アフリカの水)「父たち」の待つ村への旅(2010年 季刊『東北学』24号)_RT_@tiniasobu
2010/05/29
ひとたびアフリカの水を飲んだものは、必ずアフリカにもどっていく。それは本当です。
山口県立大学へ講義にきてくださった赤坂憲雄さんとのご縁で『東北学』にかかせていただいた文章です。これは原稿ですから、引用は、原本からお願いします。
書誌はこちらにあります。 https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I10789627-00
「父たち」の待つ村への旅――私のアフリカ経験から
安渓 遊地
アフリカの森へ
一九七二年、京都大学理学部三年生だった私は、それまでめざしていた生物学に、いや、大学生であることそのものに挫折を感じていた。そんなとき、文化人類学の川喜田二郎先生が始めた移動大学運動を知り、津軽・岩木山中での二週間のキャンプに飛び込んだ。一〇八人の参加者が地域を教科書に学ぶプログラムの中で、大きな開放感を味わい、フィールドワークに惹きつけられた。気がついた時には、移動大学のボランティアスタッフとなり、翌年の新潟県巻町での角田浜移動大学の準備のために奔走していた。それまで時刻表も読めなかった私は、それから半年間に一〇〇泊の旅をして、京都の自宅からほぼ蒸発したのだった。
大学に戻ってみれば、そこには川喜田先生と同じ今西錦司門下生の伊谷純一郎先生がアフリカ研究を推進しておられた。アフリカでフィールドワークをしたい! それだけを思って自然人類学の大学院を受験した。そんな私が沖縄の民俗を研究したり、後に文化人類学の大学教員になったりするとは思ってもみなかった。移動大学のスタッフとしてともに汗を流した貴子は私と婚約して、自分の専攻を微生物学から植物生態学へ変えようとしていた。伊谷先生の指示で訪れた、西表島の人里離れた廃村・鹿川(かのかわ)村が二人の初の共同研究のフィールドとなった。
伊谷先生は、三度にわたって私の西表島への旅に同行してくださった。マングローブの河口を胸まで浸かっての徒渉や、キャンプで食べ物を自給する方法などは、縁側で高齢者の話を聞くことがフィールドワークかと思っていた私への特訓プログラムだった。無人の山野での藪こぎや沢登りは、会議や原稿書きに倦んだ伊谷先生のリハビリでもあった。
念願のアフリカ行きが実現するまでに、私たちは西表島に三年間通った(アフリカから帰ってからは三〇年通った)。西表島は、地域の人たちと濃いつきあいをすることと、同じフィールドで二人がそれぞれ違う視点をもって共同研究をするという勉強の方法の基礎を私たちがたたき込まれた大切な場所になった。その間に、大山移動大学で宮本常一先生からフィールドとのつきあい方の教えを直接に受けることができたのは忘れがたい出会いだった(宮本・安渓、二〇〇六)。
アフリカへの出発を間近にした私たちに、伊谷先生はこうおっしゃった。
「どんなに粗い網目でもよいから、ある全体を覆う研究をしなければいけない。そうすれば、これまでに誰もやろうとしなかった課題に気が付くはずだ。それが見つかったらその一点に集中して深く掘るがいい、岩盤に届くまで。ルアラバ川の東側の森がいいだろう。あそこはこれまで誰も手を付けていない所だから……」
「お前の立つところを 深く掘り下げよ! その下に 泉がある!」とは、ニーチェ(一九九三、二二頁)の、そして「甘泉」を号とした沖縄学の父・伊波普猷の言葉だ。上空を飛行機で飛んで美しい森が広がっているのを見ただけで伊谷先生が選んでくれたフィールドは、アフリカの心臓部の熱帯雨林のただ中の、コンゴ川を河口から二七〇〇キロばかり遡ったところだった。はたしてそこが、私たちの「立つところ」になるだろうか。
伊谷先生は、工夫して二人分の旅費を捻出してくださり、海外調査が初めての私たちのために、研究室の先輩の掛谷誠・英子夫妻が私たちが住み込める村を見つけるまで同行して指導するように計らってくださった。
