「日曜百姓のまねごと」から――第3種兼業の可能性をめぐって
2009/08/23
このほど
久しぶりに津野幸人せんせいにお会いしました。それで、うれしくなって、1997年に、
『農耕の技術と文化』20号にかかせてもらったものをだしておこう、と思いました。
「日曜百姓のまねごと」から――第3種兼業の可能性をめぐって
安渓遊地(山口県立大学教員)
安渓貴子(大学非常勤教員)
「たかが日曜百姓のまねごとを偉そうに吹聴して、原稿料や講演料をふんだくって
……百姓をしたかったら、黙って仕事をしたらよい。大学をやめたら信用してやろう。
恥知らずはやめろ。良心に問え!」 (ある日届いた匿名の手紙から)
「……これからは、穴のあいたキャベツを喜んで食べよう。しばらくほっとくと虫
のわく小麦粉に感謝しよう。21世紀の目標は、住みやすい都市づくりではなく、食
べて安心、畑づくりだな。」
(ビデオ『ポストハーベスト農薬汚染』を見た若者の声から)
0、はじめに
西表島の農耕文化や、アフリカの人と自然などをテーマにフィールドワーク
をしてきた私どもが、山の中の村に家を建て、田や畑を楽しんでいるというう
わさが、『農耕の技術と文化』の編集部まで伝わったようです。農業経験の実
況中継をしてみては、というお誘いを受けました。
津野幸人先生が提唱されている、第3種兼業農家(収入はともなわないが生
活の中に農業を積極的に取り入れている人々)志願の道の途中で未熟な経験を
語ることにはためらいもあり、また未知の方から冒頭に出したような親切な忠
告を受けたこともあるのですが、私どもの暮らしの現状、これまでのいきさ
つ、これからの夢についてざっくばらんにお話してみようと思います。
「あの人たちは特別よね」という声も耳にします。それでも、農的な暮らし
に興味をおもちの方には何かのご参考になる所があるかもしれません。ただ、
私どもは、こんな暮らし方の実例もあるよ、ということをお話するだけです。
声高に提唱したり抗議したりするよりも、実例を示す方がはるかに説得力があ
ると考えているからです。
はじめの実況中継の所では、二人の会話に架空の聞き手として編集部からも
加わっていただくことにしました。(編)は、編集部、(遊)は遊地、(貴)は貴子
です。
1、今の暮らしの実況中継
(編)現在のお住まいは?
(遊)山口市内の仁保という地区です。約7000町歩(ha)の面積のうち、6
000町歩が山林という所で、その中でも幹線から5キロほど山に入ったIと
いう村です。戸数は、うちを入れて35軒ですが、Iターンで農業をするべく
引っ越してきた家族が準備中をふくめて4軒あります。
(貴)山口市にもこんなすてきな場所があったの!というような自然がいっぱい
の村です。今年の春は、コブシの仲間のタムシバが白く咲き乱れ、ミツバツツ
ジ、藤と花に切れ目がありませんでした。車に乗らないと町に出るのが難しい
んですが、勤務先までは20分程度です。
(遊)このあいだ、沖縄の知りあいに何年ぶりかで電話をしたら、用件のあと、
声をひそめて「ところで、世間に顔向けできないようなことでもしたの?」っ
て聞くんです(笑い)。遠くから見ると山の中で謹慎しているように見えるの
でしょうか。フィールドワーカーの責任と研究者の役割について、きびしく叱
られたという大切な経験はありますが(安渓遊地、1991a)、別に世捨て人を
しているわけではありません。
(編)耕地面積はどの程度ですか?
(貴)農業というのも、お恥ずかしいんですけれど、1反(10a)あまりの休耕田
を借りて、半分はお米を、残りは畑にしています。家のまわりにも野菜やハー
ブを育てています。
(遊)それでも、耕作面積が1反以上なので、農協の正組合員です。小さいけれ
ど合併しないで頑張ってきた仁保農協の700人の組合員の1人に数えていた
だいてます。
(編)今植わっているものを教えてください?
