生態人類学会)島びとの描く宇宙観と生命観―画文集『ぬ‘てぃぬかーら・どぅなん(いのち湧く島・与那国)』の世界 RT @tiniasobu
2023/09/27
生態人類学会というあつまりがあります。
https://ecoanth.main.jp/
2023年3月に、うさぎと元毒ガスの島・大久野島であつまって、そこで安渓遊地・貴子で研究発表をさせていただきました。
その発表のあらましがニュースレターに載りましたので、共有しておきます。他の発表については、以下からお読みいただけます。 https://ecoanth.main.jp/nl/29.pdf
もしも以下の本文と、pdfに違いがある場合は、pdfが最新ですので、引用はそちらからお願いします。
【研究報告】
島びとの描く宇宙観と生命観―画文集『ぬ‘てぃぬかーら・どぅなん(いのち湧く島・与那国)』の世界
安渓 遊地・安渓 貴子 (生物文化多様性研究所)
0. 概要
与那国島の伝承者、和歌嵐香N子(わからんこ・えぬこ、1954年生まれ、敬称略)が伝承し、日々の生活と祈りの中で制作される、詩文や絵の中から、島の宇宙観と生命観につながる部分を選んで画文集として公開した。その内容は、他島との行き来が困難とみなされてきたこの島で、いかに島人が足元の資源を枯渇しないように持続的に利用し、予期せぬ気候変動などに耐えうるレジリエンスのある社会システムを構築してきたかを理解する手がかりになるものであった。
1. はじめに
1.1. 与那国島とは
与那国島は、日本列島最南端の八重山地方の中で最も西に位置する。最寄りの島は、西表島まで東に73㎞、台湾の蘇澳鎮まで西に111kmの位置にある。 黒潮のただ中にあり、周りを断崖に囲まれたこの島に船で渡る事は昔から難しいとされてきた。定期船や航空便が開かれる前の与那国島での生活はどのようなものだったのだろうか。東京の山手線の内側に相当する約28平方kmのこの島で手に入る限られた自然資源を持続的に利用して、人々が生活を続けてきた、その技術や社会システムはどのようなものだったのだろうか。また、干ばつや長雨、ときには大津波のような天変地異をどのように乗り越えてきたのだろうか。
農業を中心とした与那国島の生業の歴史を、安渓遊地はまとめたことがある(安渓1984)。 それによれば、1477年の済州島漂流民の見聞録にあるように、水田に稲を育て、1度播いて2度収穫するヒコバエ生育型の二期作をおこない、若干のアワを育て、家畜家禽としては、牛と鶏(後に豚とヤギと馬が加わる)を飼うという基本的な生業様式はすでに500年以上昔に成立していたことがわかる。16世紀に琉球国の支配に服し、17世紀からは人頭税を納めるようになった。首里王府からの八重山巡察のたびに、与那国島までは渡れない巡察使が、与那国島の百姓が働かず、上納も滞りがちであることを叱責する言葉が残されている。1894(明治26)年に与那国島を訪れた弘前の探検家・笹森儀助が、その時点で2年分の人頭税が未納になっていたことを記録している。
1895年に台湾が日本領となると、与那国島の人々は台湾を最も近い大都会のある島として、 出稼ぎに行くようになる。沖縄戦の後は、東アジア・東南アジアと沖縄を結ぶ貿易基地として大いに栄えた。ただし、台湾が植民地になる以前の交流関係については、非常に伝承が乏しい。
1.2. 「どぅなんむぬい」(与那国語)
与那国島には固有の与那国語がある。広い意味では八重山の諸方言に近いが、ユネスコの指定する危機言語の中では、日本列島の8言語のうち、八重山諸方言と並んで与那国語が独立して挙げられている(Moseley 2010)。母音音素の数にだけ注目しても、波照間島の7母音、石垣・小浜・新城等の6母音、竹富・西表等の5母音に対して、与那国語は3母音というきわだった特徴がある。母音音素が少ない分、子音音素は複雑化して、鼻母音や韓国語の平音と濃音のような対立が、か行とた行にあり、若い世代にはこうした発音そのものが十分受け継がれていない。
