英語論文と和訳)瀬戸内海・周防灘の生物文化多様性―「奇跡の海」の存続へ向けて―
2024/08/11
2024年8月4日改定
以下のような論文を発表しました。要旨のみ日本語です。
原文を添付します。
ウェブ上では、https://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yp/1835 で公開されました。
https://ankei.jp/yuji_en/?n=2866
https://researchmap.jp/ankeiyuji/published_papers/45512553 などでもお読みいただけます。
英語の原文をpdfで添付します。日本語訳も参考のためにつくって、添付してあります。もともと機械翻訳のものでしたが、三浦翠さん、林晴彦宮司など、可能なかぎり原文に忠実にした新しいバージョンもpdfで添付しました。
瀬戸内海・周防灘の生物文化多様性―「奇跡の海」の存続へ向けて―
安渓遊地・安渓貴子(生物文化多様性研究所)
瀬戸内海は、東アジアで最大の内海である。非常に豊かな生物多様性と、それに支えられた漁業の栄える、美しい自然がそこにはあった。その生物と伝統文化の豊かさは、戦後の高度経済成長の中で急速に失われた。生物学者の調査によれば、瀬戸内海の中で、奇跡的に多数の生物種が絶滅を免れて生き残っているのが、西の端の周防灘なのである。その周防灘に1982年から建設が計画されている、中国電力の上関原子力発電所計画は、現在までかろうじてのこされてきた生物多様性をおおきく損ねるおそれがある。この論文では、山口県知事による、「生物多様性を有する地域であるから科学的な環境影響調査を」という意見が、どのように作成されたかを明らかにする。さらに、祝島の神舞や、神社用地の原発への売却などの事例を通して、地域の独自の文化の多様性が、原発計画を押し止めるためにどのような役割を果たしてきたかを示して、原発にたよらない地域の未来を展望する。
はじめに
2011年3月11日の東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故は、放射性物質を世界中に拡散させた。2023年11月1日現在、2万6,000人以上が故郷に戻れず避難生活を余儀なくされている(福島復興ポータルサイト)。
それから13年後の2024年1月1日午後、石川県能登半島をマグニチュード7.6の地震が襲った。2024年1月13日現在、石川県では220人が死亡、26人が行方不明となっている。今回の地震とその後の津波は、石川県、富山県、新潟県の各地を襲った(Wikipedia、2024年能登半島地震)。また、能登半島北西部の海岸が90kmにわたって最大4m隆起した(Davis, 2024)。日本海側の原子力発電所はおおむね安全と発表された(Johnston, 2024)。しかし、能登半島のふもとで1993年から商業運転を続けていた志賀原子力発電所からは、沿岸の隆起はわずか7kmしか離れていなかった。つまり、福島第一原発の事故以来停止していたにもかかわらず、使用済み燃料を冷却できない臨界事故が発生する可能性があったのだ。さらに、地震が最も強かった珠洲市は、かつて原子力発電所の建設予定地だった。28年にわたる地元住民の反対運動の末、2003年にようやく建設が断念された(北野、2005年)。もし珠洲市に原子力発電所が建設され、震災時に稼働していたら、福島第一原発事故に匹敵する極めて深刻な原子力災害を引き起こしていただろう。
日本各地には、地元住民の反対で建設が見送られた原子力発電所計画がある。その中で最も古いのは、中国電力(中国電力)の上関原発計画である。瀬戸内海の西部に計画された(図1)。この計画を住民がどのように阻止したかについては、主に日本語で書かれたいくつかの報告書がある(朝日新聞山口支局、2001年、安渓遊地、2003年、三浦、2005年、那須・福島、2007年、日本生態学会上関アフターケア委員会、2010年)。福島第一原子力発電所の事故後、上関町は大きな注目を集め、日本語だけでなく英語やフランス語でも多くの報告書が出版されている(山口, 2011, 安渓・安渓, 2011, 安渓, 2012a, 山秋, 2012, Dusinberre, 2012a, 2012b, 山戸, 2013, 益山, 2014, Pelletier, 2021)。Dusinberre(2012b)は、詳細なミクロヒストリーのフィールドワークに基づき、NIMBY(私の裏庭以外へ)の反対語としてDIMBY(ぜひ私の裏庭に)という言葉を用いて、上関町の多数派が原子力発電所を積極的に迎え入れようとしてきた社会的・経済的背景を分析した。
さらに2023年8月、上関町長は、関西電力が福井県内で運転する数多くの原子力発電所の使用済み核燃料と、中国電力の島根原子力発電所の使用済み核燃料を、長島の上関原発建設予定地に「中間貯蔵施設」として設置する案を発表した(図2)。この新計画は、上関町長の財政支援要請を受けて中国電力が発表したものである。この計画については、原発立地に賛成していた上関町民の59%が反対し、周辺自治体の首長もそろって上関町長に反対する立場を表明するなど(伴、2024年)、原発そのものの長期的な危険性について大きな論争を巻き起こしている。そのような中、能登半島の活断層による巨大地震が発生したが、地震学の専門家は誰も予測していなかった。