ソンゴーラ人の住む森の村々で、私たち四人は歓待を受けた。一番いい部屋に泊めて、ごちそうを出していただき、お礼をくれとは一度も言われなかった。一〇日ほど歩く旅の中で、ハンセン病で指が全然ないおばあさんと握手をしたり、スワヒリ語で「鳥を見ようよ」と言われて上を向いたら、サファリアリの群れの中に踏み込んで全身噛まれたりといった、先輩からの愛のこもったしごきに満ちていた。最後の日には、食器などの荷物を全部かついで森の踏み分け道を三八キロ歩いた。キンドゥの町のホテルの対岸まで来たところで日暮れとなった。幅六〇〇メートルの夜の川を渡す丸木舟をようやくつかまえた。ところが漕ぎ出してから約束の四倍(昼間のフェリー料金の一〇〇倍)もの法外な値段を船頭が請求してくるのだ。
真っ暗な中洲に漕ぎ寄せて「ここで一晩寝てみるかい? ここらのワニはお腹が大きいよ」と脅すのである。私はかっとなったのだが、掛谷先輩はおちついた猫なで声で「トゥタクバリアーナ(折れ合おうじゃないか)」と値引き交渉を始めて、三分の一ほどに負けさせたのだった。
この旅を踏まえて、私たちは清潔なベッドと強い地酒でもてなしてくれた一〇〇人弱のゴリ村を選んだ。二人だけで戻っていって、「よかったら、半年ぐらいおいていただけませんか」と訊いた。会話はよちよち歩きのスワヒリ語だ。にこやかに迎えられ、村長が自分の居室を明け渡してくれた。村長の二人の妻たちに食事を出してもらい、水浴びの水をバケツに一日一杯くんでもらうという世話を受けながら暮らし始めた。貴子はすぐにママたちの世界に迎え入れられ、日本では習わずにきたスワヒリ語も少しずつ話し始めた。カップルで滞在すると、受け入れ側も安心してくれるようだった。
貴子の考えで、村人が私たちに慣れるまで、はじめの一月はカメラもテープレコーダーも使わなかった。二、三週間もたったころ、村長が「家を建ててあげようか」と尋ねた。半年暮らしたいという私たちが本気だと気づいたのだろう。大喜びで家を建ててもらうことにした。村のはずれに場所を選び、草を刈り、杭を打ち、ロープで家の形をとって準備は完了だ。台所と寝室を合わせても団地サイズの四畳ぐらいの小さな家だ。ところが、なかなか建築工事が始まらない。そのうち予定地にはまた草が生え、ロープも隠れてしまった。待ちきれなくなって村長になぜ工事が始まらないのかを尋ねた。
何人もの父たち
返事が、例えば「人手や材料がそろわない」とか「住宅金融公庫の融資が」といったものだったら、こちらも経費を負担するなどの心の準備はあった。しかし、返事は思いもよらないところから来た。「わしのことを『父さん』と呼んでくれるものは多いんだが、それはみんなわしの兄弟の子ども達だ。実のところ、自分で産んだ子はひとりもおらんのだよ……。お前、わしの息子にならんか?」私はその勢いに呑まれて思わずスワヒリ語で「ンディヨ」つまり「はい」と答えてしまった。すると「じゃあ、お前は今日からわしの息子だ。息子なら親といっしょに住めばよい。だから、家を建てる必要はない。わかったか」と言われ、一戸建ちの家をもつという私たちの夢はあえなく消えた。
それからは、村長をスワヒリ語の「スルタニ(村長)」ではなく、「ババ(父さん)」、ローカルなソンゴーラ語では「アサ」と呼ばなければならない。それだけでなく、アサの兄たちは「大きい父」であり、弟たちは「小さい父」であって、例えば椅子がひとつしかなければ、当然父親に譲らないといけない、と教えられた。紹介された中で一番若い「アサ」は、当時六歳ぐらいの少年だった。
私が村長の息子になってしばらくして、近くの村に近隣のプロテスタントの信徒が集まって大きな集会をすることになった。三時間ほど歩いて会場が近づくと、大勢の人達が歓迎のために待ち受ける中に父がいて「息子よーっ」と呼ばわるのだ。こうなれば仕方がない。「お父さーん」と大声で叫びながら走っていって、公衆の面前でしっかと抱き合う。実の子がなかった村長にとうとう息子ができたことを知らしめるパフォーマンスだ。
フィールドワークの手始めに、まずは村の地図をつくることにする。私が歩測をし、方向感覚の優れた貴子が地図を描く。「へえ、頭を使う仕事は嫁さんがやるんだね」という村人のささやきが聞こえてくる。森と人間の関係を調べるための植物標本づくりで村人たちのその印象は決定的になった。植物を採集し、スケッチする貴子の横で、私は薪をくべながら乾燥標本づくりを続ける。さて、そろそろ家族構成のインタビューをしようと思って訪ねたある家では「あんたの仕事は葉っぱを乾かすことなんだろう?
