西表島)仲良川の生活誌・流域の地名を手がかりに
2005/04/25
論文タイトル 西表島仲良川の生活誌――流域の地名を手がかりに
掲載誌 南島の地名 第6集 (2005年6月刊行予定)発行 南島の地名研究
会
仲松弥秀先生のカジマヤー(97歳)の記念号です。冒頭と終わりだけを以下に示します。
本文に興味を持たれたら、pdfファイルをダウンロードしてください。ただ、pd
f化の都合で地図が不明瞭になっているので、それは、別途添付しておきます。
◎地名はみんなみんなのもの
沖縄の地理学者の仲松弥秀先生から教わったことは、現場を踏んで、地名を学ぶこ
との大切さだった。アイヌ語地名の研究で著名な山田秀三先生からもその教えを直接
受けた。「西表島の地名の中で、ピナイなんかアイヌ語そのもののようだけれど、そ
こは砂利のある川ですか? やっぱり現場に立ってみなければ本当のことはわかりま
せん。でも、90歳になって、医者が長旅を禁止するので困っています。」とおっしゃっ
ていた。熊本であった全国地名研究大会で挨拶をされた山田先生は、「地名はみんな
みんなのものですから、みんなで研究してみんなで大切にしていきましょう!」と言
われた。西表島では、あやしげな観光用地名や、方言の難しさからまちがって書かれ
た地名が非常に多いことを残念に思っていた私は(安渓、1994)、正しい伝承をでき
るだけわかりやすく還元していくことの大切さを教えられたのだった。
今回は、西表島西部の仲良川に焦点をあてて、西表島の地名のもつ魅力の一端を述
べてみたい。これは、これまでに発表した浦内川誌(安渓・安渓、2003など)の続編
をなすものであり、現在作成中の1300項目からなる西表島地名データベースの公開に
向けた準備でもある。
(中略で最後にとびます。)
◎仲良川・浦内川に共通する禁忌
『慶来慶田城由来記』からの引用を続ける。
一、むかしは二月七日に山留めと称して、早作りの稲や作物のため、神を敬うため七
日から、仲良・浦田原で木鍬、鉄鍬を高く持ち上げて田を打たず、この両所に夜とま
ることもしないという。かたらあたんなてすのんたをらた高田原の五か所にとまって
田の仕事をする。
これは、仲良川と浦内川の水田地帯の双方に同じ禁忌があったことを示すものである。
下段の5カ所の地名については、校注者も読解に困ったものと思われ、読点を打って
いない。しかし、原文の
「其両所ニ夜とまり不仕よしかたらあたんなてすのたをらた高田原〆五ヶ所に」
のうちで、「不仕よし」で切ったのは、実は誤りだった。ここは、「不仕」で言い切っ
て、その後に「よしかたら」「あたんなて」「すのんた」「をらた」「高田原」の5
つの地名が並んでいるのである。これらの地名は、これまで述べたところから明かな
ように、現在の方言でいうなら、順に、ユシカダラ、アダナデ、シムンダ、ウラダ、
タカタリにあたる。したがって、地名の前の部分の訳も「この両所に夜とまることも
しない。」と言い切るのが正しい。川の禁忌は伝聞ではなく、生活実感の中に生きた
ものだったのである。
これらの地名は、いずれも仲良川の河口部近くの水田地帯であった。西表の島びと
にとっては、アダナデ川、ウラダあたりまでが、人間の力のおよぶ範囲であり、そこ
から奥は神々の世界だと意識されていたことがわかる資料である。それは、ちょうど、
浦内川が河口部のトゥドゥマリの浜を含めて全体が神々の住まいではあるが、特にイ
ナバと呼ばれる上流部は、日を選ばずに立ち入れば恐ろしい神罰がくだる聖地だった
こと(安渓・安渓、2003)と対応していると考えられる。
『慶来慶田城由来記』には、浦田(今日の浦内川)・仲良川に共通する禁忌として、
以下のように書いている。旧暦の2月7日から5月までの間に仲良・浦田に行くときは、
