対談)伊谷純一郎先生の教育4・島からこそ世界が見える
2005/05/24
遊地 西表島の石垣金星さんは「幸い地球は丸い。ここが地球の中心だ」というの
が口癖で、“本島”とか、“離島”という言い方はおかしいと言う(安渓遊地、一九
九五)。
貴子 那覇市に住んでいた時、知り合いの高校生に「ニューヨークには二回行った
けれど、西表島とかの離島方面には行ったことがありません」と言われて驚いた。西
表島とのつきあいが深くなるにつれて、ついつい、半分西表の人のような気持ちで見
たり聞いたりするようになっていた。
遊地 島々は対等の存在だし、中央・地方・辺境などというのは、自分こそが中央
と思っている人たちが勝手に作った差別的な考え方であることをはっきりと教えられ
た。
貴子 西表島から見ると、隣の石垣島の人たちの多くが、西表島を離島と見下して
いる一方で、首里・那覇の人々からは“離島”と見下され、その那覇の連中が、ヤマ
トゥ(九州以北)、さらにアメリカに頭があがらないという具合に、こっち向いて威
張り、あっち向いてペコペコしている人々の背中が西表島からこそよく見えるんだと、
金星さんは表現している。
遊地 だから、世界中の背中が見える西表島からこそ、本当に世界が見えるんだ、
という考えが成立する。
貴子 もちろん、西表島だけでなく、宮古の池間島(野口、一九七二)からでも、
『鳥島は入っているか』(鹿野、一九八八)の鳥島からでも、ヤポネシアのしっぽ(
島尾、一九九二)のどの島からでも世界は見えるはずだけれど。
◎フランス滞在を経て
遊地 一九八七年から八八年にかけて、フランスに一年半勉強に行かせてもらった
時、フランス人の地域研究の姿勢に感銘を受けた。
貴子 ひとつは、その息の長さ。三〇年も四〇年も、アフリカの同じ村に通い続け
ている女性研究者たちと知り会った。村の若者を養子にして勉強させている、これも
女性研究者。
遊地 もうひとつ励まされたのが、百科全書派の伝統が受け継がれているという事
実。ひとつの地域にくいついて、地道にすべてを知りつくして行こうという、あのね
ちっこさ。僕らにぴったり。
貴子 アフリカの森の村の料理の総リストなんていう報告が出せたのも、フランス
滞在のおかげね。研究者たちが面白がって励ましてくれたもの。パリで文献をいろい
ろ探索して、ヨーロッパの人たちがアフリカを特別のものとしてではなく、まんべん
なく見ようとしていることを知って、日本では点の集まりとしか見えていなかったア
フリカが面として見えてきた。
遊地 でも、素晴らしいことずくめでもなかった。
貴子 もともとの植民地から、今は学生としてアフリカの若者たちがフランスへ勉
強に来ている。フランス人の若い研究者の中には、アフリカ人をゼミに連れてきて、
小声でいろいろ教えてもらっては発言するのに、そのアフリカ人自身には一言も発言
させないという人がいた。自分の情報提供者として連れてきたと公言してはばからな
い態度がそこにあった。
遊地 とても植民地的だと思った。
◎学問世界から踏み出す
遊地 西表島に通い始めたころの僕は、そういう差別のまなざしという話や、自然
保護といった、自分がやりたかった学問に直結しそうもない話にはなかなか入り込め
なかった。
貴子 行けば家族のように三食をともにしながら、一つ屋根の下に一緒に暮らさせ
てもらった。そんな時が長くなるにつれて、そういうことにも共感できるようになっ
ていった。
遊地 西表島の伝統稲作の研究をした時に、稲作の作業に実際に参加して、下手な
がらも自分で経験しながら進めた、参与観察という文化人類学の方法のせいで、島の
人々が直面している問題にも無関心ではいられなくなっていった。
貴子 子どもが生まれて家族ぐるみで、島の人たちとつきあうという新しい関係に
入って、つい背中を押されて学問の枠を踏み越えたということかもしれない。
遊地 「西表島で農薬散布が始まった」(安渓遊地、一九八六b)という警告のエッ
セーを書いたのが、学問世界から踏み出して行くひとつのきっかけになったと思う。
フランスから帰ってすぐの一九八八年に、研究の結果を島の人たちに広く聞いてもら
おうと、石垣金星さんとともに西表島でのシンポジウムを企画した。
貴子 「西表島の人と自然――昨日・今日・明日」というテーマだった。学界の長
老で私たちが敬愛する國分直一先生をはじめとする学者の方々や、屋久島で地域を守
る活動をしている長井三郎さん(後に『季刊生命の島』編集長)らも駆け付けてくれ
て、地元を中心に、二〇〇人もの参加があった。
遊地 僕は、基調講演で古代稲作の研究や、東南アジアの農業、さらに、日本の都
会に住む消費者の志向などを踏まえて、無農薬の伝統を付加価値にしたお米の産直を
西表島の農民たちに提案した(安渓遊地、一九八八b)。
貴子 そのアイデアが「ヤマネコ印西表安心米」としてスタートするのが翌年の一
九八九年。
遊地 火をつけた責任から、僕はボランティアの営業部長になった。約三年間は、
商売を軌道に乗せるための渉外と広報に必死だった(安渓遊地、一九八九b、一九八
九c、一九九一、一九九二d)。『農業六法』の本なんかも買って、特別栽培米の制
