福島からの復興)くり返す時間と空間の復権へ #fukushima #nuer #mutsurejima #iriomote #genpatsu RT @tiniasobu
2011/06/04
6/5 修正 初出判明しました。
昨日、約1年ぶりに赤坂憲雄さんと話しました。沖縄からの電話で彼と話したあと、
福島で失われたものが何かを考えました。
安渓遊地が山口大学の教員であった1994年のことと思われます。國分直一先生がお
元気な頃に梅光女学院大学であったシンポジウ
ムの中で、國分先生が原発事故のことに触れておられたことを思い出しました。私の
役割はコメントでしたが、その記録から紹介しておきます。梅光女学院大学・地域文
化研究所紀要『地
域文化研究』10(1995)の「森と海の民俗」のコーナーに掲載されました。
くり返す時間と空間の復権
安溪 遊地(山口大)
私はいま一分一秒の時間に追い立てられているように生きていますが、東アフリカ
のサバンナで牛を飼っている牧畜民ヌエルは、時間というものを私たちとはかなり違っ
たふうに考えています(エヴァンズ・プリチャード『ヌアー族』岩波書店)。ヌエル
によると時間には二つの種類があります。一つは自然のサイクルにそって或るくり返
しをもった時間――例えば「明日乳しぼりの時に会おう」というように使うわけです
が――このくり返す時間は最大一年を限度としています。もうひとつはせいぜい十二
世代前に始まって現在に至り、未来については一年分しか考えない。このような有限
の時間です。その目盛は社会的事件によって刻まれています。「将来人間は牛ととも
に滅ぶ」といった漠然とした考えはあるようです。時間は無限の過去から無限の未来
まで流れていて、一分一秒、細かくしかも正確に刻まれているという考え方を私ども
はヨーロッパ近代から学びましたが、元来はヌエルのような考え方をしていたように
も思われます。
湯川(洋司)さんが周防の年祭の研究から数年ないし七年というサイクルを発見さ
れ、この回帰する時間を焼畑耕作という空間の利用の特徴に結びつけようとされたこ
とは大変すぐれた着想だと思います。ヌエルの時間に対する考え方を空間にもあては
めてみればどうなるかを私は少し考えてみたいと思います。つまり我々の生活空間は
よく似た単位がくり返されているといえるのではないでしょうか。日本は島々からで
き上がっています。たくさんの島々は互いによく似た部分をもっています。またそれ
らの中で一番大きい本州を見ると、山々が立ち並び数十の盆地が小宇宙のようにくり
返し現れてきます。しかしこれらの空間は有限の――始めと終わりをもつ――空間と
しても位置づけられます。それは日本の東と西であり、また中央――地方――辺境と
いうようなある傾きのもとに並べられた空間でもあります。
山口の南側にはたくさんの島々がくり返し現れて連なっていますが、その最も南の
端にある沖縄県の八重山地方の西表島での私の調査から少しこのことを述べたいと思
います。イリオモテヤマネコで有名になった島です。
伊藤(彰)先生のお話の中に北浦では岬をハナという、小さな湾入をワタというと
いうお話がありました。私はこれを聴いてはっとしました。実は西表島では岬のこと
を普通はサシといいますが、小さく突き出したものの場合はパナということもありま
す。これは北浦のハナと明らかに同じ語源をもっていると思います。そして小さな湾
入のことを西表島ではバダァといっています。これも北浦のワタとつながりがありま
す。西表島のパナは人間の鼻をさす言葉と同じで、バダァは人間の腹をさす言葉と同
じですからこのあたりに語源があるのかもしれません。こうして日本の最も南にある
島の空間の認識の仕方が、山口あたりとかなり似た、司会の木下さんの表現を借りれ
ば、くり返された「意識」の表現になっているといえるのではないかと思います。
そこで西表島の山の神と海の神について考えたいと思います。まず、パナには岬の
神様がおられます。西表島は一辺が二○キロメートル程度のやや四角い島ですが、そ
の四方の隅には大変猛々しい神様がおられます。島ではこれをユシンガン(四隅神)
と呼んでいます(山田武男『わが故郷アントゥリ・・西表・網取村の民俗と古謡』ひ
るぎ社)。いずれも波が高く航海の難所です。そしてその沖を生理中の女や屠殺した
肉などを載せた舟が通ると、舟が沈められるといって大変恐れ尊ばれています。これ
らの四隅の神をまとめる神がいます。それは西表島でもっとも高い古見岳の神です。
この山の神は孤立した神ではなく、となりの石垣島のおもと岳の神と連絡をとり、さ
らには宮古の神、沖縄島の首里の弁ヵ岳の神とも交流したといわれています。それは
永らく政治的中心であった首里から各島々に支配を及ぼすということかもしれません
が、その一環としての高い山の神からあたかもアースの配線をするように島の四隅に
岬の神が置かれていたと考えることもできます。このような上から下に降りてくる垂
