島からのことづて32)加計呂麻バスの林範孝さんのお話
2007/09/07
屋久島の雑誌『季刊・生命の島』に連載させていただいている、シリーズ 島から
のことづての第32 をお届けします。77号に掲載で2007年初春の発行でした。写真
と地図入りのバージョンは、雑誌そのものをお買い求め下さいませ。
生命の島
http://www8.ocn.ne.jp/~seimei39/
印刷されたものに、3ヵ所ほど誤りがありましたので、ここではその部分を太字で
訂正したものを掲載します。ご教示をいただいた、瀬戸内町手安・芳華園の前田芳
之さんに感謝いたします。
芳華園のHP
http://www4.synapse.ne.jp/genzi/index-j.html
住民の足を守り続けて二十七年・加計呂麻バスの林範孝さんのお話
安渓遊地・安渓貴子
二〇〇六年の夏は、二十二年ぶりに奄美大島を訪ねました。京都にある総合地球環
境学研究所(地球研)で、日本列島の人と自然の一万年の歴史を明らかにしよう、と
いう研究計画の一環で、多いときは総勢十二人の旅をしました。とくに、遊地の母方
の祖父が生まれた加計呂麻(かけろま)島は念入りに回りましたが、そこで、バス会
社の社長である、林範孝(のりたか)さんのお話が面白いと実久(さねく)集落の民
宿「きゅら島」の宮部里美さんに聞かされました。
民宿に泊まった調査隊への宮部さんの計らいで、林さんは九月三日に奥様の秀
子さんとともに「きゅら島」に来てくださり、四時間におよぶお話をしてくださ
いました。海峡をもつ町・瀬戸内の南半分を占める加計呂麻島に腰を据えて、島民の
足を守り、観光協会の会長としては、島づたい観光を構想し、消防や防犯などのボラ
ンティアとして引き受けている役職が二十九に達するという八面六臂の大活躍から生
まれる話は、息もつかせぬものでした。
○アメリカ生まれの変な外人です
「アメリカ生まれで、アメリカで六年育ったけれど、英語は全然できない、変な外
人です。」というのが、僕の自己紹介です。奄美群島は、敗戦後アメリカの施政権下
に置かれて、昭和二十七年の十二月二十五日のクリスマスまでアメリカだったんです。
現在瀬戸内町の役所がある、古仁屋(こにや)の近くの手安(てあん)という村で
昭和二十二年に生まれました。父は加計呂麻島の三浦出身ですが、戦時中は手安にあっ
た軍の弾薬庫で働いていました。信管の検査官をしていたんです。ですが、軍事機密
ですから、そういう仕事の内容は、家族にもまったく言えなかったそうです。
古仁屋からのフェリーのつく瀬相(せそう)でバス会社を経営して、加計呂麻島に
住んでいます。
僕は、古仁屋では、仕事の関係での二つの事務所の責任者ですが、古仁屋に泊まっ
たことはありません。夜中の三時でも家内の待つ島に戻って寝ます。海上タクシーと
いうのが二十四時間営業していますから、それが可能なんです。古仁屋の家賃は二万
五千円、海上タクシーは、一回三千円ですから、泊まった方が安いんですが、ああい
う町の中に泊まる気は、まったくしないんです。
島でのんびりして仕事していますから、出張で東京や大阪に行きますと、二日目に
は、「酸素不足」に陥るのか、呼吸がしにくくなりますね。
○地域の足としてバスを走らせ続ける
もともと加計呂麻では、陸路が発達していなくて、村と村をつなぐのは、舟しかな
かったんです。バスを運行し始めたころは、地元の人もバスってことを知らないから、
途中の畑でおりるおばさんなんか、運転手に「船長さん」とか「機関長さん、止めて!
