調査されるという迷惑を超えて)コクヨの『ワークサイト』19号 で インタビューを受けました #フィールドノート RT_@tiniasobu
2023/04/26
2023年3月はじめに、遠隔で取材を受けました。テーマは「フィールドノート」
そこで参考までに、私や安渓貴子のフィールドノートの一部を、ブログに載せておきました。このほど、できあがって、送られてきました。コクヨが出している「ワークサイト」という本の19冊目です。
黄色いバックに印刷してあったりして、なかなか目を惹きます。中身はけして イエローペーパーではありません。
まだ、前号までの情報しか載っていませんが、以下をごらんください。https://yokoku.kokuyo.co.jp/project/worksight/
安渓遊地「調査されるという迷惑を超えて」
interview and text by Sota Furuya/Fumihisa Miyata
・プロフィール
1951年、富山県生まれ。山口県立大学国際文化学部名誉教授。宮本常一との共著である『調査されるという迷惑:フィールドに出る前に読んでおく本』、安渓貴子との共著『島からのことづて:琉球弧聞き書きの旅』、編著『西表島の農耕文化:海上の道の発見』『廃村続出の時代を生きる:南の島じまからの視点』、共編著『奄美沖縄環境史資料集成』など、著作多数。山口市北部の阿東高原で、持続可能な暮らしを求めて活動している。
・トビラノート写真用のまとまったキャプション
(写真左上より時計回り)太い字は、ある島の女性P子さんが話した、祖母の言葉。P子さんの解釈を横に細い文字で記入。「引用文と地の文の違い」(安渓)/西表島、時期の異なる2冊。当初はメモしきれず、後から別の色で記入。次第に西表語をカタカナではなく音声記号でとらえるように。有気無声音は下に「。」をつけ、アクセント記号も導入した/アイヌのエカシ(長老)・萱野茂から、木を倒す際の祈りの話を聴く。幹に受け口を入れ、反対側から切り込んで倒す時、切り株に残る部分の先端=サルカをカムイへ捧げる。いまは木を切り薪ストーブにくべる安渓だが当時は理解がおよばず、萱野が赤ペンで直してくれた/初めてのアフリカ、パートナーの生態学者・安渓貴子のノート。ケニア東海岸の町・ラムを歩いてスケッチ
たものに、地元の人がスワヒリ語を書き込んでくれた/コンゴ民主=ザイール共和国。貴子の料理方法まとめノートを、村の女性たちがチェック
聴く
ビール瓶を振りかざされて
今回はフィールドノートということなので、昔のノートを、いろいろと引っ張り出してみました(笑)。「こんなことも書いてあったのか」と自分でもたくさんの発見がありましたね。(初めて会う編集部員のひとりに)あなたはこれまで、何をしてこられた方なんですか? ああ、そうですか。それで、今日は何かお困りですか?
「聴く」ことの難しさですか……それに直面した時のことをお話しするために、なぜ私がフィールドノートを書くようになったのか、すこし遡ってみましょう。私は生物学を勉強しようと思って京都大学の理学部にいったのですが、まあ身も入らず、文学部でラテン語に精を出すなどしていつの間にか3年生になっていました。そんな折、「移動大学」というものへの勧誘のチラシが目に入った。最初は何も知らなかったのですが、それは川喜田二郎という人類学者が大学の外ではじめた、日本列島を教科書にして体全体で学ぶような取り組みでした。参加してみたら面白く、スタッフにまでなり、ほぼ大学にいかなくなってしまった。寝てばかりの学生が今度は蒸発しちゃったのだから、親は心配したそうです(笑)。
まだフィールドワークについて何もわかっていない時期でしたが、そうだ、大学院で、チンパンジー社会の研究で有名な人類学者・伊谷純一郎先生のところで学べば、アフリカにいけるぞと考えた。世の中わからないものでなんとか入試をクリアした私に、伊谷先生は予想外のことを告げました。「君のいくところは一カ所しかない。西表島の鹿川(かのかわ)村や」と。この村は、西表島の南西部・崎山半島にある廃村であり、修士論文の研究としてその地を調査しろ、ということだったのですね。ここから徐々に、「聴く」をめぐる事件へと近づきます。
廃村に足を運んでは人里に戻って来る私を居候させてくれたのは、西表島の島おこし運動などで著名だった石垣金星(きんせい)さんなのですが、ある晩、石垣さんに誘われて近所の家に飲みにいきました。すると、すでにかなり酔った近所のおじさんがやってきて、私に向かっていきなりこう決めつけるんです。