原子力発電所が建設された場合、経済的利益は得られるが、それは原子力発電所が設計、建設、運転される短期間だけであり、迷惑行為を受け入れる対価として、そのお金の大半を受け取るのは、原子力発電所が立地する地域に住む人々だけである。その代償として、住民は以下の2つのリスクにさらされる。(1)原子力発電所の周辺地域が生物多様性に富んでいる場合、適切な環境アセスが実施されないと、通常運転や事故時に、地域住民の生活を支える生態系そのものに不可逆的かつ壊滅的な影響を与える危険性があること、(2)悪影響は生態系にとどまらず、地域住民が受け継いできた生活文化の多様性そのものに及ぶこと。
そこで本研究では、以下の2点に焦点を当てる。(1)上関原発の環境影響評価(環境アセス)が適切に行われたかどうか、(2)日本の伝統的な文化観の中で自然神を信仰する人々が、地域社会の前で原子力発電所計画に対してどのように対処してきたか。これら2つの知見を総合して、自然研究、自然保護、自然神信仰は、それぞれ別の活動ではなく、互いに密接な関係を保ってきたことを論じる。
本研究は、東アジア最大の内海である瀬戸内海の生物多様性と文化の多様性を歴史的に描く試みである。瀬戸内海は元来、人と自然が共存する場所であり、豊かな生物多様性に支えられた漁業と、そこから生まれる息を呑むような美しい景観があった。1970年代以降、瀬戸内海の豊かな生物多様性は、埋め立て、海砂採取、工場排水、火力発電所の温排水など、さまざまな悪条件によって著しく損なわれてきた。現在では、1985年に運転を開始した愛媛県の伊方原子力発電所、1982年から計画されている山口県の上関原子力発電所(朝日新聞山口支局、2001年)、そして、人命や環境に被害を与える可能性があるにもかかわらず、2024年初めに実現可能性調査が許可される予定の、使用済み核燃料の「中間貯蔵施設」(藤井、2023年、伴、2024年)による放射能汚染が懸念されている。瀬戸内海は、瀬戸内海法および国立公園法によって保護されているが、絶滅危惧種が繁殖できる場所として本来の生態系を保っているのは、瀬戸内海の西端にある周防灘だけである(加藤、1999;安渓遊地、2012a)。図3は、1860年に来日したプラントハンター、ロバート・フォーチュン(1863)が瀬戸内海を航行した際に見た、人間の営みと美しい自然景観が共存する上関港である。図4は、瀬戸内海で国の天然記念物に指定されている希少種が失われていることを示している。希少種や絶滅危惧種の中には、今も周防灘にしか生息していないものもある。また、周防灘は、瀬戸内海で唯一、スナメリの繁殖と子育てが継続的に行われている場所である(加藤、2010)。
東京電力福島第一原子力発電所の大事故は、1982年以来地元の反対運動によって建設が阻止されていた上関原発計画を停止させた。上関の住民反対運動から数年後、山口県の反原発運動の市民組織「原発いらん!山口ネットワーク」は1987年に設立され、山口県内外で反原発活動を展開している。「長島の自然を守る会」(現「上関の自然を守る会」)は1999年に設立された環境保護団体である。
ここでは、上関原発予定地のユニークな生物多様性に関心を持つ科学者たちの、あまり知られていない活動について述べたい。本研究の著者である我々は、長島の自然を守る会が結成される以前から、上関原発予定地の生物多様性に関する調査研究に従事し、日本生態学会を中心とする多くの学会や、様々な生物種を専門とする研究者への情報提供や研究成果の普及を担ってきた。
日本生態学会とその下部組織は、中国電力株式会社(中国電力)および国・地方公共団体に対し、計8本の意見書・決議文(うち1本は日本鳥学会保全委員会、日本ベントス学会保全委員会との共同提出)を提出してきた。この報告を執筆した私たちは、上関原発に関する日本生態学会の8つの決議文・声明文のすべてについて、草案の執筆から最終版の改訂に至るまでを担当した。
これらの活動の概要については、すでに安渓遊地(2012a; 2012b)が英語で報告している。以下では、まず上関原発建設計画の環境影響調査の現状に焦点を当てる。次に、上関町および周防灘地域の人々が、日常生活と経済活動の中で生物多様性を維持してきたメカニズムを考える上で、文化的側面として伝統的な信仰を取り上げたい。これらの結果を踏まえ、今後、瀬戸内海の生物的・文化的多様性を保全するために、原子力発電所以外にどのような可能性があるのかを議論したい。
1.上関原発プロジェクトの環境影響評価
本研究の著者の一人である安渓貴子は、1996年から2006年まで、植物学と生態学の専門家として山口県環境影響評価技術審査会の委員を務めた。中国電力の上関原発の環境影響評価(環境アセス)は、原子力発電所の環境影響評価を国ではなく、立地する県の審査会で審査した初めての例であった。しかし、上関原発の環境アセスは、新法の目玉である「方法書(スコーピング)」を欠いているという根本的な欠陥があった。審査プロセスへの積極的な参加を通じて、私たちは、原子力発電所の建設予定地である長島が位置する瀬戸内海の周防灘の比類ない生物多様性を知った。この生物多様性はまた、近隣の海域を持続可能な方法で利用してきた地元の人々が自然環境と作り上げてきたかかわりのあり方の素晴らしさにも気づかせてくれた。
私たちは1986年から1988年までの1年半、当時4歳だった息子とともにパリに滞在し、人間と自然の関係を研究するとともに、1978年から始めたコンゴ民主共和国とマリでの地域研究を深めた。しかし、私たちのフランス滞在は、1986年4月のチェルノブイリ原発事故直後から始まった。フランス国民は原発事故を非常に心配していたが、フランス政府の公式発表では、事故の影響は「無視できる(négligeable)」の一点張りであった。私たちはこの経験を通じて、政府の発表を鵜呑みにするのではなく、市民が自ら情報を得ることの重要性を学んだ。
