わが師わが友)自然と文明の地球人類学――梅棹忠夫氏の残したもの(最終版+コメント)
2010/07/07
7/16 西日本新聞が送られてきましたので、画像を追加します。7月13日付けで
掲載されました。
みんぱくの館長だった うめさお・ただおさん がなくなられました。90歳。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100706/acd1007061401003-n1.htm
7月6日、西日本新聞社の文化部から依頼があって書いてみたものです。記者さん
とのやりとりを
含めて、もとの原稿がどのように変わり、新聞紙面に載るまでにどのように変化して
いくかの実況中継として書いています。
自然と文明の地球人類学――梅棹忠夫氏の残したもの
奄美・沖縄やアフリカでのフィールドワークを主な専門としている私が、この道へ
進んだきっかけは、一九七〇年、大学一年の時に読んだ梅棹忠夫著『知的生産の技術』
(岩波新書)だった。そこに示された様々なアイデアに感心したものだが、この技術
をさらに洗練させた川喜田二郎氏のKJ法というのがあると紹介されていたので、『発
想法』(中公新書)を読み、川喜田先生の「移動大学」に参加した。その二週間にわ
たるキャンプ生活を通して、五感を生かして実地に学ぶフィールドワークの魅力を知っ
た。ここで出会って結婚した妻の貴子が、やはり梅棹氏の本の影響で京大式カードを
一万枚注文していたと知った時もそれほど驚かなかった。そのあと大学院に進んで『
ゴリラとピグミーの森』(岩波新書)という名旅行記で知られる伊谷純一郎先生の指
導を受けてアフリカ研究者をめざした。
私と妻がその後の進路を決定するような大きな影響を受けたこれらの三人の学者は、
いずれも探検やフィールドワークを通して今西錦司氏の薫陶を強く受けた人たちだっ
た。さまざまな専門分野を渡り歩く何足ものわらじを履き、社会的にも大きな足跡を
残した師匠たちであったが、二〇〇一年に伊谷先生を見送り、昨年は川喜田先生、こ
の七月三日には、梅棹氏が長逝された。
私は梅棹氏の姿を学会などでみかける程度で、直接教えを受けたことはなかったが、
その後もその著作を通して大きな影響を受けた。
人類学の大学院に進学してすぐに読んだ梅棹氏編の『人類学のすすめ』(筑摩書房)
には、『「すすめ」か「とまれ」か』という節があった。フィールドワークで新たな
発見をして、それをまとめ上げて世界に問うというような挑戦は、面白そうだが生半
可な気持ちで臨めばかならず失敗するだろう。新興の「小」学問なのだから、学ぶ機
会は限られ、就職のあてはない。青信号の「すすめ」ではなく、ほとんど赤信号の「
とまれ」なのだ、という専門をめざす後輩への厳しい言葉がそこにはあった。
私はその後、実際に沖縄・八重山でのフィールドワークに携わり、この学問には、
学界の外からも「とまれ」が突きつけられることが多々あることに気づいた。それが、
「調査される側の声」との出会いだった。この問題については、大山移動大学で講師
となっておられた民俗学の宮本常一先生にお会いして直接教えを請う機会もあり、宮
本先生との私の共著の形で『調査されるという迷惑――フィールドに出る前に読んで
おく本』(みずのわ出版)という小冊子を二〇〇八年にまとめさせていただいた。
国立民族学博物館(みんぱく)の館長になって、その研究紀要に梅棹氏は一編の報
告を書いた。みんぱくに雇われている先生たちが、一年間に研究論文であれ、本であ
れ、新聞記事であれ、ともかく何文字書いて発表したかをしらべ、それでその人の年
俸を割り算した結果を匿名のグラフにしたのである。そこには極端な差があり、発表
が少ない人の場合は、原稿料が高額なので知られていた推理小説作家の松本清張氏よ
りも高いぐらいだ、と淡々と書かれていた。
梅棹氏は一九八六年に失明状態になられた。しかし、旺盛な出版活動はその後も続
いて、毎月のように出るその著作は広報誌「月刊みんぱく」になぞらえて「月刊うめ
さお」と呼ばれていたのだった。
自然と文明の関係を地球スケールで研究していく梅棹式のフィールドワークは、日
本語を国際語にしようという彼の夢とともに、長く受け継がれていくものと思う。心
からご冥福を祈るしだいである。
安渓 遊地(あんけい・ゆうじ、山口県立大学国際文化学部教授)
ところが、どっこい、ダメがでました。以下編集部からのメールの抜粋です。
まさしく「梅棹忠夫氏の残したもの」ですね。
例えば電話でお話しされていた「文明の生態史観」のことなど、
もう一つほどエピソードを加えて、梅棹さんという存在の重さを
強調するようなかたちで原稿に手を加えて頂くことは可能でしょ
うか?