字を書くような難しいことは奥さんに任せておいた方がいいよ」と言われてしまった。
それでもなんとか一軒ずつ聞きながら自分の家に来たとき、父に型どおりに尋ねた。「子どもさんは?」そうしたら「お前だけだ」という返事だった。つづいてお向かいの、奥さんが七人ある男の人の家に入った。椅子をすすめられ酒が出てきた。焼酎がおいしいから選んだような村だから、遠慮なくいただいていた。すると、父の第二夫人が入ってきて、きびしい声で「父さんが呼んでいるからすぐ家に帰りなさい」と命じられた。あわてて帰ってみると、父からのお説教だ。
「うちとお向かいさんとは、お互い相手から嫁をもらうという大切な間柄だ。そんなところで、親しげに酒を飲んだりすることはならんのだ。わかったな」
村は二つの親族集団にわかれていた。そして、その間では礼節を守らなければならないという教えだった。文化人類学ではこれを「忌避関係」と呼んでいる。裃をつけた関係というか、ともすれば損なわれやすい人間関係をあらかじめ冷しておくという知恵だ。忌避関係でもっともきびしいのは、男の場合は、妻の母親との関係だ。例えば一本道で行き会うだけでも失礼になるので、もしそういう場面になったら、夫は藪の中にとびこんで隠れ、自分の姿を見せないようにすることが敬意の表現になる。これほど厳しくはないが、一つの皿から食べることが許されない仲というのもある。私たちは、村の親族関係の編み目の内部にとりこまれた結果、うちとけて交流することが許される範囲が村の半分になるという選択をしてしまった
ことになった。
父と子の間では、一つ皿から食べることが許されているが、それでも忌避すべきことがある。私たちは、村ではお金で謝礼を払うことはしないという原則で暮らしていた。例えば、森についての知識を勉強するための植物標本の乾燥用の薪を運んでもらったりした場合など、自分では吸わないが、紙巻きタバコを何本かあげたりしていた。父にはこれとは別に敬意をこめて時々あげていたが、何度目かに訊かれた。
「はて、お前はタバコはいつ吸うんだ?」
「父さん、僕は夜、家の中で吸っているんです」と答えた。
しばらく続いた雨が晴れた日、父が道ばたの石の上にタバコを並べて干しながら、売っているのを発見して、思わず尋ねた。
「父さん、タバコはいつ吸われるんですか?」
「うん、夜、家の中でな」
こんなのが、忌避関係のちょっとぎくしゃくしたやりとりである。
その反対が、ちょっと変なことばだけれど「冗談関係」だ。
私が子どもにしてもらったその日から、父の姉妹にあたる、おばさまたちが、入れ替わり立ち替わりやってきて、やれ酒を飲ませろだの、嗅ぎタバコを買ってこいだのしつこくせがむようになった。それまではなかったことなので、父の奥さんたちに尋ねてみると、父の姉妹とその甥にあたる私の間にはなんの遠慮もなく、何をねだり会ってもいいし、性的な冗談も自由に交わしてもいいという。
孫とおじいさんとの間もそれに近い。だから、口頭伝承も、世代を飛び越えて孫の代に伝わるということも起こるのだろう。
こういう忌避関係と冗談関係の編み目の中にいると、いろいろなことが起こる。オバの一人が、「息子が病気になったみたいだから、部屋に入って様子をみてきてほしい」と私に頼んだりする。彼女は息子の部屋には入れないけれど、私なら入れるからだ。
さて、長く滞在しているうちに、しだいに父の家で出てくる食べ物が乏しくなっていった時期があった。すぐ斜め向かいに住む祖父と私は冗談関係なので何でもねだりやすいし、気安くご馳走してくれるので、たびたびそこで食べるようになった。すると、父に呼びつけられた。
「お前達は、ちかごろ自分の家ではあまり食べないと思ったら、わしの親父の家で食べておるそうじゃないか。いったいなぜなんだ?」という問いかけだった。返答に窮した私は、正直にこう言ってしまった。
