わが師)宮本常一先生の装備・愛情・勇気
2010/10/02
2024年6月2日訂正。ザグレブで開かれた国際人類学会は、1989年ではなく、1988年でした。Wetlandの研究者の分科会でコンゴ・ザイールの物々交換について発表し、中根千枝先生や、大林太良先生にもお会いしたのでした。
姫田忠義さんの紹介は、以下にあります。宮本先生も、萱野茂エカシも紹介されていて、なつかしい記事です。写真を1枚借用させていただきました。
https://kousin242.sakura.ne.jp/nakamata/eee/%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%AD%A6/%E5%A7%AB%E7%94%B0%E5%BF%A0%E7%BE%A9/
追記「地球人kaku」のブログは、facebook/instagram 「旅する羊毛」に引き継がれました。
『図書新聞』に頼まれて2800字書きました。自由に書いていいということでしたので、変わったタイトルで書きました。軽い装備+地域への愛情+学問への勇気 の略です。来週印刷されるそうです。
宮本常一先生の装備・愛情・勇気
安渓 遊地(あんけい・ゆうじ、山口県立大学教授、人類学)
◎軽い装備
初めて宮本常一先生にお会いしたのは、一九七四年のことだった。大学三年生のときに川喜田二郎先生の移動大学運動に飛び込んだ私は、フィールドワークというものにあこがれて、京大の伊谷純一郎先生の指導で人類学の大学院生になっていた。
その年の八月に、大山の山麓で開かれた第一二回移動大学を訪ねてみようと思い立って、リュックサックを背負って一人で訪ねた。一〇八人の参加者と三〇人以上のスタッフが起居する大型テントがならぶ台地の下の、広場のへりに自分のテントを張ることにして、テントを固定するペグを打ち終わった時、ごま塩頭の男性がやおら私のテントの周りに幅三〇センチもある溝をスコップで掘りはじめたのだった。そして「キャンプで一番大事なのは水はけだよ。縄文人も君のようにこんな舌状台地の縁に住んだ。そしてゴミをどんどん斜面の下に投げ捨てた。だから住居址とは離れたところから遺物が集積して出てくる……」という言葉が出た。スコップにもたれながらこの人は、私がテントの中にリュックを入れ、カメラとテープレコーダーを取り出すのを覗き込んで、こうつぶやいた。「ああ、こんなに軽くて小さい装備を見ていたら、また歩いてみとうなってきたなあ。」
この言葉を聞いて、私は、大山移動大学の講師陣の中に宮本常一先生の名があったことをようやく思い出したのだった。一九七二年に先生が書かれた「調査地被害――される側のさまざまな迷惑」の中に、戦後の混乱期、闇米を担いで汽車に乗っている人たちの中で、旅する先生が巡査に見せたリュックサックの中には「着替えと紙くずのようなものと書物が二、三冊、時にはコメの一升もはいっていることがあった」と書かれている。コメは旅先の知人からもらったものだったというのだが、旅先の民家に泊めてもらうことが多かった宮本先生の旅装束がごく軽装であったことは間違いない。
一方で、私といえば西表(いりおもて)島の廃村研究を修士論文の課題にしていたから、テントをはじめあらゆるものを背中に担いでいくのが常だった。大きな魚類図鑑などを詰め込んで大学を出る時の荷物が四五キロあった時、いつもサブザックひとつの伊谷先生からは「まるで百貨店やな」とからかわれた。
宮本先生の薫陶を受けた若者たちの一人の田中雄次郎さんは、この当時出始めていた日本観光文化研究所の月刊誌『あるくみるきく』の中で、一九七七年の夏、稚内から佐田岬まで六七日間かけて日本縦断徒歩旅行をした記録を残している(『あるくみるきく双書』最終巻に収録予定)。彼は私とは対照的に実に身軽に装備を減らしながら飄々と歩いていたのだが、いま読み返してみると、「ビタミンの紙」という「装備」がある。これは、ビタミン欠乏症の症状を書いたメモで、そうした症状が出たときに薬局で試供品のようなものをもらうための備えだというのだ。
◎心の窓を開ける合鍵