(遊)田んぼには、津野先生が鳥取大学におられる時に習った再生紙マルチを敷
いて日本晴という品種のお米と、西表島から籾をもらった黒糯米です。自分た
ち籾から苗を育てて1尺(30cm)角に1本ずつ手植えをしました。
(貴)畑には、えんどう、たまねぎ、じゃがいも、大根などが終わって、今はな
す、ししとう、ピーマン、かぼちゃ、人参、にら、ねぎ、青じそ、赤じそ、え
ごまがあって、さといも、さつまいも、こんにゃく。それから、今年種を取り
寄せた、ひえ、あわ、きび、こうりゃん。そばはこれからまく予定です。それ
から去年から始めた藍染めをするためのタデアイがあります。「百姓の来年」
という言葉があるそうですけれど、毎日が1年生の気がします。
(遊)家の畑の方は、まだ土が痩せているので、たいしたものはできないんです
が、きゅうり、地這いきゅうり、ミニトマト、ちしゃ。ハーブでは、ミントに
セージ、ラベンダー。みつば、せり、つるむらさきは自分で増え始めました。
土がやせているので、さやいんげん、枝豆、十六ささげの豆類を作り、果樹で
は、梅、ゆずと、昔の人が植えた柿と栗。その他、季節にはもうそう竹、ハチ
クの筍、たらのき、うど、ぜんまい、わらびが食べられます。ブルーベリー、
さくらんぼ、ぎんなん、やまもも、を植えました。コナラの木が多いので、7
0本ほどほだ木を立てて椎茸を育て、なめこもほんの少々。松茸は、うちの山
で年に3本ほど出るかもという噂ですが、まだ1本も見たことはありません。
(貴)田んぼの中やまわりの溝には赤腹のイモリさんたちがいっぱいいます。そ
れから、カエルたち、ミズカマキリ、ゲンゴロウの仲間、アメンボの仲間、ト
ンボたち、そして膨大な数のクモたちがいます。田んぼをかきまわしてくれる
ホウネンエビもいます。野生植物では、7年放ってあった田の隅が湿原になっ
ていて、モウセンゴケ、カキラン、サワギキョウなんかが生えています。田ん
ぼのまわりにはオミナエシ、リンドウ、サワヒヨドリなどなど、昔はありふれ
ていたけれど、今ではなかなか見られないようになってしまった植物が生えて
います。
(編)どうしてそんなに残っているんでしょうか。
(貴)除草剤をまかず、定期的に田のまわりの草刈りをしているからでしょう。
秋の七草が不思議なくらいきれいに咲きます。リンドウなんか売っているもの
とは色の深さが全然違うんです。
(編)なるほど。ところで、例えば今日の休日はどういう感じで過ごしました
か。
(貴)1週間降り続いた大雨がやんだ日です。昼前に来客がありました。私たち
を仁保農協の組合長に紹介して、ここに土地を求めるきっかけを作ってくださ
った人です。玄米ごはんのお昼のあとは、畑と田んぼに行ってみました。そう
したら今年は、南アフリカのミュージシャンを迎えたりと、イベントが忙しか
ったうえに、この雨続きで畑は草だらけ。ししとうやこんにゃくを草の中から
救い出しました。
(遊)僕は、座り込んで畑の草を抜くような仕事はしんきくさいんで、草刈り機
を使って大まかな所の草を払いました。夕方帰ってきたら、男子学生がたずね
て来て「何か力仕事はありませんか?」と聞くので、暖房用の薪ストーブのた
めのカシの木を、冬に備えて割ってもらいました。そのあと、彼は息子と二人
で山の中を走って暗くなるまで遊んでいましたよ。
(編)暖房は薪なんですか。
(貴)はい、風呂と暖房は薪です。ゆずっていただいた山の広さが、たぶん1町
5反ぐらいあって、その手入れをしながら出てくる雑木や枯れ木はいくらでも
ありますから。でも、日常の料理は今のところプロパンガスです。
(遊)教えてくれる人があって、ドラム缶を利用する簡単な炭焼釜も作ってはあ
りますが。生活排水の浄化に使うために学生さんたちと1回焼いたきりになっ
ています。
(編)水道や電気はあるんでしょうね。
(遊)水道はありません。井戸を掘ってもらったんですが、うまく出ないのでい
ろいろと苦労しています。風呂や洗濯は今のところ谷川の水をポンプでくみ上
げて使っています。電気は引いてもらえました。そのうち、水車小屋ぐらい作
ってみたいと思っていますが……。
(編)ところで、学生はよく来るんですか?
(貴)田植えとかのイベントの時以外は、しいて呼ばないんですが、けっこう何
のかんのと言ってやってきますね。いろいろなハーブをかごに並べて、熱湯を
注いでハーブティにして出すと、女子学生たちは大喜びで「まあ、すてき!」
っていいます。
(遊)この大雨が始まる直前の日でした、大学と市民団体が共催した南アフリカ
コンサートの会場に飾る七夕の竹を取りに来た学生たちと過ごした時のお話を
しましょう。庭に乱雑に積んであった木の枝の整理をして、それでたき火をし
て、冷凍庫にあったもらいものの餅なんかを焼いて、星空を見上げ、流れ星に
喚声をあげているうちに、川から蛍が上がってきて……。太古の昔から人間が
見つめてきた3つの光をながめながら、お互いにあれこれ話をしました。はじ
めてこんなに星を見たという人もいて、とてもゆったりした時が流れて行きま
した。学生が帰ったあと、たき火のおきは、畑に出てくるたぬきおどしになっ
たかもしれません。また、残った灰と炭は、畑の肥料になったわけです。
(編)晴れの日には晴れの仕事、客がくればともに汗を流す、というわけです
ね。で、雨の日には?
