対談)伊谷純一郎先生の教育3・アフリカへ、そして再び南島へ
2005/05/24
遊地 アフリカに行くことを夢見て大学院に進んだ僕だったけれど、なかなか機会
が来なくて、伊谷先生にいつになったら行けるんでしょうか、と聞いた。そうしたら、
先生は「僕が初めてアフリカに行ったのは三二歳の時だった。君はまだ若いんだから、
あせらんでも機会は来る」と言ってくださった。
貴子 伊谷先生のそのまた先生の今西錦司さんとのゴリラ調査の時ね。まだほとん
どのアフリカの国が独立できないでいた一九五八年のこと(伊谷、一九九一)。
遊地 幸い、僕らがはじめに出合った西表島の人々は、アフリカ調査への足慣らし
などというかりそめの付き合いでなく、人間としての深い付き合いを迫る人たちだっ
たから、アフリカから帰っても西表島で研究を続けるということになった。僕の家主
の石垣金星さんが「汝の立つ所、深く掘れ。そこに甘き泉あり」という、沖縄学の父・
伊波普猷(いはふゆう)の言葉をモットーにしていたことにも励まされた。
貴子 まあ懐の深い島で、廃村調査の間に見残したこと、聞き残してきたことも多
かったし、人の話を聞く面白さに目覚め始めていた。自分で面白いテーマを嗅ぎあて
て、それを掘り起こしていくという研究のやり方が知らず知らずのうちに私たちの身
についていっていた。のびのびとやらせ、励まして下さった伊谷先生の指導もよかっ
たし、西表島というフィールドもすばらしかった。
◎教育者としての伊谷先生
遊地 伊谷先生に、「君の見つけたことは、こんなすごい意味があるんだぞ」とい
われると、なんだかとても重要な研究をしているような気になってしまう。そういう
意味では人を乗せる天才。
貴子 そのあとの面倒見もきちっとしていらっしゃる。
遊地 そういえば、修士論文を書く時に、僕は生まれて初めて日本語の実用文を書
くという訓練を受けた気がした。僕の書いた拙い言葉を生かし切って、それをきちん
とした論理の通る、読みやすいものに変えてしまう。そのために、自分の原稿のほか
に、バスの中でさえ何百枚という原稿の添削をしておられた。その仕事があまり込み
合ってくると、息抜きに薮くぐりをされた。特技は、川魚の手づかみだとおっしゃっ
ていた。
貴子 研究室恒例の米と味噌だけを持っていく山菜採り遠足もあった。
遊地 薮くぐりのことを先生は「ジャンジャン」と呼んでおられるけれど、僕が西
表島で廃村調査をしている時に「ジャンジャン」を口実に三度も西表島まできてくだ
さった。荷物は極限まで少なくし、軽い靴をはき、厚鎌を片手に軽々と進んで行くの
が彼のスタイル。僕は、目覚まし時計まで持って行って「百貨店」のあだ名をたまわっ
た。岩がごろごろ重なる急な沢を登ったり降りたりしながら、ある所で先生は小さな
滝壷をへづりながら「ここは君には無理や。横から廻れ」とおっしゃった。ところが
僕は横着をして、先生の踏んだとおりを通ろうとした。ところが、やっぱり僕の引き
締まった足では届かなくて、滝壷の中に落ちこみそうになった。僕が先生の立場だっ
たら、水の中で少し頭を冷やせと静観しているところだ。ところが、先生は、さっと
水の中をかけよって来て肩で鋲のついた僕の靴を受け止めてくださった……。
貴子 伊谷先生も御心配だったんでしょうね。先輩方を代わる代わる西表島の廃村
研究の手助けによこして下さった。
◎アフリカへ、そしてまた西表島へ
遊地 大学院の四年目に、ようやくアフリカへ行く機会がやってきて、二人でザイー
ル(現在はコンゴ民主)共和国へ飛んだ。伊谷先生がやっぱり「君の行くところはひ
とつしかない」といって、決めて下さったコンゴの森の中。
貴子 先生は、飛行機で上空から見て「あそこは、アフリカの緑の心臓だ。とても
美しい森が広がっていた。きっと、あの森の下には今も伝統が生きていて、美しい暮