私たちは、1978年から西表島の人と自然の関係を研究したあと、在来稲の品種の研究のために八重山の各島をまわるうちに、古くから人が住んで、独自の言語や文化をもってきた島の中で、比較的孤立の度合いの強かったと考えられる与那国島でのフィールドワークを計画した。
2. 材料と方法
私達は、N子と三度しか対面していない。直に話ができた時間は、合計半日程度である。それにもかかわらず、初対面から33年の間に届けられた資料は、与那国語の語彙カード約4000枚を筆頭に、厚さ1mを超える伝承ノート、700枚の絵、祈りや歌の録音と動画など、膨大なものである。
2.1. 伝承者との出会い
伝統的な環境知識の体系の研究を目指して、4度目に与那国島を訪れたのが、1990年のことだった。1954年生まれの彼女は、私たちが教えを請うた伝承者たちの中では、もっとも若い世代に属している。にもかかわらず、その時点で4000枚近い与那国語彙カードを作成しており、それだけでなく、島の素材を生かした染織を業とする生活のなかに、古くからの伝承をいまに生きるものとして伝えている人物であることが分かった。
彼女の語彙カードをコピーさせてもらったのが一つの機縁となって、その後N子からは、島の伝承についてのメモを記したノートや、2007年以降には、昔ながらの生活や古い伝承のスケッチが届くようになった。2020年には、そのノートの量は1万ページに近づき、絵の数も700点を超えるに至った。何かを書き写したものではなく、ほとんどは、彼女自身の経験と記憶に基づくものである。
「島の記憶をあなた達に投げつければ、与那国島は沈まない」と彼女は言う。アメリカの支配から日本復帰への政治と経済と社会の激動の中で、忘却の海に沈もうとしている島ことばと伝承の数々を、なんとか記録に残したいという強い思いが感じられた。預かった記憶という責任の重さに背中を押されて、私達はこれを何らかの形にまとめることにした(注1)。
2.2. データベースから画文集へ
私達は1978年からのコンゴ民主(旧ザイール)共和国でのフィールドワークの成果であるソンゴーラ人の伝統知を、2018年度の文科省の成果公開データベースとしてまとめたのをきっかけに、2020年度は「西表島の地名と生物文化データベース」、2022年度には、「与那国島の生物文化データベース」として取りまとめ、ネット公開を始めた(安渓・安渓 2021)。4000枚の語彙カードについては、例文の大幅な追加をお願いし、あわせて与那国語の録音と伝承の唄や踊りの動画撮影を行ない、公開している。
しかし、ネット公開ではなかなか島の伝統知の全体像は伝えられない。Bit rotの問題を考慮すれば、やはり、なんらかの形で冊子なりにまとめておくべきだと考えられた。そんな折、総合地球環境学研究所のLinkageプロジェクトへの参加の機会を得たので、そのプロジェクトの目標である、サンゴのある島での水循環と民俗知という切り口でまとめてみることにした。最大の難関は、膨大な資料から何を選択するかだったが、幸い、同じプロジェクトの地理学者・渡久地健さんが、絵の技法としてもユニークなものという視点から約100枚の作品を選んでくださった。これをもって、画文集づくりへの具体的なアイデアがスタートしたのである。
3. 結果
3.1. 画文集の構成
N子の与那国島の伝統的環境知(TEK)の全体像を捉えることを目標に、全体を5部にわけ、それぞれ10枚程度の主な絵とその絵をめぐる解説で構成することにした。解説があって、絵がないものについては、N子さんの体調をみながら追加で描いてもらうこともできた(和歌嵐香、2023)。