安渓遊地は1982年から山口大学で教養科目として文化人類学を教えていた。しかし、1988年10月に日本に戻ったとき、私たちの大学の同僚や山口県の知識人のほとんどが、原子力発電や放射性物質の環境への影響について知らず、山口県で計画されている上関原発計画ににも無関心であることに失望させられた。
日本の原発に関する情報が徐々に集まるにつれ、山口県の市民運動「原発いらん!やまぐちネットワーク」が結成され、山口県内で活動するようになった。1995年、安渓遊地は国立の山口大学から規模の小さな山口県立大学に移った。当時の私たちの目標は、原発の電気を使わなければならないような大都会に住むことではなく、できるだけ田舎で自給自足の生活を送り、「半農半教員」のライフスタイルを追求することだった。大学での授業や学生とともに地域に出る実習に加え、私たちはアフリカで学んだ地域に根ざした持続可能なライフスタイルを目指した。
1995年の夏、私たちはネイティブ・アメリカンの運動指導者デニス・バンクスが率いる反核・平和運動「セイクリッド・ラン'95」が、核廃棄物の貯蔵が計画されている北海道の幌延から広島・長崎まで、ランナー間で「スタッフ」と呼ばれる聖なる羽根のバトンを渡しながらリレーをすることを知った。私たちは、大学生や高校生と一緒に上関から徳山まで「ブランチ・ラン」を走った。伴走の自転車には、祝島の幟(のぼり)を借りてくくりつけた。幟には「上関原発絶対反対」と書かれていた。
しかし、このような反原発運動はマスメディアにまったく取り上げられなかった。後に「原子力ムラ」と呼ばれるようになる原子力産業が、巨大な資本力と政治的影響力で日本のマスメディアを支配していたからだ。私たちは、少数派の反原発運動を推進しても、その活動を世間に知らしめるには限界があることを悟った。日本ではまだインターネットが普及しておらず、もちろんSNSも携帯電話もない時代だった。
1999年1月、中国電力は上関原発の環境アセス書類を山口県に提出した。その時点で、私たちは上関原発に反対する市民運動からはいったん身を引くことを決めた。特に、貴子は中立の立場から、原発の環境アセス書類の学術的な審査を行うことになっていたのだから。山口県環境影響評価技術審査会は、環境影響評価法施行直後の1999年6月17日に山口県知事から諮問を受け、短期間に7回(異例の回数)の会合を経て、1999年11月16日に知事に答申を提出した。審査会の答申は、そのまま「山口県知事意見」として通産省(現経済産業省)に提出された。
以下は、1999年11月25日付けで通産省に提出された山口県知事意見書「上関原発(1、2号機)の環境影響評価について」からの抜粋である。
総論:この地域は、上関原子力発電所予定地の一部とその周辺地域で重要な動植物が確認されており、様々な種類の漁業が行われているため、生物多様性に富んだ自然環境を有している。
また、「瀬戸内海環境特別措置法」が適用される海域の埋め立てを伴うことから、同法の基本方針を踏まえ、海洋環境の保全に十分な措置を講じる必要がある。
また、次のようにも記されている。ハヤブサ、スナメリ、希少貝類の生物調査、生物調査が実施されていない地域(主に土地区画)での補足調査、科学的予測と評価、環境保護対策、予測の不確実性を補うための追跡調査などである。
実際、中国電力が上関原子力発電所の環境アセス文書で言及しなかった種は以下の通りである:カンムリウミスズメ(Synthliboramphus wumizusume、国指定天然記念物、環境省絶滅危惧種)、ハヤブサ(Falco peregrinus japonensis、環境省絶滅危惧種)、スナメリ(Neophocaena phocaenoides、IUCN絶滅危惧種)、その他の希少種であるヒガシナメクジウオ(Branchiostoma japonicum)、ヤシマイシン近似種(Tomura sp.)、カサシャミセン(Discinisca sparselineata)などの希少種がいる。
これらの種に加え、生息・繁殖していることが最近になって発見された希少鳥類として、カラスバト(Columba janthina janthina、国指定天然記念物)、ウミスズメ(Synthliboramphus antiquus、環境省準絶滅危惧種)、オオミズナギドリ(Calonectris leucomelas、山口県準絶滅危惧種)。内海でのオオミズナギドリ個体群の繁殖は初めての記録である(以上は、安渓、2012bからの引用)。図6は、上関原子力発電所建設予定地の里山に生育する希少植物の一例として、環境省の絶滅危惧種に指定されているキンランを示したものである。図7〜図15は、中国電力の最初の環境アセス文書には記録されていないが、上関原子力発電所建設予定地の森林や海洋の里海環境周辺で発見された希少種や絶滅危惧種の動物を示している。
これらの生物種は、1999年に改正された環境影響評価法(環境アセス法)の「方法書」の段階でアセス文書に盛り込まれるべきであった。このような山口県知事の批判的意見を受け、通産省(現、経済産業省)は2000年3月3日、「準備書」が不十分だとして、中国電力が「追加調査」を行うように指示した。中国電力は、1999年11月25日に通産省に出された山口県知事の意見を受け、通産省の勧告を待たずに自主的に調査することを表明した。2000年1月20日、中国電力は、山口県知事の意見書で指摘された動植物に関する13項目のうち、8項目について追加調査を行うと発表した。
中国電力は、2000年1月から2000年夏までの追加調査の結果を、2000年10月18日に「上関原子力発電所(1、2号機)環境影響評価中間報告書」として通産省に提出した。2001年6月、中国電力は「上関原子力発電所(1、2号機)環境影響評価書」を通産省から名称変更したばかりの経済産業省に提出した。