「だって父さん、大きいママ(第一夫人)の出してくれるものじゃ少なすぎて、お腹がふくれないんですもの」
ところが、この言葉は毎週日曜に開かれる村の裁判への告発と受け取られてしまったのだ。あれよあれよという間に、私が原告、第一夫人は被告というわけだ。村の広場で、村びとたちに取り囲まれ、論告や弁論や証言、ことわざや歌などが繰り返される。それをあっけにとられて見ていると、長老たちの審議を経て判決がくだった。「子どもにはきちんと食べさせるべし」という原告勝訴だ。
判決の直後、まわりにいた女性たちが、いっせいに私の頭の上から砂をかけた。いつの間にか手の中に砂を握っていたらしい。「世の中良いことばかりじゃないからね。勝ったからといって、いばりなさんなよ」というメッセージだった。そういえば、小さな事件に勝訴した人が、砂かけ女たちにやられていたのを思い出した。のちの旅でも、私が村についたその日に、父に初めての娘(私の妹)が生まれた時にも私は砂をかけられ「これが男の子だったらこの程度じゃすまないわよ、おめでとう」と言われた。
はじめの半年が過ぎて、いったん帰国するために村を去る日、それまで使っていた身の回りのものを世話になった人達に形見分けのようにわけた。その直後に、父の部屋に呼ばれてうんと叱られた。
「お前は、あの山刀をわしの親父にやっただろう。わしが欲しいと思っていたのに」
「ああ、父さん、ごめんなさい。じいちゃんがくれくれというのでついあげたんです。そんなに欲しいんだったらおっしゃったらよかったのに……」
「父親が息子に物をくれ、なんてそんな恥ずかしいことが言えるか!」
息子たる者は、父親に欲しいなどと言わせないように、いろいろ息子の方から差し上げなければいけなかったのだ。そして、他の家のみんなに物をわけたりしてはいけなかった……。とくに、公衆の面前で贈り物を渡すことは、もらえなかった人達の視線がねたみとなって不幸を呼ぶため、避けなければならなかったのだった。コンゴのスワヒリ語でねたみをキリチョというが、これは「大きな目」という意味でもある。
父を産む
一度養子になってしまえば、こちらから解消する方法はない。あらかじめ定められた人間関係の幅の中でしか、調査も許されない。
一〇〇〇点を超える植物標本をつくるのは薪集めからして大変だし、足が痛い第二夫人に毎日の水汲みを頼むのも気兼ねだった。それで、手伝いを雇おうということにした。ところが、やってきた少年をみて、二人のママが口をそろえて「あの子は手癖が悪そうだから、ダメよ」という。「ボーイがいるなら、私たちをボーイだとおもって、何でも遠慮せずに頼みなさい、わかった?」と言われて、またもとのもくあみになってしまった。
暇そうな若者が村にやって来たので、二時間ばかり、いっしょに歩いて隣村へ行ったり店を冷やかしたりしたときのこと。すぐ父によばれた。
「息子よ、あの若者とつきあってはならん」
「なぜですか、父さん」
「かわいそうなことだが、あの若者は、父親たちがすべて死んでしまった、みなしごなのだ。だから、父親にあったらどのように振る舞わなければならないか、という世間のしがらみから自由になっているわけだが、お前はそうではないのだから、あの若者の振るまいをまねるような間違いがあってはならんからだ」
二〇歳ぐらい年下の「小さい父」をもった私は、たぶん「生涯父親には不自由しない」というめぐまれた人生に入ったのだった。だから、日本では父親も母親も一人だけだよ、と言ったとき、村人たちに「そんな冷たい、寂しいところにはとても暮らせない」という衝撃が走ったのも無理はなかった。あっちからみればこっちが変なのだ。
