対談)伊谷純一郎先生の教育5・「建設を続けよ」――先生のことば
2005/05/24
遊地 このあいだ、押入れの段ボール箱の中から伊谷先生に添削していただいた僕
の論文の原稿の束が出てきたけれど、原稿用紙にして千五〇〇枚ほどもあった。伊谷
先生は、霊長類の社会構造の研究で人類学のノーベル賞ともいわれるハクスレー賞を
受賞されたわけだけれども、あんなに僕なんかの稚拙な文章の添削に時間を費やして
いなければ、もっともっとすごい研究ができたのかもしれない。
貴子 でも、もしもそうしておられたら、今の私たちはいなかった……。人を育て
るには膨大なエネルギーが必要だけれど、そうして育てられた私たちがゆるやかなネッ
トワークを作ろうとしている今、先生方のなさっていた取り組みの意味の大きさに初
めて気づくようになった。
遊地 今年の夏、フィールドワーク講座にかかわる人たちとともに屋久島で過ごし
て、専門はちがうけれど、志が共鳴しあう仲間としての絆を強く感じることができた
(安渓遊地、一九九九a)。
貴子 そして、若い人たちに大切なものを伝えて行くことの大切さと喜びもまた感
じることができて、しみじみ幸せなことだと思った。
遊地 生きて行く時に何を優先するか、という問いに誰もが直面するわけだけれど
……。
貴子 それは毎日のように出合う問題。青い顔をして研究室へやってくる若者たち
の話に耳を傾け、真剣に向き合おうとするのは、時にはこちらもつらいことがあるけ
れど、私たちとしては今それを最優先にしている。
遊地 何をするときにも手抜きということをしない伊谷先生は、その時々に時代が
要請していたものを、一歩先んずる形で構想し、提案し、人を動かして実現していく
ことにも大きな足跡を残された。今西錦司さんから受け継いだアフリカ調査隊を、毎
年のように送り出し、自らもアフリカに何十回と赴き、体力と精神力の限界に挑むよ
うな踏査を繰り返しながら、その報告をまとめ、しかも次々と新しい組織を作ってこ
られた。
貴子 京都大学を定年でお辞めになる時に、「僕がこれまで建設に関わってきたも
のは」と指おり数えられたけれど、犬山市のモンキーセンター(現モンキーパーク)、
京大自然人類学講座、京大霊長類研究所、タンザニアのマハレ国立公園、京大アフリ
カ地域研究センター、京大人類進化論講座、兵庫県立人と自然の博物館などなど、一
〇以上あったと思う。
遊地 そして、こうおっしゃった。「僕はこれまで、人を押し退けてまで自分たち
の取り分を増やそうと思ったことはありません。いつもどうにかしてパイを大きくす
ることを考えて、建設を続けてきました。」
貴子 それが人の輪と学問的な活力のもとにもなっていった。それで、先生が京大
を去られる時に弟子たちに言い残された言葉として、前に言った「学問はアグレッシ
ブに」の次に「建設を続けよ」が来たわけね。
遊地 先生ほどの馬力で建設を続けて行ける弟子は今のところいないようなのだけ
れど、つねに建設を続けて、組織としても学問としても沈滞しないようにという意味
だっただろう。
◎「地の者」とは
遊地 話は聞き書きに戻るけれど、いわゆる縄文杉をさがしあてた岩川貞次さんに
話を聞いて、僕はその意味に何年もかかって気づいていった。岩川さんの話は、石牟
礼道子さん(一九八二)もまとめておられて、すぐわかる人にはわかるんだろうけれ
ど、僕にはなかなか理解できなかった。例えば「地の者のいうことを尊重しなければ、
何事も成功するわけはありません」ということ。これを聞いて以来の僕の大きな宿題
は「地の者」とは何かということだった。
貴子 「地の者」というのは、「その土地に住み続けて来て、そこに骨を埋めるつ
もりの人」かな?