らしがあることだろう。君たちの行くところはあそこだ」とおっしゃった。
遊地 そのあと、付け加えてこうおっしゃった。「どんなに粗い網目でもよいから、
ある全体を覆う研究をしなければいけない。そうすれば、これまでに誰もやろうとし
なかった課題に気が付くはずだ。それが見つかったらその一点に集中して深く掘るが
いい。岩盤に届くまで。ルアラバ川(コンゴ川の上流)の東側の森がいいだろう。あ
そこはこれまで研究者が誰も手を付けていない所だから……」フィールドワーカーと
しての判断だけでなく、学問的な目配りがあることも忘れずに付け加えられた。
貴子 初めての外国で、私は高い崖から向うを見ないで跳んだような気分だった。
遊地 森の中の一〇〇人ぐらいの小さな村の村長さんが養子にしてくださって、村
の半分ぐらいが親戚になって過ごしたあの日々は、僕たちの人生にとって決定的な経
験になった。
貴子 わたしにとっては、人間に対する信頼の回復だった。人間として実にすてき
な人たちに出会ったし、その人たちと自然との関係がまた深いものだった。「人間っ
て、こんなふうに生きて行くこともできるんだ、ああ、人間ってすばらしいな」と心
から思えた。
遊地 日本に帰って、村で撮った写真が現像されてきたのを見て、あなたは、「あ
ら!こんなに肌の色が違って写っている……」と叫んでいた。
貴子 だって、そんな違いなんか全然意識しないで暮らしていたもの。
遊地 あの人たちは心が広いから、そんなことを意識させないように計らってくれ
ていたんだろうね。
貴子 二年間のアフリカ行きが一段落したら、また、西表島に通いはじめた。
遊地 幸い、沖縄の大学に就職できたし……。
貴子 西表島の人たちにアフリカの村の写真を見せたら、ある人は「ムットゥ モ
ヒヌ バシマ ニサル アランカヤー」つまり、まったく昔の西表島とそっくりな暮
らしじゃないかって言った。肌の色の違いや、動植物の種類といった小さな違いを越
えて、自然と共存する生活のもつ共通点が西表島の人たちには強く感じられた、とい
うことだと思う。そして、以前と違って、何かあると「おいで、いっしょにやろう」
と島の人たちが呼んで下さるようになった。
遊地 アフリカで、人間大好き人間になり、「敷居の低い人」に育てていただいた、
ということかな。僕は、西表島で誰もやらない廃村調査をやり、それから昔の稲作の
復元研究をしててそれなりに評価されて、その次に何を西表島でするか、先が見えて
いなかった。でも、アフリカで生きている物々交換の市場を見て、そういう目で日本
を見直すきっかけをもらったような気がした。
貴子 それが「高い島と低い島の交流」という論文(安渓遊地、一九八八a)になっ
た。
遊地 自然条件が違えば、なりわいが違い、なりわいが違えば、海幸と山幸の間に
経済的なやりとりができる、という見方が、八重山の島々でも成立することを確認で
きた。
貴子 その研究のためにしたフィールドワークが『季刊生命の島』での「橋をかけ
る」の連載につながってくるのね。
◎橋をかける
遊地 屋久島と種子島の方々のお話を聞き始めた一九八五年ころには、僕の主な興
味は隣りあう島をつなぐ物々交換の研究だった。もちろん、物と物の交換だけじゃな
くて、贈与もあり、人間や文化の移動もそこにあるので、「橋」を渡るものは、様々
だった。
貴子 だから『季刊生命の島』の連載中は、扉に「伝統の智恵を受け継ぎ、交流し
あうための心のかけ橋が島から島へ、世代から世代へ、見える世界から見えない世界
へ、屋久島の空にかかるあざやかな虹のように幾重にもつらなっていくことを祈りな
がら……」と書いた。
遊地 実は、始めのうちは、「見える世界から見えない世界へ」という言葉はなかっ
た。島の方々のことばに素直に耳を傾けているうちに、それまでは聞こえなかったも