私は、森の村の農業と河辺の漁村の魚の知識と、異なる生活環境を結ぶ物々交換経済の勉強をし、貴子は料理や酒の研究と植物世界との関係の勉強をした。それで、河辺の村にも住んでみたいと父さんに相談した。そうしたら、「わしの兄さんの娘、つまりお前の姉さんが嫁に行った河辺の村がある。夫は村長だからそこに泊めてもらえばよかろう」ということだった。
その河辺の村の村長さんにとって私は、ヤギ一〇頭などの財産と交換に奥さんをくれた親族集団の人間だ。日本語でいうなら、こちらは小舅、向こうは婿殿というところだ。婿殿と私の間では、父と息子の間よりも格式ばった忌避関係があった。
ある雨あがりの日、私は居候していた姉さんの夫の家の中庭の濡れた土ですべってあやうく婿殿の面前で転びそうになった。それを見ていた村びとが、私に「惜しい!
ヤギを食べ損ねたぜ」と言った。そのような場合には、婿は小舅殿である私を助け起こして、婿の面前で恥をかかせたおわびとしてヤギ一頭を贈り、それを村中で食べるべきものであるという。また、互いに「ものをくれ」と言い合ってはならない忌避関係にある私と父であったが、それでも同じ皿から食べ、一羽の鶏をともに食べることができた。私と婿殿との間ではともに食べることはなかった。「一羽の鶏をともに食べない」とは妙な表現であるが、一羽分すべての入った鍋を持ってきて、そこから客の食べたいところをまずは自由に選ばせ、その後で家族に配分する。ニワトリには心臓や肝臓など、分けて食べるには小さすぎるおいしい部分があるので、その取り合いのようなはしたないことになって婿と小舅といった大切な、
しかし微妙な人間関係がこじれないための周到な配慮なのである。
魚の民俗知識の聞き取り(安渓遊地、一九八二)の中で、婿殿にもインタビューをした。そして、たまたま魚の排泄孔の名前を聞いたところ、彼は恥ずかしそうに言いよどんでしまった。しまった!そんな質問は冗談関係にある相手同士なら何の問題もないけれど、忌避関係にあるもの同士が口にしてはならないことだったのだ。また、父さんたちの一人を師匠にして、五〇〇を越える森の植物の知識を習っていたとき、ある植物の名前を尋ねたところ、「それは恥だ」と返事をもらえなかった。あとで貴子がママたちに聞いたらやはり性に係わる用途のある植物だった(安渓貴子、二〇〇九)。
こんなふうに、フィールドで親族関係の編み目に絡めとられるということは、順調に調査が運ぶという面と、思わぬところで掣肘されるという面もあるのだった。
三度目のコンゴ訪問は、一九八三年だった。息子が生まれたばかりだったので私が一人で訪ねることになった。村についてさっそく父に報告する「父さん、あなたの孫が生まれました」「そうか、名前はなんとつけた?」と聞かれた時たいへんな失敗をしたことに気づいた。父は「そうか。ゴリ(自由人)でも、ムサフィリ(旅人)でも、ルアパンニャ(神話の英雄)でもないのか……」とたいへん落胆したようすで、自分の三つの名前を挙げたのだった。
その時、天の助けが届いた。
「父さん、でも、モマンバ(太鼓言語用の名前)は、父さんのをいただいてトントントントンテントントン(ルアパンニャ・ブングー・クングヮ)とつけました!」
それを聞いて満面の笑みを浮かべた父の返事は驚くべきものだった。
「そうか、とうとう、お前は私を産んでくれたんだなぁ」
この日から、ゴリ村での私の呼び名は替わり、「イセンゴリ」すなわち「ゴリの父」となった。ママたちも「父さんが呼んでいるよ」ではなく「あんたの息子が呼んでいるよ」と言うようになった。すなわち、同じ名前をもつ者は同一人物なのであり、同じ名をもつ者が生きているかぎりは、たとえ肉体は滅びても不滅の生を得るのだ。
神話を生きる