頭に手ぬぐいをかぶらず、火や飯も持って行かないこと。かぶり物は、神仏への不敬、
田の畦を焼けば若い稲の生長を妨げる。食べ物は、磯の匂いの強い角魚(テングハギ)
・貝・なまこ・海亀などが稲のために良くない。煙草も厳禁と説かれている。そして、
万一この時期に野火を出してしまった者は、浦内川のトゥドゥマリの浜の南西端の砂
嘴イブヌサキで鞭によって15回叩いて罰を与え、1石の神酒(口噛み酒)を飲み干す
まで、ここに留め置いてウナリ崎の神に詫びさせる云々。
この習慣を、今でもインドゥミ・ヤマドゥミ(海留・山留)の禁として、島の高齢
者は記憶している。
西表島西部の名のある川の上流部は、仲良川も浦内川もいずれも人間の力を越えたカ
ン(神々)の住まいたまう場所であった。住民は、畏れと慎みをもって、そこに水田
を作らせていただき、また狩猟や建材・舟材の採取の場所としても利用してきた(安
渓・安渓、2000: 37-38)。こうした世界観に裏づけられた河川流域の資源利用の体
系は、西表島の東部を始め石垣島などにもあったものと想定される。 1)そのような
世界観の存在を実証的に明らかにすること、2)それが例えば戦前に広まっていた河
川での青酸カリを使用した漁法の導入などの形で崩壊していく過程を明らかにするこ
と、3)伝統的な世界観に学んで持続的な生活文化を島から提言していくという取り
組みが、西表島の地名、ひいては人と自然の関係の研究に課された今後の課題である。
◎雨乞いの川
西表島は水の豊かな島である。新城島のような、飲み水にもこと欠くような低い島々
では、はるかに見える西表島鹿川村の水田地帯の水が海に落ちる落水(ウティミ)の
滝のように水を下さいと、雨乞いの願いをしたという。そんな西表島にも雨乞いの行
事はあった。祖納村の天候を司る神司(アマチカ)を53年間も勤められた田盛雪さん
のお話に耳を傾けてみよう(安渓・安渓、2004)。
私の代の53年間には、雨乞いは1回しか経験していません。神司になって6年ぐらい
たった1960年ころです。私の祖母の姉妹が祖納のアマチカだったころの雨乞いの時に
は、仲良川のトゥイミャーパラ川の淀に沈んでいる大木を削ってきてニガイしたとき
いています。雨乞いの時には雨乞いの歌をうたいますけれど、普通は絶対に歌っては
いけません。大雨がふりますから。
トゥイミャーの命令で、仲良川の材木を切り出して縛るのに使うクチ(和名トウツ
ルモドキ)も採らされたそうですよ。西表島のクチは木にぐるぐる巻いています。と
ころが石垣島のものは竹のようにまっすぐになっています。そのいわれは、トゥイミャ
ーがクチを採るように言ってきたので山で準備していたら、トゥイミャーが死んだと
いう知らせが来たんです。それを聞いて、喜んだ西表の人たちは、丸く輪にしていた
クチを山に投げて捨ててきたから、それ以来西表島のクチは曲がって生えるといわれ
ています。
このように、西表島では、祖先から受け継いできた歌の力や言葉の力が生きている。
その力は、たくさんの地名の中に、さらに土地に根付いた岩や植物の中にも息づいて
いるのである。
◎おわりに
仲良川流域の炭坑の分布(三木、1983など)や、製紙会社による大規模な伐採とリュ
ウキュウマツ造林の失敗など、大正時代から現在にかけての変化を追うことが残った
が、紙数が尽きた。
西表島の山の中には、とくに川沿いにたくさんの地名が付けられている。これこそは、
西表の島びとが島を隅々まで使ってきたことの証しである。さらに、およそ500年も
昔から、西表島は周辺の島々への建材(木材および竹材)の供給源であり続けてきた
こと、現在はみられないイスノキの巨木が西表島にあったと考えられること、などを