日本生態学会は、中国電力が追加調査を開始した2000年3月と、追加調査の中間報告が出された2001年3月の2回、中国電力と関係機関に「要望書」を提出した。これらの「要望書」が提出されたのは、中間報告で追加調査の結果にかかわらず、いずれの項目についても「影響は少ない」とされたためである。2009年3月、日本生態学会の総会は「上関原発の建設中止」を求める3回目の決議を行い、日本生態学会はこの要請に対する社会的責任を果たすため、「自然保護専門委員会」の下部組織として「要望書アフターケア委員会」を設置した。上関原発要望書アフターケア委員会」は、安渓遊地を委員長とし、安渓貴子ほか多くの専門家を委員として、2000年3月に発足した。日本生態学会が実施した独自調査には、専門分野の研究者が「アフターケア委員会」のメンバーとして参加した。日本生態学会中国四国支部は、地方支部としてこの活動を支援し、日本生態学会の年次大会に時期を合わせず、この運動に対する声明文を提出した。日本ベントス学会も2000年12月に「意見書」を提出した。それぞれの学会からの意見書は、それぞれの専門的見地から個々の事例を記述したものであったが、山口県知事意見書で求められている「科学的理解と環境の保全」が実現されていないことでは一致していた。
2001年6月に中国電力が提出した環境影響報告書は、経済産業省によって直ちに承認された。しかし、その内容はこれらの学会・委員会の要望を完全に無視したものであり、結果として知事の意見に沿うものではなかった。
この民間によるもうひとつの環境アセスの試みは、自然保護を求める市民運動にも影響を与え、1999年には、日本生態学会、日本鳥学会、日本ベントス学会などの会員である研究者と密接に協力して、「長島の自然を守る会」(現在の「上関の自然を守る会」)が結成された(安渓, 2003; 安渓・福田, 2003)。このグループは、日本の研究者、後には海外の研究者とともに、上関原子力発電所予定地の自然の価値に関する情報を発信しつづけている。
2000年4月に始まった日本生態学会のアフターケア委員会の調査には、徐々にさまざまな分野の研究者が集まってきた。彼らは、上関原発予定地とその周辺の予想外の生物多様性の高さに驚いている。この委員会に属する研究者グループは、2001年と2006年の2回、日本生態学会会員向けに論文集を出版した。田ノ浦海域が、瀬戸内海の原風景と生物多様性を保全する希少なホットスポットであることを、会員たちは互いに確認し合うことができる内容であった。調査開始から10年後、広島平和記念公園で上記3学会合同の「上関フォーラム」を開催。研究成果の一般市民との共有を始めた。同様のフォーラムは東京と名古屋でも開催された。危機にさらされる生物多様性を保全するためには、研究者だけでなく市民も一緒になって取り組まなければならないことが、次第に明らかになっていった。
2010年10月、名古屋で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)に合わせ、私たちは、2000年から10年間の研究成果をもとに、上関の自然の価値を世界に発信することにした。そこで、これまでの研究者による上関の生物多様性に関する調査研究成果を一冊にまとめ、出版することにしたのである(日本生態学会上関要望書アフターケア委員会、2010年)。本のタイトルは『奇跡の海――瀬戸内海・上関の生物多様性』とした。以来、この地域が奇跡的に本来の瀬戸内海の生物多様性を保ち、絶滅危惧種や新種が発見される生物多様性保全のホットスポットであることが広く知られるようになった。
この本の中で、安渓貴子(2010)は、上関原子力発電所の環境アセスのプロセスを批判的に紹介した章を書いた。安渓遊地(2010)は、瀬戸内海全体の生物多様性、それを支える生業活動、伝統的な信仰や祭りといった文化的側面の重要性を指摘した。
生物多様性と、それと共存してきた地域住民の文化的多様性は密接な関係にある。この事実を認識し、「生物文化的多様性」という言葉が生まれた。この用語はかなり一般的になってきているが(例えば、Hanspach, et al., 2020によるレビュー)、ほとんどの場合、「生物学的多様性と文化的多様性」の略語として使われているにすぎない。安渓遊地(2002: 14)は、「生物文化的多様性 (biocultural diversity)」という用語を提唱し、以下のように定義づけた。"地域固有の文化的価値観や行動様式によって維持されてきた動植物の集合体であり、そうして維持されてきた生物多様性に依存して暮らすことが、また地域の文化(価値観と行動)の多様性を支えてきた"。本研究では、このように、相互に依存し合う生物と文化の多様性の意味でこの用語「生物文化多様性」を使用することにする。
2.自然の聖域とその生物文化的多様性
近年、人々や地域社会にとって特別な精神的価値を持つ土地や水域が、生物多様性の保全に果たす役割が世界的に注目されている。国際自然保護連合(IUCN)は、いわゆる「自然の聖域」の重要性に注意を喚起するため、世界中から27の事例を集めた本を作成した(Verchuuren et al., 2010)このような自然の聖域は東アジアに多く見られる(例えば、李、2020)。日本では、列島の北から南まで信仰の聖域として大切に守られてきた鎮守の杜(もり)が、生物多様性と文化の多様性の保全に極めて重要な役割を果たしてきたことが知られている(Rots, 2013)。
