研究ノート)国立台湾大学図書館・田代安定文庫の奄美史料――『南島雑話』関連資料を中心に RT @tiniasobu
2023/08/11
2023年8月12日 注記
台湾大学図書館の田代文庫のリンクは、現在は、https://dl.lib.ntu.edu.tw/s/Tashiro になっています。
The new link for Tashiro's database is "https://dl.lib.ntu.edu.tw/s/Tashiro"
これは、『南島史学』82号(2014年12月発行)に研究ノートとして印刷されたものの、原稿です。図入りの現物は、南島史学会 http://nanto-shigaku.jp/ からご購入いただけます。
後半は、洪淑芬博士(国立台湾国家図書館)による、中文への翻訳です。この中文の部分は、未定稿ですから、引用はお避けください。
この研究ノートでは、台湾大学図書館の田代安定文庫とその中の奄美関連資料を紹介しています。
行方不明になっていた、『南島雑話』の古い写本が再発見されたというので、奄美では大きく報道されました。
https://ankei.jp/yuji/?n=1979
https://ankei.jp/yuji/?n=1995
共著者になってくださり、とても優しく教え導いてくださった、奄美の歴史の研究者の弓削政己さん(1948-2016)の遺言ともいうべき「奄美諸島史の到達まとめ」は、以下に掲載しています。
https://ankei.jp/yuji/?n=2225
以下は引用です。
国立台湾大学図書館・田代安定文庫の奄美史料――『南島雑話』関連資料を中心に
Historical Documents on Amami in Tashiro Antei Collection of National Taiwan University Library with Special Reference to Nantō-Zatsuwa
安渓遊地・安渓貴子・弓削政己・今村規子
はじめに
田代安定(一八五七〜一九二八)は、鹿児島県加治屋町生まれのフィールドワーカーである。幕末・維新期に博物学とフランス語を学び、沖縄、ミクロネシア、台湾において今日でいう言語人類学・民族植物学的な膨大な実地調査をした人物である(中生、二〇一一:一二九) 。国立台湾大学図書館に残された田代資料の中から、従来注目されていない奄美関係史料を紹介したい。
この報告の著者の一人である安渓遊地が田代安定の名前を知ったのは一九七四年のことだった。西表島西南部で明治末に廃村となった鹿川(かのかわ)村でのフィールドワークを始めたところで、「復命第一書類第廿八冊 八重山島管内西表嶋仲間村巡検統計誌」と題された手書きの資料のコピーに当時の文部省資料館で出会った。同じ形式で「第二冊石垣嶋大川村」と「第三十五冊宮良間切鳩間島」の合計三冊が所蔵されていた。残念なことに鹿川村のものは見当たらなかった。
その年の八月、安渓遊地は鳥取県の香取で開かれた大山移動大学で、後に研究倫理の鑑と仰ぐようになる宮本常一と出会った。これらの資料の残りの所在を問うと即座に次のような答えが返ってきた。
あれは、田代安定が当時の山縣有朋内閣に提出した報告書でしょう。そのうちの何冊かだけが『琉球共産村落之研究』を書いた田村浩さんから渋沢敬三先生の手に入って、先生の祭魚洞文庫に収められたのです。田村浩という人は、渋沢先生の友達で、沖縄へ赴任することになって「琉球へ島流しだ」としょげていたら、渋沢先生は「いや、他ではできない研究をするまたとない機会だ」とはげまされた。田代安定の報告の残りについては、あまり望みはもてないけれど、時間をかけて捜してみたらどうだろうか。(宮本・安渓、二〇〇八)
それからアフリカに行ったりしながら南島研究を続けてきたが、西表島や与那国島の文献目録を作ってみても、その他の八重山の「巡検統計誌」の所在は判らないままだった。
不思議な縁に導かれて、およそ四〇冊の八重山巡検統計誌の草稿の実物に出会うことができたのは、二〇一一年九月のことだった。長年探し求めてきた鹿川村のものもそこには含まれていた。場所は、国立台湾大学図書館特蔵組の田代安定文庫だった。
国立台湾大学が田代安定の大量の資料を所蔵しており、そこには沖縄関係の史料が多数あることを、初めて日本の学会に報告したのは、ジャーナリストで沖縄近代史研究者の三木健氏だった(三木、二〇〇五)。そこには、田代安定の草稿類が大量に見つかったこと、彼自身も長年探し求めてきた田代の八重山調査資料が含まれていることが、感慨をこめて報告されている。私たちは、その報告に気付かずにいたのだが、台湾を主なフィールドとして日本の人類学史を研究している中生勝美氏にそのことを教えられたのだった。
三木(二〇〇五:一六九)の報告には、新館への移転に伴って発見された資料の整理がようやく始まったと述べられ、図書(刊本)類(三〇件)、台湾関係(八二件)、手稿雑類(三五件)、南洋関係(二九件)、日本関係(八七件)、植物関係(八五件)、日記や取材ノート関係(九五件)のリストが作られていたという。それからほぼ十年、かなり整理が進み、まだデジタル化されていないものも含めて、二〇一四年九月現在その総点数は一一二二件に達している。
国立台湾大学図書館には、旧台北帝国大学から引き継がれた数々の日本関係の文献が所蔵されている。その中に田代安定の著した著作で、台北帝国大学図書館の蔵書印が押されているものが、上記以外に三〇点ある。
堂々たる五階建て図書館の最上階が貴重書を所蔵する特蔵組である。文書の修復のための部屋もあり、専門の技術者が修復を進めている。
著者のうち、安渓遊地・安渓貴子と国立台湾大学図書館との関係は、二〇一〇年春、特蔵組スタッフの山口市訪問以来のものである。訪問の目的は、東アジアの先史・考古・民族・民俗学の泰斗であった國分直一(一九〇八〜二〇〇五)の旧蔵書とノート・草稿類の収蔵であった。私たちは、奄美沖縄の環境史研究の途上で、この先学から直接に多くの励ましと教えを受け、「若い友人」と呼ばれる光栄に浴した。國分の没後は、山口市内の旧宅に遺された膨大な書籍、原稿、ノート、手紙、写真類の整理に関わり、自伝の刊行にも携わる機会を得ていた(安渓・平川、二〇〇六)。
二〇一二年から、毎年一回か二回、山口県立大学国際文化学部の学生実習として國分コレクションの整理のために台湾大に通っている。現在は、手紙の整理が山を越え、デジタル化された写真の整理に着手している。
國分コレクションの蔵書一万七〇〇〇冊の整理完了と中・日両言語での遺稿集の出版を記念して国立台湾大学図書館での記念シンポジウムが行われたのが二〇一一年九月だった。そのおりに、中生氏から田代安定文庫の存在を教えられ、長年探し求めてきた「鹿川村巡検統計誌」との対面を果たすことができた(安渓遊地、印刷中)。またこれらの書類が初めて提出されたのは、第一次伊藤内閣の時代だったこともわかった。
当初は長年の虫食いによって開くことができない状態のものもあり、そのために閲覧が制限された史料も少なくなかった。それを一枚一枚裏打ちし、さらにデジタル化して、館内のパソコンでの閲覧が可能になっていく過程は、文化行政に配分される予算の潤沢さに支えられて、利用者のリクエストに応じていく公共図書館のサービスとして印象的であった。
なかなか高いハードル
田代安定文庫に納められた沖縄関係資料整理のために、沖縄公文書館は二〇〇五年三月に職員を派遣した。そして国立台湾大学図書館との協力によって複製本などを作成したいという計画を館長と話し合った(三木、二〇〇五)。その後も、沖縄からは次々と研究者が訪れて、この資料群を生かす道をさぐってきた。田代文庫以外で国立台湾大学が所蔵する沖縄関係史料については、琉球大学の全面的な協力によって中日両言語による翻刻出版が始まっている(高良ら、二〇一三)。これは、全五冊になる予定であるという。
二〇一一年に初めて田代安定文庫の存在を知った時に、特蔵組での資料閲覧にかなりきびしい制限があることを知らされた。例えば、所蔵リストやパソコンの画面を含めて一切の資料の写真撮影は禁止であり、ガラス張りの閲覧場所で、閲覧・筆記する(鉛筆使用)。また貴重書の場合は、手袋を貸し与えられ汚損しないように注意して見る。そして、国立台湾大学図書館との契約を交わして目録作成や出版などのプロジェクトが動いている時は、それと競合するような研究テーマは受け入れられない。また、進行中のプロジェクトの内容が、部外の研究者に伝えられることもない。
国立図書館の特蔵組の事務室内で、学生とともに毎年一週間程度國分直一コレクション整理をする中で、私たちは時間をみて田代安定資料の閲覧を進めていった。その結果、とくに日本資料については多くの「未詳」とされる点や錯誤が見受けられることが判った。自分たちの整理のためにパソコンで独自にリストをつくり、そこに気付きを入力していった。二〇一二年三月、まずは土地勘のある八重山関係資料から始め、しだいに沖縄へ広げ、その他の日本関係資料、南洋関係のノート、邦文蔵書、ついで欧文蔵書のタイトルと見ていった。このようにして、二〇一四年九月までの四回の訪問を通して、国立台湾大学図書館特蔵組スタッフの多くの疑問点を解くことができた。これまでの人類学・民俗学と植物学・民族生態学の経験を生かした内容的な指摘のほか、専門ではないのだが、紙質の比較や、虫食い穴による照合、ばらばらになった小さな紙片の罫線の色による分類など、考古学と同様の手法で文書を復原する方法について、若いスタッフに英語で手ほどきする機会もあった。
