調査されるという迷惑)どう乗りこえるのか、大学院生からの小レポートです
2008/11/28
調査されるという迷惑 を読んで ある大学院生から小レポートがとどけられました。
問3「調査されるという被害の解消法は?」への答え
調査される側の立場にたつ。
学問という名の調査が優先ではなく、まず、そこの人々の暮らし、そこの人々の心を大切にする。そこに住む島の一人として、命あるものの声、小さな痛み、叫び声に気づき、それを受け止められるような、調査でなければならない。
この本を読み、調査される側の迷惑が痛いほどわかった。その島の文化、生活、人々の心を土足で踏み荒らしていく行為もあるのだと、島の嘆きが聞こえてきた。
また反対に調査する側の苦しさも伝わってきた。人が人を調査して成り立つ「人文学」は、生半可な気持ちではやれないということもわかった。
相手の立場に立つという難しさ、自分の生涯にわたって責任がのしかかるという覚悟、たとえば小説家との長年の裁判の問題、島の人によかれと思ってのちょっとした事、それが10年にも及ぶ、自分の貴重なライフワークの1ページに入り込んでしまうなんて、相当なエネルギーを消耗されたであろう。
また「西表島安心米」の関わりも、さぞ体と心の緊張の糸がピーンと張る、一歩間違えたら、命取りにもなりかねない、大変な出来事だったであろう。
そしてまた調査が、される側の立場にたてば、一身をかけて調査し、まとめたものが、公表できなくなるという研究者の苦悩もよくわかる。
文化人類学とは何か?学問とは何か?人生とは何か?生きるとは何か?自然とは何か?を突きつけられる。
ところで、唐突ですが、先生のオカリナは心地良いです。
優しくて、温もりがあって、そして時に哀しい。
オカリナはいろんな物を見てきたのですね。
そしていろんな人を見てきたのですね。
喜びも悲しみも、絶望も未来も。