虫(やすでの類)を
競争させるというようなもので、それを教えるために《フガヌトゥ》が地面に描いた
絵というのも習った。
与那国島の北岸の祖納(そない)集落の東側の《ウラヌ》という所(小字は北浦野)
へ魚を捕りに《フガヌトゥ》を連れて行った時、捕れた魚を珍しそうに一匹ずつてい
ねいに見るので、島の人たちの方では逆にその様子を珍しがって見たんだって。慣れ
てからは自分たちで魚を捕るようになったけれど、《ウラヌ》のあたりが主だったら
しい。
山に入った時、《フガヌトゥ》は「こんな山に登るのは初めてだから、足が痛い」
と言ったので、与那国の人が背負ってあげたりした。でもすぐに道を覚える賢い人た
ちだった。山には入るときには、入り口に布を下げておくように教えた。もしも迷っ
て出てこれなくなったらそれを目印に探してあげるから、というような約束だった。
山から出てくる時には、山に向かって感謝の言葉をかけてから出てくるとか、特定の
ところにあるビディリという大きな石に手を合わせて拝むといった習慣も、《フガヌ
トゥ》たちはきちんと忘れずに守って、島の人と同じように暮らしていた。
島の人たちも《フガヌトゥ》のことを気に掛けていて、美味しい料理を作ったから
と《フガヌトゥ》の家に持って行ったり、《フガヌトゥ》もつくって持ってきたりし
たなかで、海でとれた食べ物と山でとれた食べ物をひとつに合わせた料理を作ってく
れた。島の人たちはそういう食べ方があることを知らなかったので、《フガヌトゥ》
たちの賢さにとても感心したの。《フガヌトゥ》が地面に割れた鍋の絵を描いて、鍋
がすぐに割れると文句をいったので、みんなで土鍋をたくさんつくって《フガヌトゥ》
にあげたといわれている。
◎賢くて器用な人たち
魚をとるための網を止めている竹の棒が濡れているのをみて、潮が引いていること
を言い当てたり、山の道でも一度教えたら二度と迷うことがない、というようにとに
かく賢い人たちだった。《フガヌトゥ》は、毎晩のようにその日にあったこと、見た
魚や植物などの絵を地面に描いていた。描き終えると、きまって絵の横に何かわけの
わからない模様を《グディグディ》と書いていろいろ説明してくれたんだけれど、島
の人にはついにその意味が分からなかった。おじいちゃんおばあちゃんは、それを字
を書いていたのだと言ってたけれど、そうだったのかもしれない。
それから、軒にアカメガシワの葉を下げて、毎日一枚ずつ増やしていたのは、たぶ
ん日を数えていたんだという人もあった。自分たちが島に着いたときの月の形と今の
月の形を地面によく描いていたのは、今にして思えば月を数えていたのかもしれない
ね。《フガヌトゥ》が自分たちで工夫した黒っぽいもので布に何かを書いているとこ
ろも見た人がいた。わら縄をあげたら、家の中から外にそれを張って、洗濯物をかけ
て昼は外に、夜は室内に干したので、島の人はそのやり方に感心した。与那国では家
の中に物を掛けるには、壁の竹を編むときに斜めに竹を差し込んで掛けるしかけをつ
くるから。
今の祖納の集落のうしろに《ティンダバナ》という崖があるでしょう。あそこに上
がる途中の湧き水が《フガヌトゥ》のお気に入りの飲み水だったと伝えられている。
でも、《フガヌトゥ》たちは、豚というものを知らなかったらしくて、大きな鳴き声
を聞いてすごく驚いたので、これは何も害をしないものだと教えた。
いつも何か手伝えることはないですか、と聞いて重いものを運ぶことなんかを気持
ちよくやってくれた。お話の中で年齢のことはどこにも直接語られていないけれど、
若くないとできないだろうな、というようなエピソードが中心ね。
稲刈りの季節がきた。音を立てないという厳しい謹慎をしなくてはいけないので、
「《マイカイ》(稲刈り)がはじまるから静かにして下さい」と頼んだら、すぐにわ
かってくれてよく協力してくれた。そして、「稲刈りをお願い」、といったら、気持
ちよく「ハイ!」といって、すぐに飛びだそうとしたので、「今すぐじゃない」とみ
んなで留めた。実際に刈るときがきたら、とても熱心に手伝ってくれた。この年は、