三度目の滞在で、私はソンゴーラ語による長大な英雄神話があることに初めて気づいた。神話を語ってくれた三〇代の男性の話術は見事としか言いようのない劇的なものであり、チンパンジーと兄弟として奇跡の誕生をした英雄カマングが地底世界から雷の国をめぐって繰り広げるヘラクレス的な大冒険の中に、奇瑞をもたらす魔法の歌の数々が織り込まれていた。夜の炉辺で聞き手たちとともに歌に唱和しながら、私は日本の古代神話もこのように劇として語られ、歌の部分は聞き手たちも唱和したに違いない、と感じていた。その伝承が今も盛んに語られているという森の奥の集落への片道一〇〇キロほどの旅を計画して、父に相談した。
ところが、父の返事は「それならわしでも語れる」というものだった。父の語った神話は、しかし、カマングの神話とは異なり、森で一番小さなリスがすべての獣に打ち勝って王の娘をめとるところから始まり、リスの子が成長してスサノオのような荒ぶる神となる物語だった。
「お父さん、なぜこれまでこんな神話があると教えてくれなかったんですか?」と尋ねる私に、「お前、なぜこれまで訊かなかったのだ?」と父は答えた。
父の語りでは、荒ぶる神の名前は告げられなかったが、たまたま村にやってきた裁判所の判事が、私のリクエストに応じていったんノートに書きとめてから朗読してくれた。その神話は、繰り返しの部分がはしょられて、歌も短くなっていることを除けば、父の語ったものとほぼ同じ話だった。違うところは、荒ぶる神の名前がルアパンニャと告げられたところだった。この時、以前の滞在中の夜のまどいで何度か聞いたイノシシの国での冒険物語がこの英雄神話の断片だったことに気づき、それをなぜか父だけが一人称で語ったことが忽然と思い出された。
その部分の主人公がルアパンニャだったから、その名をもつ父は自分の冒険として神話を一人称で語ったのだった。神話のルアパンニャの武勲は、ルアパンニャの名前をもつ彼自身の武勲であり、同じ名をもつ私の息子の武勲でもあったのだ。人間ではないカムイが一人称で語るアイヌ民族の口頭伝承にもっていたそこはかとない違和感が自分の中でするするとほどけていくのを私は感じていた。
いまも生き生きと語られるソンゴーラ人の神話は遠い昔を語るものではなく、今の暮らしに直結するものであるし、一つのバージョンだけが公認され書き留められるというものではない。まして、王の一族だけが神話の主人公に連なる特権を占有するといったものでもなかったのである。こうした神話は、植民地化と度重なる内戦という大きな困難の中で、大地に生きる人々が保ち続けてきた夢なのである。そして、神話を書き留めるという仕事は、辞書も文法書もない少数言語のソンゴーラ語との格闘であり、私たちの前の研究は一九〇九年に植民地行政官が出版した民族誌だけという、未知のソンゴーラ文化との格闘であった。
渡り鳥の願い
一九九〇年、七年ぶりに父の住むコンゴ民主共和国の森へ帰った。四度目の旅だった。飛行機を降りてホテルに入り、さっそく川下へ向かう丸木舟に、姉が住んでいる村への手紙を託した。ところが、流れてきた噂では村で殺人事件が起こって、復讐者や、取り調べに名を借りた兵隊の略奪行為などによって人々は四散し、村はほとんど廃村状態になっているというのだ。
姉の村は、一九八〇年にはイスラームを信じていた村だったが、あるきっかけからカトリックに改宗して、一九八三年には男達がそれまでのヤシ酒に加えて蒸留酒を飲むようになっていた。その酒は、女たちが作るものなので、男から女に収入が移転されるチャンネルが生まれたのではあるのだが、その変化にはある危険な落とし穴があるのでは、と危惧していた。たぶん廃村化の原因は酒だろう、と私は直感した。
そこで、まず自分自身がお酒をほぼ禁酒することにした。村長である婿殿(姉の婿)に禁酒もしくは節酒を助言するためだ。村に着いてみると、やはり酒の上での喧嘩がもとで起こった殺人事件だった。少しずつ人々はもどり始めているところだったが、女たちの中にも蒸留酒におぼれる人が出ていた。