現在の原稿では、若干、安渓先生と梅棹先生とのかかわりを説明
する文章が多めになっておりますので、安渓先生の経験の部分は
もう少し抑えて、エピソードとエピソードをつなぐブリッジとし
て書いて頂いて、梅棹さんの存在感、実像に焦点を当てるような
かたちに書きかえて頂けないでしょうか。
(引用終わり)
それでは、というので、急ぎ直しました。
以下は編集部からの注文に合わせて書き直してみたバージョンです。
改訂版 自然と文明の地球人類学――梅棹忠夫氏の残したもの(改訂)
生態学と文化人類学のパイオニアであった、梅棹忠夫氏が七月三日に亡くなられた。
国立民族学博物館の創設者・館長としてのリーダーシップや『文明の生態史観』(中
央公論社)のような、自然と文明の関係を地球規模で研究していく梅棹氏の研究スタ
イルは、非常にスケールの大きなものであった。その雄大な構想は日本語をローマ字
化して国際語にしようという彼の夢とともに、長く受け継がれていくものと思う。ご
冥福を心から祈るしだいである。
奄美・沖縄やアフリカでのフィールドワークを主な専門としている私が、この道へ
進んだきっかけは、一九七〇年、大学一年の時に読んだ梅棹忠夫著『知的生産の技術』
(岩波新書)だった。そこに示された様々なアイデアに感心したものだが、この技術
をさらに洗練させた川喜田二郎氏のKJ法というのがあると紹介されていたので、『発
想法』(中公新書)を読み、川喜田先生の「移動大学」に参加した。そのあと大学院
に進んで『ゴリラとピグミーの森』(岩波新書)という名旅行記で知られる伊谷純一
郎先生の指導を受けてアフリカ研究者をめざした。私がその後の進路を決定するよう
な大きな影響を受けたこれらの三人の学者は、いずれも探検やフィールドワークを通
して今西錦司氏の薫陶を強く受けた人たちだった。
私が一九七四年に人類学の大学院に進学してすぐに読んだ梅棹氏編の『人類学のす
すめ』(筑摩書房)には、『「すすめ」か「とまれ」か』という節がある。フィール
ドワークで新たな発見をして、それをまとめ上げて世界に問うというような挑戦は、
面白そうだが生半可な気持ちで臨めばかならず失敗するだろう。新興の「小」学問な
のだから、学ぶ機会は限られ、就職のあてはない。青信号の「すすめ」ではなく、ほ
とんど赤信号の「とまれ」なのだ、という専門をめざす後輩への厳しい言葉がそこに
はあった。
私はその後、フィールドワークには、学界の外からも「とまれ」が突きつけられる
ことが多々あることに気づいた。その声を最近まとめたのが、民俗学の宮本常一先生
との共著『調査されるという迷惑』(みずのわ出版)である。
梅棹氏は、一九七四年に国立民族学博物館(みんぱく)の館長に就任、その研究紀
要に一編の報告を書いた。みんぱくに雇われている先生たちが、一年間に研究論文で
あれ、本であれ、新聞記事であれ、ともかく何文字書いて発表したかをしらべ、それ
でその人の年俸を割り算した結果を匿名のグラフにしたのである。そこには極端な差
があり、発表が少ない人の場合は、原稿料が高額なので知られていた推理小説作家の
松本清張氏よりも高いぐらいだ、と淡々と書かれていた。
一九八九年まで二〇年間続いた雑誌『季刊人類学』は、普通の学会誌には載せられ
ないような大部の論文も歓迎し、研究者による忌憚のないコメントがつくというもの
で、私も駆け出しのころお世話になった。日本語の表記法もユニークで、例えば動詞
の訓読みはせず、ひらかな表記とするなど、編集委員だった梅棹氏らしさが全巻にあ
ふれていた。そして、梅棹氏が何よりも重視したのは、彼が今西錦司氏から受け継い
だ現場での徹底的な観察に現地の言葉を駆使した聞きとりを加えた文理融合型の綿密
なフィールドワークの成果であり、それに基づくダイナミックな論考であった。
梅棹氏は、一九八六年に失明状態になられた。しかし、旺盛な研究活動はその後も
続いて、毎月のように出るその著作は広報誌「月刊みんぱく」になぞらえて「月刊う
めさお」と呼ばれ、九〇歳で亡くなるまで生涯現役を貫かれたのだった。
安渓 遊地(あんけい・ゆうじ、山口県立大学国際文化学部教授)
