生命の森で遊ぶ----屋久島オープンフィールド博物館の夢_RT_@tiniasobu
2023/07/11
『エコソフィア』 という雑誌の4号: 10-17頁(1999年11月)に掲載した、文章です。
生命の森で遊ぶ----屋久島オープンフィールド博物館の夢
文・安渓遊地(あんけい・ゆうじ、山口県立大学)
絵・手塚賢至(てつか・けんし、足で歩く博物館を作る会)
写真、資料提供・湯本貴和(ゆもと・たかかず、京都大学生態学研究センター)
はじめに
屋久島の約5分の1の地区が世界自然遺産に指定されて6年。その自然のすばらしさがマスコミにもたびたび取り上げられるようになった。しかし、その島にも古くからの人間の営みがあることに注目する人は少ない。また、大正、昭和の屋久杉伐採と、戦後の大面積皆伐や近年の観光開発によって、人と自然のバランスが大きく崩されてきた島であることは案外知られていない。こうした歴史を踏まえ、屋久島をトータルに学ぶ場として、現在、地元有志と研究者と行政が手を結んで、オープンフィールド博物館の構想づくりが進められている。オープンフィールド博物館は、展示のための建物に重点をおかないタイプのエコミュージアムであり、自然や文化にそれが生きている場でふれあうことを目指すところに特徴がある*1。
屋久島フィールドワーク講座
屋久島オープンフィールド博物館構想の最前線のとりくみとして、今年の7月18日から25日まで、屋久島でフィールドワーク講座の合宿が実施された。上屋久町が主催し、全国から公募・選抜された大学生15人を講師8人*2がボランティアとともに指導するという内容であった。内容的には、植物・鳥・サル・人の4つの班に分かれて、屋久島の西部林道とその周辺を教科書にしてフィールドワークの手ほどきを受ける試みだった。
また、この時の担当講師を手始めに、世界の屋久島研究者を学芸員に見立て、屋久島内の様々な施設・団体を地域ぐるみで有機的に結ぼうとする、インターネット上の仮想博物館「屋久島オープンフィールド博物館」のホームページ(アドレス
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/yakuofm/)
も野間直彦さん(滋賀県立大)が中心になって合宿中にオープンしたところである。
このたびの講座の詳しい内容をここに盛り込むことはできないが、最終日の受講生の感想を抜粋して、屋久島というフィールドで学ぶことのもつ意味の1端を伝えておきたい。
「植物を見たり鳥を見たり、雨がやんだら海にきれいな虹がかかっていて、自然が大きなひとつの輪のような気がしました。」
「これまで植物しか見ていなかったんですが、植物は植物だけで生きていけないし、動物も動物だけでは生きていけない、もちろん人も自然の中の1部なんだということを肌で感じることができてよかったです。」
「後期は糞虫ばかりでしたが、しだいにその生物のいる大切さが感じられてきて、始めはピンセットではさんでいた糞虫を、終わりごろには素手でつかむようになってきました。同じ目の高さでみるようになって、植物ともどんな生物とも同じ高さでいたいなあ、と思う1方、いろんなことに興味をもてる自分、それが拡がってきたことをうれしく思います。」
「島の人々の自然への接し方を知って人と自然とのかかわりの大切さを学びました。実は、私は初日、川で用をたしてしまったんです。いろいろお話をうかがっているうちにとっても悪いことをしたな、どうすればいいの?と思ったんですが、かしわ手を打ってお詫びをして、川に焼酎を流して、塩をまいてくるといいんだよと言われて翌日さっそくやってみました。そうしたら、木を踏んだら木が痛いんじゃないかなと思えてきて、踏まないように歩こうとしました。そして、今まで見えていなかった自然の姿が見えてきて、森が私を受け入れてくれたような気がしました。」
「屋久島には神秘的な感じがあって、宇宙がずうっと拡がっているような感じがしました。この講座で何とは言い表せませんが、自分が生まれ変わったような気がします。」
「何千年もの命の流れが続いているのが、欲望のためにこの何十年かでなくされてしまっているということを実感できたのが印象的でした。過去に培ってきたものを大事に守って、それを未来にどう生かすかを考えておられる方々がいらっしゃることに感銘をうけました。生命の連なりを生かすために、自分がどんな役割を見つけて果たしていくのかを考えるようになりました。」