Yanagi(2012)は、里海を「生産性が高く生物多様性の高い、人の影響を受けた沿岸の海」と定義している。これは、陸上でよく知られている里山の概念を海に応用したものだが、日本では古くからある概念である(Berque & Matsuda, 2013)。瀬戸内海は古来より人間の生活と密接に関わり、里海としての役割を長く維持してきた。縄文時代には、海の恵みが沿岸の魚介類の収穫を通じて利用されていただけでなく、海路が長距離交易にも利用されていたことを示す考古学的証拠がある。瀬戸内海は長い間、沿岸の人々に海上交通や輸送、海産物、塩、海水浴や海辺での採集などのレクリエーション活動のために海の恵みを提供してきた。瀬戸内海は、人間の労働力が加わったことにより、生物生産性と生物多様性の高い沿岸海域となっている。次に述べるように、周防灘では、高度経済成長によって破壊された里海としての瀬戸内海が健全な状態で残っている。
上関原発の建設予定地である田ノ浦の水田跡地を囲む照葉樹林は、もともと里山として利用されていた。10ヘクタールに及ぶ神社地は、保存状態の良い里山であると同時に鎮守の杜でもある。
祝島の住民は、上関原発計画に最も果敢に反対してきた。祝島の民家からわずか3.5kmしか離れていない田ノ浦の建設予定地を見ると、ここが太陽が昇る場所であることに気づく。昇る太陽に手を合わせ、感謝の祈りを捧げることは、日本人にとって最も普遍的で基本的な宗教的行為である。彼らが毎日拝んでいる場所に原子力発電所が建設されるということは、祝島の人々が太陽ではなく原子力発電所を拝むようになることを意味する。周防灘の絵を生涯描き続けた画家・松田正平(1913-2004)は、「祝島から昇る朝日は、拝みたくなるほど美しい」と語っている(優子、2015、vol.1: 95)。また、漁師にとっては、ここは豊かな漁場であり、伝統的な一本釣りの餌を釣る場所であり、汚してはならない海である(山戸, 2013)。
このように、精神的価値を含む「奇跡の海」に生きる多様な生き物は、2000年にわたる人間の営みを含む多様な関係の網の目によって形作られた生物多様性を形成しているのである。
田ノ浦を訪れるたびに、さまざまな生き物の声に耳を傾けることは実に楽しい。安渓遊地(2001: 63)は、上関原発の建設予定地を初めて訪れたときのことをこう書いている。
初めて長島・田ノ浦の磯に立った時、岩礁についている貝やフジツボにしても、フナムシにしても、その数が多く、形も大きいものが多いのに驚きました。そして、磯から渚に向かおうとした時、何者かがいっせいに私を凝視しているような不思議な感覚に襲われました。ふりむくと、そこにはたくさんの生き物たちの目がありました。生物の専門家や自然大好き市民たちとともに、田ノ浦の生物の記録をとりながら、私はふと思いついて、潮水をすくって味わってみました。えもいわれぬまろやかな甘みとうまみ。たくさんの生き物が元気に暮らしている海というのは、こんなにもすてきな味がするということに打たれました。あの日から私は、長島の自然がすばらしいということを肌で感じて、そのすばらしさをなるべく多くの人々に伝えたいという強い願いをもつようになったのでした。
祝島を訪れた時には、島の女性たちが波止場に腰を下ろして、ざるに入れたウニを海に浸して洗っておられる様子を見ました。食用にする卵巣以外の黒い所を、箸でつまんでは前の海に捨てていくなにげない仕事です。ところが、驚いたことに、ざるの前には、2尺もある大きなボラが何匹も群れているのです。逃げないボラに声をかけて背中をなでてみたり、まるでよく慣れた池のコイに餌をやっているような光景です。たくさんの漁船がもやってある、もっとも海が汚れやすい港なのに、底まで見えるような澄み切った潮水で食べ物が洗えて、そこに大きな魚たちや、希少な貝たちが生きているのです。
私は、この光景を見た時、ただちに屋久島の楠川〔くすがわ〕という村で聞いた話を思い出しました。昔は、溝を清水が流れていて、島びとたちはその水を大切にし、一番下の海辺に近い所でも魚を洗って刺身が切れるほどきれいだった、ということでした。水道が普及し、便利になって水への感謝の気持ちが薄れるにつれ、溝も次第に汚れるようになってしまったというのでした。
水、空気、太陽など、ごくありふれて身近だけれど、それなしには生きられないものに感謝する習慣。それが薄れると、それに伴って環境は汚染されていく。もともと日本列島に住む人々は、生きとし生けるものすべてに神(カミ・カムイ・カン)が宿り、人間も草木や虫や魚などの宇宙の一員にすぎないと考えていた。この思想は時にアニミズムとして否定され、時に「ディープ・エコロジー」として西洋の新しい革袋に入れられて注目されてきた。田ノ浦と上関の島々は、山川草木などあらゆるものに神が宿るという汎神論の世界観を感じ、実践できる神聖な空間として、世界中の人々に大切にされる場所のひとつになると信じている。
三浦翠さんは、そうした伝統的な世界観を大切にする私たちの友人だ。彼女は夫とともに「原発いらん!山口ネットワーク」を立ち上げた。私たちは以前、大学の授業で彼女に経験を話してもらったことがある。彼女は自分が上関原発に反対する活動をするようになった経緯を次のように説明した(三浦、2005)。
私の夫は、少年の時広島で被爆し、当時は高校の教員をしていたのですが、思うところがあって、暮らしの拠点を、私が育った山口県の鹿野(かの、現在は周南市)という山の中の小さい村に移しました。そしてわたしは無農薬で小さな畑や田んぼをつくって暮らし始めました。30年近く前のことです。
そこで私たちは農薬や除草剤や化学肥料を一切使わない有機栽培に挑戦しました。稲を刈り取った後、春になるとそこに、レンゲがいっぱい咲きます。レンゲの中に寝ころんで空を見ていると、そこはそのまま宇宙なんですよね。宇宙があって、地球があって、そこに私がいるという感覚です。「これで良いんだ。もう他に何もいらない」という感じで、すごく満たされます。本当に幸せにしていたんです。畑に行けば野菜、田んぼではお米が穫れる。安心して暮らして、すごく幸せでした。