おまけ
梅棹さんがどこかに自分で話しておられましたが、1920年生まれの彼が大学生だっ
た時代に、戦争のため困難になるフィールドワークと徴兵のため生存そのものが危う
くなる事態を打破しようとしたエピソードがあります。トナカイ遊牧民のフィールド
ワークの後援をしないか、と帝国陸軍に話を持ちかけたのです。そしたら、なんとす
でにトナカイ兵構想があり、「トナカイ兵操典」の案までできていた、という話まで
書きかけましたが、字数超過になるのでけずりました。
7/9 さらに注文がついてきました。言葉たらずをおぎなってくださるとはありがたい
ことです。もらった提案をほんの少しなおして送りました。
以下引用です。
実は、先日電話でお話し頂いた視点も含め、誠に僭越ながら、
少し手を加えさせて頂きました。
もちろん、これは案ですので、さらに手を加えて頂いて構わない
のですが、添付の書類のようなかたちではいかがでしょうか…?
海外の評価がこれからであることなどを加えました。
また、新聞表記に準じた部分もございます。
ご検討頂ければ幸いです。
(引用終わり)
再訂版 自然と文明の地球人類学――梅棹忠夫氏の残したもの
生態学と文化人類学のパイオニアであった、梅棹忠夫氏が三日に亡くなられた。国
立民族学博物館の創設者・館長としてのリーダーシップや『文明の生態史観』(中央
公論社)のような、自然と文明の関係を地球規模で研究していく梅棹氏の研究スタイ
ルは、非常にスケールの大きなものであった。その雄大な構想は日本語をローマ字化
して国際語にしようという彼の夢とともに、長く受け継がれていくものと思う。ご冥
福を心から祈るしだいである。
梅棹忠夫著『知的生産の技術』(岩波新書)を、私は大学一年の時に読み、この道
へ進むきっかけになった。そこに示された様々なアイデアに感心したものだが、この
技術をさらに洗練させた川喜田二郎氏のKJ法というのがあると紹介されていたので、
『発想法』(中公新書)を読み、川喜田先生の「移動大学」に参加した。そのあと大
学院に進んで『ゴリラとピグミーの森』(岩波新書)という名旅行記で知られる伊谷
純一郎先生の指導を受けてアフリカ研究者をめざした。これら三人の学者は、いずれ
も探検やフィールドワークを通して今西錦司氏(京都大名誉教授)の薫陶を強く受け
た人たちだった。私を含め、多くのフィールドワーカーが大きな影響を受けて育った。
梅棹氏編の『人類学のすすめ』(筑摩書房)には、『「すすめ」か「とまれ」か』
という節がある。フィールドワークで新たな発見をして、それをまとめ上げて世界に
問うというような挑戦は、面白そうだが生半可な気持ちで臨めばかならず失敗するだ
ろう。新興の「小」学問なのだから、学ぶ機会は限られ、就職のあてはない。青信号
の「すすめ」ではなく、ほとんど赤信号の「とまれ」なのだ、という専門をめざす後
輩への厳しい言葉がそこにはあった。
フィールドワークには、学界の外からも「とまれ」が突きつけられることが多々あ
る。私が民俗学の宮本常一先生との共著『調査されるという迷惑』(みずのわ出版)
をまとめた際も、「すすめ」に疑問符をつけた梅棹氏の姿勢が念頭にあった。
梅棹氏は、一九七四年に国立民族学博物館(みんぱく)の館長に就任、その研究紀
要に一編の報告を書いた。みんぱくに雇われている先生たちが、一年間に研究論文で
あれ、本であれ、新聞記事であれ、ともかく何文字書いて発表したかをしらべ、それ
でその人の年俸を割り算した結果を匿名のグラフにしたのである。そこには極端な差
があり、発表が少ない人の場合は、原稿料が高額なので知られていた推理小説作家の
松本清張氏よりも高いぐらいだ、と淡々と書かれていた。その裏にある「積極的に情
報発信しなければ淘汰される」というメッセージを痛切に感じた。
八九年まで二〇年間続いた雑誌『季刊人類学』は、普通の学会誌には載せられない
ような大部の論文も歓迎し、研究者による忌憚のないコメントがつくというもので、
私も駆け出しのころお世話になった。日本語の表記法もユニークで、例えば動詞の訓