確認しておきたい。つまり、我々が現在目にしている西表島の自然は、長期にわたる
人間の働きかけの産物であり、間切などの政治区分や島々を結ぶ交易のネットワーク
の構造と機能(例えば安渓、1988)を明らかにしなければ、とうてい解明することが
できない性格のものなのである。そして、河川流域の研究を進めるにあたっては、島
での水収支の解明ひとつとっても、50年に一度といった頻度でやってくる大旱魃の在
地の記憶を探ること抜きにはほとんど意味をなさない。西表島の川沿いのボートツアー
に参加する観光客が水田跡を見て「原始の自然だ」と歓声をあげるのは単なる無知だ
が、自然科学畑の研究者の多くが、西表島を自然が豊かな孤立した島だと見るのは、
地域住民の生活文化の歩みを真剣に学ぼうという姿勢が欠けていたという反省にたつ
べきだと考えている。今後とも、島の方々とともに学びあいながら、島の自然と文化
のかかわりの歴史についての総合的な研究を深めていきたいと願うものである。ご指
導くださった西表島のみなさまに心から感謝もうしあげる。
(注) 例えば浦内川の場合、観光船を降りる軍艦石の所がエーラである。なお、「
軍艦岩」と書いたガイドブックがあるが、正しくない。西表島西部ではどんなに大き
な岩も「~イシ」なのである。軍艦とは、岩の形ではなく、タラップをかけて登るこ
とが、当時の蒸気船(島びとはグンカンと呼んだ)のようだというので名付けられた、
と石垣金星さんは言う。また、「~岩」が西表島本来の地名ではないという知識があ
れば、サバ崎突端の「ゴリラ岩」という観光用の新地名が国土地理院の地図に入るこ
とはなかったはずだ(安渓、1994)。
引用文献
安渓遊地、1979「西表島の稲作:自然・ヒト・イネ」『季刊人類学』9(3): 27-101
安渓遊地、1988「高い島と低い島の交流――大正期八重山の稲束と灰の物々交換」『
民族学研究』53(1): 1-30
安渓遊地、1994「間違いだらけの西表島の地名」『情報ヤイマ』94年9月号: 2-3
安渓遊地、1998「西表島の焼畑――島びとの語りによる復元研究をめざして」『沖縄
文化』33: 40-69
安渓遊地・安渓貴子、1986『わが故郷(シマ)アントゥリ――西表・網取村の民俗と
古謡』ひるぎ社
安渓遊地・安渓貴子、2000『島からのことづて――琉球弧聞き書きの旅』葦書房
安渓遊地・安渓貴子、2003「ワニのいた川――西表島浦内川の昨日・今日・明日(上)」
『季刊・生命の島』64: 54-61、屋久島産業文化研究所
安渓貴子・安渓遊地、2004「島を守って半世紀――西表島の神司・田盛雪さんのお話」
『季刊・生命の島』68: 53-62、屋久島産業文化研究所
石垣市史編集室、1991「慶来慶田城由来記」『石垣市史叢書』1、石垣市
国際マングローブ生態系協会、2004『平成15年沿岸生態系と海面上昇モニタリングを
目的とした沖縄県内のマングローブ分布状況調査業務報告書』特定非営利活動法人国
際マングローブ生態系協会
鄭 光、2004「《朝鮮王朝実録》の昆虫とその象徴性――トンボとセミ、アリを中心
に」上田哲行編『トンボと自然観』京都大学学術出版会
玻名城康雄(翻刻)、1980「八重山嶋旧記・資料」『八重山文化論集』2: 273-294、
八重山文化研究会
玻名城康雄(翻刻)、1983「資料紹介・八重山嶋由来記」『石垣市立八重山博物館紀
要』3: 52-88
星 勲、1980『西表島のむかし話』ひるぎ社
星 勲、1981『西表島の民俗』友古堂
前大用安、2002『西表方言集』著者発行
三木 健、1983『西表炭坑概史』ひるぎ社
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