わずか1週間のフィールドワーク入門で、若者たちは屋久島のふところ深い魅力に触れ、生命の連鎖を感じ、見えない世界の重要性に気づき、これからの自らの生活についても考え直すきっかけを得ることができた。そして、夜の講義*3で私たちが受講生に語りかけたのは、次のような屋久島からのことづてであった。
第1講・探し当てた大杉
1985年の春に初めて屋久島を訪れた旅で、いわゆる縄文杉を7年の歳月をかけて探しあてた上屋久町の岩川貞次さんのお話を聞く機会に恵まれた。以下は、その語りの抜粋である。
昔の人は、皆伐しないで抜き木をしたのです。10本あればそのうち1本か2本を伐るのです。そうして空間があけば、日光がさしこんで、そこから子どもがいっぱい出てきます。密林の中には小さいのは1本も生えていないのに……。これを10本とも伐れば水害をひきおこします。昔の人は、屋久杉を永久に絶やさないようにうまい政策をとりました。地質にあわせて利用法も変えていました。ところが国有林になって皆伐したので水害も起きた。あの昭和54(1979)年の永田の(土面川の)大水害につながりました。地の者の言うことを尊重しなければなにごとも成功するわけがありません。
私が、大杉を発見したのは、昭和41(1966)年5月28日の午前10時ころでした。形が大きな岩のように見えたので、「大岩杉」と名付けてみましたが、新聞に大きく出たときはいつの間にか「縄文杉」になっていたので驚きました……。実は、13人でひと抱えするような太い屋久杉があるという、こういう言い伝えがあったのです。それで、あのあたりに必ずあるはずだと実際に見つける7年も前から見当をつけてずっと探していたんです。
屋久島の山に行って今夜はここで野宿するという時は、山の「土地借り(カイ)」ということをしなければなりません。決してそのまま寝ることはできません。弁当をとっておいて、飯とサバか飛魚の塩をしたものを、人の足の当たらないところに置いて、「今宵1夜の宿を貸してください」と願います。これが、宿を借りる代償です。必ず塩の入ったものを捧げるのは、清めるという意味だと聞いています。
??いったい誰から土地を借りるのでしょうか。
それは、地神、荒神、水神からです。それらの神様をはじめとして大自然の恩恵に対する、あらゆる大自然に対する信仰心なんだと思います。神とはなんぞや?大自然である。太陽の熱である。だからいまだに東に向かってかしわ手を打つじゃないですか。水があって生きられる。だから、それらを神様として拝むわけです。その信仰が屋久島の人にはあるわけ*4。
第2講・夜は神様たちの物
屋久島の高齢の女性たちのお話も実に印象的だった。彼女らが今日も実行している心遣いは、誰でもまねができるちょっとした習慣といったものが多いのだが、迷信としてうち捨ててしまうには惜しい、なかなか意味深い教えを含んでいると思われた。
Mさん「『野も山も海も川も自分のものだ』という(いばった)気持ちで、所きらわず仕事をすると罰があたる、『夜がいってから谷なんど行くな』ということを昔の衆はいいよったもんですよ」
Nさん「『昼は人間の物、夜はわたしたちの物』というのが神様たちの言葉なのよ。わたしらもね、どんなに小さくても、水の流れている所をまたいで越えるときは、『エヘン』と息づかいしてから渡るもんや。村の中ではせんでもいいけれど……」
Mさん「小川でも神様がおるものやから……。息づかいすれば、神様がよけていくでしょうが」
Nさん「シジン(水神)様がおるから」
Mさん「山に行く時は、山の入り口で『ゴメンゴメン』というのよ。神様が驚いたら罰があたるから、川でも山でも黙って通るなと、昔の人は教えたもんですが……」
Nさん「信じてきたのにねえ」
第3講・木の声を聞く
南の島々の人と自然のかかわりを学ぶ旅の中で、数年前、屋久島の白谷雲水峡の森を歩いていたとき、千年も年を経たらしいツガの大木が、私の妻の貴子に語りかけてきた。しいて人間の言葉になおせば「よくきたなあ……」という意味だった。そんな感じがして仕方がなかった。それ以来わが家では、木や花と話を交わすことが日常的になっている。そして、どこにいても、どんなにつらいことがあっても「屋久島の森にはあの千年も生きたツガの木さん、杉の木さんたちが今も生きている」と心に想い描くことができるようになって、大きな励ましを得ているのである。