第1部は、「N子の歩み」で、幼いころからの生活を紹介した。第2部は動物たちと、第3部は植物たちとの関わりに焦点を当てた。第4部は目には見えないが生き物の暮らしを支えている超自然の存在に踏み込み、第5部は、地球研プロジェクトの主眼である、地球レベルでの水の循環と命のめぐりという内容になった。
その内容を簡単に紹介することは容易ではないが、従来の人類学者・民俗学者・言語学者・郷土史家らが気づくことなく、したがってほとんど報告されたこともない伝承が、惜しげもなく盛り込まれる結果となったのである(部分的には、安渓・安渓(2011a)で紹介した)。
3.2. N子の生命観
それぞれの部から、この画文集で初めて報告される例をあげてみよう。
第1部の自分史の柱は、満2歳を迎えて、ようやく歩いて話すようになったN子が遊ぶ様子を見て、高齢者たちがこの子を「むとぅ‘かはまい」として育成しようと決意したことと、その後に受けた様々な特訓の物語である。「むとぅ‘かはまい」は、琉球王国から「のろ制度」がもたらされ、神女が与那国語で「‘か」または「‘かあぶ」と呼ばれるようになる以前から、さまざまな祈願を担った役職ということが伝えられているだけだったが、「はまい」は食料のことであってみれば、「むとぅ‘かはまい」の役割が、食料の安定を通した島人たちの安全保障だったことは想像できよう。その特訓は、稲作で言えば、種籾の様子をみて、いつ播種するべきかを指示するというような重大なオンザジョブトレーニングを含み、第2部の水牛や第3部の苗に、それぞれが快く働き育つように話しかけ歌いかけるというものだった。動植物は、与那国語(どぅなんむぬい)では、「ぬ‘てぃむ‘てぃむぬ」すなわち「命もつ者」と呼ばれる。そして、このフォークカテゴリーは「‘とぅ」、すなわち人間も含んでいる。沖縄島の「イキムチ」や西表島の「イキムシ」、また与論島の「ヌティムチムヌ」などが、多くの場合、植物を除いた動物だけに限定され、しかも人間を除外しているのとは対照的である。そして、この「ぬ‘てぃむ‘てぃむぬ」のほとんどが、人間の食べ物として、「ぬ‘てぃちでぃむぬ」と呼ばれる。これは、「命継ぎ者」の意味である。
すべての「ぬ‘てぃちでぃむぬ」に対して、しっかりと語りかけ、それぞれが人間に食べられることを納得してもらうようにすることが、幼いころからN子が叩き込まれた、与那国島での生き物への礼儀だった。そして、豚やヤギ等の家畜の場合には、常日頃言い聞かせ、なるべく苦痛を与えずに屠殺して、料理してお椀に盛るまでが、彼女にまかされたひとつながりの仕事だった。そして、そこから生み出される動物の骨や貝殻などは、家の北側の、家畜小屋や便所のある聖なる空間「にぬは」の一角に安置する習慣だった。
幼いN子がただひとり受けていた「むとぅ‘かはまい」をめざす訓練の重要性への理解は、当時の島びとたちの間には共有されていた。例えば、苗や水牛に歌いかけるという仕事のために、学校にいる彼女に迎えがくることもしょっちゅうであった。画文集の中に、洞窟でのお産にあたって、高齢の女性たちと6歳の幼女が、暗い洞窟の中で生竹の松明を燃やして延々と祈りと唄を捧げたという画面がある。昔と違って、産婦とその夫は実際にはその場にはいなかったが、N子自身が経験した洞窟での安産の祈りの場面を描いたものだった。画文集には収録されていないが、小学校を卒業した彼女は、3か月間にわたって、家族から離れて暗い洞窟に1人で寝起きするという経験をさせられたという。
3.3. N子の宇宙観