稲の大豊作の年で、刈取りが間に合わないほどだったらしい。刈取りが遅れると、方
言で《クブリチン》というけれど、割れ米が多くなってしまうのよ。だから、加勢し
てもらうのがありがたかったのね。《フガヌトゥ》は鎌で稲を刈るのは初めてと言っ
ていたけれど、鎌を使うのも上手だったので、みんなが助かった。《ガッティンキ、
グルグアイティ》つまり、「合点して、要領もあって」というのがいろんな方が繰り
返し繰り返しおっしゃった表現ね。この時から、《フガヌトゥ》たちには《マイカイ
マイフナー》つまり「稲刈り上手」という別名が付けられたんだって。
稲刈りのあと、島の人が新米と去年の米を見せてその違いを《フガヌトゥ》にわか
らせようとしたんだけれど、なかなか伝えられなかった。いろいろ島の人は努力して、
とうとうそれを《フガヌトゥ》が理解したときは大変な感動だったらしく、いろいろ
と伝承されている。ある伝承では、稲穂を並べて見せたといい、別の伝承では新米の
ご飯と古米のご飯の香りの違いを《フガヌトゥ》がかぎ分けて理解したというの。
◎《フガヌトゥ》を気遣う島人たち
今のように家が一ヵ所にあつまって建っていたわけではないので、《フガヌトゥ》
の安否をそれとなく確認するために島の人がしたことは、何だったと思う? 猫なの。
子猫を増やすように気をつけながら、それを抱いて《フガヌトゥ》のところに行って、
猫を慣れさせる。《フガヌトゥ》の住んでいるところも猫の行動範囲に入るようにし
ておくと、何か異変があったとき、猫どうしの連絡網が早いのね。
ある晩のこと、猫が変に騒ぐので、念のために《フガヌトゥ》のところを探ってみ
たら、なんと《フガヌトゥ》の家の周りにひそんでいる怪しい男たちを見つけたんだっ
て。みんなでつかまえて縛り上げ、とり調べてみたら、島の人間ではなく、よく島に
来ていた台湾の男たちだった。何をしていたか、と厳しく問いただしたら、《フガヌ
トゥ》を殺してその持ち物や食べ物を奪おうと思った、島の人間じゃないから後腐れ
がないかと思って、と白状したのね。島の人たちはすごく怒って、あんたらはもう二
度と与那国に来るなといって、島を追い出した。その当時から台湾との交流は物々交
換を中心にずいぶんあったのよ。
稲刈りの時分の暑いときなのに、《フガヌトゥ》たちが火を起こしてほしいと頼む
ので、藁の火と薪の火を焚いてあげたら、藁の火ではなく、薪の火に向かって何かを
一心にお祈りしていた。何を祈っていたかは誰にもわからなかった。また、《フガヌ
トゥ》が急に泣き出したことがあって、そのことを《ムラヌウヤ》と呼ばれていたお
ばあちゃんの所へ走っていって告げたら、《ムラヌウヤ》は、「ここに連れておいで」
といって、泣いている《フガヌトゥ》の背中をやさしくなでたりして慰めていた。す
ると、《フガヌトゥ》は泣き止んで、とても良い声で歌をうたい出した。《ムラヌウ
ヤ》がよくよく聞いてみたら、船で一緒だった仲間が――たしか五人と言ってたな―
―亡くなったのを悲しんで泣いたんだということがわかった。
いろいろと物知りで要領のいい《フガヌトゥ》に教えてもらうために、青年たちが
いつも通ううちに、兄弟の仲を結んだの。月夜の晩に《ムラヌウヤ》が立ち会って、
これからは兄弟となることをみんなが確認しあった。月光の力を受ける《ウトゥントゥ
アンシミ》(月光浴)しながらの約束で、《ウトゥントゥ》(月の光)の仲ともいう
の。
娘たちの中にも、料理を運んであげたり、みんなでいっしょに遊んだりして、《フ
ガヌトゥ》にちょっと「ほの字」になった娘もいた。でも、どうしても故郷に帰りた
いという強い意志を《フガヌトゥ》がもっていることは島に来てすぐに分かったので、
結婚とか、与那国島に引き留めることにつながるようなことは一切しなかった。それ
だけでなくて、《フガヌトゥ》を送るための大きな丸木舟を、おそらく西表島から手
に入れた大木で準備したと伝えられているの。
◎思いを後に残すな
どのくらい島にいたのか分からないけれど、《フガヌトゥ》たちは、島を出て行っ