直的な神に対し、海にはどのような神がいると八重山の人々は考えていたか。伊藤先
生がご指摘になったような小さな湾入に囲まれた浅い海の底に西表島でも何らかの神
が存在したでしょうか。
西表島の西部で最大の祭はシチと呼ばれます。旧暦九月頃におこなわれるこの祭の
なかにユークイ(世乞い)という儀式があります。ユーには世という字をあてていま
すが、具体的には稲の豊作、より広くは豊かで幸せな島の生活というイメージです。
これは、元来は作物の植付けから収穫に至る期間をさしたのだそうです。そのような
幸せな時、「ユー」を乞うのです。ユーは海の彼方からやって来ます。昔の一年はこ
のユークイから始まりました。この昔の正月には舟を二叟並べて沖に漕ぎだし、全力
で競争して岸に漕ぎよせ、速く着いた舟がユーをもたらすという舟の競争があります。
この二叟の舟が海の彼方まで行くわけではありませんが、やはりこの幸せの源である
ユーは近い海にあるのではなくて遠い海の彼方から来ると意識されていると考えられ
ます。最近でこそ二○○メートルくらいしか漕ぎませんが、以前はもっと沖から漕ぎ
よせていたと言われています。
西表島で有名なもう一つのタイプの神は島の東部の古見集落を発祥とする仮面来訪
神です。八重山ではこれをアカマタ・クロマタと呼ぶ集落が多いのですが、儀式の中
心的なところをよそ者は見せていただくことができません。巨大な面を着け、全身を
草の葉で覆い、頭には大きなススキを立てた恐ろしげな神ですが、迎える当事者にとっ
てはこれほどなつかしい神はいないのだそうです。
この神を祀るようになった由来の伝承として、古見村にはこのようなものがありま
す。昔ある少年が山へ狩に行って行方不明になりました。ある嵐の晩に家の外で少年
が叫ぶのを母親が聞きます。「おかあさん。私はもう人前に出られない体になりまし
た。けれどこんどいついつの日に村の近くに来ますからその時は見てください。」母
親が心待ちにしていますと、子供が言ったとおりの日に子供の姿が村の近くに見えま
す。それから毎年のようにこの姿が年に一度見えるようになるのですが、よく気をつ
けているとこういうことがわかりました。村から遠くに現れたときには不作です、稲
が稔りません。近くに現れた時には普通作です。そして村の中にこの神になった少年
が現れた時には大豊作になったというのです。そこで村人たちが出現の場所とユー(
豊作)の関係に注目して、このユーが毎年間違いなくくり返されるようにと願って、
その似姿を仮面に造り、毎年村の各家々を廻るということを始めました。それからは
もう少年の姿は現れなくなりましたが、これが今日まで続いていると言われています
(宮良高弘「八重山群島におけるいわゆる秘密結社について」『沖縄学の課題』木耳
社)。つまり、このような空間と時間のくり返しが、毎年間違いなく積み重なってい
くようにと願う心がこの祭の中に現れていると思います。やがてこのような意識は、
特別の空間を生みます。それはこの仮面を着けた神がこの世に現れ、そしてまたあの
世に帰って行かれる場所です。古見ではウムトゥと呼んでいます。八重山の他の集落
ではナビンドーという所が多いようです。ナビとは鍋のこと、トーとは窪んだ土地の
ことです。山の中に窪んだ場所があり、あるいは洞窟だとも言いますが、そこを通っ
て神が出現されるわけです。
西表島西部祖納集落のシチの踊りの様子を見ていただきましょう。アンガマという
踊りです(写真)。この中に全身黒ずくめの衣裳の人が二人います。國分先生が雲南
のシャーマンの例で示されたのは黒い布を顔に垂らしてあの世を見る力を得るという
ことでした。西表島ではどうでしょうか。このアンガマの中にいる二人の黒い姿につ
いては次のような伝承があります。昔西表島に慶来慶田城用緒という豪族がいました。
この娘が島の外から来た男とねんごろになり駆け落ちをしました。島では娘が死んだ
ものと思っていましたが数年後ひょっこり戻ってきました。その時がちょうどシチの
祭の最中で、娘はこの踊りに加わりたくてなりませんが、皆にあわす顔がないので黒
い布で体を隠してこの踊りに加わったと伝えられています。この限りでは恥ずかしさ
から顔を隠したというだけのことのようですが、実は顔を隠すというモチーフが出て
くる祭は南島には広く分布しています。その多くは祖先の霊が帰って来られるお盆に
関したものです。祖霊に扮した青年や大人が仮面をつけたり黒い布をかぶって踊ると
いう習慣は八重山から種子島まで広く分布しています。与論島では國分先生が見せて
くださった黒い布で顔を隠した雲南のシャーマンによく似た扮装が八月の祭に出てき
ます。
國分先生は黒い布を垂らすことは目をつぶることの延長であって、あの世を見る力
をつける意味があるとおっしゃいました。まことにすぐれたお考えだと思います。さ
らに西表島の例をめぐって蛇足を申しますと、西表島祖納のあの黒衣の女は島の人の
目には別世界を見て来た女と映ったに違いありません。またお盆に訪れて来る祖霊は