遊地 ある土地に生まれ育ったことが条件で、そうでない人は何十年住んでも「旅
の人」だという習慣のある土地が日本のあちこちにあるようだけれど、それでは辛い
ものがあるし、反発もしたくなる。
貴子 そこで生まれてもちっとも「地の者」として生きていない人もいるから、ど
こで生まれたかということだけを中心に据えるべきではないと思う。
遊地 鳥取県の大山のふもとの村で田んぼと畑をしながら一年間暮らした時、別れ
の日が近づくころ、村の男の人たちからこんなことを聞いた。田んぼや畑をゴミ捨て
場にして、そこにまだまだ使えそうな立派な材木を捨ててしまう工務店があるが、そ
ういう人は、物の心、人の心がわからん。また、ゴミ捨て場にはしないまでも、丹精
こめたナシの木を切って畑をつぶすのを見ると涙が出るという。畑が草山になるのは
見ておれんし、田畑を荒して、野となれ山となれでは、そこを耕してこられた先祖に
対して申しわけがないという気持ちが強くあって、それがたとえ赤字でも農業を続け
ている原動力になっている、と。
貴子 田んぼが野になろうと、畑が山になろうと、先祖が怒ろうと知ったことじゃ
ない。その無責任さを言うのが「あとは野となれ山となれ」という言い回しの意味だっ
たのね。それと、もうからないからと土地を放棄してしまえば、将来大水や地滑りな
んかの災害が起こるということを強く心配しておられた(安渓遊地、一九九四b)。
遊地 すべての公務員は、少なくとも一年間は農民の生活を経験してから、仕事に
かかるべきだ、そうすれば、人間の原点からもっとちゃんと考えるようになるはずだ、
という村人の言葉はすっと胸に落ちた。
貴子 それにしても、土地を荒せば先祖に対して申しわけがないし、子孫に対して
も環境を守っていく責任がある、という自覚はどうやってできて、世代を越えて伝え
られてきたのか、そこが知りたい。
遊地 先祖代々住んでさえいれば、自然にそういう生き方になるというわけではな
いみたいだ。よそ者は、いつまでたってもよそ者にすぎないのだろうか。たとえよそ
で生まれても、その土地に世代を越えて伝えられてきた智恵の世界に触れることは許
されているということを大山の麓で学んだ気がする。実は僕たちが住んだ村は、一八
世紀の半ばごろ、なんらかの理由で在来の村人のほとんどが追い払われる、という事
件が起きたと伝えられている。その時に、数戸の家だけは追い払われずに残された。
田への水をどう引くか、それぞれの田の必要とする水はどのくらいか、といった水利
についての知識のある人たちまで追い出したのでは、稲作も不可能になるからだった。
そして、あちこちからの移住者によって村はりっぱに再建されて、それが今に連なっ
ていると聞いた。
貴子 つまり、その土地の自然とつきあう方法がきちんと伝えられていくことさえ
保証されるならば、地域の環境を守ってゆく智恵と知識はよそ者にも開かれていたわ
け。
遊地 そして、その伝承をわがものとした者はすでによそ者ではなく、「地の者」
への道を歩み始めている。これが、一九九三年のサムサノナツに大山の麓で初めての
お手伝いではない稲作を経験した僕らが到達した結論だった。
貴子 今は、山口市の山の中の村で土地を分けてもらって家を建て(安渓遊地・貴
子、一九九六、一九九八a、一九九八b)、田畑を耕したりしながら暮らしているわ
けだけど(安渓遊地・貴子、一九九七)、家が完成したら風景が急に逆転して見え始
めた。それまでは山を降りることが「帰る」だったのに、「行く」になった。
遊地 僕らが地の者になったと言い切れる日はおそらく永遠に来ないのだけれど、
それでも、それまでのどこかへ出かけて行くフィールドワークとその結果を持ち帰っ
てする学問が中心の暮らしから大きな曲がり角を回ったことは確かだ。