」と叫んでいましたよ。
二十七年間、採算はなかなかとれないけれどなんとかやってきました。島の人口が
減り高齢化しています。お年寄りは車の運転ができないから足が必要です。だから島
中の集落にフェリーの時間に合わせてバスを出しています。瀬相の港にフェリーの時
間になるとバスが並んでいるでしょう。
加計呂麻は島内でも集落によって言葉が違います。発音が違うこともあります。そ
れはなぜか?シマ(集落)ごとに相互の交流がなかったからでしょう。ですから、バ
スの運転手はシマごとに違う言葉を聞き分けなければ成りません。フェリーで届いた
荷物は運転手達が各集落に運びます。それだけでなく、島のお年寄りに頼まれたこと
をひきうけて帰ってきます。ですから加計呂麻バスの運転手は島の隅々まで知ってい
ます。例えば、自殺しそうな人が加計呂麻に渡ったという知らせが名瀬から入ると、
すぐにどのへんにいたか分かります。そうやって助けた例もいっぱいあります。
警察が徘徊老人を保護して、どこの村の人かわからないで困っている。その時に呼
ばれるのが僕なんですよ。それで、例えば貝を見せて名前を聞くと、なんとか、とい
う方言での返事が来る。それを聞くとだいたいどこの村の人かわかって、送り届けら
れる、というようなことがいっぱいあります。
加計呂麻に警察の交番が二つあるんですが、うちのバスの事務所は「第三派出所」
と言われています。なにかあると、おまわりさんが二人ともうちに聞きにこられるん
です。
加計呂麻では、今、原油高で燃料代がガソリン一リットル百七十円まで値上がりし
ています。八台のバスで、九系統七路線走らせていますが、一か月で、運転手一人分
の給料分だけあがってしまいました。燃料差額についての補助は一切ありません。い
つになれば下がるかと思っていますが、徹底した自助努力しかないですが、夏場はクー
ラーも必要ですから……。
あるお年寄りなんか、つわぶき採りにいくからといって途中で降りて、認可されて
いる料金は例えば二百円なのに「私は八十円分しか乗ってないから、ハイ八十円!」
と言ってくださるんですよ。仕方ないですから運転手には「八十円でいいからもらっ
ておきなさい。」と言ってあります(笑い)。それがまかり通るのが加計呂麻なんで
すよ。
お客さんの眠気を覚ますような面白い話ができるような運転手を養成しようとする
んですけれど、これには五年かかります。
○加計呂麻島に住んで二十七年
五十年前の昭和三十一年、町村合併によってそれまで八島だった奄美群島が、五島
しかないような扱いになりました。与路・請・加計呂麻の三島は瀬戸内町に吸収合併
されて、行政上は消えてしまったような扱いになったんです。これにはがまんがなり
ません。瀬戸内町の五十六集落のうち、三十三集落までが加計呂麻にあるというのに、
当時八千九百人だった加計呂麻の人口は、今では千六百人にまで減ってしまいました。
合併して、島に役場がなくなってから、住民票ひとつとるにも、船で古仁屋に出な
いといけないから一日がかりですよ。行ってみたら担当がいないからとか言われる。
そんなばかなことがありますか。死んでも火葬場がないから古仁屋に行かないとなら
ない。葬儀の費用だって島は三倍かかるんです。
二十七年前にここへ来たとき、四百何十万円かけて高速船を買いました。当時のフェ
リーでは古仁屋まで一時間もかかったし、病院がなかったから、子どもたちに万一の
ことがあったらと思って投資したんです。そんな不便なところですけれど、加計呂麻
島に家を移して住んで本当によかったと思っています。
子供が二年生と三年生だった時のこと、実久集落に郷土料理をつくっては人に食べ
させて喜んでいるばあちゃんがいたんですが、運転手が「変だ!あのばあちゃんの家
の扉が閉まったままだ。」というので見に行ってみると、家の中で倒れていました。
バスで病院に連れて行ったところ、介護がいることになりました。ところがばあちゃ
んの娘さんは心臓の手術のために半年は加計呂麻へ帰れないということが判りました。
そこで瀬相の僕の家で面倒を見ることに決めました。半年の間、僕の家族四人はその
おばあちゃんといっしょに暮らしました。二人の子どもにとって、思いやりを育てる