(貴)やっぱり田植えなんかは小雨ぐらいでもやりますし……。よほど忙しくな
いかぎり毎週1度1週間分の朝食のパンを焼いています。さいわい、国産小麦
粉も、西表島の無農薬の糠も手に入るので、フランスの田舎パン風に焼いてい
ます。おいしいですよ。
(遊)地ビールの素で、健康麦芽飲料も作っています。大学での講義とその準
備、論文、会議、講演、県の環境関連の委員の仕事などを夫婦ともに、それな
りにこなしつつあります。市民団体の集まりやボランティア活動もいろいろと
ありますが、あれもこれもと頑張り過ぎてパニックにならないように、優先順
位に気をつけています。
(編)ところで、新築にしては、土間があったりしてずいぶん昔風のところが多
い家ですね。
(遊)はあ、県内産の材を産直してもらい、近くに住んでおられる宮大工さんと
ともに、地域の多彩な人脈に助けられて1年以上をかけて建てた家ですが(写
真1)、その話をしだすと止まらなくなりますので(安渓遊地・安渓貴子、
1996)、またの機会にじっくりお話しましょう。
2、I村のこと
(編)1割以上も新規就農の家があるということは、かなり特別な集落のようで
すが。どこが魅力なんでしょうか。
(遊)受け入れ側でも、新規就農者が夫婦で定着して、生活環境を整備しつつほ
かの家と協調して暮らせるための最低限度の現金収入が確保できるように、始
めの2年間の給与や、生産から販売までのていねいな指導をしています。しか
し、すべての機具や設備を先行投資で一度に揃えることになる新規就農者にと
って現実は厳しいようです。そもそも仁保という所は、「近代的田舎社会」を
めざすという目標をかかげて、過疎になりやすい山奥の不便な地区から優先的
に道路や水田を良くしていく、という計画を実行してきたところです。
(貴)無計画な開発が進んだ平場にはない、自然の魅力は大きいですね。それ
と、若い人たちがけっこういるところと。
(遊)2世代同居の専業農家もあるけれど、だいたいは兼業農家で、山仕事の人
もいます。約30年前からキクづくりを基幹産業に育ててきて、その後継者不
足への切り札として、新規就農者の受け入れをすることにしたという所でしょ
う。うちの世話をしてくださった末永昌巳農協長としては、私たちが住むこと
で仁保からの情報発信の手助けになれば、というもくろみもあったようです。
(貴)村入りの話を進める段階で、「I村を良くする会」のみなさんから口頭試
問を受けたわね。
(遊)そうそう。問いはひとつで「村には共同作業があるが、参加してもらえる
か」というものでした。別荘気分なら許さないということでしょう。これは、
仁保地区全体の方針でもあって、100戸の団地をという話を断ったというこ
とがありました。町からの植民地のようなものを認めて、先住者の論理がない
がしろにされることがあってはならない、というのが、「近代的田舎社会」づ
くりの基本方針のひとつです。
(編)「I村を良くする会」というのは、どういう活動をしているんですか。
(遊)I村の将来計画をたてて、その一環として土地の取り引きをコントロール
しています。不在地主の土地も不動産屋の介入を許さずに、乱開発を防ぐとい
うわけです。村を通る県道がりっぱな2車線になっているのも、「良くする
会」が土地買収の下準備を整えておいたおかげで、他の集落に先駆けて実現し
たものです。
(貴)「春山開き」という新しい祭を作って7年目ぐらいですけれど、村の外か
らも人が集まって、山に登ったあと交流会をするという大きな祭になってきて
います。私はこのお祭りの裏方で、集落中のいろんな世代の女の人たちと40
0人前の蕎麦汁、おにぎり、こんにゃくのあえ物なんかを準備するんですが、
これがとっても楽しいんです。みなさんの会話が明るくてユーモアたっぷり
で。
(遊)共同作業の道草刈りに参加して驚いたことは、村の中の農道だけでなく、
隣の防府市に属する道も延々6キロにわたって草刈りをするんです。もう70
年も続けてきたから今さら止められないという説明でした。実は、この曲がり
くねった細い道を拡幅してほしいという陳情を以前からしていて、草刈りを通
して、これが自分たちの生活道路なんだということを示し続けているというわ
けなんでしょうね。
(貴)このあいだ、山火事があった時は村にいた全員が出動して、近隣の地区か
らも駆けつけた100人近い消防団員のために私たちも炊き出しをしました。
いざというときの団結がとてもよく見える機会でした。
(遊)それと、新入りでも元からある家と権利・義務において区別をしない、と
いうことが村の原則として確立しているんです。昭和30年代までは、I村に
も新戸と旧戸という区別があって、共有林の権利なんかにも差があったらしい
んです。それをすべての家の株数を共通にする英断がなされました。そして、
村を離れるものからは、共有林の権利を没収するということのようです。松茸
がたくさん出たころは、共有林は大きな収入源をもっていたわけですから。
(編)村に入って何か摩擦はありませんか。
(遊)松枯れの空中散布がされていて、その効果についての意見の相違とかはあ
りますが、逃げも隠れもできない隣人同士ですし、そういうことは村の外で言
うことではないと思っています。
(貴)新規就農のおひとりが、「20年後を考えて生きようと思っている」とお
っしゃったので、感心してうちも見習わなくっちゃと思っています。
(遊)うちが田畑に化学合成のものを使わないことについては、村のみなさんも
よくご存知で、新しく借りる田は、山の中に孤立したすてきな場所を考えてく
ださったんです。
(貴)「無農薬でも、どんな実験的な農業でも心おきなくやってください」とお
っしゃってね。事前にトラブルを避けるその心遣いに本当に感謝しています。
3、始まりはささやかな畑だった
(編)こういう暮らしをするようになられたきっかけに興味があるんですが。
(遊)昔は、フツーの研究者をめざしてたよねえ、僕ら。どうしてこうなっちゃ
った?