たしかに、人が住んでいるところなら、何ももたなくてもなんとかなるものだ。受け入れる側が心を開いてさえくれれば、無一物でも行き倒れになるようなことはない。これは、一九七八年からアフリカの中央部のコンゴ民主共和国に通うようになって、そこで村長の養子になった私の経験そのものである。しかし、ふらりと訪ねた村で、泊めてもらうだけでなく、本音の話がきけて、その後の長いつきあいが始まるというのは、宮本先生の特技であったようだ。松本清張の小説『落差』のモデルと言われる、金と色にまみれた俗人としかいいようのない大学教授が、有名な民俗学者という触れ込みで村にやって来たことがある。大広間に高齢者を集めての「お調べ」が一日続いた。そのあと、同じ村にこんどはもっと偉い宮本常一という先生が来るというので、村ではさらに大勢の高齢者を集めて待ったが、いっこうにその先生が現れない。しびれを切らして村の中を探したところ、宮本先生はとっくに浜に座り込んで漁網の修理
を手伝いながら、漁民と話しこんでいた(祖父江孝男氏談)。
心の扉をあける合い鍵さえあれば、アフリカでなくても、一九七〇年代でなくても、庶民の善意に支えられた旅はできる。それに気づかせてくれたのが、最近私の勤める大学を卒業した中国からの留学生・郭君である。彼は在学中に自転車で日本を二周し、昨年は勤め先の山口県の企業から一年間の休みをもらって三度目の日本一周の旅をした。人と人が直接出会えば、いろいろな思い込みや誤解はたちまちほぐれていく。郭君は、この間に日本の各地で約一万人もの人々と交流し、数え切れないほどの心のこもった親切をいただいたのだった(「地球人kaku」のブログ)。
◎発言は愛情と勇気をもって
戦前の宮本先生は、師匠の渋沢敬三氏の庇護のもと、実に自由に日本中を歩いた。私が宮本先生との共著として二〇〇八年に出させていただいた『調査されるという迷惑――フィールドに出る前に読んでおく本』(みずのわ出版)には、前述の「調査地被害」を収録したが、周到な配慮とともに、相当の勇気なしには書けない内容である。学者というものは、研究費の出所に遠慮したり、名誉ある肩書などをほしがったりするものだが、宮本先生は、祖父と師匠の教えを忠実に守って、生活に根ざした庶民の願いにそって生きようとなさっていたのだと思う。
無位無冠でよい。自分だけの旅を通して後世に残る何かをみつけたい。宮本先生のもとに集った人々のそんな潔さが束になって届くのが、こんど農文協から刊行される「あるくみるきく双書」だ。常連の執筆者のお一人の姫田忠義さんとは、一九八九年に内戦間近のクロアチアの首都ザグレブで開かれた国際人類学会でお会いした。その時、トカラ列島での映画撮影を見に来ないかと誘われた。それで、二年近いフランス滞在を終えて帰国後すぐに、中之島を訪ねた。丸木船づくりの記録映画だったのだが、姫田さんはフィルムを回す時間よりはるかに長い時間を、自分で木挽きの鋸を使って船の部材を手作りしておられた。それだけ丁寧に愛情深くつきあって初めて自信をもって情報発信できるということなのだろうと納得したのだった。また、もう一人の常連の執筆者、アイヌ民族の長老の萱野茂エカシからは、フィールドワーカーの心得違いについて鋭い指摘を受ける機会があった。
そんな人生の先輩たちの地域への愛情と、社会への発言の勇気とに見習いつつ、私も妻とともに、この一〇年、国策として進められる原子力発電所を瀬戸内海最後の生物多様性ホットスポットに建設するという上関原発計画に、日本生態学会として待ったをかけるという働きかけを続けてきた。その成果を、この一〇月に名古屋で開かれる第一〇回生物多様性条約締約国会議を前に、たくさんの研究仲間の共同で『奇跡の海――瀬戸内海・上関の生物多様性』(南方新社)として発行できた。これも、宮本常一先生の教えと、この夏に長逝されるまでいつも私どもの取り組みを応援し、励ましてくださった奥様のアサ子様のおかげだと思っている。
農文協の「あるく みる きく双書 宮本常一と歩いた昭和の日本」全25巻
http://www.ruralnet.or.jp/zensyu/miyamoto/
民俗学者の宮本常一が主宰した近畿日本ツーリスト株式会社・日本観光文化研究所
が昭和42年から昭和63年まで発刊した、月刊旅雑誌「あるく みる きく」を地域別、
テーマ別に再編集し、平成22年9月より毎月刊行