うひとつの音色がしだいに強くひびくようになってきた。それは、豊かな自然と共に
生きる智恵の輝きとでもいったらいいようなもので、見えない世界との交流を含むも
のに徐々に育っていった。
貴子 九州の南に散らばる島々をつないでいた心のきずなや、世代を越えて伝承さ
れてきた智恵が滅び去ろうとしていることに、アフリカから帰ってあらためて気づい
た。手遅れかもしれないけれど、なにか書き残したいと思った。
遊地 「みどり」のまなざしで世界をみるための手引書の『みどりの考え方の辞典』
(BUTTON, 1988)は、こんなふうに説明している。「橋。人びとが本当にわかりあう
ことができるようになる結びのシンボル。人びとを――とくに違う背景をもつ人びと
を――結びあわせようとする努力を表わす時に使うことば」一九四〇年ころからこの
意味で使われるようになったそうだ。ちょうど、僕たちが「橋をかける」という言葉
にこめた願いにぴったり重なる。
◎物々交換をめぐって
遊地 ここに収録した四つの話は、だいたいは、隣りあう島々の間の物と物の交換
や、行商といった目に見える話を中心としている。石垣島と宮古島の間の多良間島で
聞いた話が「お金がいらなかったあの頃」。実際に多良間島に通って物々交換で暮ら
しを立てていた、水納島のおじいちゃんの語りは、実感がこもっていて、とても貴重
なものだった。
貴子 多良間島は、小さい島だけれど森があって、海も豊かで美しい島。民宿で新
鮮な魚をあんなにたくさんいただいたことはなかった。それを民宿のおばさんが捕っ
てきたと聞いて二度びっくり。そして、短い旅だったのに、いきなりお祭にでくわし
て、その仲間に入れていただいた。男の人たちの豚料理を手伝うことになって……
遊地 地元の学者の方々が、原稿を直してくださった。方言の表記法に教えられる
ところが多かった。アフリカでの経験に引張られて、なんとか昔は物々交換が主だっ
たと書きたいと思っている僕の勇み足を、丁寧に訂正してくださった。
貴子 多良間島からは南はるかに石垣島が見えた。そして石垣島からは西表島が見
えて……
遊地 そして、西表からは与那国(よなぐに)島が見えたという伝説があり、与那
国からは年に数回台湾が見える。
貴子 見える所には、行ってみたくなるのが人情。
遊地 琉球弧の一番幅広いギャップは宮古島と沖縄群島(久米島)の間にあって、
五〇〇キロもあるから、とうてい目で見ることができない。この距離は、東南アジア
から東北アジアにかけての島々のつらなりのなかでは最も大きいらしい。
貴子 すると、文化的にも宮古・多良間・八重山の島々は、沖縄以北とは違う部分
がある可能性もあるわけかしら。
遊地 そう。このギャップを人々が容易に行来するようになるのは、考古学的には
最近のことで、まだわずか三千年ほどしかたたないという。
貴子 そういうことを栽培植物の品種を手がかりに調べることもできる(安渓遊地、
一九八六a、安渓貴子、一九九六)。
遊地 二番目は、奄美諸島の最南端の与論島。ここでは、沖縄とのつながりのこと
を主に聞いた。
貴子 あの時、那覇から沖縄島の北端を越えて飛行機が与論空港に近づくと、サン
ゴ礁の海に面して、いきなりリゾートホテルが現われた。ところが、降りてみると、
街はなんだかゴーストタウンのようで、さびれた民宿や閉った旅館などが立ち並んで
いた。観光で生きて行くことを目指したけれど、情勢が変ったということがよく見え
た。
遊地 与論島は日本最南端の島だったんだけど、沖縄が日本になって奄美の島々の
ひとつということになってしまったから。でも、農業もがんばっていた。
貴子 泊めてもらった民宿は、三世代同居で、みんなが暖かく迎えてくださったし、
うちの息子と同じくらいの年かっこうの子どもたちがいて、楽しく遊んだ。