(貴)今にして思えば大切な挫折もいろいろあったし。ようやく、ひとつの大き
な曲がり角をまがって、私たちがこういう暮らしをするようになったきっかけ
は何だったのかしら。
(遊)1畝(30坪)ほどの畑を初めて借りたのが、1年半のフランス滞在を終えて
帰ってきた翌年の1989年。
(貴)フランスでお客を招いてパーティをする楽しみを覚えたので、狭い官舎を
出て、田んぼの中の一戸建ちの借家に引っ越したら、隣の人が小さな畑をして
いたわね。グリーンピースをもらったら、とれたては、こんなに美味しいのか
ってびっくりしたの。それで、畑があるなんてうらやましい!と思ったわけ。
(遊)それで、家の前の田んぼを借りることができるようになって、近所の女性
が畑の荒おこしを手伝って指導してくださったなあ。朝、畑仕事をしている
と、横を学生が自転車で通って、「先生、そろそろ授業ですよお」なんて挨拶
して通ったりもしたなあ。ちょうどそのころ、大学の授業で使おうと思って、
日本子孫基金のビデオ『ポストハーベスト農薬汚染』(学陽書房)を買った
(安渓遊地、1993a)。
(貴)あのビデオを見た時は、主婦として、頭の中が真っ白になりました。レモ
ンなんか食べなくても困らないけれど、国産の大豆も小麦も手に入らないし、
お豆腐は?パンは?と思った。家族にいったい何を食べさせたらいいの?スー
パーに行っては、手ぶらで帰ってくるということが多かった。だから、子ども
と畑に植えたじゃがいもがとれだしたのがありがたくて、それを朝食に食べ、
それからサツマイモを小さな畑一面に植えた。西表島に行ってひと夏留守をし
たのに、帰ってみると雑草の中にすばらしいサツマイモができていたの!私は
何の世話もしていないのに、ちゃんとイモを育ててくだったお天道さまへの感
謝の気持ちが湧き上がってきた。
(遊)干し芋を作って、春まで大事に食べたね。
(貴)それから、落ち着いてよく探せば、国産小麦粉のパンも、国産大豆の豆腐
もそれほど高くない値段で入手できたのよ。北九州に中心があるグリーンコー
プ生協に入ったおかげが大きいけれど。そして産直の関連で、卵と野菜の生産
者の1人の鈴尾さんの所へもたずねて行くようになったし。
(遊)彼は、農学部を出て新規就農した人だけど、家族ともども村の中心のひと
つとしてしっかり根をはって頼もしいね。ここに彼が書いた文章があるから、
読んでみよう。
「集落での水田受託組織作り、都市部での直売所作り、鶏糞の堆肥利用組織、
趣味のほうでも、私たちの主催による和太鼓まつりの開催など、これらが一気
に集中してきた」
彼の、新規就農者の役割についての意見も傾聴に値するよ。自分の家族だけ
安全な食べ物が手に入ればそれでいい、という消費者の身勝手な立場も農村が
崩壊したらありえないのだということがよくわかる。
「私のライフワーク『百姓を増やす』という考えは全く揺るぎない。しかし考
えてみれば、新規の就農者の支援もいいが、今のところ村にいるが、元気を失
いかけている後継者をもり立てて、一緒に頑張っていける方法を探すのも、重
要でかつ成功率も高いような気もするのである。……つまり、周囲の農業者と
の連帯によって、農業、農村そのものを起こすことが、時代の要請ではないだ
ろうか」(鈴尾一夫、1997)。
4、わが家の稲作のはじまり
(編)最近は、お米を買わないでよくなったそうですが。
(遊)僕は、西表島の昔の稲作の研究(安渓遊地、1992a)から、合鴨を使って一
切の化学物質を使わない西表島の産直米の宣伝係までやってきているわけだけ
ど(安渓遊地、1992b、ヤマネコ印西表安心米生産組合、1997)、自分で作りは
じめたのは……
(貴)1993年だから。今年は5回目になるわけね。
(遊)津野先生の研究室へ内地留学するという名目で大山の麓の海辺の村に紹介
していただいたのがきっかけになったけれども、あの時にはもう今のような暮
らしをしようと山口で土地を求めはじめていたっけ。
(貴)だから、そのための実地練習のような意味もあったわけ。あれからずっと
再生紙マルチの手植えの稲作ね、うちは(写真2)。
(遊)雨ばかりの寒い夏だったけれど、あの米騒動の中で、自分の田でとれた家
族1年分の籾を枕もとに積み上げて寝るというのは、なんとも言えない豊かな
気分だったね。
(貴)村の人たちは本当に親身になって世話をやいてくださって、大事に思って
くださったわ。あんなに毎日のように差し入れをいただいたことは、後にも先
にも初めての経験。そんな中で私が激しいショックを受けたのは、子ども会の
親の集まりで、雨のたびに水につかる通学路の改修をどうするかという話題の
時に、1年生の子どもをもつお母さんが「陳情して議員さんを動かそうよ。私
らの孫の時代までも使う道でしょう」とおっしゃったこと。私なんかずっと借