た。そのときの様子は「風に乗って去った」と表現されているのが不思議。稲刈りの
時に吹いていた風を島の人が指して、「いま吹いている風の『弟の風』が吹いたら、
それに乗せて送ってあげる」といったというんだけれど、弟の風がどんな風なのかは
私にはわからない。
島を送り出すとき、たとえ身体は故郷に帰り着けなくても、かならず、《マブイ》
(魂)は故郷に届くようにと女の人たちが祈ってあげた。《ムラヌウヤ》が、普通は
本人に持たせる魂を込めるお守りを、肉体が行き着けるかどうかの確証はないので、
海に託して魂だけは確実に故郷に帰り着けるようにはからったの。《ムラヌウヤ》は、
《フガヌトゥ》たちに「思いを後に残すな、しかし心だけはおいていきなさい」と告
げたんだって。
いつも《フガヌトゥ》が庭で祈っていたサンゴの石の《ビディリ》の模型を作って、
これを《フガヌトゥ》の道中の安全のお守りとして持たせようということになって、
掌に入るぐらいの大きさの《ンタビディリ》を《ンタ》(土)を焼いて作った。サン
ゴの雰囲気を出すためにたくさんの穴をあけ、島の全員が思いを込め、道中食べ物に
困らないように、食べ物の汁をこれに掛けたりもした。
送り出すときには、東崎《アがイサティ(が=鼻音)》までの要所要所に島の人が
立って、声を掛け、手を振って送り出したの。
その後、与那国島から父と息子が乗り込んで魚捕りに出た舟が西表島との間の《ウ
ヤハバガリヌナン》(親子別れの波)といわれる荒波で遭難して、西表島に流れ着き、
どちらか一方だけが生き残って島に戻ってきたことがあった。その時届いた便りは「
《フガヌトゥ》は、まだ西表島にいたよ」というものだった。
少数の人たちは、西表島からすぐは戻らず《フガヌトゥ》といっしょに旅を続けて、
沖縄まで行ったとも言われているの。そこで、いくつかに分かれた道のところまで行っ
て、この道を行けばたくさんの人に会えるから、といってそこで最後の別れをしたん
だって。
さらに時がたって、《フガヌトゥ》と義兄弟に契りを結んでいた若者たちが「そう
だ、《フガヌトゥ》が無事に帰り着いたかどうか確かめないと気がすまない」と言い
出して、舟を漕ぎだそうとして浜辺で大騒ぎになったことがあったのよ。
騒ぎを聞きつけた《ムラヌウヤ》がやってきて引き止めたとき、「兄弟として暮ら
してきたのに、どの風に乗っていったかわからない。故郷に戻って確実に親の胸に抱
かれたかどうか確かめたい」と若者たちは言ったの。それに対して、《ムラヌウヤ》
は、「どこの港とも分からないところへめがけて舟を出すような、そんな無謀なこと
はやめなさい」と叱った。そして、こう言った。「あの人たちは、《アがイティダ》
(昇る朝日)にいつも手をあわせて拝んでいたし、家の中で寝ている時に差し込む月
の光に喜ぶ、そんな私たちと同じ心をもった人たちだったでしょう。だから、無事故
郷に帰れたら必ずなんらかの知らせは来る。だから待ちなさい」と言った。この《ム
ラヌウヤ》の言葉で舟を出すのを断念した若者たちは、わあわあと大声で泣いた。
《フガヌトゥ》の身につけていた下着は与那国島のものとは違っていた。《フガヌ
トゥ》がその作り方を地面に線を引いて教えてくれたので、島の人は鎌で自分の着物
を切り裂いて、替えを作ってあげた。その作り方が伝承されていて、これは私のばあ
ちゃんも作り方を知っていた。小さいころ、たぶん五歳ぐらいの時に作ってもらった
時、ずいぶん着心地がいいものだったよ。後ろでしばるところが二つずつの輪になっ
ていて、しばった後もそこに指をつっこめるのが面白かった。この下着は《アッパ》
と呼んでいる(図2)。島の方言では、お母さんのことを《アッパー》というけれど、
この下着は、《パ》を強く高く発音するので、たぶん島の方言ではなくて《フガヌトゥ
》の言葉じゃないかしらね。蝶々のようなひらひらのついた《アッパ》を着たらうれ
しくなって、私が門から走りだしたら、《アッパ》を作ってくれたおばあちゃんが追
いかけてきたので、逃げて木に登ったら、めったにないことだけれど叩いて叱られた