ということと、高齢者に学ぶということで、この経験はとてもいい教育になったと思
います。
二人の子どもには、方言と島の素晴らしさを一生懸命教えました。そのせいか二人
とも加計呂間島に帰ってきて暮らすことを決心してくれました。娘は奄美での女性の
バス運転手第一号となって、今はフェリーの切符売り場にいます。息子は町会議員を
しています。
○歴史の香る加計呂間の魅力
加計呂麻島には、古きよき日本が残っているといわれています。今の仕事を始める
前、昭和五十五年から十年かけて、与路島・請島・加計呂麻島の村々をまわって、八
十歳、九十歳になる高齢者から島の歴史や文化を聞きとりをしました。これらの島に
は、北の奄美大島にはない歴史や文化の魅力があることを学んだのです。そのことが、
どれほど今の観光業者としての仕事に役に立っているか、それははかりしれないもの
があります。
ここをどうしたら元気にしていけるか。業者として観光をやるにしても、ここには
人工的に作られた観光施設なんてまったくないんです。ただ、自然と素朴さ、歴史と
文化が売り物です。
帯状に長い海峡を挟んで複雑な形をした加計呂麻島の東のはずれの諸鈍(しょどん)
には平家の伝説があります。去年は来島八百年祭をやりました。一方、西のはずれの
実久には源為朝の子という実久三次郎神社があって源氏の伝説があります。諸鈍には
紙面(カミツラ)で顔を隠した諸鈍芝居(シバヤ)があり、実久には、勇壮な棒踊り
があって、追われる平家と追う源氏が共存した島の歴史を反映しているようです。
どこの支配も受けなかった奄美世(アマンユー)という時代から琉球支配、薩摩支
配、そしてアメリカの支配をへて復帰。全国の離島で、これだけの歴史を繰り返して
きたのは、おそらく奄美だけなんですよ。それだけ文化が入り乱れたことになるんで
す。そういう歴史と文化が、本土からこられるお客さんにお話しすることなんです。
今はりっぱな港湾がありますが、昔は港湾がなかったから、風待ちのできる港は大
切で、その意味で海峡のある加計呂麻は重要だったんです。琉球王朝は諸鈍に船を入
れました。奄美では、台風シーズン前の五月、六月に琉球からの船がやってきたもの
です。沖縄より一月遅れで、ちょうどその頃に諸鈍の長浜一面が真っ赤になるほど咲
くんです。だから今見るあのみごとな並木は、薩摩の支配を受ける以前の、三百五十
年前に琉球王朝の船がこの赤い花を目当てに船を入れる目印として植えたのだと思い
ます。伊子茂(いこも)湾にも当時のデイゴの古木があります。諸鈍長浜に打ち寄せ
る波は、諸鈍美童の歯茎の美しさのようだという歌は、沖縄でもずいぶん有名でしょ
う。島の西と東の端にある実久と諸鈍は諸文化の入り口であり、当時の大都会でした。
Iターンで加計呂間に来られる方は、諸鈍と須子茂(すこも)を選ばれる方が多い
ですね。古くからの歴史の厚みのあるところに魅力を感じられるのかもしれません。
○ケンムンと出会った話
沖縄ではキジムナーが有名ですが、奄美のケンムンはホウギゥ(和名アコウ>)に住み処があり、ガトゥマル(和名ガジュマル)が遊び場だと言われています。
僕が幼い時、叔父といっしょに魚釣りに行きました。魚も釣れたので、手安の灯台の
下のところに舟を着けて浜で火を焚きました。釣った魚を焼いて食べようとしたんで
す。ところが、薪が潮水で湿っていてなかなか燃えません。そうしたら誰もいるわけ
がないのに暗い木の上から前の海にバーンバーンと次々に石が落ちてくる。そうした
ら、叔父は「帰ろう!」と言って、僕の手を引いて、あとは一言もいわず、魚もその
ままにして帰ってきました。翌日行ってみたら、石が崩れたような跡形もなく、そこ
にはホウギゥの大木があったのです。これはケンムンが煙たがって合図をしたんでしょ
うね。
○最重要軍事基地だった加計呂麻島
戦争中は南方戦線の最重要基地が加計呂麻にありました。安脚場(あんきゃば)、
瀬相、実久、呑之浦(のみのうら)、三浦には大きな軍事施設があったんです。
安脚場は、大島と加計呂麻島の間に横たわる瀬戸内の海が望めてその眺望がすばら