これらの結果は、随時特蔵組スタッフに報告した。これは予算の裏付けのある公的なプロジェクトではなかったが、國分直一コレクションの寄贈とその後の整理が機縁となって、田代安定コレクションの整理の手助けができたのである。その過程で、日常的に接した特蔵組の責任ある立場のスタッフや、陳雪華図書館長とも意見交換ができた。会話のなかではっきり理解できたのは、国立台湾大学図書館の収蔵資料公開の基本方針である。
国立台湾大学図書館としては、きちんと整理ができたものはどしどし公開していくことにしている。例えば田代安定文庫の台湾関係の部分については、インターネットで世界中からアクセスできる形での公開がすでに二〇一一年には行われて始めていた。内容の分析が進まず、未確定の部分を含む資料(例えば日本をフィールドとする部分)については、研究者からの閲覧要求にのみ応じてきた。しかし、いずれの場合にも、外部の個人や組織が、ひとつの資料全体の印影を紹介したり、全文を翻刻して発表したりすることは一切許可していない。それは国立台湾大学図書館として発行すべきものであり、公表・発行するか否かの決定権はあくまで国立台湾大学図書館側にある、とする基本姿勢である。
やや詳細にわたるが、利用の条件をここに記しておく。国立台湾大学図書館でデジタル化されたファイルには、一インチあたり三〇〇ドットの精細画像と、同七二ドットの画像があり、後者は「國立臺灣大學圖書館」の透かし入りである。三〇〇ドットの画像は有料で、その利用料金は、印刷する場合は一枚一六〇〇台湾元(約六四〇〇円)、印刷を除く研究用の利用は一枚二〇〇台湾元となっている。七二ドットの透かし入り画像の利用は学術研究用であれば基本的に無料で、インターネットで公開されているものについては、http://cdm.lib.ntu.edu.twからの引用であることを明示すれば、特別の許可などは不要である。ただし商業出版の場合は、すべて国立台湾大学図書館からの書面での許諾を得る必要がある。なお、田代安定の日本関係の文書も二〇一四年三月から続々とネット公開されているが、これらは現在のところ、国立台湾大学でIDをもらい、かつ大学内から図書館のサーバーに接続されたパソコンでのみ閲覧とダウンロードが可能である。そして、そのデータの利用条件は、インターネットで一般公開されたものと基本的に同じであるという 。ダウンロードしたデータの利用と著作権については、中国語で以下に明記されている。http://cdm.lib.ntu.edu.tw/copyright.html このサイトには、問い合わせ先として特蔵組の電話番号とメールアドレスも記されている。英語あるいは日本語が使えるスタッフもいるので、中国語ができなくても意思疎通は可能である。
奄美史料との邂逅
田代安定の事績は、最近の研究としては、冒頭に引用した中生(二〇一一)による紹介が詳細で、年譜も添えられている 。しかし、明治一五年からの沖縄でのフィールドワークにあたって、奄美大島と徳之島の資料も収集していたことは、これまでにほとんど気付かれていないようである。
国立台湾大学図書館のサイトで、「奄美」をキーワードに検索すると、田代安定文庫のデジタル化文書の中に、二〇点を超える奄美関係資料があることがわかる(現状はすべて「限定公開」扱いで、国立台湾大学に行かなければ閲覧したりダウンロードしたりすることはできない)。
奄美関係資料の中で、注目すべきものを以下に抜粋しておこう。冒頭のアルファベット一文字で始まる数字は、国立台湾大学図書館の整理番号である。前述の三木の紹介による分類との関連でいうと、B図書(刊本)類、T台湾関係、O手稿雑類、S南洋関係、J日本関係、P植物関係、N日記や取材ノート関係に対応している。枚数は、スキャン画像の数で、草稿類の多くは一葉ごとに裏打ちして修復した状態でスキャンされているため、冊子体の二頁分に相当する。
N一四六、「大島日記ノ内第二集」。一七葉。明治一五(一八八三)年五月一〇日から一二日の踏査のフィールドノート。鉛筆書き。
N一四七、「大島紀行 初回渡航紀事 明治一五年」。五三葉。罫紙に整理された一八八三年五月七日から一九日の踏査のまとめ、名瀨、浦上、金久、赤尾木、節田、須野、須田、佐仁、屋仁、喜瀨、湯湾等の村々をまわっている。
S〇三四「南島紀聞初集 第二稿」。二二葉。南洋関係の部に入れられているが、内容は奄美大島の旅の記録で、N一四七の下書きの一つである。
O〇〇六、「南島風梳雨浴詩艸」。二八葉。漢詩集。幕臣で漢学者の栗本鋤雲(一八二二〜一八九七)の添削つき。冒頭の「南島巡歴詩抄」が奄美大島の旅で詠まれたものである(図1)。名瀬、小宿、湯湾釜、焼内、浦上、名柄、久慈、伊子茂、加計呂麻島、知名瀬、倭浜村(観闘牛戯)、戸円、笠利、住用、古見などで主に七言絶句を詠んでいる。
J〇六四、「大島島庁調查書」。一三六葉。これはかなり大部のものである。明治二〇年から二一年にかけて帝国大学(後の東京帝国大学)の委託によっておこなった奄美沖縄調査の折りに、田代安定が大島島庁に依頼して各村から提出させた一七通の報告書つづり。調査依頼項目は、以下の五点だった。一、本島諸祭日遊興其他年中行事一般ノ事。一、本島民所用姓名品別表。一、諸社寺并祈願所表。一、諸旧跡古墳。一、八十歲以上長命人数。同じ質問票で同時期に、沖縄島各地からも報告があり、それらを対比すれば、奄美と沖縄の比較が可能であろう。
J一三五「鹿兒島縣下大島郡巡回復命書」。二〇葉。明治一六年一月に鹿児島県農商務課に提出した前年の奄美大島踏査の報告書。五月、奄美から沖縄に到り、帰路九月に再び奄美を経由して、鹿児島に戻った。後半、マラリアの治療に使うキナ樹のことが書かれている。
このほか、J一八三「奄美列島草木譜」などの資料があるが、これはまだ整理が完了していないため公開されておらず、通常の閲覧申請をして読むようになる。
名越左源太(時行)筆の『南島雑話』関係資料四点については、次に詳しく述べる。
国立台湾大学図書館の名越左源太『南島雑話』関係資料の紹介
鹿児島と東京を根拠地として活躍した若き日の田代は、沖縄に興味をもち、当然のように奄美の資料も収集していた。そして、その中に幕末の奄美大島に島流しになった薩摩の武士、名越左源太の『南島雑話』関連の貴重な文書が眠っていた。
このことに初めて気付いたのは安渓貴子であった。国立台湾大学図書館田代安定文庫の日本関係資料を順次閲覧していくなかで、「著者不明」、「詳細未詳」等とされていた毛筆の文書の中に、ソテツの調理法が描かれた絵があった。それはソテツの毒抜き法の研究をしている者にとっては、國分直一から贈られた平凡社・東洋文庫版の『南島雑話』(名越左源太著、國分・恵良校注、一九八四a、b)で見慣れた絵や内容そのものだったからである(安渓貴子、二〇一一)。
この発見は、二〇一四年四月一五日付けの『南日本新聞』でとりあげられ、地元奄美の『南海日日新聞』では、五月一二日付けの紙面一面トップで大きく報道のうえ、一七日には安渓遊地・安渓貴子の投稿がカラー見開き二面という破格の扱いで掲載された。この投稿記事は、特蔵組の洪淑芬氏によって中国語に訳され、中日両言語で国立台湾大学図書館ニュースに転載されたのであった。
http://www.lib.ntu.edu.tw/General/publication/Newsletter/newsletter170.htm#5-2
こられの新聞記事の掲載に至る過程で、奄美の歴史研究者の弓削政己氏に具体的な助言をもらい、共同研究がスタートした。複数による文書の翻刻のために『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』(二〇一〇、南方新社)の著作のある今村規子氏の力を借りた。このような経緯からこの論文は四人の連名での発表となっている。国立台湾大学図書館田代安定文庫の解説と全体のとりまとめは、安渓遊地・安渓貴子が担当し、名越左源太のものと考えられる文書の位置づけや内容についての記述は、弓削政己・今村規子の実証的研究に基づいて安渓遊地がまとめた。なお、今日『南島雑話』と総称されるさまざまな写本の包括的な整理と位置づけをおこなった河津(二〇〇四)のすぐれた研究があるが、このたびの発見はそれに付け加えられるべきものである。
国立台湾大学図書館特蔵組の田代安定文庫の中で、以下の四つの資料が名越左源太(時行)関連のものである。
二〇一三年三月一四日の段階の特蔵組の目録では、いずれも「作者不詳、年代不詳」とされていたものである。用紙の大きさは、デジタル画像ではよく判らないので、図書館の記録を再録する。
J一二〇、「居室倉廩」。二二葉。三五・六センチ×二六・四センチ。
J一五三、「テルコ神迎ヒ詞」。五葉。用紙の大きさの記載なし。