の。そして、「絶対にその姿を他人に見られてはならない」と厳しく叱られたの。そ
れからしばらくして、輪になった耳のところに竹の棒をつっこんでぐるぐる回してい
るうちに、輪を切ってしまったことがあったな。その時、「あなたにはこれがどれほ
ど大切なものかわかっていない」と言われて、丸二日間畳半畳の中に正座して動いて
はいけないという罰を受けたの。
《フガヌトゥ》の話と《アッパ》の作り方については、「これは、必ず覚えておき
なさいよ。もしあなたが遠いところにお嫁にいくんだったら、この話と《アッパ》の
作り方を誰か確かな人に教えてから島を離れなさいよ」ということをばあちゃんたち
に言われていたのに、私はその約束が守れなかった……。
◎いつまでも忘れないために
《フガヌトゥ》が旅立ってしばらくしてから、そのことをうたう歌ができた。これ
は、《フガヌトゥ》を好きになった娘たちが歌ったものだったと伝えられていて、私
もよく歌った。田植えの時に、苗代とお別れする苗さんたちを慰めるために歌って聞
かせる歌でもあったので、よく頼まれて歌いに行っていたな(歌う)。
バガリグリシャヌ 別れづらいけれど
マブイバ クミティ 魂を込めて
カジニ ヌシティ 風に乗せて
ウグイ ヤダラシャヌ 送って行かせたのに
カジヌ タユイヤ 風のたよりも
ミヌンドー ありゃしない
私が小学校の低学年だった時(一九六〇年から六二年ころまで)、田んぼや畑で遊
んでいると、夕方、田畑での仕事を終えて帰ってくるじいちゃんたちが、とても高い
声で歌をよく歌っていた。この歌のメロディーは忘れてしまったけれど、《フガヌトゥ
》を送ったときの歌だったと伝えられていた。
ナンヌ タナガヌ 波のただ中の
ウスヌハニ 潮の中に
ンダ スディヌ 君の振る袖が
ンナリ カグリ 見え隠れしている
この時の《ムラヌウヤ》が高齢でとうとう亡くなった時、脇に《フガヌトゥ》たち
が身につけていた下着の《アッパ》を三人分はさませ、胸の上には、泥で染めた思い
のこもった布を載せて送った。これは、あの世で《フガヌトゥ》の親たちにも会うだ
ろうから、三人は元気に旅立ちました、ということを伝えたいという《ムラヌウヤ》
のたっての希望でそうしたんだって。
このように、あの《フガヌトゥ》たちが、無事に故郷に帰れたのかどうか、与那国
の私たちは、ずっとずっと心にかけてきたのよ。
私が、中学に入ったとき(一九六六年ごろ)、じいちゃん、ばあちゃんたちが旧正
月の行事のついでに、「《フガヌトゥ》の正月をやろう」と言い出したことがあった
の。私ひとりがその席に呼ばれた。祖納村のちょっと東のシキ浜という小さい浜に集っ
て、山の神・海の神・里の神のそれぞれの方向に三つの陰膳を据えてみんなで祈った。
山の神には「大昔、《フガヌトゥ》を送り出したのを見守っておられた山の神々、
あの人たちが無事故郷に帰って、親の胸に抱かれたのか、私たちはその知らせを待っ
ています。その誰よりも高いところからごらんになれたら、すぐにお知らせください。
」
海の神には「《フガヌトゥ》を乗せた舟を受け入れてくださった海の神様、無事故
郷の港に帰り着いたのであれば、その知らせが届きしだい、まっさきにお教えくださ
い。」
里の神には「あの時、やさしく《フガヌトゥ》を受け入れてくださった祖先の神々、
ありがとうございました。知らせが入りしだい、まっさきにご報告いたしますのでお
待ちください」と祈った。
じいちゃん、ばあちゃんたちは、私に着せる着物のための銭袋というのをめいめい
もっていて、長い時間を掛けて貯めていた。その小銭を集めてこの時に合わせて、新
しい着物をあつらえたの。生地は私が選んで、縫う代金も入っていた。《フガヌトゥ》
の祀りを旧正月とお盆の年に二回は欠かさずにやりなさい、じいちゃん、ばあちゃん
がいなくなっても、この着物を身につけて必ず続けなさいと言われた。石垣島の高校
に進学することになったとき、私がこのまま島に戻ってこないのではと恐れたじいちゃ
ん、ばあちゃんたちが集まって、着物にイトバショウのアクと、豚の血に私の初潮の