しい、さすが昔の要塞跡です。しかし自殺の名所でもあります。だから飛び込めない
ように手すりをつけました。
三浦には本部がありました。呑之浦は、島尾敏雄さんが隊長だった体当たりの特攻
ボートの震洋艇の基地でした。
西阿室(にしあむろ)で店をやっている福島さんの兄さんは、実久に戦車が上がっ
てきたら爆弾を背負ったままひかれて戦車を爆破する死に役だった二人の一人でした。
また、戦争で朝鮮人をたくさんひっぱってきて労働させていました。加計呂麻には
六か所に戦没者の慰霊塔があります。でも、ほとんどその名前さえも残されていない
んです。
加計呂麻はほとんどの集落に爆弾が落とされて戦火も激しく、人も死んでいます。
沖縄は注目されたのに、奄美の戦禍が世に知られなかったのはなぜでしょうか。奄美
には秘密基地が多かったからでしょうか。奄美の戦争については、もっと知ってもら
わないといかんと思っています。
呑之浦の島尾敏雄記念公園を見てこられましたか。あの文学碑の工事には、全国の
島尾ファンからの寄付金を集めて九百万円かかりました。道路から震洋艇の
出艇の所まで三千坪の基地でした。壕の入り口のコンクリートは昔のままです。あの
壕は三十メートルから五十メートルの手掘りの穴で、中にレールがひかれていました。
震洋艇には四十ノットで五海里走る片道分の燃料を積んでいました。
○ハブに打たれる
素人ながら僕はハブを三十年研究しているんですよ。実は、この六月二十八日に咬
まれましてね、今病院通いをしています。手が開かないですよ。その前には、平成十
年に咬まれていますから二回目です。
奄美の年寄りたちは、「ハブに打たれる」といいます。ハブは、二度打つといいま
すが、その通りですね。一回目は、蚊が刺したほどのちっちゃな傷が二つ。二回目は
一本歯で打つというんですが、たしかに、一本の牙で集中して、ちょうどこの血管に
打たれて……。うちのバスの車庫で、ハブの研修会をしていて、「奄美ではハブに出
くわすと運気が上がるといいますが、触ればもっと上がりますよ。」と言ったら、う
ちの女子職員が触りたいといいだしたんです。それで、十年ぶりにハブに触って、頭
としっぽをもって触らせました。前には箱に入れるときに打たれたのを思い出して、
地面に投げてからハブ捕獲機で挟んでとろうと思ってたら、投げたとたんに飛びかかっ
てきました。一メートルぐらいのハブでした。箱に収めてから、皆に言いましたが、
二十名の人が立っていて、だれも僕がハブに打たれたと気付きませんでした。血清を
打ってもらったら、拒絶反応で一時は意識不明になりましたが、十四日間で退院でき
ました。今でも指が曲がらないのでリハビリをしています。普通、血管を打たれたら
半年は入院するんですよ。腎臓の機能が良くて毒が早く抜けたそうです
昔はリハビリというのがないので、曲がったら曲がったきり、手や足を切り落とし
たようなハブ咬症もあったんですね。
でも、ハブを恨む気持ちにはなれません。ハブがいやがることをするから咬むので
あって、ハブの方から人間を咬みにくることはありませんから。
奄美には二十万匹のハブがいるだろうといわれています。これが野放し状態という
のも問題があります。ハブがいたから奄美の森は守られた、という論説をする先生な
んかもあります。われわれもハブのことを調べますし、先生がたも調べられますが、
どうすればハブとうまく共存できるか、そのことはまだ分かっていません。ミカンコ
ミバエなんかは撲滅できたのですが、人の命をとるハブの場合は、わからないんです。
生態はだいたいわかって、ハブの卵も何回も生ませてみたけれど、腐ってしまって一
度もハブに孵しきれないんです。
昔の人は、ハブの卵をひとつ食べると五年長生きする、ハブ酒を一杯飲むと一年長
生きする、と言ったものです。今、ハブの肉は非常に栄養価値のあるものとして見直
されています。
昭和四十何年かに、鹿児島県がハブ対策としてマングースを導入する、というので
僕らは大反対しました。広い自然に放せばマングースが怖いハブに向かっていくわけ
がないんです。今、住用村あたりまで広がってしまって、駆除作戦がされていますけ
れど。