家住まいで、孫がここに生きていくって考えたことなかったもの。
(遊)それと、なし畑が工務店のゴミ捨て場にされて、まだ使えそうなりっぱな
輸入材木が捨ててあるのを見た村人たちの言葉が印象に残ったね。「人間は、
ものの心がわからんとなあ。あとは野となれ山となれでは、畑を開かれた祖先
に対して申し訳がないですけぇなぁ。」と口々におっしゃっていた。あの村で
は、祖先と子孫の両方に恥ずかしくないように今を生きるということを教えら
れた気がしたし、日本の田舎のもっている底力、やさしさ、すごさをひしひし
と感じることができた鳥取での1年でした(安渓遊地、1994a)。
(貴)鳥取のこの村だけが例外的にすごいのではなくて、この力を失っていない
地域もまだまだ多いだろうと思うわ。
(編)あのお、それでは私はこのへんで失礼します。
(遊・貴)あ、まだいらっしゃったんですね。どうもお疲れさまでした。
5、フィールドワークの経験と農的な暮らし
(遊)先日、山口の環境教育学会の例会で、環境保全型農業を熱心にやってきた
人からこんなことを聞かれたねえ。「うちでは、無農薬とか、合鴨とかやって
いても、亭主の道楽みたいに見られて、まったく女房の理解がないんだけど、
いったいどうやって奥さんをそううまく説得されましたか。」それで「もう2
0年以上、アフリカやら沖縄やらフランスやらをいっしょに回って、しっかり
マインドコントロール(笑い)してありますから」って答えたんだけれど。
(貴)アフリカの森の中の小さな村で1年ほど過ごした経験は大きかったわね。
電気もガスも水道も新聞もなくても、皆がにこにこと元気に生きているし、大
丈夫だという自信みたいなものね。近代文明の道具や機械がなくても、自然が
豊かなら人間はその土地の智恵で十分に生きていけるということが実感できた
もの。
(遊)そして、一見古くさいものが案外最先端だったりするということも学んだ
ね。例えば、漁民と農耕民の間の物々交換の市場がどんどん復興していたけれ
ど、20歳ぐらいの市の監督が、国の経済が悪化する中では、このシステムで
なければ、ひとり暮らしのおばあさんが一切れの魚を手に入れることは難し
い、だから社会福祉としてやっていると言っていたんだから(安渓遊地、
1991b)。
(貴)西表島の人たちとのおつきあいにも大きな影響を受けてるわ。食べもの
は、すべて自分たちで作ったり採ったりして、その恵みに感謝しながら生きて
きた人たちとの対話。西表島の、今はなくなってしまった村での「自然生活」
ともいうべき暮らしのはぐんできた智恵を、失われてしまったものとして嘆く
のでなく、自分の生きる場でもう一度生かしていく道を歩みたいと思うように
なった(安渓貴子・安渓遊地、1992)。
(遊)フランスでたくさんの友達ができたけれど、その中でも大きな影響を受け
たのは、アフリカ研究の修士号をめざしていたジャン・フランソワ(JF)と巡回
看護婦のブリジット(B)のカップル。田舎が好きでノルマンジーの親戚の農家
に住んで、JFは、週に何回か片道3時間ほどかけてパリの研究所に通うという
生活をしていたね。
(貴)5ヘクタールほどの広さの庭(!)がある古い農家で、ほんとうに豊かな
簡素生活だったわ。そして、「招待はしないから、気がむいたらいつでもおい
で。扉はあけてあるから」と言ってくれたわ。
(遊)JFが修士論文を仕上げる忙しい合間に、生まれてくる初めての子どものた
めに、特製のベッドを作っていたので、僕は自分が目を血走らせて修士論文を
書いていた時のことを思い出してその違いの大きさにショックを受けた。僕も
手伝わせてもらったけれど、藁葺き屋根がならぶ村の水車小屋で、粉挽き人形
がオルゴールを回す、というこった飾りを手作りで作るんだ。
(貴)Bの出産の前夜に私たち家族とアフリカの友人が招かれていて、「本当に
いいの?」って聞いたもの。そうしたら、「大切な時をともに過ごす仲間がい
ることはすばらしい」っていう返事でした。
(遊)なんという豊かさだろう、と本当に印象深かった。金もちではないけれ
ど、「自然もち」、「友達もち」、「時間もち」、そして、それは彼らの
voluntary simplicity(自分で選び取った簡素生活)の豊かさだった。僕は、
あの豊かさは二人がアフリカで研究とボランティアの経験をしたことからくる
贈り物だろうなとにらんでいるんだ。
(貴)私は、あの家で「心の扉を開けて友達づきあいをする」ということを学ん
だような気がするわ。
6、虫が怖くなくなってきた
(貴)畑を始めたとき、子どもが小学校の1年生で、男の子だからと思って、私
はそれまで虫やミミズが怖かったんだけれど、がまんして付き合い始めた。そ
うしたら最近は、ちっとも怖くないし、話しかけられるようになってきた。
(遊)話かけるっていうと?