「おい、お前は廃村調査とか偉そうに言っているけれども、本当は骨壷めあての墓荒らしだろう。島の連中はだませても、わしの目はごまかせんぞ!」
さあ、皆さんならどうしますか。当時の私は23歳のとても短気な若造、身に覚えはないし、すでに私もかなり酔っぱらっていた(笑)。傍にいた人の証言によると、私は、やおら立ちあがってこう叫んだそうです、「謝れー! 学問を何だと思ってるんだーっ!」と。石垣さんから墓荒らしについては聞いていたので、一緒くたにされて腹が立ったんですね。
するとおじさんは、「なにー? 俺に謝れだと?」と、そこにあったビール瓶をパッと振り上げました。私はおそらく腰が抜けたのでしょう、その場にへなへなと座り込み、「す、すくなくとも取り消してください……」とお願い口調に。なおもおじさんが振りかざすビール瓶を石垣さんが取り上げ、家主も「帰れ!」と一喝、おじさんが引き下がったことで一命をとりとめました。
さて、これには後日譚があります。修士課程の2年間のうち、西表島にはまた足を運ぶわけですが、そんなある日、一本道の向こうからそのおじさんが歩いてきた。そしてスッと寄ってきて耳元で「おい、俺の家に今晩飲みにこい。俺、お前好きだからよ」という。私は色々迷いましたが結局泡盛の一升瓶を肩に載せ飲みに行き、大いに盛り上がって深夜まで近所の家をはしごして飲み歩きました。
以来、おじさんは西表島の古い伝承について、いろいろ教えてくれるようになりました。ある夕方、私が浜辺をふらふら歩いていると、おじさんが船外機付きのボートのところにいて「乗れ!」という。断ると怖いので素直に乗ると、片道40分はかかる、ペブ石という海中の大岩のところまで連れていかれた。「お前、この岩の名前を知っとるか」「はい、ペブ石です」「よし。このペブ石で何があったか聞いたことがあるか」「はい。鹿川村の人がワニを捕まえて殺した場所です。その時、このペブ石の上に追い詰められて、みんな死ぬ思いをしたのだとか」……「話を聞いた者はいるが、若い連中で実際に現場を踏んだ者がおらん。登れ登れ」とおじさん。私はサンダルで斜めにそそりたつ岩をのぼったのでした。
それは、彼の表現を借りれば、「自信と誇り」をもって島の伝承を伝えるプロセスであるとともに、教育プログラムでもあったのです。話を「聴く」だけではなく、できればその現場を踏む。現場を踏むことはできなくても、その人の気持ちになって、周りの風景や匂いまで感じることができるように五感で受け止める。でなければ、人に伝えられるまで熟した体験にならないと、彼は身をもって教えてくれたのでした。
記録する
話者が筆を執るということ
西表島西南部には、3つの廃村があります。そのうち一番新しく、沖縄返還の前の年である1971年に廃村になった網取(あみとり)村の方々のお話をたびたびうかがう機会に恵まれました。他の2つの村、鹿川村からの人たちも崎山村からの人たちも移住して住んだ村なので、3つの廃村についていろんなことが学べるんですね。石垣島に移り住みながらも、網取村のことが忘れられないという山田武男さんも、そのおひとりでした。
1978年、私と妻はアフリカにいくことになりました。しばらくは戻ってくることができないため、大学ノートを一冊買ってきて、山田さんに「これに村の行事の歌など、思い出される範囲で書いておかれてはいかがですか」と渡したんです。完全に思いつきでして、無責任極まりないのですが、ノート一冊を託してアフリカに旅立ちました。
2年ほどが経ち、石垣島に戻ってきたら、書いてあった、書いてあった。いや、書いてあっただけじゃないんです。女性たちの歌は自分もわからないからと、彼女たちに集まってもらって録音し、一生懸命テープ起こしをしてまで書いてあったんですね。そこまでやられてしまったら責任を感じざるをえず(笑)、きちんと廃村の記録をまとめるお手伝いをするようになりました。
そのうち、彼が「実は」といって、風呂敷包みいっぱいの原稿を持ってきました。そこには、網取村の伝承がたくさん記録されていたのですが、あれこれ書いてみたけれどもなかなかまとまらないという。「これはすごいですね、大変な量だ……」といいながら、私たちはその紙を一枚も借りないように気をつけていました。かりに私たちが乗った船が沈んだら返せない。だから、島からは借り出さない。幸い現地の文房具屋にコピー機があったので、全部コピーして読んでみたら、網取村の神様の由来だけで十種類超のバージョンが書かれていましたね。