J一五六、[奄美大島調査記録]。彩色図あり。一二葉。三四センチ×二七センチ。
J一七四、「雑記下書」。三六葉。三六・四センチ×二七・二センチ。
安渓遊地と安渓貴子が、国立台湾大学図書館でこれを読んでみたところ、J一二〇については、従来知られた『南島雑話』(名越、一九八四a)の「居室倉廩」以下の部分とほぼ対応した。J一七四については、一頁目に「辛亥三月 雑記下書 名越時行」と書かれている。時行は左源太の諱(いみな)で、存命中は本人しか使わない名前であるから、奄美大島に流されてほぼ一年目の嘉永四(一八五一)年旧三月(辛亥革命のちょうど六〇年前)に、名越左源太その人が書いた草稿であろうと推定した。内容は、『南島雑話』(名越、一九八四a)の始めの部分とほぼ対応していた(後述)。ただし、清書での文章の追加や絵の修正のために多くの朱が入れられていた。共著者の弓削政己が、名越左源太の真筆とされる奄美市立奄美博物館蔵の下書「南島雑話関係覚書」(仮題)、鹿児島県立図書館蔵『大嶹便覧』と照らし合わせた結果、今の段階では、名越左源太の真筆であると判断された。
ここで、今村と弓削の整理によって、J一七四とJ一二〇の合計五八葉の史料について、その項目を出だしの言葉で確認しておく。なお、特記ある場合はかっこに入れて示した。
居室倉廩/屋普請ヲスルニハ…/笹葺アリ…/材木ハ一ツ葉…/庭外手寄…/神木屋ト云…/高倉トイヘルアリ…カフカ/高倉ノ柱山ヨリ…/郷士格ハ勿論…/居宅馬場通…/大島ノ雪隠…/新ニ居室ヲ…/右祝ヒノ…/植柱屋トハ…/飲食/島民米飯ニ…/雑記下書/凶年飢歳トナレバ…/蘇鉄ノジクニテ…/麦モ少々植テ…/ト云テ里芋ト甘蕷…/島民食物之事 此島米少ケレバ…/椎ノ実ヲ拾ヒ朝夕ノ…/味噌之事/味噌漬之事/醤油之事/酢之事/菓子之事/搗豆腐/唐豆腐/ベラ餅/蘇鉄餌/蘇鉄ガン/椎ガン/(「蓬餌」の記事はない)/砂仁餅/取肴之事/韮巻(紙のサイズがこれだけ小さい)/精進物(文字が絵の後ろに書かれている点が国会図書館蔵の「奄美大嶋漫筆」と同じ)/鉢物/吸物/焼酎製法之事/焼酎を煎じる道具の図(次の泡盛の図とともに、本来はもっと前にあったもの)/泡盛焼酎の図/造酒製法之事/砂糖製法之事(先の道具の図の砂糖柄杓の柄の部分が見える。順番が入れ替わっていることがわかる)/砂糖製法道具の図(本来は製法の後ろに置くべきである)/砂糖黍絞の図/水車小屋の図/砂糖煎小屋の図
ここで示すには大きな表となるので割愛するが、今村が作成した対応表によれば、国立台湾大学図書館田代文庫のJ一七四およびJ一二〇は、ほぼすべての項目が従来知られている版に見られる項目と対応していることがわかる。
詳細な対応関係の検証は今後の課題であるが、現在遺された稿本の先後関係が判る部分もある。例えば「焼酎製法之事」では、国立台湾大学図書館田代安定文庫所蔵本(図2)と、国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537287)で公開されている「奄美大疇漫筆」には、甕の横の人物の下に「清書ニハ此人ヲ今少シ大ク認ムベシ」と記されているという共通点があり(図3)、いずれも下書きとして書かれたものであることがわかる。しかも、両者を対比してみると、国立台湾大学版の方が朱での加筆が多く、国会図書館版よりも先に成立した、より古い下書きを含むものと考えられる。
結局、項目の対応関係がつかめないのは、「雑記下書」と書いた一葉のみであった。今村規子は、なんらかの事情でこの一葉が紛れ込んだものと考えられるとしている。しかし、現物を観察する限り、用紙の大きさや紙質にも大きな差はみとめられないため、後世に紛れ込んだというよりは、名越左源太その人が、付け加えたものと考える方が自然である。大きな文字には、「辛亥三月改 雑記下書 名越時行」とある(図4)。彼が奄美大島に流されて一年目の比較的早い時期のものである。まず表題を書いて、その隙間に後から雑多な絵や文字を書き込むことは、フィールドワーカーとしてはありそうにない。安渓遊地としては、最初期の雑多なスケッチや覚え書き(今日の言葉でいうならフィールドノート)の用紙を、その時までに書かれた「雑記」の下書きの表紙として流用した可能性を指摘しておきたい。もともとの表題かと思われる一行目が墨で消されて「辛亥三月改」としているように見える。用紙の下部の汚れや、中央上部の折りの部分の欠損も、表紙として使われたとすれば理解できる。もしこの推定が正しければ、田代文庫のJ一七四およびJ一二〇の五八葉は、すべて辛亥三月、すなわち嘉永四(一八五一)年旧三月の時点で、名越左源太が編集した初期の下書きであり、表紙だけは、より古い時期のノートが流用されたものではないか、とも考えられよう。従って、今日『南島雑話』と総称される文書群の最初期の表題が「雑記」であったこと、また、そのもとになった名越左源太のフィールドノートにあたる記録が表紙として残されたと推定しておく。確定的なことは、より詳細な全文翻刻を踏まえなければならないが、河津(二〇〇四)が詳細に検討し、写本ではなく稿本であるとした「雑記下書」(奄美博物館蔵、「婚姻之事」)は、やはり「辛亥三月改」で始まる同じ形式で書かれており、同時にまとめられたものである可能性が高い。今後精査していかなければならないが、現在残された稿本の中でも「大嶹便覧」などに比べて成立が早い名越左源太の真筆本が発見されたという結論になろう。
「雑記下書」と記された一葉は、鉛筆で二二という整理番号が書かれている(図4)。細かい書き込みが多く読みにくいが、今村と弓削の翻刻に基づき、その内容を以下に紹介しておく。
辛亥三月改 此竹如是□ 図
図
□□□
スハリ 圓通丸船頭 配當高
琉球ニテ 図 別府善兵衛 配當高之地面
アサ貝 周助 内之浦勇吉 黍畠ニ直□□
江口 傳次郎 [ ]年
其黍□□□
[ ]也
雑記下書
又アニク
アンニヨ □□□
□□□ニ竹
アンニヨ ノ輪ヲ内□□
大長壱尺八九寸 図 ヘ入テ図ノ
廻り三尺 如ク形チフ
中長壱尺六七寸 川魚ヲトル クラノ入様ニ
廻り弐尺四五寸 器ナリ イタシアルナリ
壱尺四五寸 一夜ニ三舛斗リ
□□廻リ弐尺 此器ニ入ルナリ 名越時行
□□ンニヨニテ田海老并川魚ヲ取事 一、ガツハ殺スト云事
一、毒流シニテ川魚を取事 一、赤ツグ并黒ツグ之事
一、麻苧之事 一、竹之事
一、兎取之事 一、豚之事
一、鳥之事
一、屋久貝并異風(イフウ)蜷之事
一、洲海苔之事
一、麩海苔之事
一、赤(ハア)鼻片ギス之事
一、□網之事
一、山芋之事
一、鰆ハ三月ヨリ出ル突テトル魚ハ外ソウチ魚アキノ魚
ナリ シビノ魚モ突事アリ此ハ至極稀ニテ七
八年ニ一度ナリ
J一五三の「テルコ神迎へ詞」は、神事の際に聞き取った方言をカタカナで記し、かっこ書きでその和訳を試みている。安渓遊地と安渓貴子は、当初田代安定が記録したものかと考えていたが、用紙や筆跡が田代のものとは異なり、これも名越左源太のものである可能性が高い。これは、これまでの収集にはもれている新史料のようである。民俗の記録として貴重な史料であるが、解読や真筆か否かを明らかにするにはいましばらくの時間を必要とするので、詳細は他日を期したい。
J一五六は、冒頭の六葉が欠けているためタイトルが判らない。国立台湾大学図書館特蔵組スタッフに冒頭部分の所在を問い合わせたが、今のところ発見されていない。読んでみると文中に「予戌ノ夏四月末ヨリ卯ノ六月迄六ヶ年ノ暑寒風湿ヲ経」とあることから、嘉永三(一八五〇、戌)年四月から安政二(一八五五、卯)年六月の間、奄美大島に滞在した人物、すなわち名越左源太による記録であろうと考えられた。加筆や修正がなされた状態のままであることから、J一七四などと同じく、下書きであろうが、加筆の量は少ない。上記の記述から執筆の時期は、流罪を許されて鹿児島に戻ってからということになる。
この史料は、各項目の上方に赤字で、「地」「天」などと類別を示しながら、海、島、瀬、崎、濱、(浦)、湊、淵、岸、(道路)、森、および、霞、霧、風、雨、雲、霰、暑、雷、の各項目について述べている。港の向き、深さ、停泊可能な船の数を記しているところから、その他の水の供給や気候なども含め、多くの部分は兵用地誌にあたり、軍事的な必要から別途構成されたものであったとも考えられる。そうではありながら、水を汲む女性たちの姿(図5)や、海辺の淵のへりで貝をとる人々の姿(図6)をていねいに描いており、島びとから「名越様とは音にも聞た おふてみたればよか御人」と慕われた(國分・恵良、一九八四b)という名越左源太の、ヒューマンなまなざしを感じる。さらに、地誌にともなう岩壁や波の描き方に、器物や人物の生き生きとしたスケッチを超えた、水墨画家としての筆法の確かさをも見てとることができる。
J一五六からは、名越左源太が奄美大島滞在中の日記を欠かさずに付け、父親からは、毎年の日記を送ってもらっていたことがわかる。流罪になった息子に国元の事情を知らせるための親の配慮でもあっただろう。
○霰
冬中両三度降事アリ 土人是ヲ雪ガ降ルト云 吾藩ノ雪霜降事ナシ 雪霜氷ハ如何ナルモノト云事土人ハ當テモナキ事ナリ
吾藩尊父君ヨリノ日記モ年々賜リ予モ亦日史□((翰ヵ))ラサリシガ 両冊□((照ヵ))合スルニ大島□((霞ヵ))降ルノ時ハ□□((吾藩ヵ))大方積□((雪ヵ))ノ時 ナリ