話してみると婿殿は、なんだか気落ちしていて、人間(じんかん)至る所青山あり、どこで死んでも同じだという気分になっていた。村長の妹の夫のベルナール氏は、村長の知恵袋として、この村が消えると、移民たちにコンゴ川の東側の森全体の所有権を奪われてしまいかねない、ということをたいへん心配していた。だから、なんとか村長を励まして村の復活を手伝ってくれないだろうか、と私に頼むのだ。
私たちは、その前年から沖縄の西表島での無農薬米の産直というビジネスを始めて、研究者としての一線を越えてしまっていた(宮本・安渓、二〇〇六)。その勢いもあって、知恵袋のベルナール氏といっしょに村おこしに着手してみることにした。もちろん、フィールドワーカーは、そうした事件と社会の変化をも客観的に記録するのが、教科書的には正しいとされている。しかし、ベルナール氏は、七年前の一九八三年に私がルアラバ川を二五〇キロ遡る丸木舟の旅をしたときの水先案内人であり、その厳しい旅の命の恩人でもあった。そして廃村になりかけているのは私の姉さんの村なのだ。
私は、ソンゴーラ神話の中のカマング神が酒に酔ってタブーを破ったことにふれつつ、ともに酒を飲む楽しみよりも酒を断つことの大切さと、自分が呑んでいては人の説得はできないことを語りかけた。さらに、村長の代に廃村になってしまったら、万一この森の権利をわれわれが奪われるようになったときは、未来永劫「あの人が村長の代に起こったことだ」と語り継がれることになると婿殿に告げた。その結果、「なんとかもう一度がんばってみようか」という返事を引き出すことができた。
そうなると、投獄されている人の受け出し、没収された銃の罰金の支払い、咳が止まらない村長自身のレントゲン撮影と治療など、お金のかかることばかりだ。私はこれまでそういう場面でお金を出したことはなかったが、口を出した以上は、村の復興に必要なお金も出すことにした。沖縄の西表安心米での行動パターンをなぞってしまったわけである。
さらに足を伸ばして、森の中の父の村に行った。久しぶりに再会した父は、病気で片目がつぶれ、すっかり年をとって弱ったように見えた。「なぜ七年も来なかったのだ。空にかかる月を見るたびにお前の姿を思わぬことはなかった。さあ、ひとつ皿から食べよう」と迎えてくださった。
ところが、わが村は大もめになっていたのだ。家族のごたごたをお話するのは気がひけることだが、私の弟のひとりが、毎日のように大騒ぎをしては「町の裁判所に訴える」などと大声で叫んでいた。彼は、父からもっとも当てにされていて、次の代の村長の位を父から受け継ぐことは確実だと思われていた。ことの起こりは、彼の喧嘩相手を、父がかくまったことからだったという。「村長の手の中に逃げ込んだものは、けっして死ぬことはない」というのが、避難所としての村長のゆずることができない掟なのだ。それに怒った弟は、こともあろうに父親を訴えた。その結果、投獄されてしまった父は、釈放されるためにお金も山羊も手放すことになった。本来なら、嫁をもらうときの婚資などの形で自分のものになるはずの財産を
そん
なことのために失うような馬鹿者に村長の位を継がせるわけにはいかない、というのが父の言い分だ。そこで父が村長代理に任命した人物は、ルーツについての知識と固有の言語を奪われた、もと奴隷身分の出身者だった。その人選に怒った弟が村長代理を訴えようとする、というようなごたごたになっていたのだ。
姉の村はほとんど廃村で、自分の村も大混乱。このまま放っておいたら、自分の村まで廃村になるかもしれない……。そう案じた私は弟を呼んで話をした。