ある時は、就学前の地元の子どもたちといっしょに屋久島西部林道沿いの林に入り込んだ。大きなアコウの木によじ登ったり、丈夫なつるにぶら下がってみたり、落ち葉の中に一緒に寝ころんだり……。いつしか私も幼な心になって何も考えずにリラックスし、子ども達とともに、そして木々とともにすごす時間を心から楽しんでいた。それは、高齢の方々の深いお話に引き入れられる瞬間や、子だくさんの友人の囲炉裏ばたで自然のめぐみとおいしいお酒をいただくひとときとならんで、私たちにとっては屋久島での至福の時間のひとつであった。
現在わが家では、裏山の木の声に耳を傾け、畑や林の中で木や鳥や虫たちに語りかけることが習慣になりつつあるのだが*5、そのことをはっきり教えてくれた屋久島のツガの木、ともに山を歩いて、屋久島の自然に引き合わせてくれた友人たち、木の声に耳を傾ける方法を伝授して下さっている島の方々に深く感謝している。
オープンフィールド博物館につながるこれまでの動き
1970年代以降のエコミュージアム、あるいはそのひとつの形としてのオープンフィールド博物館につながる活動の足跡を振り返っておこう*6。
1970年代から1980年代の始めにかけて、地元の有志による博物館的活動が始められた。「屋久島を守る会」「屋久島を記録する会」「屋久島郷土誌研究会」「屋久島ウミガメ研究会」など対象と手法は異なるが、「故郷の自然や文化をもっとよく知り、それを保存し活用する」という共通の目的をもっていた。
屋久島が世界自然遺産として登録されるにあたっては、西部の海抜0メートルから2000メートルに及ぶ生物の垂直分布が分断されることなく残っていることが大きく評価された。1981年、その垂直分布の中枢部分である瀬切川(せぎれがわ)上流部の原生林約860ヘクタールが営林署によって伐採されようとした。その計画に反対して立ち上がったのが1972年に結成された「屋久島を守る会」の面々だった。多くの困難を乗り越え、国会議員までも動かして森を伐採から守り通したのだが、その中心メンバーの1人であった柴鉄生さん(前上屋久町議)は、「初めて瀬切の森を見たとき、『この森は残る』と直感した」と言う。屋久島は、これまで多くの人を惹きつけてきた。その神秘的な力は、屋久島そのものの力であって、森に動かされて森を
守った自分たちは、森の遣い人(つかいびと)として働いてきたのだ、と柴さんは語る。こうした森を守る血のにじむような運動の成果の上に、「屋久島環境文化村構想」や1993年の「世界自然遺産」の指定があり、今日の屋久島の自然ブームもあるのだということを忘れてはならない。
このような動きと呼応して、1980年代、外来の研究者たちは屋久島の自然のすばらしさを明らかにする研究を次々におこなった。文部省や環境庁がその研究の主たる資金源になった。京都大学霊長類研究所では、西部の永田集落に観察ステーションを建設し、全国の大学の教員や学生が長期滞在の足場として利用するようになった。そして、1980年代のなかばからは、研究や環境保全という営みも地元の了解と支援のもとに共同でおこなわれるべきものである、という認識が徐々に1般化してきたのではなかろうかと私は考えている。
日本モンキーセンターでは「屋久島における人と自然の共生をめざした博物館的手法による地域文化振興に関する実践的研究」(1985~86年、日本生命財団の助成研究)を実施するが、研究共同者として多くの地元の人々が参加しておこなった点が、それまでの文部省や環境庁による調査研究とは大きく異なっていた。この時、地元のメンバーが中心となって、屋久島の自然と文化のすばらしさに学び、それを孫の世代にまで継承・発展させるという目標をもって「あこんき(アコウの木)塾」(1985~87年)が始められた。研究者と地元民が協力して月例の自然観察会や講演会を実施し、多彩な将来計画や夢が話しあわれた。さらに、「あこんき塾」のメンバーと地元有志が手を結んで「植物の宝庫といわれる屋久島で人々は植物とどう
つきあってきたか」を研究目標にかかげた「おいわーねっか(わたし・あなた・みんな)屋久島」という研究会(1986~88年、トヨタ財団の助成を得て行われた)もスタートした。
その後は、サルに餌をやったり、山野草を採ったりして自然をかき乱すことのないエコツーリズムのための民間ガイド協会や、屋久島野外活動センター、屋久島ウミガメ研究会、屋久島研究自然教育グループなど、さまざまな環境学習のとりくみが花盛りである。また、屋久杉自然館、屋久島環境文化村センター、屋久島環境文化研修センター、屋久島世界遺産センターなどの公的な施設も続々と建てられている。
