対談)伊谷純一郎先生の教育6・経験の広がり
2005/05/24
遊地 体を動かして学ぶというか、気軽に自分でもやってみることは、参与観察と
いってフィールドワークの基本だけれど、西表島で稲作の研究をして以来もう二〇年
もたつのに、いまだに田植えはうまくならない。目が悪いのか手がついて行かないの
か、西表島の人のように真っ直ぐに速くなんてとても植えられない。
貴子 西表島での稲作体験は、今自分たちが食べてる米づくりに確実に役立ってい
ると思う。あなたは稲作から入ったけれど、私は、染め織りを西表島の友達にやらせ
てもらったのが始まりだった。余った糸があるかた織ってごらん、と誘われて織って
みたら、自分の手から糸が布になって出てきた!しかも思いがけない色や柄が生まれ
てくる。その不思議に心から感動した。研究とかフィールドワークとかとはまったく
別のものとして、そこにすごい感動があった。学問中心に生きてきたと思っていた自
分の別の面を見つけたような……。もし、「西表島の伝統的染織の研究」とかいうテー
マで入っていたら、あの感動はなかっただろうと思う。
遊地 あなたが、アフリカで始めたスケッチも、民族誌的な記述のうえで大変役に
たっているけれど、描き始めたきっかけは、学問的なものではなかった。
貴子 スワヒリ語でマチョ・マチョ(たくさんの目)というけれど、初めて訪ねた
村なんかでは、子どもたちの、珍しい動物を見るような遠慮のない視線が辛かった。
始めは言葉もわからないし、手持ちぶさただったので、身近にあるものをスケッチし
てみたら、みんなの注意が、「私という人間」から「私の描いた絵」にパッと移った。
そして、私の粗末なスケッチに大変に感心してくれて、あれも描けこれも描け、といっ
て次々に民具を持ってきてくれた。そうこうするうちにだんだん細かく精密に描ける
ようになっていった。だから、わたしの絵はアフリカが育ててくれたと思っている。
遊地 僕の養父の家族なんかは、あなたのスケッチブックが自慢で、来客があるた
びにもっていっては見せてたっけ。
貴子 「やってみること」のもつ意味のひとつは、一度でも自分で体験してみると、
落ち付いてできるようになること。人の話を聞いた時にも、臨場感をもって聞けるし、
本当にというか深い所まで理解が及ぶようになる。
遊地 そういう意味で、屋久島のおばあちゃんが語ってくれる、畑や料理をめぐる
お話はずいぶん共感をもって聞けるようになったし、おばあちゃんも本気でいろいろ
教えて下さる。鍛冶や船造りの話は、興味深くはあるけれど自分が手を染めたことが
ない世界なので、本当のところは分っていないから、大きな誤りがあるのではないか
と恐れている。
貴子 自分の家づくりの時に、宮大工の棟梁に言われて礎石探しからはじまって、
石や金属や土や木や竹やガラスの加工をちょっとずつ体験させてもらったから、体で
わかる世界が徐々に広がっているかもしれない。
遊地 未経験といえば、初めてアフリカに着いた時、それまで持ったことのないド
ル札の束をどこにしまったらいいかうろうろしていたら、そのぐらいの額でおどおど
するなと伊谷先生に叱られた。そして「人類学者というのは、最低の所でも最高の所
でも、これが当たり前だという顔をして過ごせなければいけないよ」と諭された。い
つでもどこでもビビるな、そして偉ぶるなという教えだったろう。ケニアのナイロビ
のスリー・ベルズというレストランで御一緒したときに、カレーとチャパティを注文
してスプーンなしの手で食べておられた。御本人は楽しんでおられたけれど、あれは
同時に伊谷流生活術の手本を示されたのかもしれない。
貴子 アフリカで伊谷先生のこの言葉を思い出したことが何度もあったし、この言
葉に支えられたことがたびたびあった。
遊地 政府の大臣級の人たちと交渉したり、招かれたり招いたり、川辺の村で壁の
ない未完成の家に寝させられたり……。
貴子 ハンセン氏病で指のない人と握手をしたり……。
遊地 それは、研究室の先輩の掛谷誠さん(現在アフリカ地域研究資料センター教
授)と英子さん夫妻に同行してもらって、住む村を探して歩いていた旅でのこと。僕
が一番記憶に残っているのは、幅が六〇〇メートルもある夜のルアラバ川の真ん中で
脅された時の掛谷さんの対応。
貴子 あの時は、キャンプ用の荷物一式を担いで四〇キロほど森の中を歩いて、町
のホテルの対岸まで来たけれど、日が暮れて渡し舟がもうなかった。
遊地 ようやく見つけた丸木舟の船頭が、舟を漕ぎ出してから約束の四倍(昼間の
公定料金の一〇〇倍)もの法外な値段を請求してきた。そして、真っ暗な中洲に漕ぎ
寄せて「払うのがいやなら、ここで一晩寝てみるかい?ここらのワニはお腹が大きい
