内部被曝)非常に勉強になるサイトです
2010/05/26
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/naibuhibaku/naibuhibaku1.htm#11setsu
冒頭の「私の発端」だけを以下に貼り付けておきます。
(1.1) わたしの発端
肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』(ちくま新書 2005)を読んだ。肥田舜
太郎(ひだしゅんたろう 1917生れ)は陸軍軍医として広島で被爆し、同時に被爆者
の治療にあたった。そのあと戦後一貫して被爆者の治療にあたり、そのなかでも特に
内部被曝という観点をもちつづけていた。鎌仲ひとみはドキュメンタリー映画制作者
で、環境問題に関わってきている。映画「ヒバクシャ」には肥田も出演しており、様々
な賞をとっている。
『内部被曝の脅威』という本は、残念ながら、本としての出来はあまり上等ではない。
色々と貴重なデータや観点がゴチャゴチャに詰めこまれていて、全体として訴えかけ
てくるものが分散している。しかし、触発されるところの多い本だった。
“ピカドン”と原爆にうたれて人間が即死に近い状態で死ぬ。あるいは数日のうちに
死ぬ。これは、強い放射線にさらされて人体内部が細胞レベルで破壊されてしまうか
らである。もちろん、それ以外に強い熱でヤケドを負ったり、強い爆風で吹き飛ばさ
れたりすることも致命的になる。極端な場合は、強い熱線で瞬間的に蒸発してしまう
こともある。このような、人体外部からくる放射線でやられる場合を外部被爆と肥田
はいう。東海村の臨界事故(1999)で死んだ2名は、まさに、この外部被爆の純粋な
形である。(しかし、「外部被爆」と「外部被曝」を区別して使うのは、実際には混
乱しがちである。また、厳密に区別して使用することにそれほど意味があるとも思え
ない。本論が放射線を扱うことが主なので、以下、わたしは「外部被曝」を使う。特
に意味があると思える場合には「外部被爆」とする。放射線・熱線・爆風が同時に来
るような場合である。)
それに対して、放射性のチリや液体を体内に取り込み(呼吸、経口、皮膚から)体内
に沈着した放射性元素が体内で放射線を放出することによって放射線障害を起こした
り、ガンを発病したりする。これを内部被曝という。
外部被曝と内部被曝は、いずれも放射線による細胞破壊であるという点では本質は同
じなのだが、実際には、大いに異なる点がある。まず、本質は同じとは言いながら
(1) 外部被曝は、外部の放射線源から出た放射線は空気中を伝わってくるから、ガ
ンマー線や中性子線は問題になるが、アルファ線はほとんど問題にならない(空気中
数㎜で止まってしまうから)。ベーター線(電子線)は数mは進むので、線源との距
離による。
それに対して、内部被曝は体内に沈着した放射性物質が放射線を出すのだから、μm
(マイクロメータ、ミクロン)単位で(場合によってはもっと狭い分子の大きさ、n
m ナノメートルの単位で)影響が出る。しかも、放射線が細胞内のたとえばDNA
を直接破壊して突然変異の原因になるというような場合だけでなく、放射線が水分子
を壊して活性酸素を作りだし、その活性酸素が細胞に悪影響を与えるというような、
何ステップかを踏んでいる場合もある。生物生理としての濃縮などを考慮する必要も
ある。したがって、放射線のエネルギーが小さくとも悪影響はありうる。“放射線の
エネルギーが大きいほど被害も大きい”という常識は通用しない。生物体は精緻な構
造をもっていて、しかも、自己修復機能などが動的に働いている。低レベルの放射能
は低レベルなりの壊し方をする、と考えておくべきである。
もうひとつ、重要な点は線量測定のことである。放射線の量である。
(2) 放射線は臭いも色もないので、その存在を確認するのは、特別な計器などを必
要とする。放射線の量はガイガーカウンターのような計器で計る。ところが、それは、
通常ではすべて外部被曝の線量を計ることになる。
内部被曝の線量を測定することは、極めて難しい。体内にμm単位で計器のゾンデを
埋めることが難しいからである。つまり、内部被曝の現象は、理念的には明瞭だが、
実証するのはとても難しい。
この線量の話は、許容量のことと密着する。どれくらいの放射線に照射されても大丈
夫か、という量。これの算定の基礎になるのは、ひとつ自然放射線の量、もうひとつ
は広島・長崎での原爆被害の例。しかし、それらはいずれも外部被曝からでてくる線
量である。
外部被曝から求めた許容量を、内部被曝にも適用できるか。これは、大問題で、決着
が着いていない。
(3) 外部被曝から求めた許容量を、内部被曝にそのまま適用すると、多くの場合、
“健康には影響ない”となる。呼吸などで体内にとりこむ放射性チリなどは、たいて
い、ごく微量だから。
そもそも、アメリカをはじめとする原子力推進を考える国家や原発会社は内部被曝と
いう考え方そのものを認めない。内部被曝を認めない場合、広島・長崎の原爆の被害
者に関して、信じられないようなつぎのような見解が公式のものとなる。1968年
に日米両政府が国連に提出した「原爆被害報告」である(前掲書p66)。
被ばく者は死ぬべき者は全て死に、現在では病人は一人もいない。
こういいう驚くべきアメリカの公式見解(これが虚偽であることは明らかである)を持
ちつづけなければ、劣化ウラン弾などは使用できるはずがない。アメリカ政府につい
て驚くのは、国内の原子力施設でもこの考え方を“愚直に”まもっているようにみえ
ることで、ハンフォード(コロラド川流域)やオークリッジ(テネシー州)などの「
マンハッタン計画」を実践した施設周辺での放射性物質の漏洩・汚染はひどいもので
ある(これらについては、「中国新聞」の秀逸な特集核時代 負の遺産で知った)。
アメリカ政府は自国民に対しても自国内で多数の被曝者をつくりだしている。
わたしは「マンハッタン計画」の“成功”と同時に全世界に向かって虚偽を声明する
ことで、アメリカの20世紀後半の世界戦略がはじまっていることに気づいた。これ
が、“自由と繁栄”を売りものにするアメリカの覇権の教義である。
核兵器と原子力の安全性をトコトン追求していくことは、20世紀後半以降のアメリ
カ覇権主義の“アキレス腱”を突くことになっているはずである。
1968年の段階で「被曝者で死ぬべき者はすべて死んで、現在は病人はいない」と
いうのは、事実に反している乱暴な見解であるが、あるいは“これは原爆症の範囲を
どこまで広げるか”の解釈の相違の問題なのではなかろうか、と思う人もあるかも知
れない。でも、それはアメリカに対して、あまりにも好意的すぎる考え方であると言
わざるを得ない。なぜなら、下の(1.4)節で紹介するが、これとほとんど同文の
声明を、アメリカ陸軍准将・ファーレルが、1945年9月6日に東京帝国ホテルで、
連合国の海外特派員に向けて発表しているからである。原爆投下して、わずか1ヶ月
後のことである。しかも、ファーレルは現地を視察しないで、この声明を発表してい
る。
これが、わたしの発端である。