最近のとりくみから
屋久島の自然の保全をめぐる最近の大きなトピックの1つに、大型観光バスが通れるように西部林道を拡幅する工事の是非があった。まずは西部林道の自然のすばらしさを地元民自身がじっくり知ろうと、「足で歩く博物館をつくる会」、通称「足博」が発足した。1995年度には世界自然保護基金日本委員会(WWFJ)の助成を受けて、月に1度の自然観察会を行った。「足博」は、とにかく自然をよく知って、その声に静かに耳を傾ける習慣を身につけようとする地元主導の試みのひとつであった。西部林道の自然の重要さが国・県・町の各レベルで認識され、拡幅工事は断念され、これからは環境学習活動の重要な拠点として位置づけられている。こうした大きな変化の過程で地元からの積極的な取り組みが果たした役割が
大きかったと私は考えている。
今回の屋久島フィールドワーク講座が終った翌日、台風がやってきた。飛行機や高速船の欠航で、滞在を延ばすことになったほとんどの参加者は、ゆっくりしたフェリーの旅を経験した。その船の中で若者たちとすごしながら、私の胸の中にはオープンフィールド博物館構想から見える屋久島の近未来の姿が、確かなものとして展開してきたのである。
2010年屋久島の旅
時は、2010年。21世紀に入って屋久島もずいぶん変わった。2000年を迎える時に多発したコンピューターの誤作動は、機械に依存する速くて便利な暮らしのもろさを充分に味わわせてくれた。そして、日本人の多くが環境の大切さに気づき「自然と共存するのが文明人であり、それを破壊するのは野蛮人だ*7」ということを理解するようになったのである。そこで、「野蛮人」から脱却するための学びの場として「文明の地」を訪れる旅が盛んになり、屋久島はそうした先進地のひとつとして世界的にも重要な地位を占めはじめている。
学びは島に上陸する前から始まる。「大きくて速くて便利」という前世紀の移動の仕方よりも「ゆっくり・のんびり」という旅の方がいい。船に同乗しているエコツアーのガイドとともに釣りを楽しんだりしながら、屋久島での自然や地域の人々とのつきあい方の心得などをあらかじめ学ぶこともできる。島での滞在は、最短の人でも1週間。ひと月以上が普通だから、船中の1泊も苦にならない。
省エネルギーが徹底し、豊富な水力にめぐまれた屋久島では、エネルギーについては年間を通しての自給が達成できる。排気ガスのないゼロエミッションの島として有名になり、自然に分解できないゴミの量も著しく減った。その変化は、たくさんの工業製品に囲まれていなくてもにこにこと健康に暮らすこともできるのだという意識革命によるところが大きかったのだろう。化学合成の素材で建てた家に入った人たちがかかった新築病や環境ホルモン問題への反省から木の家の魅力が見直され、次々に古民家が再生されている。新築の場合も極力地元の素材を生かした杉の香りのする家がほとんどになった。こうして伐採された杉の植林地の跡地をもとのうっそうたる照葉樹林にする「照葉樹林復活百年計画」と薪などをとる里山を
とり戻すための「里山回復20年計画」が始まっているが、
着手して10年、農地に現れる猿や鹿の害が減り、魚たちも還ってきたと喜ばれている。
訪問客は、島についていきなり山に登ったり海に潜ったりすることはできないことになっている。まずは、地元のガイドについて屋久島の自然とのつきあい方について学び、夜はいろりばたで農家民宿の主人でもある高齢者の話に耳を傾ける。そして、ガイドなしでも屋久島を歩けるとエコツアーガイド協会が判断した人は、すぐに山や海に出発できる。しかし、これまでの癖が抜けず、つい猿に餌をやってしまったり、山野草を採ったり、川の流れにおしっこをしたりしてしまいそうな人は、割高だがガイドつきツアーを勧められる。なお、以前「縄文杉」とも呼ばれていた大岩杉は、樹勢の回復まで当分の間1日に拝観できる人数が制限されることになった。