お茶も自給しています。自分で少しずつ収穫して、加工もして一年分のお茶にして飲むんです。
そんなとき、チェルノブイリ原発の事故がありました。1986年の4月26日のことでした。その時は、8000キロも離れた所のことだし、そんなに気にもかけず、それまで通りに暮らしていました。ところが、一年ほど経って日本にもチェルノブイリの放射性物質が降ったこと、それがお茶の葉などにもかなり付着していたことを知らされたんです。もうすっかり飲んだあとですよ。
その時、私はすごーく腹が立ちました。「この小さな田んぼが私の宇宙」という幸せは、目の前の小さな田畑を大事にしているだけでは守れないということに気づいたんですね。チェルノブイリの事故があって初めて、原発がどういう物かを実感できました。8000キロ離れていても「お隣」だし、私はチェルノブイリの被害を受ける「地元」に住んでいたんですね。
その当時から山口県では、瀬戸内海の上関町・長島というところに原子力発電所計画がありました。こういう物が近くにできることは、大変なことだ。どうにかしなくちゃいけない。と強く思うようになりました。夫と相談して「まず、自分たちの足下に原発を作らせないように、何かをすることが大切だ」と考えて、二人で動き始めました。とはいっても、自分達だけでは何もできないわけで、夫のサークルの仲間とか、いろんな事をいっしょにやっていた友達とか、知り合いに呼びかけて、集まって始めたのが、「原発いらん!山口ネットワーク」です。会の名前もみんなの提案で決まったんです。初めてのことばかりで、何をしたらいいか分からない中で、色々なことをしてきました。手探りで何でもやってみるというのが、私たちのやり方でした。講演会とかを開いて、みんなで原子力発電のことを勉強するに従って、知らずにすごしていた大切なことや、現場の人しか知らなくて一般には隠されていることとか、様々なことを知ることになりました。
祝島の氏本長一さんは、2011年の取材時には豚を飼っていた(安渓・安渓、2016年)。インタビューの中で彼は、4年に1度行われていた伝統的な祭り「神舞」が、原発賛成派と反対派に住民が二分されたために2度にわたって中止されたこと、そして祭りが復活したことで、祝島の未来が見えてきたと語っていた。Dusinberre(2012a)は、この祭りが復活した社会学的背景についても述べている。私たちに、氏本氏は次のように語った。
最近の日経新聞に、50過ぎの上関の漁業者の人が、なぜ上関原発を受け入れようと思うのかという記者の質問に答えて「人並みの生活がしたい」と言ったという記事が載っていました。でも、祝島の人たちは、この自然に支えられた自分たちの暮らしが、実は人並み以上なんだと気付きかかっているんです。何十億円もの身になじまないお金をもらって、いったいどうなるのよ。
千年も昔からやっている、祝島の「神舞(かんまい)」という神事があります(図17)。今は四年おきにやっていますが、これにだいたい1000万円かかります。そのお金は、毎年つみたてて準備しておくんです。そして、島を出ている人たちもその時だけは必ず島に戻ってきて参加します。もし戻れないと、大切な神舞の時に島に戻れないほど身を持ち崩しているのか、と思われかねません。祝島の人たちは神舞があるおかげで、「今さえよければ」とか「自分さえよければ」というようなバクチ的な感覚でなくて、四年後にもちゃんと島に戻れるように暮らそうという、地味だけど堅実な生活感覚に自然になってくるんです。
ですから、上関原発をめぐる対立が島の中にもちこまれて、一時期二回にわたって神舞を中止せざるを得なかったときが、祝島にとっての本当の危機だったと思います。それが再開できた時、祝島が生き延びられる可能性が再び見えたのだと思います。
大分県の伊美(いみ)別宮社からのお神楽をお迎えするために、祝島から櫂伝馬(かいでんま)という船を出します。僕が島にいた頃は、四隻でしたが、いまは二隻出すのがやっとです。高齢化で漕ぎ手も足りませんから、前回から島外の人たちにも手伝ってもらってやっています。
こんな祝島の暮らしにあこがれて、島に住みたいという人たちも少しずつ増えてきました。僕のようなUターンもいるし、いわゆるIターンもいます。僕の個人的なネットワークで訪ねてくる人もいるんですけれど、個人で引き受けるのではなく、自治会や、すでにUターン・Iターンで入っている人たちとの面談で十分情報交換していただいてから、双方納得の上で入っていただくというようにしています。
いろんな人がいるのは良いことです。纐纈彩さんの映画『祝(ほうり)の島』にも出てきた平万次さんのおじいさんが30年かけて人力で開いた棚田の一段9メートルもある石垣をご覧になりましたか(図18)。その場で出てきた石を人力で組んであるんですけれど、その石の組み方を見ると、そこに頭の柔軟さそのものがあると僕は思うんです。やや話は飛躍しますが、この石を組んだ頭の柔軟さと、誰もがそれぞれになんらかの役割を担う神舞にみられるような、祝島というコミュニティの成り立ちとの間に共通性があると僕は感じています。つまり、いろいろな石(人材)のすべてを生かして組むんです。
祝島滞在の2日目の朝は、島に移住してきた若者たちとともに、祝島神舞奉賛会代表の橋部さんの畑で、氏本さんの放牧豚たちのそばに防風のための木の苗を植えさせてもらった。海からの強い風をさえぎって、来年に迫った神舞で荒神様に捧げる五穀の一つの豆をつくる計画だという。祝島の暮らしには、季節のめぐりにそった段取りがあり、島にゆかりの人々は、それを積み重ねて四年ごとの祭に結実させ、そのようにして千年の昔から島の土地と海の恵みに生かされてきたのだった。