「なんで父さんは、よりにもよってもと奴隷身分出身の男に村長を継がせるとおっしゃったか、わかるかい」と私は尋ねた。「それは、彼には気の毒だけれども誰も本気とは信じない人選だからだよ。ソンゴーラ語で『モコタ・タモネ・タクィ(村長たるものは見ることもなく聞くこともない)』つまり小事に惑わず泰然としておれ、という帝王学を教えることわざがぼくらの神話の中にあるだろう。お前も一度は村長代理をした立場なら、いちいち細かいことで裁判だと騒げば騒ぐほど、父さんに愛想をつかされるのがわからんのか。村長の位なんて、この村に多いアブラヤシの木みたいなもんだ。おとなしくしていれば、種は、その木の下におちて、またそこで育つんだ。嵐をおこせば、種はちりぢりに飛んで幹から遠くに生える
ようになるじゃないか」と、いろいろなたとえを出してのお説教である。しばらく話すうちに、
「分かった、兄さん。僕が悪かった。父さんに謝る」という殊勝な返事が返ってきた。
翌日三〇キロほど離れた町から、私と貴子がもっとも信頼する兄貴(父の兄の息子)がたずねてきてくれた。その晩、兄と父に話しているうちに、ふと思いついて、二人にスワヒリ語でこんな即興の話をしてみた。外では雨が降っていた。
「お話お話。昔むかしあるところに、ちょうどこの村のようなりっぱなアブラヤシの林がありました。その中にひときわ高いりっぱなヤシがあって、それを目印にして遠くからも鳥がやってきてはそこに巣をかけるのでした。ところがある時、そのヤシの葉っぱと根っこが仲違いをしたのです。葉は根に影をおとしてやらないといい、根は葉に水を送ってやらないといいはりました。そうこうするうちに幹が枯れて腐りはじめました。ある晩のこと、嵐が起こったとおもうと、そのりっぱなアブラヤシは、どうっと途中から折れてしまいました。さて、こんど、渡り鳥がやってきたら、その鳥はいったいどこに巣をかけたらいいのでしょうか?」
すると、父は「これは昔話なんかじゃない。裁判への訴えだ」とつぶやいて、二人とも黙りこくってしまった。これはしくじったと思った。息子が父親に対して決して言ってはいけないことだったのかもしれない。私はあいさつもそこそこに部屋に入った。
ところが、翌朝兄がやってきてこういうのだ。
「昨日の夜のお前の話はすごく良かったぞ。親父は『遠くの息子が親孝行』ということわざを挙げて感謝している。お前は『この村の人間そのものだ。肉体は遠い日本で生まれたかもしれないが、もともとこの村の出身であることに違いはない』と言ってる。お前のたとえ話は、まるで鋭い槍のように心にささって、親父も俺も一言も返す言葉がなかった。こんど家族をみんな呼び集めるから、ぜひその席でもう一度、今度は家族全員に聞かせてやってくれ……」
あれから故郷の村に立つことがかなわないまま二〇年余りが過ぎた。日本の両親を見送った今、アフリカの大家族の暖かさと懐かしさが身にしみる。一九九八年にケニアに滞在していた機会に家族三人で父たちの待つ村を訪ねようとしたのだが、ナイロビからの出発の二日前に内戦が始まって断念せざるを得なかった。それからは、ケニア西部やウガンダ、西アフリカのガボンなどの森のある国を訪れたりしながら、故郷のコンゴの森の人々に平和が訪れることを願う日々が続いている。
引用文献
・安渓貴子、二〇〇九『森の人との対話――熱帯アフリカ・ソンゴーラ人の暮らしの植物誌』東京外国語大学AA研
・安渓遊地、一九八二「ザイール川とタンガニイカ湖漁撈民の魚類認知の体系」『アフリカ研究』二一号
・ニーチェ、一九九三『悦ばしき知識(ニーチェ全集8)』筑摩書房
・宮本常一・安渓遊地、二〇〇八『調査されるという迷惑――フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版