私も、つねに現地での勉強を共にしてきた妻も、共に理学部出の人間です。山田さんにお話を伺う際にも、「このお米の種類はどのぐらいの収量がありましたか?」「何月になったら植えていましたか」など、定量的な話を中心に聞いていたわけです。
しかし、彼が書きあぐねながらもなんとか書き残そうとしてきたのは、今は祀られていない村の神々の由来だったのです。お米の収量が何キロといった話ではなかった。つまり我々は、彼にとっては大した価値のないことを何年も根掘り葉掘り尋ねてきたのだ、と痛感したんです。私たちが興味をもっていなかった神様のことが、彼の中でこんなに大きな位置を占めており、そして彼は自身で記録していたのでした。話者が筆を執っていたわけですね。
彼も悩みながら書いていました。「伝承がさまざまにあって、それぞれに違っていて、どれを書いていいか迷うものだから、その度につい筆を折ってしまうんですよ」と。それは学者の道であって、学者の真似する必要はない、違う伝承があってもいいから、「父の話」として書いておけばいいのではと伝えると、急にどんどん筆が進むようになった。
一冊分ぐらいの原稿がたまってきて、自費出版ではなく、出版社のおきなわ文庫というシリーズで出してもらうことも決まった。私たちの編集も仕上がり、いよいよ出版という間際に、山田さんは心臓麻痺で亡くなってしまいました。無念で涙が止まりませんでしたが、本は出ました。それが、『わが故郷(シマ)アントゥリ:西表・網取村の民俗と古謡』(1986年)です。
そうすると今度は、崎山廃村出身で、山田さんの従兄の川平永美(かびらえいび)さんが「こんどは、私の村のも出してくれ」と、八十の手習いで書かれた原稿の束を持ってこられた。すこし量が少なかったので、聞き書きでふくらませて、『崎山節のふるさと
:
西表島の歌と昔話』(1990年)という本にまとめました。山田さんのお姉さんの山田雪子述『西表島に生きる:おばあちゃんの自然生活誌』(1992年)も合わせ、廃村の本を続けて3冊編むことになりました。
廃村だからよかった……というと語弊があるかもしれませんが、内容にかんして、あまり大きな異論が聞こえてこなかったのは事実です。現役の村で同じようなことをやったら、大問題になったことがあります。西表島西部の干立(ほしだて)村で私たちが一緒に郷土史を作ろうとしていた話者がいたのですが、その人は「正統な伝承」というものが頭にあり、「いま祭りで歌われているものは、歌い方が違う、本当はこうだ」などというような批判も含めて原稿を書き進めていたんです。
あるとき、そんな「歌詞の訂正」が含まれた原稿が、「何が正統か」をめぐる激しい議論を地域に巻き起こすことになりました。よそから援助して伝承を本にできる機会が、逆に伝承の間の権力闘争を引き起こす場合があるということが、あからさまになったわけです。そんな反省もあります、いや、反省ばっかりです。
伝える
世に出せども、生活を壊さず
台湾の見える与那国島の伝承者の画文集を出すべく、いま準備を進めています。総合地球環境学研究所発行の『ぬ‘てぃぬかーらどぅなん:いのち湧く島・与那国』というタイトルで、著者は和歌嵐香N子さん。「わからんこ」と読むのですが(笑)、本名ではありません。その理由も含めて、お話してみたいと思います。
N子さんとは30年ほど前にお会いして、全部で3回会っただけ、合計して半日ぐらいのお付き合いです。しかしそのうちどんどん、彼女が書いたものがうちに届くようになりました。4,000枚の語彙カードを手始めに、厚さで1メートルを超えるノートの束、絵もいま800枚ぐらい届いてるかな。彼女の絵や文章からは、このままではなくなってしまう島の言葉や、昔のお年寄りの生き方、大事にされなくなってきた神々のことなどをきちんと残しておきたいという気持ちがひしひしと伝わってきます。
島の人が、「こいつに投げてみるか」と、書いたものを私たちに投げる。その受け方を見ながら、「島の記憶を託せるかもしれない」と、さらにどんどん投げてくる。私は冗談で、「ゴミ箱」のようだねというんですけれど、実際、絵の中には、食べ物のかすがついているものもあるし、猫のおしっこのにおいのするものもあります(笑)。最近はこちらから空のレターパックを送るようにしています。彼女が手元で書いたものを「どうしよう、捨てようか」と迷っている時は、「捨てたつもりでうちに送っておいたら?」といっています。