(貴)玄関の灯りに集まる虫を食べているカエルに、朝出かける時に「おはよ
う、元気?」と挨拶しながら暮らしているうちに、親近感が湧くようになった
のよ。理屈っぽく言えば「ともに同じ時代を生きているいのち同士」という感
じというか。
(遊)でも、ヨトウムシが野菜の根っこを切って倒しているのを見ると「この根
っ切り虫!ちゃんと残さず食べなさいよ」って腹たたない?
(貴)ところが、最近はあまり腹がたたないの。
(遊)このあいだは、たぬきたちにまだ小指ほどの人参や未熟なピーナツを全滅
させられたっけねえ。雪のあとにひとうねの大根の地上部分が完全に消滅して
いたこともあった。
(貴)食べられたのにしばらく気がつかないで、大根がきれいに食べ尽くされて
いるのを見た時、この雪でたぬきさんたちもお腹がすいたんだろうなと思えて
腹がたたなかった。
(遊)津野先生にならってカラスとの会話も練習中だけど、なかなか上達しない
ねえ。それでも、朝起きたらうちの山に向かって「みんな元気カア!」って呼
んでみるようにしています。僕たちの知り合いの屋久島のお百姓さんのよう
に、死にかけたコイに13時間も人工呼吸して生き返らせてしまうようなこと
まではできなくても、しだいに自然の声が聞こえるにようになってきている気
がする。
(貴)大山に登った時、ぶなの実を拾って食べたから、私は一部分では大山のぶ
なの木でもあるというのが、今の私の素直な感じ。生物学を学んだ立場で蛇足
を付け加えるなら、大腸菌も人間も同じ遺伝子をもっているということは、菌
も虫も鳥も木も花もそして人間もみんなが同じ時を生きてきたのだし、今生き
ている仲間だということを証明してる。そして、この地球は、いのちが生まれ
て以来それらをずっとはぐくんできたし、環境と生命の微妙なバランスの上
に、私の今もあるんだということが頭でわかるだけでなく、心でも感じるよう
になってきたと思う。
(遊)そういう意味では、自然にあこがれて農的な暮らしを志すうちに、いつの
間にか自然からのメッセージが感じられるようになってきたということかな。
現金収入と無関係なまねごとの農業をしながら、勝手なことをいうなという批
判も耳に届くけれど、かなりの経営規模の専業農家でも、自然との深いきずな
を楽しみながら暮らしている人を何人も知っているからなあ。
(貴)農的な暮らしの中でこそいえる、私が歩みたい道のイメージ。それは、あ
えて言葉にすれば、自然の中からいのちをいただいて食べて、毎日の暮らしの
中から出たものがまた自然に帰っていく、そんな暮らしになれたらなあ。町に
住んでいたころは、自分の出したゴミや汚れた水がどこへ行くのかということ
を自分の問題として考える必要がなかった。
(遊)ここに生き続けるんだということから、今日何を最優先すべきかが決まっ
てくるし、まだ生まれていない世代のことにも自然に考えがおよぶようになっ
てくるよね。そして、自然が神だと信じて暮らしてきた南の島々の人たちや
(例えば、安渓遊地、1993b)、人間の役割は大自然の神々を喜ばせてその恵
みをますます豊かにしていくことだ、というアイヌ民族をはじめとする先住民
族の人々の世界観も(安渓遊地、1994b)、ここに暮らしてしだいに近しいも
のに感じられるようになってきた感じがするね。
7、自然の中で育つ感性――農的な暮らしのもつ意味
(遊)この家は、若い人たちにはかなりインパクトがある家らしいね。こんな家
を建てたい!っていう人が多いもの。
(貴)そうね。農的生活に惹かれている町の人がうちにくると、なんか励ましを
受けるみたいよ。
(遊)このあいだ、大学生と、僕が講義に行っているご縁で農業大学校の学生が
うちの田植えに来てくれて、昼前から雨になったから、ごはんを作って食べた
あとは、一日中おしゃべりだったね。僕が長い昼寝をしている間にずいぶん話
が盛り上がっていたみたいだけど。
(貴)6、7人で輪になって座って思いのたけを語りあったの。農業に心がむい
た人たちの集まりだったから、私には心が共振しやすかったのかもしれないけ
れど、ひとりひとりの話を皆が共感しながら聞けて、いっしょに悩んだりしな
がらお互いに感動したり……。
(遊)寝てて損したかな。どんな話が出たの。
(貴)私は、息子の不登校をめぐって、これは実は子どもの問題というよりも、
今の世の中での親である私の生き方の再発見の機会だと思っているという話を