第4部は概ね、目には見えない霊的な世界との交流を取り上げている。それらの中でももっとも大切にされたのは、「にら」と呼ばれる地底世界である。祈りの中では常に「にらがなち」と尊称される「にら」は、水田の水持ちを良くするためには特に重要で、厚みと弾力性がある状態で地底に広がっていなければならない。地上に現れた息吹や草木やミミズなどのようすを手がかりに、地下の「にら」の活性を知るという訓練も、N子が祖母からさずけられた「むとぅ‘かはまい」教育の大切なカリキュラムだった。「にら」を感じ取る訓練として与那国島の各地や、石垣島の山中にN子を何時間も放置する時に、祖母が言った言葉は、決まって「くまん、にらやかないぶんどー」つまり、「ここも、にらは叶っているよ」というものだった。
このような特訓を通して、「にら」の存在と躍動し成長するその姿を感知できるようになったN子は、長じては日本の各地を訪ね歩いて、そこにも「にら」がちゃんと存在して、地上のあらゆる生命活動を支えていることを認識するに至った。
この「にらがなち」は、稲作などの生業活動を支えるだけでなく、人間が暮らしの中で生み出す、さまざまな汚れや目に見えない「けがれ」を、「すでぃ」(清め)の儀礼によって託す相手であった。こうして「にらがなち」が受け止め、たくわえたもろもろの汚れは、年に何度か、例えば旧暦三月三日の日には決まって、「にらがなち」とともに「とぅー」(海)に流れ出るという。「にらがなち」との再開の喜びにわきかえる「とぅーがなち」(海の尊称)の力を借りて、これらの汚れは、天高く昇り、やがて「てぃんがなち」(天上世界の尊称)にまで届けられる。「まーぬむぬ」(魔の者)と呼ばれる、人が生んだ汚れは、この3柱の神々の協力によって昇った「ふちぬかぬかた」(星の彼方)で浄化される。そして、これらの「まーぬむぬ」たちは、月の光や星の光、太陽のぬくもりや慈雨となって地上に降り注ぐ。その時、人が「汚れ」や「魔物」としていたものたちを歓迎して喜ぶとき、これらの「まーぬむぬ」たちも、人々から嫌われた記憶からようやく解放されて喜び笑う。
3.4. 枯れるな水脈
与那国島でもほとんど忘れ去られた、太古から伝わる日々の祈りをN子は今も続けている。祈りと歌に埋め尽くされた日々の中で、台風どころか、黄砂にまで歓迎と感謝の祈りをささげる。地球上の水の大循環とも呼応する壮大な与那国島の宇宙観と生命感は、開放定常系である地球で、生命が開放定常系であり、島もまたそうした存在であることを雄弁に物語っている。
N子は「なめくじがいないと私はこまる」と歌う。地・海・天への使者として育てたジャコウネズミやうみがめ、つばめ等の聖なる動物を始め、すべての命あるものとの共存こそ、持続性のある島の暮らしを支えてきた伝統的な環境知識(TEK)の核心だったのである。
N子が伝えてきた、与那国島の生命観・宇宙観の語りは、しかし、33年にわたる付き合いの中でひとりでに生まれてきたのではなかった。膨大な記憶の断片をその時々に書き留めたメモは、それだけではN子の言うように「壮大な未完のパズル」だった。それらの断片を、一冊の画文集として集成するという共同作業の中から、ようやくあらゆる生命を潤す、地底・海中・天上世界の水脈のめぐりの重要性が浮かび上がってきたのである。画文集の最後の絵は、彼女が心肺停止状態からめざめた病院で描かれたもので、自らの血液の流れが、大気圏をめぐる「いのちの水脈」そのものである、と気づいた感謝と祈りを躍動的に表現し「枯れるな水脈」と題されている。
そして、開発や防衛の名のもとに、生命への感謝を忘れ、すべてをうるおす水脈を断ち切るような行為が続いていることに、N子は重大な危機を感じている。私達が出会ってこの方、33年の時がたつが、N子はずっと「島の力」を超えるようなことをこれ以上人間が続ければ、島は沈んでしまうと警告を発してきた。「便所と台所からこそ平和(共存)が生まれる」というのが、彼女が受けてきた「むとぅ‘かはまい」への道の教育の中核をなす教えだった。現在は、原画展を開催したりして、この智恵を「世界の物言わぬ民」へのエンパワーメントとして発信したいと彼女は願っている。
4. 考察