移動の手段も一部では電気自動車が活用されているが、自転車と徒歩の方を喜ぶ旅人が増えた。宿から西部林道の緑のトンネルの入り口までは、「あこんきバス」と名付けられたどこでも乗り降りできる自動車があり、その中では屋久島の森が破壊されつくそうとした歴史についての話も聞ける。西部林道の入り口でバスを下りると、「屋久島・森の博物館」の小さな看板と「本館はこの奥です」と記された門がある。車止めになっている門の側には門番小屋のようなものがあり、地元のガイドが交代で詰めている。そこに遠慮がちにおかれたパソコンの画面には、「生命の森・仮想博物館には200人の学芸員がいます。屋久島のすべての館にリンクし、地元の人ともやりとりができます」という言葉が見える。
昨日の夜、炉端でならったように、山に入る前には「ごめんなさい、ごめんなさい」と呼びかける。猿や鹿たちの言葉やつきあいの方法は、以前は研究者の独占的知識だったが、今では、地元のガイドなら誰でも教えてくれる。鳥や植物や虫たちと会話する手ほどきも森の中で受けることができる。ぜいたくに落ち葉の中での昼寝もいい。そうして、めいめいが自分の大好きな、そして自分を受け入れてくれた1本の木への思いを胸に森を去る。反対側の入り口にも小屋があり、そこで自分が見たこと、思ったことを記録に残すと、「仮想博物館年報」に蓄積され、次に来る人たちへの新しい道しるべとして活用される。
長いようであっという間だった屋久島の滞在を終えて、旅人たちは帰っていった。世界に散らばるそれぞれの生活の場に戻った旅人たちの中から、自然と共存する屋久島の文明を自分たちの周りでも根付かせようと努力する人々が産まれている。「自分さえよければ」「今さえよければ」といった野蛮人の暮らしに陥りがちな大都会を離れて、休耕田を耕したり、里山を回復させたり、千年先の子ども達に贈る森づくりという計画に取り組んだりする人が出始めている。屋久島発のこうした動きが、やがてはこの星をすべての生命が輝いて共存できる世界に変えていく原動力になるのではないか、などと夢を語りながら屋久の島びとたちは、今夜もおいしい焼酎を酌み交わすのである。
引用文献
大竹勝・三戸幸久、1984「屋久島オープン・フィールド博物館を考える」『モンキー』197・198号、90~93頁、日本モンキーセンター
山極寿一、1998「屋久島におけるこれまでのエコ・ミュージアム的活動」『上屋久町委託 屋久島オープン・フィールド博物館構想報告書』23~29頁、屋久島研究グループ
注
*1 大竹・三戸(1984)は、「現時点でも、歴史的変遷からみても、充分な学術的、教育的、文化史的価値をもつ地域と1体化して成り立っている博物館で、それらが構造的につながりあって活動している地域全体」であるとして、屋久島に自然史博物館・海浜海洋総合センター・森林博物館などのさまざまな施設を作ることを具体的に提案した。
*2 講師陣は、植物班が相場慎一郎(鹿児島大)、湯本貴和(京都大)、鳥班が上田恵介(立教大)、野間直彦(滋賀県立大)、サル班が山極寿1(京都大)、丸橋珠樹(武蔵大)、人班が安渓遊地(山口県立大)、安渓貴子(山口大非常勤)であった。上屋久町環境政策課の塚田英和さんと有馬照幸さんは、企画の段階から終了後まで縁の下の力もちに徹して講座を支えてくださった。手塚賢至さん(足で歩く博物館)、小原比呂志さん(屋久島野外活動総合センター)、日吉眞夫さん(生命の島)、岩川文寛さん(屋久島フルーツガーデン)のみなさんには、現地案内などでお世話になった。ちなみに1998年は、同様のフィールドワーク講座が西太平洋アジア生物多様性ネットワーク(DIWPA)の国際野外生物学コースの第4回目として、サラワクやバイカル湖など
続いて、アジア諸国の学生を対象として屋久島で実施された。来年度以降は社会人にも対象を広げていく計画である。なお、オープンフィールド博物館構想をめぐっては、揚妻直樹(秋田経済法科大)、池田啓(文化庁)の両氏にも学ぶ所が多かった。
*3 毎晩の講義は、各講師が担当して地元の方々にも公開しておこなった。
*4 屋久島の地元からの情報発信をめざす季刊雑誌『生命の島』23号からの引用。問い合せ先は、電話09974・3・5533、有限会社・生命の島まで。
*5 こうした自然観は、アニミズムといわれるものであるが、近年は、ディープ・エコロジーという名前でも注目をあびている。私は、1神教や自然科学の洗礼を受けても滅びることのない、骨太のアニミズムの実践がこれから大切になるという考えに立っている。
*6 主として山極(1998)のまとめにより、柴鉄生さんへのインタビューで補った。
*7 アマゾンの熱帯雨林を守る運動をしている音楽家スティングの言葉。