血を混ぜたもので印をつけて、必ず続けなさい、という確認をさせられたの。その印
は今も着物に残っているわ。私が四〇歳になったとき、《フガヌトゥ》の最後の伝承
者だった女性が、「これ以上《フガヌトゥ》のことを話してあんたを苦しめるのはや
めようね」と言われた。このばあちゃんも亡くなって、とうとう《フガヌトゥ》のこ
とを知る人は私一人になってしまったのよ。
◎伝承と漂流記――二つの聞き書きの対比
ここで紹介した与那国島での《フガヌトゥ》伝承は、私たちの知る限りこれまでに
まったく報告されたことがないものです。まだ歩けないころから四歳までおじいちゃ
んの懐でいろいろな伝承にひたり、小学校時代から伝承を記録し「種を集める人」を
自認するN子さんの記録と記憶が残っていなければ、ほぼ確実に消滅していたはずで
す。
N子さんの伝承と、済州島民の語りの一致点はあまりにも多く、これは、金非衣・
姜茂・李正という三人の済州島漂流民と与那国島民の五ヵ月にわたる人間的交流の記
憶だと理解するしかないようです(表1)。そうだとすると、「安心してください、
無事に帰り着けたんですよ」と与那国島の方々に報告できることになります。唯一違
うと思われるのは、「与那国島には豚がいない、便所はなく野原で行っている」と済
州島民が述べたところでしょうか。今後、研究する余地がありそうですが、半年も島
に滞在した、済州島からの三人の漂流者たちが、与那国の島びとたちと兄弟のように
親しくなり、その交流の記憶が五百年の時を越えて語り継がれてきたのです。それを
済州島から帰ってすぐに聞くとは、まことに不思議な巡り合わせでした。N子さんに
は、《フガヌトゥ》のお話を電話で何回も聞いたのち、一五世紀の済州島民の漂流記
に見える与那国滞在記のあらましを電話でご説明しました。でも、そのことについて
は、何も聞いたことがなかったし、学者でもない与那国の高齢者たちもまったく知ら
なかっただろう、というお返事でした。
◎済州島からの感謝と慰霊の旅
二〇〇九年二月、私たちはソウル大学校の文化人類学者、チョン・ギョンス(全京
秀)教授を招いて、与那国島と西表島の旅を企画しました。お母さんが済州島出身で
あり、沖縄をフィールドのひとつとしておられるチョン先生が、三人の漂流民が無事
に故郷への帰還を果たしたことを、何らかの形で島に報告できれば、というのが旅の
漠然とした目的でした。
途中、竹富島で八重山式の祖先供養の仕方を教わり、与那国島では、前述のシキ浜
で山・海・里の神々への感謝を三人でとりおこないました。幸い、与那国式の感謝祭
の方法と日取りを、比川村の旧知の女性に習うことができました。「長らくなってい
るからね、三〇〇万円ぐらい贈りなさい」と助言されて仰天しましたが、神々に捧げ
るお金は、三束の白い半紙を燃やすのでした。三人が帰還の旅で経由したすべての島
の神々にも線香をささげ、ひとつひとつ名前をあげて感謝します。どこかで神様の手
抜きでもあれば、三人はけっして故郷まで帰りつくことができなかったのですから。
女性からは「日取りが良ければ、供養もした方がいいね。子孫がお金を送ってくれな
いから、あの世で生活費にもこまり、税金もだいぶん滞納してるはずよ」という言葉
もいただきました。これまで研究者は、一四人の済州島民のうち、生き残った三人の
漂流者にばかり焦点をあててきたのですが、名前が記録されて王様から遺族への慰労
もされた五人の乗組員と、「等」で一括されて名前も伝わっていない残る六人の無縁
仏の供養というものが、五〇〇年以上もされていないことに初めて気づいたのです。
私たちは次の目的地の西表島に向かうためにまず石垣島に戻って、祖先供養のための
黄色い《ウチカビ》(紙銭)を、二軒の店で買い求めました。
西表島の祖納公民館では、石垣金星館長はじめたくさんの地元の方が、チョン先生
の特別講演会「今から五〇〇年前・私の先祖が見た祖納の暮らし」を開催してくださ
いました。チョン先生は、祖納の人たちに対して、父母にするのと同じ韓国式の最敬
礼をしてから話されました。