J一七四およびJ一二〇とは異なり、既知の稿本または写本と項目全体が重なる記述がほとんどない。東洋文庫版『南島雑話』(名越、一九八四a、b)と照合すると、「暑」の項は同じものが、「井戸の事」は、やや簡略な記述が載っている。東洋文庫版の編注では、「暑、この一節は永井保管本にも島津家本にも欠落している。鹿大農学本によって補う」としている。J一五六の成立時期と性格づけは、今後の課題としなければならないが、以下の部分、東洋文庫版『南島雑話』(名越、一九八四a:三三)では、「馬場筋」「濱嶋」と読むという異同がある。
○暑
暖地ニテ暑氣ハ強カルベキヲ左ハナク吾藩ヨリ却テ和カナルヲ覺フ 是山林艸木茂リ馬場庭狭ク石垣ナク庭ニ石ヲ遺フ事ナク 濱邊ナレハ平常涼風吹スソフガ故ナリ
田代安定文庫に入った経緯
それでは、これらの三つの史料(国立台湾大学図書館の分類では四つ)は、どのようにして田代安定文庫に入ったのか。田代の残した文書は、台北帝国大学が国立台湾大学に引き継がれた後も、ながく図書館の別館に置かれた木箱に眠っていた(三木、二〇〇五)。それが一九九六年の新図書館建設で日の目を見たのである。したがって、これらはもともと田代安定が借り出したものであると考えるのが自然である。『南島雑話』関連の稿本と多数の写本の整理をした河津(二〇〇四)の報告の一覧表の最後の欄は、「所在不明あるいは現存しない写本」として次の三つをあげている。いわゆる「大島島庁所蔵本」(一八八九年成立の写本)、「沖縄県立図書館本」(前者の写本。一九一八年に成立)、そして最後に行方不明になった「鹿児島県庁本」である。これについて、河津(二〇〇四)は以下のように述べる。
題名不明、所蔵・鹿児島県庁、内容不明、永井亀彦『高崎崩の志士 名越左源太翁』で、「鹿児島縣廳藏本」、恵良宏「『南島雑話』諸本校合経過」で「鹿児島県庁所蔵本」と紹介されている。『高崎崩の志士 名越左源太翁』には「近頃之を見た人が當地に居ないから存否不明」と記されている。
『高崎崩の志士 名越左源太翁』は、昭和九(一九三四)年出版で、田代の死去の六年後である。また、東洋文庫版『南島雑話』(名越、一九八四a)の冒頭に置かれた、恵良宏「『南島雑話』諸本校合経過」には、次のようなエピソードが紹介されている。諸写本のなかで鹿児島県立図書館が所蔵する「雑記下書」は、同図書館奄美分館から贈られたものとされるが、名瀬市史編集委員会によるペン書き原稿のゼロックスコピーであった。その原本を、永井亀彦(生物学者、一八七七〜一九六五)が名越家から贈られて所蔵していた。ところが、その原本は永井亀彦在世中に「鹿児島市のある研究者」に貸与したままになっており、國分・恵良両氏も、これを見ることができなかった。
こうした経過を踏まえてみると、國分直一存命中にすでに切れていたかに見えた探索の糸が、今回の田代安定文庫での『南島雑話』関連史料の発見によってつながる見込みができたことが判る。
素直に読めば、国立台湾大学図書館田代安定文庫で見つかった「雑記下書」の表紙をもったと考えられる一連の史料(J一七四とJ一二〇の合計五八葉)は、永井亀彦から田代安定(鹿児島市出身の研究者)が借用していたが、田代が一九二八(昭和三)年三月、台湾から東京への出張の途上に故郷の鹿児島で病死したために返却をはたすことができなかったものと考えられる。その借用の時期は、田代が奄美を訪れた明治一五(一八八二)年や帝国大学の嘱託として調査した明治二〇(一八八七)年よりはかなり後で、永井亀彦の成人後すなわち、明治三〇(一八九七)年以降でなければならない。田代は、明治二八(一八九五)年から台湾総督府に勤務しているから、帰省などで鹿児島に滞在した折に博物学の後進としての永井とも接触があったのだろう。
残るJ一五三「テルコ神迎ヘ詞」と「地誌」を中心とするJ一五六の由来は、今のところわからないが、やはり鹿児島市内で借り出されたものか、としておきたい。また、国立台湾大学図書館特蔵組では発見できなかったJ一五六の冒頭六葉の探索については、それが発見された暁には、全貌と題名が明らかになることを楽しみとして、後世への宿題としたい。
地域での研究者のモラルについて
借りていた史料を十分活用できず、貸し主に返却できないまま急死した田代安定はおそらく無念であっただろう。忘れられた研究者といわれた田代安定が残した地域への思いを研究という営みを通して、もう一度地域の人びとに届ける方法があることを私たちは願っている。
宮本常一は、「調査地被害」という言葉を作り、次のように警鐘を鳴らした。
調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い(宮本・安渓、二〇〇八、三四頁)。
持って帰ったまま返さないという例は、全国いたるところにあった。そのほとんどは、地方大学の先生たちであった。……古文書がそのような状態であるから、めずらしいものが借用されっぱなしになったり、盗まれたりする例は限りなくある。「ちょっと貸してくれ」といって借りていったもので、戻って来たものはほとんどないという(同書、三一頁)。
個人で借りたものでない場合はなかなか返せないことがある。自分の関わった調査隊が解散して長年にわたって返しそびれていた古文書を網野善彦が返却して回っていることを知った宮本は、死を前にして、網野に電話をして「あなたが行ってくれて、自分は地獄から這い上がれるような気がする」と感謝したという(網野、一九九九)。
思えば文書のたどる運命は数奇なものである。震災や戦火でまるごと失われたり、今回のように長年のうちに国境が変わったりもする。そうした時代の変化を乗り越えて、史料のよみがえりの現場に立ち会えるのは思いがけない幸せである。いま、幕末の奄美の人びとへの人間的な共感の中で、厚く深い記録を後世に残した名越左源太や、その先輩格の伊藤助左衛門、沖縄や奄美そして台湾や南洋で、飽くことのないフィールドワークを行った田代安定の足跡をよみがえらせることに力を注ぎたいと思う。
地元の人びとが、踏査に協力し生活を支えたからこそ、こうした貴重な記録が残されたのである。また、日本時代の文化遺産を守り育てることに力を注いでおられる、台湾の知識人、教育研究施設のおかげで、われわれは再びこれを読むことができるのである。長年調査地とされてきた奄美の地元の方々こそ、先祖の協力や国際的なネットワークの力で奇跡のように残された、これら在地の知恵の記録を真っ先に読んでいただきたい。研究者は、いま公開され始めた国立台湾大学の史料を利用して業績をあげることも大切だろうが、それは例えば奄美の地元から見れば、調査する側のエゴに過ぎない。科学研究費等の出版助成の予算を獲得して、国立台湾大学図書館から史料集を刊行するといった手続きを踏んで、後世に残る資料集成のようなものを目指していただきたい。そうした努力の中からこそ、地域や国際社会と連携した本物の地域研究が生まれてくるはずである。それが、人間を相手にするフィールドワーカーにとって「調査地被害」という地獄から這い上がれるかもしれない道のひとつだと思う。
謝辞
陳雪華館長を始めとする国立台湾大学図書館特蔵組の歴代のスタッフの方々のご協力に心から感謝申し上げます。田代安定文庫担当の林慎孜さんと、國分直一コレクション担当であった洪淑芬博士(現在は國家図書館勤務)には特に懇切なお世話をいただきました。桜美林大学の中生勝美教授には、国立台湾大学図書館での実習中の学生に「田代安定伝序説」の講義をしていただくなど、さまざまなご教示をたまわりました。山口県立大学生の国立台湾大学図書館特蔵組での実習にあたっては、文部科学省のグローバル人材育成推進事業の支援を受けています。二〇〇五年から二〇一〇年にかけての安渓遊地と安渓貴子の奄美でのフィールドワークにあたっては、総合地球環境学研究所の「日本列島における人間――自然相互関係の歴史的・文化的検討」プロジェクト(リーダー湯本貴和教授)の経費を使用しました。國分直一先生のご遺族には、資料整理の学生実習にあたり格別のご配慮をいただきました。本研究ノートの図は、国立台湾大学図書館・田代安定文庫(http://cdm.lib.ntu.edu.tw/cdm/landingpage/collection/Tashiro)と国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537287)からの引用です。
引用文献
網野善彦、一九九九『古文書返却の旅――戦後史学史の一齣』中央公論新社
安渓貴子、二〇一一「ソテツの来た道――毒抜きの地理的分布から見たもうひとつの奄美・沖縄史」安渓遊地・当山昌直編著『奄美沖縄環境史資料集成』南方新社
安渓遊地、二〇一五(印刷中)「西表島の廃村で過ごした日々――わたしの初めてのフィールドワーク」『フィールド科学の入口』一〇巻、玉川大学出版部
安渓遊地・宮本常一、二〇〇八『調査されるという迷惑――フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版
今村規子、二〇一〇『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』南方新社