度の勉強をしたり、お役人とやりあったりするはめにもなったし、本土並み稲作を推
進する立場の地元農協の幹部からは「あいつは西表の癌だ」という言葉を頂戴してい
たらしい。冒頭の「される側の声」の中で「島の人間が独力でできるように育ててい
かなくちゃだめでしょ。今みたいな、船をひっぱって岩ゴロゴロの山道を通すような
やり方が長続きすると思うのは、あなたの思い上がりじゃないかしら」と諭されてい
るのは、その時のこと。
貴子 だから、しばらくの間は、論文書きどころではなくなっていた。
遊地 伊谷純一郎先生が京都大学を退官された日、ゼミ室に顔を出されて、そこに
集まった弟子たちにこう言われた。「学問はアグレッシブ(闘争的)に」――これは、
自分の小さな業績に安住することなく、地平線を切り開いて、常に最前線で論争を巻
き起こしていけ、という意味だったと思うけれど、そのあとすぐ、僕の方を見ながら
「この人はちょっとアグレッシブすぎるけどな」と付け加えられた。
貴子 慣れない商売の道は、それまでの学問よりもずっと大変な真剣勝負で、アグ
レッシブすぎるぐらいにならないととうてい新しい道を開くことができなかった。
遊地 そのあと、西表のガソリンスタンドで「あんたらから金を貰うわけにはいか
ん」と、しばらくは無料で給油してくれたり、民宿のおばちゃんに「あんたの勉強は、
本当は島のためにやっていたんだねえ」と言われたりした。これは、学問のための学
問をしていた時には出合うことがなかった島の人たちの一面だった。
貴子 それ以来、行けば島の行事に参加するように誘われるようになった。そして、
取材にきた人たちが、私たちのことを島の人間と思っていろいろ質問してくるので、
答えられる範囲のことは答えたりもしてきた。けれど、これは複雑な気持ち。
遊地 それは「調査される側」の立場を実際に体験することでもあった。
貴子 西表島の祭は神様に捧げるものであって、観光客向けのイベントではないの
よ。これは実際に参加してみればすぐにわかる。こちらが、神様への奉納として真剣
に祭に取り組んでいるのに、それを掻き乱すように取材する人たちへの対処の方法も
考えるようになった。「される側」はいやな思いをすることがけっこうあるのだから。
遊地 そこで、神行事としての祭を尊重し、許可なく取材・公表はいたしません、
という誓約書に署名した人だけに腕章を渡し、それ以外の人の取材は遠慮してもらう
ようにした。
貴子 取材陣や観光客に対してもっと毅然として、自信をもって祭をすればいいん
だ、ということが取材制限をしてみて地元の人たちにもわかったという意味で、大事
な経験だった。
遊地 この時は、西表島の節祭(シチ)という大きな祭の記録作りのために呼ばれ
て参加したんだけれど、この時みんなで話しあってルールづくりをした。僕らは料理
や取材陣への対応も含めて、裏方をいろいろ務めることになった。
貴子 丸三日間の祭が終わって、疲れなおしの慰労会で「干立(ほしたて)村の下
男下女の安渓さんです」と紹介されてしまった(笑い)。
◎種子島にて
遊地 さて、聞き書きのことだけれど、屋久島からの交流を逆にたどる意味で、種
子島の南の方を訪れた。そこで出合ったお一人が、立石さん。
貴子 この方の初対面の挨拶がなかなか強烈。
遊地 こんな役にもたたないフィールドワークをするより、自分の生活を大切にし
て、その暇にお金もうけでも考えたら、という助言だったから。「はい」と答えてし
まったら、もう、すぐに帰らなくちゃいけない。
貴子 このお話では、種子島の南から見た屋久島との交流の話だったから、アフリ
カの物々交換のことを書いたプリントを渡してなんとか切り抜けた。
遊地 京都で忙しい暮らしをしていて、胃がキリキリと痛くなったりしていたのに、
種子島でこんな応対をしているうちに、いつの間にか治っていたから、立石さんの言
葉も、活字で読むほど強烈じゃなくて、とても優しい言い方だった。
貴子 方言でしゃべって、よその人に本当に通じるだろうかという立石さんの心配
も、優しい言葉のようだけれど、フィールドワーカーの力量を問うておられるとも言
える。
遊地 それから、「嫁にいくなら……」。これは、種子島の南の玄関口にあたる島
間(しまま)の町を訪ねて出合った方々との対話。
貴子 こんなに、次々と別の方に引き合せていただけることはめったにない。
遊地 でも、一九九一年に三度目に訪ねてみたら、話をしてくださった方にひとり
もお会いできず、島間城址を中心とする郷土史に取り組んでおられた河東不凡さんも、
研究への思いを残して病没されていた。
貴子 話をうかがうということは、だから、責任重大ね。その時々に時を得て聞く
んだけれど、もうちょっと聞いておくんだった、と思うことはある?
遊地 そういうことを思わないようにしている。フィールドワークは一期一会だし、
聞けただけしか聞けないものだから。
貴子 私もそう思う。こっちがそこまで育っていないのに、本当に聞いたり見たり
わかったりすることはありえないのではないかな。聞いておけば良かったと悔やむよ
りも、今できることを今やることが大切なのではと思っている。