遊地 「与論民俗村」を経営しておられる菊千代さんは、与論方言の記録を残すこ
とに懸命に取り組んでおられて……
貴子 与論を愛する気持ちがひしひしと伝わってきた。
遊地 その情熱に動かされて、生活語彙が専門の沖縄国際大学の高橋俊三さんが、
助言者として協力している。そのうち大きな協同作品が生まれるのが楽しみだ。
貴子 必死になる気持ちもなんだかわかる。サトウキビ畑を増やすために、田や水
路を埋め、木を切り払って、地形もすっかり変わってしまったと聞かされた。私には、
水田が広がっていたという元の様子をどうしても思い描くことができなかった。
遊地 観光と農業の両方で進行中の地場産業の空洞化と、自然の環境の激変が同時
に起こって、伝統文化が一挙に崩壊しかねないという危機感が島の人にはあると僕は
思った。
貴子 そういう時に、自分の島を深く掘り続け、島の未来を熱く語るリーダーがい
るかいないかが島の運命にとっての分かれ目になるのかもしれない……。
◎屋久島との出会い
貴子 続く二つは、屋久島での聞き書き。屋久島の雑誌での連載の始まりになった
「種子島への魚の行商」と「小さい時から牛や馬が好き」。
遊地 上屋久町の一湊(いっそう)漁港の漁師だった斎藤さんの話は、淡々とした
暮らしをしてきたように見える人が、実はたいへん劇的な事件を経験してきたりして
いた、ということがわかって、とても印象的だった。そして、明治時代には、屋久島
の人たちがはるか八重山までカツオ釣りに行っていたこともわかった。
貴子 お話を聞き出す手助けをして下さった、永里岡先生は、もともと中学校の理
科の先生で、ナチュラルヒストリー(自然誌)の専門家であり、屋久島の地名考を出
版されたりするジェネラリストだった。
遊地 次の椨川(たぶがわ)集落のお二人は、いずれも博労の経験のある方たち。
商売の詳しいようすを、値段入りで記憶しておられるのには驚かされた。
貴子 それと、国有林から木を切り出したり、闇米を運んだり、焼酎を密造したり、
お上の弾圧にもめげなかった庶民の智恵とパワーが感じられた。
遊地 どの島でのこととは言えないけれど、雑誌への連載中に、あるおじいちゃん
の語りを収録しようとした考えたことがあった。簡単な骨格だけの原稿をつくり、お
宅に届けた。お会いしてから七年の年月が流れ、残念なことにおじいちゃんは、寝た
きりになっておられてお会いすることができなかった。その後、おじいちゃんは亡く
なられてしまった。短い前書きと、後書きを添え、本文も雑誌に載せられる形に整え
た原稿二部を、チェックしてもらおうと、御遺族にお送りした。
貴子 一部はチェックして送ってもらうための返信用封筒付きで。
遊地 しばらくたって届けられた手紙には、おおよそ次のようなことが書かれてい
た。……なつかしいおじいちゃんのことを書いて送ってもらって、家族一同たいへん
にうれしく思っています。ただ、お話をした当時、すでにじいちゃんは自分のしたこ
とと息子がしたことの区別がつきにくくなっていたようです。家族で相談した結果、
赤で印を付けた所だけは公表しないでいただきたく……。
貴子 事前に見せてよかった。そう思って、どこに赤がついているのか、返送され
てきた原稿を見ると……
遊地 「はじめに」と、おじいちゃんのご冥福をお祈りしますという内容の「おわ
りに」以外の本文のすべての行が赤で消されていた!
貴子 大ショック。でも事前に見せて本当によかった!そのまま無断で出していた
ら、それこそ調査される側の大迷惑。
遊地 それだけではなくて、雑誌の発行所にも取り返しのつかない迷惑をかけると
ころだった。さっそくお礼状をしたため、連載の予定を急遽別のものに差し替えた。
時間と材料のゆとりをもって書くべきだ、ということを思い知らされた経験だった。