河津梨絵、二〇〇四「『南島雑話』の構成と成立背景に関する一考察」『史料編集室紀要』二九、一〜二八、沖縄県教育委員会
(http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/okinawa/7772/1/No29p1.pdf)
國分直一著、安渓遊地・平川敬治編、二〇〇六『遠い空――国分直一、人と学問』海鳥社
國分直一著、安渓遊地編、二〇一一『日本民俗文化誌――古層とその周辺を探る』国立台湾大学図書館
高良倉吉・赤嶺守・豊見山和行編、二〇一三『国立台湾大学図書館典蔵琉球関係史料集成』国立台湾大学図書館
中生勝美、二〇一一「田代安定伝序説――人類学前史としての応用博物学」『現代史研究』七:一二九〜一六四
名越左源太著、國分直一・恵良宏校注、一九八四a『南島雑話――幕末奄美民俗誌』一(東洋文庫四三一)、平凡社
名越左源太著、國分直一・恵良宏校注、一九八四b『南島雑話――幕末奄美民俗誌』二(東洋文庫四三二)、平凡社
三木健、二〇〇五「台湾に田代安定の資料を訪ねて――幻の旧慣調査報告書の出現」『沖縄大学地域研究所年報』一九:一六八〜一七一
図の目録と説明
図1 田代安定・南島巡歴詩抄(国立台湾大学図書館田代安定文庫O006)
図2 名越左源太・焼酎製法之事(国立台湾大学図書館田代安定文庫J120)
図3 名越左源太・焼酎製法之事(国会図書館デジタルコレクション2537287)
図4 名越左源太・辛亥三月改 雑書下書 名越時行(国立台湾大学図書館田代安定文庫J174)
図5 名越左源太・女共水ヲ汲ム図(国立台湾大学図書館田代安定文庫J156)
図6 名越左源太・干瀬深淵之図(国立台湾大学図書館田代安定文庫J156)
以上、掲載は、安渓遊地・安渓貴子@生物文化多様性研究所 です。
『南島史學』研究筆記 2016.09.13(洪淑芬訳)
國立臺灣大學圖書館典藏田代安定文庫之奄美史料――以『南島雜話』相關資料為中心
Historical Documents on Amami in Tashiro Antei Collection of National Taiwan University Library, with Special Reference to Nantō-Zatsuwa
安溪遊地・安溪貴子・弓削政己・今村規子
前言
田代安定(1857-1928)是出生於鹿兒島縣加治屋町的田野調查家,其於日本幕末時期學習博物學與法語,曾至沖繩、密克羅尼西亞(Micronesia,太平洋西部的島國)、臺灣等地,進行大量的現在所謂的「語言人類學」、「民族植物學」等的實地調査(中生、2011:129) 。本文擬針對存留於國立臺灣大學圖書館的「田代資料」中,過去未曾為人所注意到的奄美關係史料作一紹介。
本文作者之一的安溪遊地初聞田代安定之名為1974年之事,當時前往西表島西南部地方一個在明治末期被廢村的鹿川(Kanokawa)村,在當地剛開始進行田野調查之初,即在當時的文部省資料館,邂逅了題為「復命第一書類第廿八冊 八重山島管内西表嶋仲間村巡檢統計誌」之手寫資料影本。該館同樣形式之資料還有「第二冊石垣嶋大川村」、「第三十五冊宮良間切鳩間島」等共計3冊。可惜並未找到鹿川村相關的記錄資料。
同年8月,安溪遊地遇到在鳥取縣的香取開辦大山移動大學、後來被尊崇為研究倫理典範的宮本常一,探詢此等資料的可能所在,當下得到如下的答覆:
那應是田代安定當時向山縣有朋内閣提出的報告書吧。其中有幾冊是由曾撰寫『琉球共産村落之研究』的田村浩轉流入澀澤敬三先生之手,而被收在澀澤先生的「祭魚洞文庫」中。田村浩是澀澤先生的朋友,當其調任沖繩時,曾失意怨嘆「被流放琉球島」,澀澤先生則說「非也,這可是不可多得的研究機會呀!」而大加鼓勵一番。田代安定的報告是否仍然安在,雖然不是很有希望,但不妨花一些時間找找看。(宮本、安溪,2008)
其後本人曾一度前往非洲,也一邊持續進行南島研究,但雖然曾試著製作過西表島、與那國島相關的文獻目錄,但仍舊無從得知其他的八重山之「巡檢統計誌」究竟流落何方。。
冥冥之中真有不可思議的緣在牽繫引導,2011年9月,竟能實際邂逅大約40冊的八重山巡檢統計誌的草稿之真品實物,其中有包括多年以來一直在找尋的鹿川村相關資料,資料就是存在於國立臺灣大學圖書館特藏組的「田代文庫」。
國立臺灣大學典藏有大量的田代安定資料,而首先在日本的學會報導臺大典藏許多沖繩關係史料的是新聞記者兼沖繩近代史研究者三木健(三木,2005)。三木健自己多年來也一直在尋找田代的八重山調査資料,因此,得知包含八重山調査資料的大量的田代安定之草稿類資料尚存時,他是以無限感慨之心加以報導的。而吾等所以能注意到三木健的報告,則是因為一直以臺灣為主要的田野調查研究之地的日本人類學史研究者中生勝美氏所告知。
三木(2005:169)的報告中描述,臺大圖書館遷移至新館,總算開始整理隨著遷館而發現的資料,並報導臺大圖書館已經就田代安定資料製作清單,計包含圖書(刊本)類(30件)、臺灣關係資料(82件)、手稿雑類(35件)、南洋關係資料(29件)、日本關係資料(87件)、植物關係資料(85件)、日記及自各地取材的筆記相關資料(95件)。其後大約十年之間,整理上有相當的進展;雖然有些尚未完成數位化,但至2014年9月筆者撰寫此文為止,總件數已達1,122件。
國立臺灣大學圖書館典藏多種自前臺北帝國大學接收的日本相關文獻。田代安定相關資料除了上述資料之外,尚有30種蓋有臺北帝國大學圖書館藏書印的田代安定著作。
在堂皇的五樓建築的臺大圖書館之最高樓層,就是典藏貴重圖書資料的特藏組。該組之內也有文書修復專室,由具有專門技術者進行修復工作。
本文作者中的安溪遊地、安溪貴子與國立臺灣大學圖書館所以建立關係,乃是因為2010年春,特藏組職員曾至山口市訪問之故。其訪問的目的乃是為了被譽為東亞史前史、考古、民族、民俗學之泰斗的國分直一(1908-2005)之舊藏圖書與筆記、草稿類的收藏而來。吾等二人在研究奄美沖繩的環境史之過程中,直接受此先學的鼓勵與教誨甚多,總因被國分先生直稱「年輕的友人」而甚感榮耀。國分歿後,其位於山口市内的舊宅中,遺留數量龐大的書籍、原稿、筆記、書信、照片等類資料,吾等也因參與此遺留資料的整理,而得到參與國分先生自傳之刊行的機會(安溪、平川,2006)。
自2012年起,吾等每年一次或二次帶領山口縣立大學國際文化學部的學生基於實習目的,也是為整理國分文庫資料而前往臺大圖書館。現在已經完成書信類的整理,而開始著手進行已經數位化完成的照片類資料之整理。
國分文庫藏書共計約1萬7,000冊之整理完成、以及出版中、日文版的國分直一遺稿集,是值得紀念的里程碑,因此國立臺灣大學圖書館於2011年9月舉行紀念研討會。研討會結束時,中生氏告知臺大圖書館之田代文庫典藏,因此而得以見到多年來一直在尋找的「鹿川村巡檢統計誌」(安溪遊地,2015),並確定該等書類作成之初而被提出之時,第一次是在伊藤内閣的時代。
田代資料被發現之初,因為長年遭受蟲蝕,有些資料是無法開啟的狀態,不少史料因此而被限制閱覽。臺大圖書館為此種資料一張一張加以修裱,進而加以數位化。在達到可於館内的電腦提供閱覽的過程中,相關的工作有賴文化行政上所分配到的予算是否豐潤而定,故也因應使用者提出需求而進行作業,類似公共圖書館之提供服務,是頗令人印象深刻的。
從整理到開放:超越障礙賽一般
為了整理田代安定文庫內所包含的沖繩關係資料,沖繩公文書館於2005年3月曾派遣職員訪臺大,就與國立臺灣大學圖書館協力製作複製本之計畫,與館長洽談(三木,2005)。後來沖繩方面也陸續有研究者到訪,尋求能夠讓此沖繩資料群再生之道。在田代文庫之外,國立臺灣大學所典藏的沖繩關係史料之部分,已經透過琉球大學的全面協助,開始進行中、日兩言語的翻刻出版(髙良等,2013);此最終將完成出版為5冊之套書。
2011年最初公開田代安定文庫之存在時,特藏組對於提供此類資料之閱覽,限制甚為嚴格。例如對於典藏清單或是清單呈現於電腦上的畫面,一概禁止拍照,閱覽時也限制在玻璃隔離的閱覽座位區之內,僅提供閱覽與筆記(限使用鉛筆)。貴重書之情形,甚至提供手套,並叮嚀或在場注意不可造成破損。而一旦已經有個人或機構與國立臺灣大學圖書館簽訂目錄製作或出版的契約,則不再接受與之相競爭的其他研究計畫。對於進行中的研究内容,也不透露予其他的研究者。
我每年帶領學生大約費時一週,在國立臺灣大學圖書館的特藏組辦公室内,進行國分直一文庫的整理,其間也利用時間,閱覽田代安定資料。結果發現,尤其是與日本相關的資料,許多都標註「不詳」,或者著錄錯誤。我們為了整理,以自己的個人電腦製作清單,將所發現的錯誤,一一修訂、打字。自2012年3月從包含土地探勘的八重山相關資料開始,漸次延伸至沖繩資料、其他的日本相關資料、南洋相關的筆記、日文藏書、最後是歐文藏書。至2014年9月為止,透過4次的駐館整理,終得以為國立臺灣大學圖書館特藏組的館員,解決了許多的疑點。如此,我們除了充分活用在人類學、民俗學、植物學、民族生態學等方面的經驗,而得以針對内容進行判斷之外,其他方面我們雖非專業,但也趁此機會,透過英語,傳授年輕的館員如何以考古學同樣的手法,透過紙質的比較、蟲蝕蛀洞的拼湊、零散小紙片的格線之色澤的分類等,試著復原一些殘破的文書。