上関原発の建設予定地として長島の神社の土地が売却されることに反対し続け、偽造された辞表によって意に反して解雇された林春彦宮司が、不慮の死を迎える前に書いた文章から、宗教者として原発に反対する理由を説明した最後の部分を引用する(林、2002)。私たちは、ここにも宗教的宣言という形で「流域の思想」の生きた姿を見出すことができると信じている。
瀬戸内海に浮かぶ長島、山口県熊毛郡上関町の四代地区にわが国最後の原発といわれる上関原発が建設されようとしている。計画が公表されて20年、原発の是非をめぐり、肉親の間ですら対立が続いている状態である。のどかで平和であった村落が未曾有の事態となってしまった。わずか100戸ばかりの村落において、住民同士の裁判が3件も係争中なのである。
小さな町におよそ450億円もの大金が投下されたといわれる上関町においても、多くの住民は放射能被爆の恐ろしさに日々、不安をいだいている。いったん事故が生じれば、山口県のみならず、四国・九州にわたる広大な瀬戸内海地域に暮らす人びとの生死にかかわる問題である。東海村やチェルノブイリのあの大惨事は、二度と繰り返してはならない。ここに述べるまでもなく、東海村の臨界事故で被曝された方々の苦しみは、いったい誰がいかなる方法で何を償うことができるというのであろうか。倒れし人びと、傷つきし方々の、苦難の人生は、いったいどうなるのであろうか。再び健康な身体を恢復することはできない。かけがえのない生命が毀損されたのである。
八幡宮の神社地が売却されてしまうと、直ちに調査・着工という段階に立ちいたってしまう。だからこそ、原発立地のために神社地を売却することはできない。自然環境が著しく破壊され、人類の生存すら危ぶまれる状況のなかにあって、神社界もまた鎮守の森や神社土地を護り、公害から地域住民を守ることが、喫緊の課題とされているわけである(「神社本庁規定類集」)。
原発は公害の最たるものである。公害の最たるものに神社地を売却することができないのは、当然の論理である。東海村やチェルノブイリの大惨事を顧みれば明らかなごとく、神社地を売却することは、人道に悖ることであり、人間の基本的生存権を奪いかねない暴挙といえよう。八幡宮を預かり、村落の融和と永続を願うことを勤めとしなければならない当職としては、まことに憂慮に堪えないところである。
鎮守の森・神社地は誰のものか? 鎮守の森や神社地は、現代の法制度の下においてこそ一宗教法人の所有ということになっているが、理念的な観点からみれば、村落共同体に帰属すべきものであり、村の共有地や入会地などともきわめてよく似た所有形態の性格をもつものなのである。
縄文・弥生の生活文化の要素をとどめる八幡宮の歴史を述べる余裕はないが、原発立地の焦点となっている神社地は、そもそも四代地区の祖先の人びとの辛苦によって、神社永続のための基本財産として確保されたのである。神社地が、地域の人びとによって八幡山と愛称されてきたゆえんであろう。そもそも、このような歴史的由来をもつ神社地を現代に生きる者たちの短絡的な経済的利益によって売却できるはずがない。八幡宮の永続は、村落の永続を意味することでもある。
神社は、本来、そこに住まう人びとのものである。それゆえ、鎮守の森や神社地は、村の共有地や入会地などと同様にそこに暮らす人びとの手によって維持されてゆくのが理想的な在り方といえよう。かつてはそうであった。しかし、農漁村の活力の衰退は人心の荒廃をもたらし、その惨状は目を覆うばかりである。人びとの暮らしを支えてきた入会地も、高度成長期に入るころまでは全国的にみられた風景であるが、生活様式の急激な変化により、その言葉自体が聞かれなくなってしまった。以前、そこでは人びとが森林や原野を共有し、薪炭や牧草を採取していたのである。入会地が活用されなくなった現在においては、漁場こそ、まさに入会という言葉に相応しいであろう。 八幡宮の神社地の眼下にひろがる入り江一帯は、日本生態学界が調査に入るなど、世界的にも稀有な貝類が発見されている海の宝庫である。海ならばどこにでも魚や貝が棲むなどというものではない。魚介類も人間と同じく生存の諸条件が整わないところには棲息しないのである。古来、神社地は自然のままにしておくことを慣わしとしてきた。その結果、神社地の森林が魚付林の機能もはたし、有数の漁場となったわけである。どれほど多くの人びとの生命を育む糧となってきたか、計り知れないものがあろう。まさに自然の恵みというほかない。
このような地域の人びとの暮らしを支える森や海は、近代の経済手システムでは、計量することのできない無限の価値をもつものといえよう。現在の金融システムがいつまでも機能しつづけるという保障は、どこにもない。信用性という体系においてのみ機能する貨幣を至上としたシステムの崩壊の時期は意外に早いかもしれない。その時、いったい人びとの暮らしはどうなるのであるか。
原発に反対して78歳の生涯を終えられた間登志子さん(「反原発地主の会」副会長)の「戦争で夫を奪われ苦難を強いられたが、あの戦後の困難な時代を生きることができたのも田畑や海があったからだ」という悲痛な言葉を、私どもは、忘れることはできないであろう。生活の糧をもたらしてくれる山や海を失えば、再び豊かな自然は蘇ってこない。もし原発が立地されることにでもなれば、縄文時代からつづいてきた四代という村落共同体は、おそらくこの地上から姿を消しさることになるであろう。