さて、本人には経験や記憶をまとめるエネルギーも世に出すお金もないのですが、預かっている側としてはどんどん肩の荷が重くなってくる。なんとかまとめて本にしませんかというと、「どうぞご自由に」ということなので、郵便や最近はメールで校正などもやりとりしながら共同作業を進めてきたんです。
これを世に出そうとするのは、前書きにも私は書いたのですが、彼女の絵や文章が世界記憶遺産に匹敵するものだと考えるようになったからです。私たちも含めて、これまでの研究者や島の知識人が完全に見落としてきたような伝承やものの見方を、彼女は日々の暮らしの中でずっと生きてきたという確かな蓄積がある。与那国語の日本語訳だけでなく英語訳もつけながら画文集にすることによって、「こっちにもこんなものがあるよ」ともっと南の島々からも応答が出てきたらすばらしい。ご本人は「えー、そんなことになるかな」とおっしゃっておられますが。
絵としても面白いし、学問的にも貴重な内容ですから、研究所の経費で出版し、数は限られますが、無料で図書館や学校に配布して、ネットでも見られるようにはしようとしているわけです(文末のQRコード参照)。
世には出したい。しかし、これで名前を売ったり、金を儲けたりしようとしてはいけないんです。本人の静かな生活が崩れてしまうからです。もしもテレビ局などが取材に訪れたりすれば、心身の不調に陥ってしまいかねない。あるいは心無い人が無責任な引用をすることで、興味本位の訪問者によって生活が破壊された苦い経験もある。
伝承者が世に出ることで被りかねない危険を、いかに避けるかということが重要です。ひとりの庶民として彼女が穏やかに、静かに暮らしていくということは、学問的な意味づけよりも大切に守られないといけない。絵の中に入っている署名や家族の名前を注意して消すなど、編集にもうひと手間かけて、慎重に作業を進めてきました。
話を「聴く」、「記録する」、「伝える」ということがかなりの摩擦を生むということをここまで指摘してきたわけですが、たとえば今、このN子さんという方と、一方の妻や私の間に起こっていることは、すこし違うように思います。30年あまりの付き合いを通して、持ち重りがするほどの量の記憶を託されてしまった結果、共同作業になっている。これまでの「調査する/される」関係が「託す/託される」仲になって、主体と客体が逆転しているわけなのですね。
もちろん、この“次”も考えないといけません。記憶を持っていた人が死ぬ。受け取った研究者も死ぬ。それで全部なくなりました、でいいのかどうか。デジタル化しておいても、テクノロジーの進歩でファイルが見られなくなったら元も子もない。すると、紙媒体で残しておくということは、案外強い。誰が、何を、どのように、誰のために、誰の金で残すのかということも含めて、いつも考えています。
文化人類学の岩田慶治さんが生前おっしゃってましたね。「……自他を忘れ、敵味方を忘れ、その利害を忘れ、そのおもしろさだけにひきつけられて、時間のたつのも、空間のへだたりも忘れてしまって、人間だけでなく森羅万象とたわむれる。地球と遊ぶ。」いいですねえ「地に遊ぶ」(笑)。そのような「ともに自由になる」地平を目指したい。その世界では、もう、調査対象への被害という次元の話はなくなって、地域の人たちと一緒にワイワイいいながら勉強を楽しむうちに、何かができてくる。それを前に、「ああ、面白かったね」と言い合えれば、人生も案外いいものじゃないかなと思っています。
http://ankei.jp/yuji/?n=2656&q=%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
フィールドノート)ゆるされて参加すること+その結果を地元の人にノートを見てもらうこと
フィールドノート)腸チフス患者フィールドノートの束を偽造パスポートと言われてファーストクラスに乗りウォトカを飲む
フィールドノート)アフリカの場合
フィールドノート)西表島の稲作や地名を聞く
わが師)フィールドノートの中の #萱野茂_エカシ
フィールドノート)はじめての外国はアフリカ
フィールドノート)人が滅びるならば学問で滅びる