我們整理所發現的任何結果,都隨時報告回饋特藏組的館員。這雖然並非獲得預算支援的公務的計畫,但正是因為國分直一文庫贈藏之後為了整理國分文庫的機緣,而得以順便成就了田代安定文庫的整理。在整理的過程中,得有機會與特藏組日常接洽的田代資料負責館員、以及圖書館的陳雪華館長進行意見交流。從談話中,很清楚理解到,國立臺灣大學圖書館對於典藏資料,是以公開為基本方針。
事實上,國立臺灣大學圖書館陸續整理好資料,也陸續將妥善整理好的資料即時進行公開。例如田代安定文庫中的臺灣相關資料,早自2011年即開始進行公開,而且透過網路,自世界任何地方都可以利用。至於資料內容如果尚未進行詳細分析、而且包含未能確定的資料(例如以日本為調查場域的部分),則僅當研究者提出閱覽要求時,才提供閱覽。但是不論哪一種情況,不論是國外個人或組織,如果要求將一資料進行全部的影印以進行介紹,或全份資料的翻刻發表,則一概不允許。因為臺大圖書館希望圖書館的特藏資料,應由圖書館進行公佈與發行,決定權是在圖書館方,此為臺大圖書館對於特藏資料所採取的態度。
以下雖然屬於使用條件的細節問題,但還是在此一記。國立臺灣大學圖書館所數位化的資料,包含300 dpi的高解析度圖檔、以及72 dpi 的圖檔。後者嵌有「國立臺灣大學圖書館」浮水印。300 dpi的高解析度圖檔需付費使用,而費用是視使用目的而定,商業目的之出版印刷每張圖檔為臺幣1,600元(約6,400日圓),非商業目的之研究利用則每張圖檔為臺幣200元。72 dpi 嵌有浮水印的圖檔如僅作學術研究之用,基本上是免費的。而對於公開於網路上的資料,只要註明出處來源為臺大圖書館的「數位典藏館」(http://cdm.lib.ntu.edu.tw),則不必特別徵求許可。惟所有商業目的之出版,均必須取得臺大圖書館的書面同意。而田代安定文庫的日本相關文書也自2014年3月開始陸續於網路上進行公開,但目前仍限館內使用,校外讀者於入館時取得上網的帳號,即亦可使用個人筆記型電腦登入圖書館的網域而進行閱覽或資料下載。而對於公開的資料之利用條件,基本上與其他於網路上公開的資料相同。有關下載資料之利用與相關著作權,則於「數位典藏館」的「版權宣告」(http://cdm.lib.ntu.edu.tw/copyright.html)中,以中文聲明:「要求轉載本網站內容、服務或請求其他利用,請洽本館館藏單位:特藏組」,並附上特藏組之聯絡電話。因為特藏組有能以英語或日語溝通的館員,因此,即使不懂中文,也可以溝通。
與奄美史料之邂逅
田代安定的生平事蹟,如欲知最新的研究,則可以參考本文一開始所引用的中生著作(2011);其介紹不但詳細,而且附有年譜 。但是,該著作中似乎未注意到明治15年之後在沖繩所進行的田野調查工作其實也包含在奄美大島與德之島的資料收集。
如果於國立臺灣大學圖書館的「數位典藏館」網站中,以「奄美」作為關鍵詞進行檢索,可以查知田代安定文庫的數位化文書中,包含20種以上的奄美相關資料(但其現狀都是「限定公開」,故必須親至臺大圖書館才可以進行閱覽或下載)。
以下茲就奄美相關資料中特別值得注意的資料加以摘要介紹。下列各資料之首的英文字母與數字,是臺大圖書館的整理編號。如要與前述三木介紹文章中所提到的分類加以關連,則英文字母意義分別如下:B圖書(刊本)類、T臺灣相關資料、O手稿雑類、S南洋相關資料、J日本相關資料、P植物相關資料、N日記及自各地取材的筆記相關資料。頁數的計算因為是根據掃描的影幅數計算,而許多草稿類是單頁單頁地進行修裱,修裱完成後即進行掃描,因此,草稿類資料往往一頁就相當於裝訂資料的二頁。
N146:「大島日記ノ内第二集」。17葉。為明治15(1883)年5月10日至12日之踏査田野調查筆記。鉛筆書寫。
N147:「大島紀行 初回渡航紀事 明治15年」。53葉。是在直行紙上整理書寫自1883年5月7日至19日的踏査總記錄;總共巡迴了名瀨、浦上、金久、赤尾木、節田、須野、須田、佐仁、屋仁、喜瀨、湯灣等村落。
S034:「南島紀聞初集 第二稿」。22葉。雖然被列入南洋相關資料中,但内容實為有關奄美大島之旅的記錄,是N147底稿的一部分。
O006:「南島風梳雨浴詩艸」。28葉。漢詩集。其中有身為幕臣的漢學家栗本鋤雲(1822-1897)之增刪。由文件最開頭的「南島巡歷詩抄」可知,此為詠奄美大島之旅的詩作(圖1);主要是詠名瀬、小宿、湯灣釜、燒内、浦上、名柄、久慈、伊子茂、加計呂麻島、知名瀬、倭浜村(觀闘牛戲)、戸円、笠利、住用、古見等的七言絶句。
J064:「大島島廳調查書」。136葉。此為相當大的一部資料。是自明治20年至21年期間,因受帝國大學(後來的東京帝國大學)委託而前往奄美沖繩進行調査之際,田代安定委請大島島廳讓各村落提出相關報告,將此種報告共17份加以綴裝而成。其受委託進行調査的項目包括以下5點:1. 大島本島各種祭典日的遊興節目以及其他年中行事等一般的行事。2. 本島民眾所用姓名與物品類別表。3. 諸社寺以及祈願處所表。4. 各舊遺跡與古墳。5. 80歲以上長壽者之人數。相同的調查詢問單,在同一時期中,也使用於沖繩島各地而獲得相關的調查報告;如果將此類報告加以比對,則或許可能可以進行奄美與沖繩之比較。
J135:「鹿兒島縣下大島郡巡回復命書」。20葉。是在明治16年1月提出予鹿兒島縣農商務課的前一年於奄美大島進行踏査的報告書。5月,自奄美到沖繩,回途中於9月再經由奄美而返回鹿兒島。該資料的後半有關於以奎寧樹治療瘧疾的記錄。
此外還有如J183「奄美列島草木譜」等資料因為尚未完成整理,故還未開放,僅在透過一般的閱覽申請才可閱覽。
以下是關於辨識名越左源太(時行)所書寫的『南島雜話』相關資料4種的詳細過程。
首先茲介紹國立臺灣大學圖書館典藏的名越左源太之『南島雜話』相關資料:
年輕時的田代氏主要的活躍之地是鹿兒島與東京,但因其對於沖繩甚感興趣,當然也會收集奄美的資料,而其收集的奄美資料中,長久以來竟有被流放至奄美大島的幕末薩摩藩武士名越左源太的『南島雜話』相關的貴重文書長眠其中。
首先發現此貴重文書的是安溪貴子。在逐一閱覽國立臺灣大學圖書館田代安定文庫中的日本相關資料時,看到原目錄中註記「著者不明」、「內容不詳」等的毛筆書寫文書中,有描寫蘇鐵的調理法之相關繪圖。對於原本即在研究蘇鐵的去毒法的研究者安溪貴子而言,直覺此繪圖就是國分直一贈送的平凡社出版的東洋文庫版之『南島雜話』(名越左源太著,國分、惠良校注,1984 a, b)中所熟悉的繪圖以及相關的內容,因此得以判斷而有此發現(安溪貴子,2011)。
此一發現首先為2014年4月15日的『南日本新聞』所報導,而關係地的奄美之『南海日日新聞』則於5月12日以報紙全版頭條新聞大加報導,又於17日將安溪遊地、安溪貴子的投稿破例以展開二面彩色的篇幅加以刊載。此投稿的文章,由當時特藏組的洪淑芬協助中文翻譯,並以中、日雙語對照的方式,於國立臺灣大學圖書館的館訊中加以轉載(http://www.lib.ntu.edu.tw/General/publication/ Newsletter/newsletter170.htm#5-2)。
此事發展至新聞報導的過程中,其實曾得到奄美歷史研究者弓削政己氏具體的建議,而展開共同研究,另也曾借助於為了將文書作多複本之複製而翻刻著作『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』(2010,南方新社)的今村規子氏,故本文才以4人聯名發表。有關國立臺灣大學圖書館田代安定文庫的解説與文庫整體的整理是由安溪遊地、安溪貴子負責,有關此為名越左源太之書寫物的判斷、其文書的定位、以及內容的相關記述等,是安溪遊地將弓削政己、今村規子的實證研究加以彙整的。另外,現在總稱為『南島雜話』的各種寫本,河津氏(2004)亦曾進行過整體的整理,並就其重要性作了定位,是優秀的研究;其未來亦應將本次的發現,加入其研究整理中。
國立臺灣大學圖書館特藏組的田代安定文庫中,包含以下4種與名越左源太(時行)相關的資料。
2013年3月14日當時的特藏組所製作之目錄中,對於此任何一者都註記「作者不詳、年代不詳」。有關用紙的尺寸,並無法由數位檔案判斷,因此,在此將圖書館之記錄照錄:
J120:「居室倉廩」。22葉。35.6 cm×26.4 cm。
J153:「テルコ神迎ヒ詞」。5葉。無紙張尺寸之註記。
J156:[奄美大島調査記錄]。含彩圖。12葉。34 cm×27 cm。
J174:「雜記下書」。36葉。36.4 cm×27.2 cm。
安溪遊地與安溪貴子於國立臺灣大學圖書館閱覽該等資料時,發現J120與過去為人所知的『南島雜話』(名越,1984a)之「居室倉廩」的以下部分大致相符。J174的首頁註記「辛亥三月 雑記下書 名越時行」。時行是左源太的名諱,其在世時本人並不會使用此名,故推測此應是其被流放至奄美大島的大約第一年,即嘉永4(1851)年舊3月(正好是辛亥革命發生的60年前)時,名越左源太本人所書寫的草稿;内容與『南島雜話』(名越,1984a)開頭的部分大致相符(後述)。但此文稿包含因為重新謄寫而有的硃筆追加文句與繪圖的修正。本文共同作者弓削政己將此與已經被判斷為名越左源太之真蹟的奄美市立奄美博物館藏的底稿「南島雜話關係覺書」(暫定題名)、鹿兒島縣立圖書館藏『大嶹便覧』等比對的結果,現階段已判斷確定此文稿應是出自於名越左源太之親筆。