僕は、ハブとマングースの対決のショーは嫌いです。ハブは素晴らしいもので、島
では大事にされてきたよ、ということを観光のお客さんにも伝えています。
○島づたい観光の提唱
人工的に造られたテーマパークのような施設はすぐ飽きられます。できたときは珍
しいけれど、地元の人が行ってみるのが一巡すると、もう下火になります。むしろ、
これからは自然のままを生かす方法、海で癒されるタラソテラピーとか自然体験型の
ツアーとか、歴史や文化を語れるような観光をめざさないといけません。そして、コ
ンクリート漬けになってしまった村の護岸をアダンで覆い尽くせば、アダンが潮を吸
収してくれます。やがては砂が溜まります。コンクリートではかえって潮を飛び散ら
せてしまうんですね。
奄美群島の中で本当に奄美らしい所として最後に残るのは奄美の奥座敷である与路・
請・加計呂麻の三島だけだと僕は思っています。
僕は、瀬戸内の観光協会会長として、島づたい観光を構想しています。鹿児島から
高速船に乗って、徳之島の母間(ぼま)港から、屋久島航路のトッピーのようなジェッ
トフォイル船なら十五分で与路島、そして花富(けどみ)・於齊(おさい)というコー
スです。徳之島と与路島そして加計呂麻島は昔は手で漕いで行き来していた近さです
から。鹿児島から逆コースでもいい、加計呂麻島、請島、与路島、徳之島とたどるコー
スです。美しい海と島々をたどってもらうわけです。
大阪や東京から安いキップで沖縄に渡ってもらって、そこから早い船で島づたいに
来てもらって、島では、のんびりスローライフを楽しんでいただいて、帰りは奄美空
港から帰る。これなら、かかる時間もお金もあまり変わらないけれど、島々の魅力に
二倍も三倍も触れることができる。それが僕の夢ですけれど、とりあえずは、徳之島
と提携して隣り合う島づたい観光を始めようとしているところです。
○島をよくするために
九百七十世帯の人たちが、一年に三百円ずつ出しあって、与路・請・加計呂麻の「
三島住民会議」というのを組織して十八年になります。生活保護世帯とか、老人の一
人暮らしの家なんかは会費免除です。自分たちの地域は自分たちでよくしようよ、と
いう趣旨です。集落の困っていることをもちよって、相談するんです。三百円はその
会合の弁当代で飛んでしまうんですけれど、それをまとめて県に陳情に行くのは、世
話人のわれわれの自腹になります。
三島住民会議の成果の一つと思っていますが、十年前に、伊子茂にりっぱな老人ホー
ムができて、他の島でお世話になっていた老人達が、自分の島にもどってくることが
できました。海峡を二つ隔てている町であることを説明して、加計呂間を島としてよ
うやく認めてもらったのが、平成六年でした。こうして、たった人口一万の瀬戸内町
に老人ホームが三つできることになったんです。
先週、「加計呂麻独立論」というレポートを書き上げて、伊藤鹿児島県知事の所に
陳情に行ってきました。「フェリーを乗り継いで、丸一日かけて、今朝ようやく鹿児
島港に着きました。知事さんは一島一自治体が望ましいと言っておられる。そうであ
れば、加計呂麻を一自治体をして認めていただきたい。古仁屋から役所をもってきて
いただきたい。」と陳情しました。
これは、分村とかそういうのではなくて、見方を変えてみようという発想です。あ
と六年すると、古仁屋の町は名瀬から三十分で来られるようになります。空港から四
十五分で来れる時代が必ず来ます。網之子(あみのこ)に奄美一の長いトンネルが完
成しますから。そして、高速船で一時間で徳之島に行けるようになる。そうなった時
には、古仁屋の役場なんかなくなるんです。でも、そうなっても、海を隔てている加
計呂麻はひとつも近くならない。だから、その時にそなえて、いまこそ加計呂麻の独
立論が必要なんです。
ホームページ
・加計呂麻バス有限会社
http://www17.ocn.ne.jp/~kake-bus/
・地球研の「日本列島の人と自然プロジェクト」 http://www.chikyu.ac.jp/rihn/pro/2004_5-3.html
(あんけいゆうじ、大学教員・http://ankei.jp
あんけいたかこ、大学パート教員)