4.1. 与那国島の生命観と宇宙観の位置づけ
あらゆる生き物に魂があり、人間と会話しながら生きているという生命観は、世界の先住民族や、九州と台湾の間に点在する琉球弧の島々では、珍しいものではない。N子が現在も続けているような、日々の生活と祈りの隅々まで、その生命観が行き渡っているという例は、珍しいかもしれない。
霊的な存在の住まう他界が、どこにあると想念されてきたかをめぐって、琉球弧の島々では、「オボツ・カグラ」の天上から降臨する神、「ニライカナイ」の海のかなたからの神、そして西表島などの地底から出現する神が注目されてきた(佐﨑2017など)(注2)。N子の伝承する与那国島では「にら」の地底世界がもっとも重視され、「とぅー」(海中世界)と「てぃん」(天上世界)も、相互に交流し、力をあわせて、人間の生み出したけがれ・よごれを浄化してくださる神聖な存在と想念されている。ここでは詳述できなかったが、アイヌ民族のヒグマ送りやシマフクロウ送りのイヨマンテを想起させる野生生物の飼育と感謝の放飼儀礼が、与那国島には1960年代まではたしかにあった。ジャコウネズミ、ウミガメ、ツバメの子どもを飼育して、それぞれ地下、海中、天上への使者として送り出し、人間界からの感謝を伝えたのである。
こうした、地球の水の大循環を基軸とした生命観・宇宙観が、さらに南の島々ではどのようなものであるか、が今後の比較研究の課題であると言えるだろう。
また、N子は、「むとぅ‘かはまい」教育の一環として、幼いころから膨大な口頭伝承を叩き込まれた。それは、狭い意味では、さまざまな環境と社会の危機を、島人がどのように乗り越えてきたかの記憶をつなぐという目的であったが、結果として、世界記憶遺産に匹敵する内容の記録の集積につながったのである。
こうした経緯を踏まえて、現在は、第2画文集として『与那国島のフガヌトゥ伝承と15世紀の済州島民漂流記録』(安渓・安渓(2011b)で一部を報告)、第3画文集として『与那国島と台湾との交流史』を準備しているところである。
4.2. フィールド研究の倫理の問題
伝承者の保持している伝承を、公開し、あわせて本名を明らかにすることは、たとえ本人がそれを許可し、あるいは希望したとしても、危険が伴う場合がある。例えば与那国島には、与那国島なりの「正統なる」伝承がある。教育委員会の文化財として公認され、看板が立つような伝承とは別の流れの伝承を担うこともあったN子は、ノートを燃やされ、物理的な暴力を受けるなどの、長年の抑圧にさらされてきたという。このような場合、配慮なく伝承を公開することは、伝承者への危険が伴う可能性が高い。伝承者が「無名の人」としての平穏な日常を送れるように最大限の配慮をするのは、支援を行う研究者の責務のひとつである(宮本・安渓 2008; 安渓 2023)。
4.3. 費用の問題
いま、支援という言葉をつかったが、この30年あまりのつきあいを通じて、研究の主体が誰か」という疑問に到達している。当初考えていた「口頭伝承を記録する・記録される」という関係から、「記憶遺産を託す・託される」という関係への主体の転換ないし融合が起きている。そして「託される側」としては、「未完のパズル」を解くための、整理と公開のための経費を見つけてくることが望まれる。例えば、科研費の「研究成果公開促進費(データベース)」には、公的機関に属していなくても応募できる。こうした公的な支援を受けた後は、維持費無料のサービスを利用している。データベースのAirtable社の教育目的認定による無料使用、Googlemapsとのリンク、YouTube動画としての保存などがその例である。
4.4. Bit rotに備えるには