よお」という。その時、僕はすごく腹がたって、伊谷先生がタンザニアで強盗に襲わ
れた時にスワヒリ語で「ウナジュア カラテ?(空手を知ってるか)」とはったりを
かまして相手を退散させたことなどを思い出して、大声でどなってやろうかと思った。
貴子 ところが、掛谷さんは猫なで声を出して
遊地 「トゥタクバリアーナ(折れ合おうじゃないか、スワヒリ語)」と値引き交
渉。結局言い値の三分の一ほどにまけさせたんだけれど、これは短気な僕にとっては、
常に平常心を失わないようにといういい訓練になった。
◎直感と想像力
貴子 そして、経験があると本当の想像力というか洞察する力が育ってくるという
ことがある。私、鳥取大学の農学部長だった津野幸人(ゆきんど)先生から『小農本
論――誰が地球を守ったか』(津野、一九九一)を贈っていただいて、とても感動し
て読んだのだけれど、まず印象的だったのは津野先生のおじいちゃんの話だった。
昭和一九年の冬、中学二年生の愛国少年だった津野先生は特攻隊を志望して予科連
に合格。その時、「片田舎の一介の老農夫」であったおじいちゃんが、かわいいお孫
さんを兵隊に行かせまいとしていった言葉がこんなものだったというの。「日本は負
ける。お前らみたいな子供までが死ぬことはない。明日これで小指を切れ。小指がの
うても百姓はできる」そして牛のかいばを切る押し切りを指さした。当時、国際的な
情報を一切もたないおじいちゃんよ。大本営発表なんかの圧倒的な世論工作にもかか
わらず、日本は負けるということが的確に判断できた根拠というのが、なんと古いア
メリカ製の剪定鋏だった。もらって二〇年にもなるのに、バネはびくともしないし、
切れ味も新品同様。「百姓道具にこれだけのええ鋼鉄を使う国なら、兵器も日本のも
のとは較べもんにならんぞな」とおっしゃった。ひとつの土地にしがみついて、その
土地を本当によく見つめて暮らし続けてきた「地の者」といえる人は、その自分の土
地を深くみつめたという「地の者」としての物差で世界がちゃんと測れるということ。
今、何が世の中に起きているのかがわかる。自分の土地を深くみつめ続けてきた厳し
い目、それが実は世界を本当に測る物差だと思う。
◎豊かさを問いなおす
貴子 アフリカの森にしばらく住んでみて、人間がじつに巧みに自然の懐のなかに
抱かれて豊かに生きていける、という事実の重みに圧倒された。そして、西表島にも
そういう世界があったことを知り、もしかしたら、九州以北の島々にもそういう智恵
の体系があったのではないかと思い始めていた。
遊地 屋久島へ通ううちに、それが確信になってきた。
貴子 滅んだように見えていても、それは表面的なこと。ちょっとの間、忘れられ
ているに過ぎない。丹念に探せば思い出すこともできるし、工夫次第で復活させるこ
とも不可能ではないと思えるようになった。
遊地 「復活」といっても、江戸時代や飛鳥時代に戻るなんてことはありえない。
昔の人々の智恵や言葉を自分たちの財産として、新しい時代の希望をいかに見つけて
いくか、という冒険精神に満ちたチャレンジ(挑戦)の話なんだ。
貴子 「江戸時代に戻れと言うのか」と叫ぶ人たちが、江戸時代の暮らしを知って
いるかというと、実際には何も知らないに等しいことが多い。
遊地 別の例だけれど、狩猟採集民は食べ物も乏しく、生きるか死ぬかの不安定な
生活を送っているという考えがある。しかし、それはわれわれの農耕民的な偏見に過
ぎないのだというのが、伊谷先生の指導で実際にアフリカの狩猟採集民のところに滞
在させてもらった研究者たちの結論だった。
貴子 『2050年は江戸時代』(石川、一九九八)という面白いSFを読んだの
よ。それまでに『大江戸生活事情』(石川、一九九七)などの何冊もの本で緻密に繰
り広げて見せた詳細な江戸時代の生活研究を下敷にして、これから予測される科学技
術文明が直面する破局を、いかにして回避できるかの希望を物語ったものだから、説
得力がある。
遊地 貿易の時代が終わって、食糧を始めとして自給が原則になるという、自給革
命が起こるという設定だね。うちも自分の家で食べるほどのお米を自分で栽培すると
いう変化を経てもう七年。実際にやってみると次第に体も慣れて、いろいろできるよ
うになってくる。とうていできないと思っていたのが嘘のようだ。暖房用の薪作りも
だいぶ上達した。もちろん我が家の農林業は、例えばゴルフをするかわりに、趣味と
してやっていること。米や炭を売ってそれで生活費をかせぐという意味ではない。
貴子 それと、フィールドワークで学んだことを、実際に自分の生活の現場で試し
てみるという気持ちもあるわね(安渓遊地、一九九四c)。