既述したごとく、鎮守の森や神社地は、村の共有地や入会地などともよく似た性格をもつものである。本来、神社はそこに住まう人びとのものであった。今日まで鎮守の森や神社地が護持されてきたのも、人びとの心にいだかれる自然や神々にたいする素朴な畏敬の観念によってであった。しかし、このような畏敬の観念が稀薄となれば、これを維持してゆくのは困難をきわめることになろう。現行の法制度の下では、神社地を維持してゆく管理上の責任の過半は、神職が負わなければならないのであるが、原発から神社地を護るということは、すなわち地域住民の安全を守る意に他ならないのである。
・・・・・・瀬戸内海地域に暮らす多くの人びとを塗炭の苦しみに陥れる、人間の生死にかかわる問題を、いったい誰が責任をとるというのであろうか。これが犯罪でないならば、世の中に犯罪というものはない。
当職に課せられた使命はただひとつ。地域住民の安全を守るために、その基盤となる八幡宮の神社地を護持することに懸命の努力を続けてゆくことのみである。
鎮守の森・神社地は、子々孫々に伝えゆくべきもの。宗教性が希薄とされる神社も、宗教の範疇以外のものではありえない。現代という思想状況のもとにおいて、宗教的な観念に意味があるとするならば、それは営利至上主義的な世俗の思考を超克するところにこそ、その存在価値があるといえよう。
一木一草のなかにまで霊的な生命の存在をみとめるのは、ひとり神道の思惟の根本形式であるばかりでなく、ひろくアジア的世界に生きてきた人びとの素朴な観念でもあった。仏教においても、殺生を厳しく戒めている。神社もまた言辞とするところは、まったく同じであるといえよう。生きとし生けるものの尊き生命と豊かな自然にまさるものはない。鎮守の森や神社地なるものは、その根本の理念にかんがみても、現代に生きる者たちのためにのみ存在するのではなく、遠い祖先より受け継ぎ、未来の子々孫々に伝えゆくべきものなのである。
2003年5月、安渓遊地をはじめとする日本生態学会のメンバーは、日本生態学会中国四国支部の決議を携えて神社本庁を訪れた。神社本庁の林晴彦宮司が反対していた神社の土地売却を不許可にしてもらうためだった。その時、安渓遊地は神社本庁の自然保護には関心のなさそうな若い担当者に、南方熊楠という人物を知っているか尋ねた。彼は、南方熊楠という偉大な博物学者・民俗学者のことは知らなかったので、説明を試みた。南方熊楠は和歌山県の熊野の森で粘菌の研究をしているうちに、粘菌が生息する森を保全する必要性を痛感した。そして、20世紀初頭(明治末期)に多くの小さな神社を整理統合しようとした国の政策である「神社合祀」に反対する直接行動を展開し、逮捕された(加藤聡1999)。このように、自然保護と伝統的な宗教施設の保護との深い関係を一般の人々に啓蒙しながら、生態系保全と神社の存続の架け橋となることを試みてきたという歴史があるのである。
3.展望東アジア最大の内海の恵みの持続可能な利用
「はじめに」で説明したように、2023年8月、上関町長は、上関原発の建設の見通しが立たないなか、中国電力と政府からの補助金の低下を打開するため、原発から出る使用済み核燃料の「中間貯蔵施設」を誘致するための調査を受け入れることを表明した。実は、4年も前の2019年から、町民には公表せずに、東海村の同様の施設を視察するなどして準備していたものだった。上関原発計画の時とは異なり、日本のエネルギー政策との連携構築には一切触れず、上関町の財政再建のためだけに受け入れる計画なのだ(小川2023)。「中間貯蔵施設」といいながら、核のゴミの最終処分場になる可能性が高い(藤井2023、伴2024)。いつどこで大地震が起きてもおかしくない日本で、核のゴミを最終処分できる場所はない。加えて、上関町周辺の自治体首長は、いまのところ、誰一人としてこの新しい計画に賛成を表明していない。
生物も放射性物質も、県境や国境といった人の引いた境界線では止まらない。上関町の人々の決断は、山口県だけでなく、世界の宝である奇跡の海である周防灘を含む瀬戸内海全体、そして太平洋という大きな自然の生物圏を汚染する可能性が高い。
私たちは、人間が作り出した地域や国家を超越し、従来の生き方とは異なる流域の思想に基づく新たな人類史を創造し、各バイオリージョンにおける生物学的・文化的多様性を復活させなければならないと考えている(安渓遊地、2012a)。
瀬戸内海が復活するためには、景観や文化への評価だけでは不十分だ。瀬戸内海が健全な生態系であるためには、大規模に破壊される前の生物多様性と遺伝的多様性をしっかりと保存する場所がどうしても必要なのだ。周防灘は、そのような瀬戸内海の復活のための遺伝子の種子のひとつとなるべき重要な場所である。さらに、人間と自然との関係の修復と復活のプロセスは、それ自体がエコツーリズムの大きなハイライトとなりうるものであり、上関は、世界遺産登録の射程圏内にあるはずである(安渓、2001: 63)。
利益相反
両著者とも、日本生態学会自然保護専門委員会および日本自然保護協会から上関町への旅費の助成を受け、上関の自然を守る会からフィールドワーク指導およびセミナー講師への謝礼、旅費・宿泊費の支援を受けた。
執筆分担
安渓貴子は環境影響評価のセクションを、安渓遊地はそれ以外の文章を書き、二人で全体の編集にあたった。
謝辞
日本生態学会、高島美登里さんをはじめとする「上関の自然を守る会」の皆さんには、上関でのフィールドワークをサポートしていただきました。地元の人々は、私たちに惜しみなく経験談や意見を聞かせてくださいました。聖なる自然の場所と、その地域に根ざしたガバナンスの研究にあたっては、総合地球環境学研究所(RIHN)のLinkageプロジェクトの支援を受けています。マイケル・ヒギンズ教授には、草稿を丁寧に推敲していただきました。これらすべての人々と機関に心から感謝の意を表します。
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