したの。ある農業大学校の学生さんはこんな話だった。最近、精神的に落ち込
んでしまってつらくてつらくて仕方がなかった時に、それでも牛の世話がある
から牛舎に通っていた。そうしたら彼女にまかされている10頭の牛のうち
5、6頭が身体を寄せてきて「どうしたん?何があったん?元気出しい!」と
言ってくれているようだったんだって。それで彼女、牛舎で泣いてしまった…
…。
(遊)きっと考えごとをしていて彼女の辛さに気づかなかった牛もいたんだ。
(貴)違う生き方、違う悩み、違う夢をもっている人たちがここで出会える。私
の経験では、大学時代のクラブ合宿でもたくさんいる仲間の中のひとりか二人
にたまたま共感して夜遅くまで話す、そんな程度だったのに。いろんな人たち
が、平常心を失わず、穏やかに本音を語りあい、そして共感しあえる時がもて
たことはほんとうにうれしいことだと思うの。そういう出会いの場にこの家が
なれたということかな。
(遊)たしかに、うちに来た学生たちが農作業や山仕事をして、それから食べて
話すと大学ではなかなかできないような気づきがいろいろあるよね、前に話し
た七夕のたき火と星と蛍の時もそうだったけれど。
(貴)若い人たちが自然の中に入っていくことで、感性が育っていくと思う。そ
れも単なるハイキングや遊びではなく、物を作るという経験は、深いものにつ
ながっているのよ。例えば、自分で田植えをしてみると、気をつけていてもぐ
にゃぐにゃ曲がってしまう。それだけで「昔のお百姓さんはえらい!」と気づ
いたり、「農業は奥深いものだなあ、とちょっとやっただけの初心者の私は感
心しました」と感想を書いたりするの。忘れていた夢に気づく人もある。7年
ぶりぐらいに会った大学院生は、農学部の博士課程でバイオのことをやってい
るんだけれど、畑のうね立てをしたりしたあとで、「私、学校の研究以外にも
やりたいことがいっぱいあるのだと気づいた」と話していたわよ。
(遊)農業経験の豊富な人が来てくれると、土着の智恵のすばらしさがわかる
し、その人を先生として本当に多くを学べる気がする。今はやりの環境教育の
カリキュラムの中心には「農林業経験と土着の智恵」といったものをおくとい
いね。
8、雨の日には――農的暮らしへむけての読書ガイド
(遊)第3種兼業と日本の農業の未来の関連とか、そんな大きな話が全然出なか
ったけれど、それでいいのかな。
(貴)私たちの経験では、農的な暮らしへの第一歩を踏み出すと、この便利さに
なれちゃって、科学技術の恩恵や貿易のもたらす利益なしには日本人は絶対に
暮らせないという考えのおかしさにだんだん気づくことができるようになる。
(遊)タイやナイジェリアでフィールドワークをしている渡部重行さんの『共生
の文化人類学』(学陽書房)は、私たちの”豊かさ”の裏側について、700
近い文献を駆使して説得力のある説明を展開してくれているね。実地のフィー
ルド経験の中でしなやかに思索しながら、世の中にあふれているまゆつばもの
の情報を見抜く力が備わるんだろうな。
(貴)津野幸人先生の『小農本論――誰が地球を守ったか』(農文協)の冒頭
に、とっても印象的な話が載っているわね。昭和19年の冬、中学2年生の愛
国少年だった津野先生は特攻隊を志望して予科練に合格した。その時、〈片田
舎の一介の老農夫〉であったおじいちゃんがこういったというの。「日本は負
ける。お前らみたいな子供までが死ぬことはない。明日これで小指を切れ。小
指がのうても百姓はできる」と牛の飼い葉を切る押し切りを指さしたんだっ
て。当時、国際的な情報を一切もたないおじいちゃんが、大本営発表などの圧
倒的な世論工作とマインドコントロールに抗して、日本は負けるということが
的確に判断できた根拠というのが、古いアメリカ製の剪定鋏だったの。もらっ
て20年にもなるのに、バネはびくともしないし、切れ味も新品同様。「百姓
道具にこれだけのええ鋼鉄を使う国なら、兵器も日本のものとは較べもんにな
らんぞな」とおっしゃったんだって。
(遊)あの本の最後には、「今こそ農業が面白い」というタイトルで第3種兼業
にめざめていく喜びがその人類史的な意味とともに生き生きと描かれている
ね。
(貴)最近読んだ本ですばらしかったのが、宇根豊さんの『田んぼの忘れもの』
(葦書房)。私たちが見つけた宝物がみんなのタカラモノになるしくみを考え
る勇気が湧いてくる。
(遊)同じく葦書房で、うちの仁保農協の末永昌巳組合長の『むらからの便り―