読みはせず、ひらがな表記とするなど、編集委員だった梅棹氏らしさが全巻にあふれ
ていた。そして、梅棹氏が何よりも重視したのは、彼が今西錦司氏から受け継いだ、
現場での徹底的な観察に現地の言葉を駆使した聞きとりを加えた文理融合型の綿密な
フィールドワークの成果であり、それに基づくダイナミックな論考であった。梅棹氏
は日本語を大事にし、英語での論文はほとんど書かなかった。だがその論考は世界的
に見てもユニークな視点だ。海外での評価は、これからの宿題として残された。
梅棹氏は、八六年に失明状態になられた。しかし、旺盛な研究活動はその後も続い
て、毎月のように出るその著作は広報誌「月刊みんぱく」になぞらえて「月刊うめさ
お」と呼ばれ、九〇歳で亡くなるまで生涯現役を貫かれたのだった。
安渓遊地(あんけい・ゆうじ)山口県立大学国際文化学部教授。奄美・沖縄やアフ
リカでのフィールドワークを主な専門とする。
(7/16 追記 以上は、西日本新聞文化部の大矢和世記者との共同作品です。根気づ
よく丁寧なお仕事に感謝します。前日に校正刷りをファックスで大学と自宅にお送り
くださったことに特に感銘をうけました。なかなかそのようにはできないものですか
ら。)
7/9 コメント追加
一橋大学図書館のHさんから次のようなメールをいただきました。ブログというもの
がまだないころにできたホームページですので、コメントを自動ではつけられません
が、以下にご紹介させていただきます。うめさお式のにほん語がどんなにひらかな(
ひらがな?)にみちているかわかります。
以下引用です。
私は一度読んだ本を繰り返し読むことは極めて稀ですが、
梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店, 1969 (岩波新書 ; 青版722)
は5回くらい読みました。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/hon_kataru/katudou/021-b.html#umesao1969
「よんでいるうちに、ここはたいせつなところだとか、かきぬいておきたいなど
とおもう個所にゆきあうことがすくなくない。そういうときには、これもむかし
からいわれていることのひとつだが、その個所に、心おぼえの傍線をひくほうが
よい。とりあえずこうして印をつけておいて、かきぬきもノートも、すべて一度
全部をよみおわってからあと、ということにするのである。
... 。
もっとも、こういう習慣ができあがってしまうと、こまることもある。2Bの
鉛筆がないと、気がおちつかず読書ができないのだ。 ... 。
線のほかに、欄外にちょっとしたメモや、見だし、感想などをかきいれるのも
いいだろう。」(p.107-108)
> 梅棹忠夫さんがなくなりました。私の師匠との共通の先生だった今西錦司さん
は
> 京大の動物学教室の本や雑誌にのきなみ線をひいていました。
本に書き込みするのは、入浴の際に手拭やタオルを浴槽に
持ち込んだり湯船の中でゴシゴシ体を洗うようなものだと
思います。
入浴の心得 / ぽかなび.jp マナー向上委員会監修
http://pokanavi.jp/guide/manners.html
合言葉は「汚さない、騒がない、独占しない」。
「浴槽内で身体をこすらない」
「タオルを湯船に入れない」
「洗い場に予約システムあらず」
「使ったものは元に戻す」
「会話は周囲の迷惑にならないよう」
引用終わり
一人暮らしの自宅の風呂なら(自分の所有の本なら)何をするのも自由のようです
が、
「慎独(ひとりをつつしむ)」ということばもあるようです。
たとえ一人でも、大勢の中にいるのと同じようにひとりでにマナーが守れる境地を
さすことばかと思います。
梅棹さんの本のうち、3万5000冊ほどは、生前にみんぱくに寄贈されたそうで
す。最近、高校の同級生が2年早く退職して、蔵書を全部古本として売ったそうです。
本がたどる
そういう運命も考えれば、少なくともサインペンやボールペンで線を引く習慣は廃止
した方がよさそうですね。