Adobe Flashなどで起こったような、インターネット上のサービスの不意の終了に備えておくことも必要で、より広くは、インターネットの開発者のひとりVinton Cerf (2011)が警告する「Bit rot」の問題であろう。具体的には、リンク切れ、ハードやソフトの消滅、さらに、整理しクラウド上に保存・公開したデータを、研究者の死後も地域住民が利用し続けられる方法として、出版以外にどんな方法があるのか。学術論文のDOIのような、長期参照を保証するシステムは、まだ確立していない。
注
1) 同様に、西表島の島おこしリーダーであった、石垣金星氏の一周忌にあわせて、自然との共存の智恵を中心に、一冊の著作集を編んだところである(石垣 2023)。
2) 奄美沖縄の民俗例では、「山上他界」の例は多くないが、与那国島比川で集落を一歩出れば、そこは祖先の霊の住まう「あの世」という意識があることが報告されている(植松 1986)。
謝辞
和歌嵐香N子さん。渡久地健氏(もと琉球大学教員)のお世話になりました。研究のとりまとめの経費は、主に以下によっています。JSPS成果公開科研費16HP8013(コンゴ民主)、18HP8009(西表島)、 20HP8006(与那国島)、 総合地球環境学研究所列島プロジェクト(2005–2010)、同Linkageプロジェクト(2021–)。
引用文献
安渓貴子・安渓遊地
2011a「与那国島のものの見方・考え方」『奄美沖縄環境史資料集成』南方新社.
2011b「530年前の済州島からの漂流民の記憶」『うたいつぐ記憶』ボーダーインク.
安渓遊地
1984「与那国農民の生活―西表島との対比から」渡部忠世・生田滋編著『南島の稲作文化』法政大学出版局.
2023「調査されるという迷惑を超えて」『WORKSIGHT』19: 64–69. コクヨ.
安渓遊地・安渓貴子
2021「与那国島の生物文化データベース」https://dunanmunui.wixsite.com/my-site
石垣金星著・西表をほりおこす会編
2023『西表島の文化力―金星人から地球人へのメッセージ』南山舎.
Cerf, Vinton G.
2011 Avoiding Bit Rot: Long-Term Preservation of Digital Information, Proceedings of the IEEE, 99 (6): 915–916.
宮本常一・安渓遊地
2008『調査されるという迷惑』みずのわ出版.
Moseley, C. (ed).
2010 Atlas of the World’s Languages in Danger, Third edition, Paris: UNESCO.
佐﨑愛
2017「近現代の他界観研究の動向と課題」『北海道民族学』13: 41–50.
植松明石
1986「神観念の問題」『国立民族学博物館研究報告別冊』3: 75–98.
和歌嵐香N子
2023『ぬ‘てぃぬかーら・どぅなん(いのち湧く島・与那国)』総合地球環境学研究所.
図1. いのちを生み出す女神のイメージ
図2. 刺繍で示した成長中の「にらがなち」
図3. 枯れるな水脈・描くことは祈ること
図4. N子の画文から見る与那国島の宇宙観
図4. N 子の画文から見る与那国島の宇宙観
図4の説明文 0 cima 村、1 nira 地底世界、2 tuu 海中世界、3 tin 天上世界、4 futin 雷、5 utuntu 月光、6 tidan 太陽、7 titin 月、8 fuci 星々、9 aminucin 雨粒(nuttinucin 命の粒)、10 diuriami 地中を潤す雨、11 nutticidimunu 命つなぎの者たち、12 maanumunu 魔のものたち(汚れけがれ)
Avoiding_Bit_Rot_Long-Term_Preservation_of_Digital_Information_Point_of_View.pdf (432KB)