―ある農協の試み』は、仁保の夢が伝わる読みやすい本。
(貴)科学はほんの少しのものだけを選び出してきた。軍事や経済の論理が見捨
てたものの中に大切な忘れ物があるのよね。その結果、私たちが直面すること
になったおそるべき環境問題については、市川定夫先生の『環境学のすすめ
(上)(下)』(藤原書店)が包括的に示している。そして、地球環境の現状と未
来について絶望にみたされそうになったら、産業文明崩壊のあとのたそがれの
時代を描く宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』(徳間書店)とジョアンナ・メ
イシーさんの『絶望こそが希望である』(カタツムリ社、地方小出版扱い)を
勧めたいな。
(遊)特に生命を自由にあやつるようになった人類が陥った深淵とその中での希
望をナウシカが語る第7巻ね。ゴミの捨てどころを考えただけでも避けられな
い工業社会の崩壊の中でのパニックを避ける智恵については、『未来へつなぐ
農的くらし』ほかの槌田劭(たかし)先生の本(樹心社から5冊、発売は星雲
社)がいいと思う。
(貴)私ね、昔からの伝統の智恵が失われることをなんとかくいとめたいと願っ
てきたけれど、それももう仕方がない、と思うようになったの。いったん失っ
たように見えても、真剣に求めればまたそれを再発見できるし、今に生かすこ
ともできる。西岡常一棟梁が飛鳥時代からの宮大工の技を、口伝もあったけれ
ど法隆寺の解体修理を通して研究して身につけて、それがこんどは民家にも通
用するとして『西岡常一と語る木の家は三百年』(農文協)という本が出たこ
とがその一例。
(貴)環境問題の話を聞いたりするたびにうちの14歳の息子は「大人はばかじ
ゃ」というのね。子どもたちは、大人が作った今の世界の歪みを全身で感じて
いると思うの。そして、必死で叫んでいる。この地球を受け継がなくてはいけ
ない子どもたちこそ痛いほどわかるこの歪んだ世界を生み出してしまった私た
ちが、ものごとを根本から見つめ直し、気づいた人からひとつひとつ歯車をは
ずしていく。それしかないと思う。
(遊)その時に、例えば屋久島のお百姓さんの「食べものは、いのちを支えるも
のでしょう。もともとお金では買えないはずの物なんですよ。日本のようにい
つまでも外国から物が来ることを期待してはいけません」というような智恵の
言葉がきっと力をもつと思うな。町に住んでいる人で、とても畑に立つ暇も気
力もないよ、という人のためには、『タイム・シフティング』(NHK出版)が
お勧め。ミヒャエル・エンデさんの『モモ』(岩波書店)のように「時間も
ち」になれる智恵が書いてあります。
[チェルノブイリ紀元12年7月23日
稿]
引用文献
安渓貴子・安渓遊地編、山田雪子述 1992 『西表島に生きる――おばあちゃんの自然
生活誌』(おきなわ文庫) 第63冊:1-230 ひるぎ社
安渓遊地、1991a「される側の声――聞き書き・調査地被害」『民族学研究』56(3):3
20-326
安渓遊地、1991b「再訪・ソンゴーラの物々交換市――『伝統』の今日的な意味につ
いて」『ヒトの自然誌』:377-396 平凡社
安渓遊地、1992a「西表島の稲作と畑作――南島農耕文化の源流を求めて」『琉球弧
の世界』:575-601 小学館
安渓遊地、1992b「無農薬米の産直が始った――島を出た若者への手紙」『エコノミ
スト』7月21日号:76-79
安渓遊地、1993a「あなた何を食べていますか――ポストハーベスト農薬汚染とわた
し」『自然生活』第5集 :45-51
安渓遊地、1993b「橋をかける⑧ 野も山も海も川も神々の住い――上屋久町宮之浦・
中島キヨさん本溜ケサさん聞き書き」『生命の島』29号:25-34、屋久島産業文化研究
所
安渓遊地、1994a「大山のふもとで屋久島を想う」『生命の島』31号:35-39
安渓遊地編、1994b「はじめて習ったアイヌ民族の歴史――大学生の反応から」『自
然生活』第7集:71-79、野草社
安渓遊地・安渓貴子、1996「百三十年もつ住まいを わが家づくり奮戦記①」『生命
の島』 37号:35-38
鈴夫一夫、1997「『運動』の発展方向(私見)」『ゆうき』第1号、山口県有機農業
研究会
ヤマネコ印西表安心米生産組合、1997「安心はおいしい!!」「日本一早い新米ができ
るまで」『ヤマネコNEWS』(電話とファックス09808-5-6302)