特別講義)2006/7/20 つまみぐいで書きめた、山口市長のお話
2006/07/26
渡辺純忠山口市長を、山口県立大学の特別講義のために招いたお話の、イント
ロの部分を少し書き留めました。
(勝手にかきとめた人、安渓遊地)
○自己紹介
1945年、旧徳地町の出身です。
教員になることを断念したのは、少し耳が悪かったことが原因でした。
県庁におりましたときは、
上関の原子力発電をするとき、環境影響評価の場面で、この大学の女性の先生
の安渓先生ともいっしょに、まとめあげました。
山大の教育学部の先生とも共同で仕事をさせてもらいました。
10年ほどは、地域づくりにかかわりました。
自慢話ですけれど、23の有人離島をすべて訪問なり視察しました。全部まわ
った人間は、山口県内でも10人いるかいないか、だろうと思っています。
○まちづくりの目標
まだ市長になったばかりのひよこですが、
次のような、山口市の目標をたててとりくんでいます。
1.ほこりのもてる市
2.美しい県都
市民の方に聞きましたら、
「明るい山口市」を望むという声が圧倒的でした。なるほどな、と思いました
が、よく聞いてみると、それが、夜暗くない町を、という意味でもあったのです。
孫子の兵法(己を知り敵を知らば百戦危うからず)と温故知新をモットーにし
ている。
○重源の足跡
10年かけて東大寺復興の木材を切り出す。地方長官として人的物的資源を自
由に使って仕事をした。食糧もいる。医療も、冬の寒さへの対策も必要。陳和卿
(ちんなけい)などの土木技術者がきている。宋からの人。陳和卿、博多を作っ
た人物。そうした技術者集団がたくさんやってきて、徳地の山の中にそういうも
のができあがった。おそらく3000人ばかりの集団がそこに必要になった。全
部で1万人ぐらいの人たちが働いたと思う。月輪寺、法光寺、安養寺、阿弥陀寺
といった建物をみてもそう推理ができる。
あのまま徳地が発展していれば、今の旧山口市の反映はなかったと思うのです。
壇ノ浦の戦いのあと、平氏の落ち延びていく先としては、佐波川の上流は隠れ
るところも多く、適地であった、と思います。しかし、そこから出て行きたくな
い、という気分をもっていたから、徳地に留まったという面があるのではないか、
と思います。
それで、鎌倉時代には、源氏びいきの大内氏は椹野川流域を開発していくとい
うことになったのでは、と思います。
大内文化は、対朝鮮、対明国との貿易からあがる巨大な富を抜きには考えられ
ないですね。
○合併の歴史を考える
明治の大合併は、500人から700人ぐらいの住民が集まって小学校をつく
るため。4里四方の真ん中に学校を置けば、だいたい1時間で歩ける。(聞いて
いて、2里四方じゃないかな、と思いました)
昭和の大合併のときには、自転車を使って1時間で行ける範囲が合併。
平成の合併では、おおむね自動車で1時間で行ける範囲が合併。
これからは、いろいろな施策を盛り込んでいくために、30万人ぐらいが自治
体の単位となるような、合併が必要と考えています。
(以下、豊富な資料を用いての本論に入っていきますが、それについては、な
ぜか書き留めがとまっていますので、紹介はここまでにいたします。)
参考文献
勧進上人重源の活動からみえるもの ――東アジアとの交通と庶民活力の高揚
http://www.hozokan.co.jp/rekikon/kanto/kanto144.html
ようこそ市長室へ
http://www.city.yamaguchi.lg.jp/dannai/soshiki/sogoseisaku/kohomayor/index.htm
渡辺純忠後援会のページ
http://www.c-able.ne.jp/~jun6593/afterwards/afterwards.html