「もう五〇〇年もたっているんだから、みんな神様になってるよ。敬いの気持ちさ
えもっていれば、どんなやり方でも願いが通らんということはないさ」という西表島
の人の言葉に励まされて、翌日三人で無人の浜に降り立ちました。
お供えは、ろうそく二本、線香、紙銭、塩、泡盛。ここまでは定番ですが、蜜柑と
ニンニク(ノビルの替わり)とおにぎりを加えました。みな漂流記に出てくる食べ物
です。クワズイモの葉の上にお供えを並べ、椀や皿の代わりにユーナ(オオハマボウ)
の葉を使います。漂流民も形が蓮の葉に似たユーナの葉に包んだおにぎりを食べたの
でした。アカバナー(ハイビスカス)やモンパノキの花を飾ったら華やかになりまし
た。亡くなった金得山ら五人の名前と「無縁と書いた紙を並べ、最後にチョン先生が
持ってきた済州島の石の小坊主二体を据えて三人で祈りました。西表島のブザシの浜
から与那国島を通して、済州島にまで祈りが届き、海にさまよっているかもしれない
魂が無事に故郷へ帰れますように……と。ろうそくの火で一一人の霊に届ける紙銭を
燃やしていきます。チョン先生は、無縁仏からはじめて亡くなった人々の名前を呼び、
済州島の方言で祈りながら、祖先供養のチェサを執り行いました(図三)。
潮が満ち始めてやがてお供えを少しずつ少しずつ、すべてを海へと運んでいきまし
た。祈りは海に届けられたのです。チョン先生はサンゴのかけらをまるで遺骨のよう
に拾い、私たちはアカバナーの花がいきつもどりつして波に運ばれていくのを見つめ
ていました。
旅が終わって、N子さんに、《フガヌトゥ》が無事に故郷に戻れたことを、与那国
島の神々に報告して感謝してきたこと、亡くなった人々のささやかな供養をしてきた
こと、そして、N子さんを含めこの慰霊と感謝の旅に関わったすべての人たちの健康
と幸せを祈ったことを報告しました。
N子さんは、「ありがとう、これで私たちも長い長い間の肩の荷が下りた」といっ
て、もう用がなくなった《フガヌトゥ》の正月に使った着物と、あらたにこしらえた
《アッパ》を送って下さいました。
この五〇〇年余りの間には、与那国島にも、済州島にも、たくさんの数え切れない
ほどの悲しい出来事や、つらい思い出がありました。それにもかかわらず、与那国の
島びとたちは、約半年をともに暮らした、異文化を生きる漂流民たちとの魂の交流を、
もっとも幸せな記憶のひとつとして、伝え続けてきたのでした。その記憶をあらたな
平和と共存の五〇〇年につなげる旅をともにする魂の兄弟として、私たちはチョン・
ギョンス先生と歩きはじめたのです。
引用文献
伊波普猷、一九二七「朝鮮人の漂流記に現はれた尚真王即位当時の南島」『史学雑
誌』三八(一九七三年『をなり神の島』平凡社、に改題して収録)
表1 『成宗大王実録』巻104-105と与那国島のフガヌトゥ伝承の対比
成宗大王実録の語り(1479) 与那国島での語り(1955-1994) 合致度
――――――――――――――――――――――――――――――――――
金非衣・姜茂・李正 3人の男たち ◎
済州島から漂流 どこから来たか分からない ○
14日間食事せず 非常に疲れて空腹 ◎
蒜と粥+飯と干し魚と濁酒 ノビルと飯と干し魚等 ◎
魚は知らぬ物ばかり 捕れた魚を珍しそうに観察 ◎
土鍋はすぐ割れる 土鍋がすぐ割れると言った ◎
字を書くが通じない 地面に不思議な模様を書いた ◎
島には酋長がいない 高齢の女性が「村の親」 ○
稲刈り前の謹慎 稲刈り前の謹慎に協力 ◎
稲刈りを観察 「稲刈り上手」と呼ばれる ◎
故郷を思い常々涕泣する 突然大声で泣き出す ◎
金得山ら5人等が溺死 仲間5人が死んだと泣く ◎
新旧の稲穂で慰められる 新旧の稲を区別させる ◎
風を待って船出 風に乗って去る ◎
西表島に6か月滞在 西表島に漂着した島民が再会 ◎
――――――――――――――――――――――――――――――――――
豚なし、便所なし 豚の声に驚く ×
――――――――――――――――――――――――――――――――――
◎ よく合致 ○ おおむね合致 × 一致しない