まさにあの世の者です。この点を含めて考えてみると、黒い布はこの世の者があの世
を見るというだけではなく、あの世の者がこの世を見るということをも可能にしてい
るのではないでしょうか。つまり黒い布一枚はこの世とあの世の時間と空間の境界を
示しているとも考えられます。黒い布や仮面はこの世とあの世の交流と共存の手続き
ではないか。この意味で安田先生が、あの世とこの世は一つの形式を踏めば交流でき
るとおっしゃったことの具体的な現れがわが南島に見られると思われます。
よく似た時間が巡ってくる、よく似た空間が並んでいるという話しをしましたが、
ここで中央――地方――辺境というくり返さない空間について考えてみます。中央か
ら見れば西表島などは最も辺境です。島を度々訪れていると、この辺境の島が今日ど
れだけ苦しい立場に置かれているかがよくわかります。全国の過疎といわれる地域は
どれも例外ではないと思います。一九七二年の沖縄県の復帰とともに企業によって土
地が大量に買い占められました。農業が非常に困難になりました。そこへ中央からさ
まざまな計画がもたらされます。それは例えば原子力発電所の廃棄物貯蔵場所、石油
備蓄基地、あるいは植民地で多く見られたような地元と遊離した超高級リゾートホテ
ルといった、島の実情、人々の生活をまったく無視した計画がほとんどです。私が山
口県に住むようになって強く感じることがあります。山口が一地方であることに甘ん
じたくない、できれば中央の一部になりたいという欲求が非常に強くある地域ではな
いかということです。我々はこの、中央――地方――辺境という構造を根本的に考え
直してみる必要があると思います。
國分先生が原子力発電所の事故のことをお話しになりました。私どもは毎日忘
れようとしていますが、じつは毎日息詰るような不安の中で生活していると言っても
言い過ぎではないと思います。近代技術の粋を集めた物が次々に信じ難いような巨大
な事故を起こしています。このことの不安の意味を私なりに考えてみると、くり返す
はずの空間がくり返さなくなるのではないかという不安だと思います。例えば海に面
した村の一つで原子力発電所の事故が起こったらその空間はどうなるのでしょう。こ
れはくり返して巡ってくるはずの時間がもうくり返さないかもしれないという不安と
も重なっています。農薬の恐ろしさ、現代農業の行く末の不安を訴えてレイチェル・
カーソン女史は名著を残しました。その題は『沈黙の春』(新潮社)です。春が巡っ
てきても虫は飛ばない、鳥も鳴かない、人は死に絶える、そのような予言です。
私は西表島で学びました。中央によって辺境が差別されること、地方は中央に接近
しようとすることでこの差別に加担すること。そのような現在の状態が、くり返すは
ずの時間や空間がくり返さないかもしれないというおそれの大きな原因のひとつになっ
ています。西表島の心ある人は考え始めています。幸いにして地球は丸い。私たちの
島はどことも同じだけ離れている。今もっとも必要なことは島の独自の文化を堀り起
こしていくこと、新たに作っていくこと、そして島の固有の風水土にあった産業を興
していくことではないか(『琉球の風水土』築地書館)。すでに試行錯誤は始めれら
れています。
児玉(識)先生ご発表の、六連島おかるの歌に私は感銘をうけました。そこに中央・
地方・辺境という差別の構造を根本から否定していく強い思想がじつになにげなく表
現されているからです。お配りになったプリントの最後の歌「海山を西や東とへだつ
れど、南無阿彌陀仏にへだてなければ」また一○番の「お慈悲さまこそ都のそだち、
かるは六つれの島育ち」、これもへだてはないということですね。七番「姿こそ六つ
れで月日くらせども、やがて心は花の都へ」これは六連島がそのまま花の都であると
いう意味かもしれないと私は思います。
こうした強い信念はむろん浄土真宗に裏打ちされたものです。私は幼いころに富山
県高岡市で育ちました。浄土真宗が盛んな土地です。そこでは、このおかるの歌とよ
く似た歌を歌う習慣がありました。例えば浄土真宗ではもっとも大切なお経のひとつ、
正信偈の始めの部分を歌える形にしたものがあります。「帰命無量寿如来 南無不可
思議光」というところです。こういうものが歌い踊られたわけは、あまりお慈悲が嬉
しいから自然に節がつく、体も動くということなのだそうです。
幕末の妙好人おかるの歌の伝統は絶えてしまったのではありません。昭和まで作り
続けられ、戦後まで歌い継がれていることを知っていただけたらと思います。この歌
の内容の中にもおかるの歌と同じ思想が脈々と流れています。私は体こそ動きません
が、始めの部分を少し歌って結びといたします(歌う)。
真実大悲の彌陀如来
さてもとうときみ親かな
お前のしらぬ昔から
お前ひとりにかかりはて
相手にしてのない奴を
それも知ずにおる奴を
そのままなりで引受ける
落ちようとしてもおとさぬぞ
おそまつでございました。