わが師)森毅さんのあの日の授業・トポロジーの実演
2010/08/04
2024年4月21日 写真を 人間大学の講義のYouTubeからお借りしました。
2010年8月 旧国鉄の旧小郡駅から旧山口駅を経て宮野駅へ向かう電車の中で改訂しました。
(クイズ、上の文章にはいくつか間違いがあります。さがしてみましょう。回答は末尾)
◎正しさは伝染(うつ)らないけど、楽しさは伝染(うつ)る
◎元気になれ、がんばれというメッセージが多すぎる。・・・みんなが毎日ハイにな
ることないやんか。元気がない人もいてええんや。
◎今の教育で何より必要なのは、どんな不確定な変動にもツブシの利く人間を育てることだろう。それを教師というツブシの利かぬ人間に委ねるところが困ったところ。もっと悪いのは、未来が不確定になればなるほど、当面の制度を安定化しようという図式である。
というようなことばを残した数学者、森毅さんが、2010年7月24日に亡くなられました。
自分で料理をつくっていて服に火が付いたのが原因だったとのことです。
私は大学で受けたはずの授業をあまり覚えていません。とくに京大理学部の1年生だった時は、5月をすぎたらほとんど大学にいかず「ねたきり学生」と言われる生活をおくっていたのでした。そんな中で強烈に覚えているのは、森毅さんのある日の授業でした。
普通は、理科系の学部の学生は、名物教授だった森毅さんの授業「数学5」を受ける権利がありませんでした。もっと専門の基礎ともなるような「あたりまえ」の授業を受けろということだったでしょう。
どうみても数学は苦手という文科系の学部生か、理科系でも落第生でなければ森毅さんの授業を受ける権利がなかったのです。
話は変わって、一夜漬けという勉強法がありました。まったく授業に出ないでおいて、試験の前の晩に一晩だけ教科書を勉強するのです。
そのやり方が、文化人類学などには通用しても、数学・物理・化学などの科目にはまったく通用しないことを知ったあと、大学2年生で、森毅さんの「数学5」を受ける権利を手にしたのでした。
文学部の授業をもぐりで受講してラテン語熱中症にかかっていたおかげで、1年生のときよりは高頻度に出席するようになっていた授業の中に森毅さんの「数学5」もありました。
ほかのことはすべて忘れたのに、ある日の授業だけは、鮮烈な印象とともに心に刻まれました。
森毅さんは、レインコートを着たままで教壇に立ちました。そして縄を取り出し
「だれか、私の両手首をこれでしばってもらえませんか?」
といいました。大学教員への敬意というものが全世界的に低落していた学園紛争の直後だったのでしょう、ひとりの学生が、遠慮会釈なく先生の両手首をきつくしばりあげました。
森毅さんは、
「これから縄をほどかずに、このレインコートを裏返しに着てみせます」
といって、まず背中の部分を前に垂らし、
一方の袖口にもういっぽうの袖を通すという難事にとりかかりました。
レインコートの袖が細いのと、縄目がきついのに苦戦しながら、歯を使ったりもしながら、とうとうりっぱにレインコートを裏返しに着込むことができたのでした。15分ほどもかかったでしょうか。
そのあと、みんなの方をむいて、
「はい、これはトポロジーの実演でした。今日の授業は、学園祭協賛でここまで」
と彼は言って、その日の授業は終わりになってしまいました。
1971年の秋のことでした。ちょうど、日本の3人のフィールズ賞受賞者のひとり、小針晛宏(あきひろ)京大助教授が、自宅の階段から転がり落ちて亡くなった年でもありました。
もう少し薄地の袖の短いものでなら簡単だったでしょうね。でも、それだときっと印象は薄かったにちがいありません。うまくいくかどうかわからへんけど、ともかくやってみて、それでだめならまあ、しゃぁないやないか、というような雰囲気に、森毅さんのあの日の授業と、新聞で報道された死因とになんだか一脈通じるものを感じてしまうのです。
今でも教壇に立つとき、ときどきあなたのあの短い授業のことをおもいだします。
おおきにありがとう。
(クイズの答え
旧山口 → 山口
電車 → 汽車)