以下茲根據今村與弓削之整理,針對J174、J120等合計共58葉之史料,僅摘錄文件之首的款目詞彙確認之。另對於包含特殊註記之情形,則以括弧表示之。
居室倉廩/屋普請ヲスルニハ…/笹葺アリ…/材木ハ一ツ葉…/庭外手寄…/神木屋ト云…/高倉トイヘルアリ…カフカ/高倉ノ柱山ヨリ…/郷士格ハ勿論…/居宅馬場通…/大島ノ雪隠…/新ニ居室ヲ…/右祝ヒノ…/植柱屋トハ…/飲食/島民米飯ニ…/雑記下書/凶年飢歳トナレバ…/蘇鉄ノジクニテ…/麦モ少々植テ…/ト云テ里芋ト甘蕷…/島民食物之事 此島米少ケレバ…/椎ノ實ヲ拾ヒ朝夕ノ…/味噌之事/味噌漬之事/醤油之事/酢之事/菓子之事/搗豆腐/唐豆腐/ベラ餅/蘇鉄餌/蘇鉄ガン/椎ガン/(欠落「蓬餌」的記事)/砂仁餅/取肴之事/韮巻/精進物/鉢物/吸物/燒酎製法之事/燒酎を煎じる道具の圖(次の泡盛の圖とともに、本來はもっと前にあったもの)/泡盛燒酎の圖/造酒製法之事/砂糖製法之事(先の道具の圖の砂糖柄杓の柄の部分が見える。順番が入れ替わっていることがわかる)/砂糖製法道具の圖(本來は製法の後ろに置くべきである)/砂糖黍絞の圖/水車小屋の圖/砂糖煎小屋の圖
上述項目如以表格呈現則表格將甚大而徒占篇幅,故就割捨表格形式。但根據今村所製作的對照表可知,臺大圖書館田代文庫的J174與J120,幾乎所有的項目與過去所知之版本上的項目都是相符合的。
詳細的對照關係是今後可進一步檢視證明的課題,但有一些稿本的先後關係,則已經可以判知。例如,「燒酎製法之事」之稿本,國立臺灣大學圖書館田代安定文庫所藏本(圖2)與日本國會圖書館數位化館藏(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537287)所公開的「奄美大疇漫筆」中,甕旁人物下方同樣均註記「清書ニハ此人ヲ今少シ大ク認ムベシ」(謄寫時對於此人應多少再加以認識)(圖3),可見二件文書均為底稿。但將兩者加以對照比較,則可見國立臺灣大學版包含較多硃筆增補,應是比國會圖書館版更早完成,故包含較古的底稿文字。
前述比對結果,無法掌握文件項目對應關係的,僅寫有「雜記下書」(雜記底稿)1葉而已,今村規子認為此葉應是因為什麼緣故而被混入此文件之中的。但是,在觀察實物後,不論是紙張尺寸、紙質等,差異都不大,因此與其說是後世之人才將此葉混入,不如說是名越左源太本人所加入,較為合理。該件較大的文字註記「辛亥三月改 雜記下書 名越時行」(圖5),可知此應是其被流放至奄美大島的第一年間較早時期所作成。該件應是首先書寫封面題名,其後於空白處書寫許多各種文字與繪圖,此並不似一般的田野調查文稿。本文作者的安溪遊地認為,比較可能的應是名越左源太被流放至奄美的最早時期,利用書寫各種雜記的草稿與備忘事情(即現在所謂的田野調查筆記)之用紙,製作其過去所書寫的「雜記」底稿的封面。該封面上,原被認為可能是封面題名的第一行,卻被以墨筆塗去,而改為「辛亥三月改」。該用紙下部有髒污、以及中央上方折處有缺損,因為此為封面,這也是可以理解的。如果此推斷正確的話,則田代文庫的J174以及J120的58葉,應該全都是辛亥3月,亦即嘉永4(1851)年舊3月時,名越左源太進行編集的初期之底稿,而僅封面是使用較早時期的筆記用紙。因此可以推定,現在總稱為『南島雜話』之文書群的最初期之封面題名應是「雜記」;而相當於此「雜記」的根本基礎,即名越左源太的田野調查筆記之紀錄;此事實之訊息,留存於封面之上。至於事實是否確實如此,必須透過更詳細的全文翻刻去了解。河津(2004)曾詳細地加以研討,認為「雜記下書」(「下書」意為「底稿」)(奄美博物館藏、「婚姻之事」)非寫本而是稿本,因為此文件的書寫方式,形式上與以「辛亥三月改」為始相同,故兩者是同時完成整理的可能性極高。另外,雖然還有待更進一步詳細查證,但應該可以得到的結論是,此一新發現的稿本,是現存的稿本之中,比「大嶹便覧」更早期作成的名越左源太之真蹟稿本。
註記為「雜書下書」的一葉中,以鉛筆書寫有整理編號22(圖4)。其他尚有許多瑣細的增補文字,不易閱讀,但以下茲根據今村與弓削的翻刻,介紹其內容。
辛亥三月改
此竹如是□ 圖
すわり 圓通丸船頭 配當高
琉球では 別府善兵衛 配當高之地面
あさ貝(ajikee)という 周助
内之浦勇吉 砂糖黍畠に直して
江口傳次郎 [ ]年
其黍□□□
[ ]也
雑記下書 名越時行
アンニヨ 又は アニク
□□□に竹の輪を内□□□
へ入れて図のような形にする
大きいものは長さ壱尺八〜九寸 川魚を捕る器である
廻り三尺
中ぐらいのものは長さ壱尺六〜七寸
廻り弐尺四〜五寸
壱尺四五寸 一夜に三舛ほど
□□廻り弐尺 此器に魚が入るようにしてある
□□(ア)ンニヨで田の海老と川魚を取る事
一、毒流シニテ川魚を取事
一、麻苧之事
一、兎取之事
一、鳥之事
一、屋久貝と異風蜷(イフウニナ)の事
一、洲海苔の事
一、麩海苔の事
一、赤鼻片ぎす(はあばなかたぎす。魚名か)の事
一、?網の事
一、山芋の事
一、鰆(さわら)は三月から出る。突いて捕る魚はこの外にソウチという魚とアキノという魚がある。シビ(カツオの一種)の魚も突く事があるが、これは大変稀で七〜八年に一度である
(下段)
一、ガッパ(川の精霊)を殺すという云事
一、赤次(シュロ繊維)と黒次(クロツグ繊維)の事
一、竹之事
一、豚之事
J153的「テルコ神迎へ詞」之件,是將在舉行神事之際所聽聞的方言,以片假名加以記錄,然後於括弧內試著加註日文翻譯。安溪遊地與安溪貴子曾一度以為此或許是當初田代安定所記錄的,但是因為用紙與筆跡均與其他田代的文稿相異,故認為此極可能是名越左源太之文稿,這可能是過去相關收集中的漏網之魚,若果如此,則是民俗紀錄上的貴重史料。但有關內容的解讀以及是否確實是親筆真蹟,則尚待一些時間研究,期待他日可以判斷其詳。
J156因為缺少最初的6葉,因此無法判斷其題名。為此而詢問過臺大圖書館特藏組的館員有關此文件開頭的部分是否存在,但迄今仍未發現其所在。從文中「予戌ノ夏四月末ヨリ卯ノ六月迄六ヶ年ノ暑寒風湿ヲ經」(余自戌年之夏四月末迄於卯年六月,經六年之暑寒風濕)之句,可以判斷此應是自嘉永3(1850,戌)年4月至安政2(1855,卯)年6月期間,滯留於奄美大島的人物,即名越左源太所記錄之文稿。復由此文件包含增補文字與修正之點觀之,可知此與J174等同樣可能是底稿資料,但此份文件之增補文字較少。另從上述的敘述推斷,執筆的時期可能是其被赦免流罪而回到鹿兒島之後。
此史料各項目上方以紅字標示「地」「天」等類別,次就海、島、瀬、崎、濱、(浦)、湊、淵、岸、(道路)、森、以及霞、霧、風、雨、雲、霰、暑、雷等各項目加以敘述。其中關於港灣的方向、深度、可停泊的船隻數量等,以及其他有關水的供給與氣候等之記載,許多部分相當於是軍用地誌,也可能是從軍事上的需要考量,而另外作成此含特殊構成項目的資料。此外,有的資料是仔細描繪汲水女子的姿態(圖5)、有的則是寫實在海濱採貝人的模樣(圖7)。島上的人曾仰慕地描述道:「名越此人,初聞其聲或感不安,但見其人則知其為甚善之人。」(國分、惠良,1984b)可知島上之人能感受到名越左源太的人道友善。再者,地誌類的書寫,亦搭配岩壁、波浪的繪圖,其筆法已經超越了欲生動地描繪器物與人物的素描,而可以看出其筆法確已具水墨畫家之水準。
從J156可知,在名越左源太滯留於奄美大島期間,其每日撰寫日記不輟,也可知其每年都可收到父親寄給他日記。這應是為人父者,希望遭受流罪的兒子仍能知道國內消息的特殊用心吧。
○霰
冬中曾兩三度降霰 土人云此為降雪 吾藩未曾降雪霜 雪霜氷究竟為何物 土人未能判斷準當
吾藩尊父君年年賜寄日記 時亦寄日史書翰 余展讀兩冊 是時大島降霰 吾藩亦正普遍積雪
J174不同於J120,其幾乎完全無與既知的稿本或寫本的內容項目整體上重複的記述。將之與東洋文庫版『南島雜話』(名越,1984a,b)對照可知,「暑」之項為相同者,但「井戸之事」(「井戶」意旨水井)之項目,則附有簡略之記述。東洋文庫版的編注說明:「暑,此一節不論是永井保管本或島津家本均已闕失,故根據鹿大農學本補之」。有關J156的成立時期以及其特殊性質的定位,是有待今後多加研究的課題,但以下之部分,於東洋文庫版『南島雜話』(名越,1984a:33)之中,採用「馬場筋」、「濱嶋」之詞,是不同之處。
○暑
在此暖地 暑氣本強 與此不相左(無異)之吾藩 卻覺其和煦 其山林草木茂盛 馬場庭狹 無石垣 庭中亦未遺石 濱邊平常涼風吹拂 故也
三件史料被納入田代安定文庫之經緯
行文至此,不免要問,此三件(國立臺灣大學圖書館的分類是四件)史料究竟為何會被納入田代安定文庫中?田代所遺留的文書,在臺北帝國大學為國立臺灣大學所接收之後,長期地長眠於圖書館其他典藏處所的木箱中(三木,2005)。(譯者按:譯者當年實際見到的保存箱為扁形硬紙板之紙箱,尺寸大約45x50x20cm,硬紙板材質與厚度類似中文線裝書的紙質函套,硬紙板本身為白色,外糊暗藍色紙,但是暗藍色紙嚴重褪色並遭嚴重蟲損,紙箱本身亦多裂壞。文件資料逐件取出加以清理之後,蟲損殘破的箱盒原打扁集中置放一處,但後來基於防止殘留蛀蟲汙染庫房之考量而被捨棄。)該批資料得以再被發掘的契機,是因1998年新圖書館落成。(因為自臺大接收之後,整批資料長期處於封存狀態)因此,此三件史料自然可被認定其本來應是田代安定借出之物。曾經整理『南島雜話』相關稿本與多種寫本的河津氏(2004)於報告的一覽表之最後一欄中,標註「所在不明或現已不存之寫本」的有以下3件:所謂「大島島廳所藏本」(1889年成立之寫本)、「沖繩縣立圖書館本」(前者之寫本。1918年成立)、最後變成去向不明的「鹿兒島縣廳本」。關於此事,河津(2004)作了以下的敘述:
題名不明、原為鹿兒島縣廳所藏、内容不明;於永井龜彦『高崎崩之志士 名越左源太翁』一書中被稱為「鹿兒島縣廳藏本」,於惠良宏「『南島雜話』諸本校合經過」一文中被稱為「鹿兒島縣廳所藏本」而被加以介紹。『高崎崩之志士 名越左源太翁』中記載:「最近曾見過此文獻者已經不在當地,故存在與否不明」。
『高崎崩の志士 名越左源太翁』一書於昭和9(1934)年出版,此為田代逝世後六年之後的事。而東洋文庫版『南島雜話』(名越,1984a)的開頭收錄了惠良宏所撰「『南島雜話』諸本校合經過」,其中寫到了以下的傳聞軼事:諸寫本中,鹿兒島縣立圖書館所藏的「雜記下書」被認為是該圖書館奄美分館的贈送之物,是由名瀬市史編集委員會將筆寫原稿加以拷貝複製之版本。而其原本是永井龜彦(生物學者,1877-1965)獲得名越家贈送而收藏的。但其原本在永井龜彦還在世時,即借予「鹿兒島市的一研究者」,因此國分、惠良二學者均無緣見到此文獻。
由此一經過看來,在國分直一還在世時,看似已經斷了線的資料線索,此次卻因為田代安定文庫中,與『南島雜話』相關史料的發見而又出現了一絲希望。
在讀過該件資料之後,直覺在國立臺灣大學圖書館田代安定文庫所發現的該具有「雜記下書」之封面的一連串史料(J174與J120合計58葉),應該就是田代安定(鹿兒島市出身的研究者)向永井龜彦借用,卻因為田代於1928(昭和3)年3月自臺灣前往東京出差的途中,路過故鄉鹿兒島卻不幸病死,故無法歸還的資料。借用的時期應該是田代往訪奄美的明治15(1882)年、或者接受帝國大學委託進行調査的明治20(1887)年之後甚久的事,亦即應是永井龜彦成人之後,也就是明治30(1897)年以後的事。因為田代自明治28(1895)年起曾任職臺灣總督府,故可能是返鄉的機會中,停留於鹿兒島之際,才得接觸博物學後進永井之機會。
至於其他件資料J153「テルコ神迎ヘ詞」、以及以「地誌」為主的J156之由來,現在還無法得知,料想借出之地應也是鹿兒島市内。再者,國立臺灣大學圖書館特藏組還未能找著的J156的最初六葉,期待終究能再發現的一朝,如此,則該史料的全貌與題名,就能水落石出了,這是留給後人的一大課題。
有關至各地進行研究的研究者之道德問題
借來的史料還來不及充分的活用,也沒能歸還借主,就猝然離世,這田代恐怕萬萬也沒料想到。田代安定被稱為是「被遺忘的研究者」,他所遺留下來的對於地域研究的心思,是否能夠透過何種研究的經營,使之再度傳遞予地方上的人?思考出一個可能的方法,這是我們衷心的期待。
宮本常一曾創造所謂「調査地被害」的用詞,而敲下如下的一記警鐘:
所謂調査,往往並非為了被調查地方當地的需要,而是中央的力量,一點一點地強行作為。而且利用被調查地方當地人的善良卻行掠奪之實的情形出人意料地多。(宮本、安溪,2008,頁34)。
所帶回的資料,從此不再歸還之例,全國所到之處比比皆是。最多的情形是地方大學的教師們。……古文書總發生這樣的情形,珍貴的古文書被借用之後就有去無回,有的則會遭偷盜;相關案例不一而足。有的雖說「請就借用一下下」,但一旦被借走,幾乎沒有歸還的(同書,頁31)。
並非個人借用的情形,也曾發生無法歸還的情事。宮本自己相關的一個調査隊解散之後,網野善彦多年之間一直來回奔波,要讓尚未歸還的古文書物歸原主;得知此事的宮本,在臨死之前特別致電網野,充滿感謝地說:「請您為我完成這些行程,我才能感覺自己得以自地獄解脫。」(網野,1999)
想來文書的來龍去脈命運真是無比奇妙。有的在震災或戰火中完全喪失,有的就如此次發掘的文書一般,多年之間跨越了國境而倖存。筆者能夠親身邂逅史料甦醒的時刻,是一種不其然的幸福。此時自覺對幕末奄美的人們感同身受;對於曾想要為後世留下深刻厚實的紀錄的名越左源太、相當於是其前輩的伊藤助左衛門、以及蹤跡遍及沖繩、奄美、臺灣、以及南洋等地,求知若渴地進行田野調查工作的田代安定等人之足跡與留下的業績,十分希望能夠為讓其重生而盡一己之力。
對被調查地的人們而言,其協助田野調查,乃是因為期待此類調查對其生活有所助益,故而能留下此貴重的紀錄。此外,臺灣的知識份子對於護守日本時代的文化遺産克盡其力,同時也是有賴於教育研究機構的典藏設備,我們才得以再次展讀此等資料。換言之,這是緣於以前多年之間被作為調查之地的奄美地方的人們,也就是奄美的祖先們給予協力、加上國際的網絡之力量,才能奇跡似地留存至今。對於這記錄在地智慧的史料,真迫不急待想先開卷品讀。對研究者而言,利用已經開始陸續公開的此國立臺灣大學之史料,表彰先人的業績,雖然有其重要性,但是,如果由被調查地的奄美地方看來,這卻只不過是調查者自我主觀、一廂情願的看法而已。因此,爭取科學研究費等支援出版的預算、比照現在由國立臺灣大學圖書館刊行琉球史料集的手續方式,讓該批史料,也能以資料集成之形式,長久流傳後世,是衷心期盼能夠達成的目標。因為唯有如此努力,才能在受調查的地方、國際社會等的攜手之下,產生出真正的「地域研究」;這對於以「人」為對象的田野調查工作者而言,或許也是能讓其因造成「調查地被害」的心靈地獄獲得解脫之道吧。
謝辭
在此要對陳雪華館長以及國立臺灣大學圖書館特藏組歷年來曾給予幫助的各位館員,致上衷心的感謝。尤其是田代安定文庫的資料負責人林慎孜女士、以及過去曾負責國分直一文庫的洪淑芬博士(現在任職國家圖書館)之懇摯協助。而櫻美林大學的中生勝美教授曾為在臺大圖書館實習的山口縣立大學學生講授「田代安定傳序説」,而給予我們甚多啟示;山口縣立大學學生能於國立臺灣大學圖書館特藏組實習,是獲得日本文部科學省全球人材育成推進事業之經費支援;二〇〇五年至二〇一〇年安溪遊地與安溪貴子之前往奄美進行田野調查研究,是利用總合地球環境學研究所的「日本列島における人間――自然相互關係の歷史的・文化的檢討」研究計畫(計畫主持是湯本貴和教授)之經費;國分直一先生的遺族對於進行資料整理的學生實習,也給予特別的許可;另外,本研究報告使用的田調筆記圖檔,是取用自國立臺灣大學圖書館田代安定文庫(http://cdm.lib.ntu.edu.tw/cdm/landingpage/collection/Tashiro)以及日本國會圖書館的數位化典藏資料(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537287),在此一併致謝。
引用文獻
網野善彦、一九九九『古文書返却の旅――戦後史學史の一齣』中央公論新社
安溪貴子、二〇一一「ソテツの來た道――毒抜きの地理的分布から見たもうひとつの奄美・沖繩史」安溪遊地・當山昌直編著『奄美沖繩環境史資料集成』南方新社
安溪遊地、二〇一五「西表島の廃村で過ごした日々――わたしの初めてのフィールドワーク」『フィールド科學の入口』玉川大學出版部
安溪遊地・宮本常一、二〇〇八『調査されるという迷惑――フィールドに出る前に讀んでおく本』みずのわ出版
今村規子、二〇一〇『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』南方新社
河津梨繪、二〇〇四「『南島雜話』の構成と成立背景に關する一考察」『史料編集室紀要』二九、一〜二八、沖繩県教育委員會
(http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/okinawa/7772/1/No29p1.pdf)
國分直一著、安溪遊地・平川敬治編、二〇〇六『遠い空――國分直一、人と學問』海鳥社
國分直一著、安溪遊地編、二〇一一『日本民俗文化誌――古層とその周辺を探る』國立臺灣大學圖書館
高良倉吉・赤嶺守・豊見山和行編、二〇一三『國立臺灣大學圖書館典藏琉球關係史料集成』國立臺灣大學圖書館
中生勝美、二〇一一「田代安定傳序説――人類學前史としての應用博物學」『現代史研究』七:一二九〜一六四
名越左源太著、國分直一・恵良宏校注、一九八四a『南島雜話――幕末奄美民俗誌』一(東洋文庫四三一)、平凡社
名越左源太著、國分直一・恵良宏校注、一九八四b『南島雜話――幕末奄美民俗誌』二(東洋文庫四三二)、平凡社
三木健、二〇〇五「臺灣に田代安定の資料を訪ねて――幻の舊慣調査報告書の出現」『沖繩大學地域研究所年報』一九:一六八〜一七一
圖の目錄と説明
圖1 田代安定・南島巡歴詩抄(國立臺灣大學圖書館田代安定文庫O006)
圖2 名越左源太・燒酎製法之事(國立臺灣大學圖書館田代安定文庫J120)
圖3 名越左源太・燒酎製法之事(國會圖書館デジタルコレクション2537287)
圖4 名越左源太・辛亥三月改 雑書下書 名越時行(國立臺灣大學圖書館田代安定文庫J174)
圖5 名越左源太・女共水ヲ汲ム圖(國立臺灣大學圖書館田代安定文庫J156)
圖6 名越左源太・干瀬深淵之圖(國立臺灣大學圖書館田代安定文庫J156)