わが師わが友)國分直一先生の西表島訪問記「あこがれの巨島」
2010/06/23
6月23日、慰霊の日にあたり、謹んで沖縄戦の犠牲となられた方々に追悼の気持ちを
ささげます。
沖縄を愛した人たちが思い出されます。國分直一先生が書いて下さった、西表島訪
問記を掲載させていただきます。
あこがれの巨島
(『地域と文化――沖縄をみなおすために』五三・五四合併号、ひるぎ社、那覇、1
989年)
國分直一
筆者がはじめて西表島を望見したのは一九五四年のことで、波照間の下田原の海岸
からであった。下田原の耕土を剥ぐと、続々と赤褐色無文土器、ビラ型とクシ型の石
器と共にイノシシの骨が出土した。この島にイノシシはいないはずだと聞いていたの
で、発掘に従事していたメンバーたちは、すぐに西表島から先史人が搬入したもので
あろうと考えた。ちょうどデイゴの真紅の花の咲く季節であった。その燃えるような
花の下から、西表島を望見しながら、この島へのあこがれを燃やしたものである。調
査団長であられた金関丈夫先生も、基地は西表島であろうと眼を輝かしておられた。
その後久しくして、一九六〇年春、ウェンナーグレン財団から援助を受けて、金子
エリカ博士と共に与那国島の考古学的調査を行なった際、仲間川の河口の大原に立ち
寄る機会をもつことが出来た。あこがれの西表島に上陸したといっても、大原から川
を越えて仲間村跡の附近を歩くことが出来たぐらいであったから、あこがれの思いが
癒されたわけではなかった。しかし皮肉なもので、北海道のオホーツク沿岸部の調査
に従事しなくてはならなかったり、朝鮮半島に出かけなくてはならなかったりして、
南海の島々を訪ねる機会を逸していた。そのような筆者に再び南海のこの島へのあこ
がれを燃やす機縁を与えてくださったのは、安渓遊地博士夫妻であった。
早くも三年前になるが、安渓博士夫妻が巴里に遊学された時には、もしお二人が帰
国する迄元気でいたら、お二人についてこの島を訪ねようと心に期したのであった。
ところが、お二人の帰国にやや先立って、先年春先のこと巴里に安渓博士夫妻を訪ね
て帰国された石垣金星氏からお便りがあった。西表島をめぐる会を計画している。参
加を期待すると。その後帰国された安渓博士夫妻のおすすめもあって、筆者は昨年一
一月友人の劉茂源教授をさそって渡島したのであった。祖納で開催されたシンポジウ
ムに参加するためであったが、シンポジウムの前に「西表をほりおこす会」のリーダー
、石垣金星氏とその石垣氏に協力して、シンポジウムを大成功に導く上に尽力された
安渓博士が祖納上村の鍛治遺跡・古見の後良川川口の海辺の造船遺跡や、今は無住地
化しているアントゥリ(網取村)を案内してくださった。アントゥリには安渓博士夫
人も令息大慧ちゃんをつれて参加、お世話くださった。
祖納上村の鍛治遺跡は大竹祖納堂儀佐の屋敷跡や大竹根所周辺からその南西側丘陵
地斜面一帯にかけての地区で、無数の鉄滓が散在していたことから発掘調査が行なわ
れるに致ったと沖縄県教育委員会の大城慧氏は、この度のシンポジウムで発表された。
大城氏によると、出土磁器には、一五~一六世紀のものがふくまれているという。憶
測ではあるが、筆者はこの鍛治遺跡は大竹祖納堂儀佐がかかわりをもった遺跡であろ
うと考えている。大竹祖納堂儀佐は、この地で製鉄を行なうことによって、八重山に
おける文字通りの英雄になることが出来たものであろう。製鉄技術を導入した文化英
雄は当然政治的にも英雄でありえたであろう。八重山の英雄時代は、その時代から慶
来慶田城用緒に及ぶ時代であったとしてよかろう。この遺跡をめぐる徹底した調査を
大城慧氏に期待して止まない。
古見の後良川川口の造船遺跡も興味深い遺跡であった。伐採した材木を後良川によっ
て運び、川口に近い丘縁にウガン(ウタキ)を設け、ウガンの神に見守られて造船が
行なわれたもののようである。散布するパナリ焼と青磁、特に青磁が造船の時期をと
らえる上に役立つことになろう。造船には鉄の工具を必要とし、その修理、再加工な
どを要するので、鍛治の形跡があるかないか、確かめたいものである。
最大の感激は、西表島南西の廃村、アントゥリを訪ねたことであった。この村が廃
村になったのは昭和四六(一九七一)年であるというが幸にして、山田武男氏が、そ
の父君から聞いて、書きのこされた民俗や古謡をめぐる詳細な記録がある。『わが故
郷アントゥリ--西表・網取村の民俗と古謡』(一九八六年 ひるぎ社・おきなわ文
庫)がそれである。しかしこの記録が世に出ることが出来たのは文化人類学者安渓遊
地博士と安渓博士夫人の貴子氏の努力によるものであった。
山田氏は、その父君から聞いたアントゥリの生活伝承の詳細なノートを安渓博士夫
妻に託したまま、出版の日を待たずして長逝されたことは、安渓博士の後記によって
わかる。我々は痛ましい思いに堪えないものの、山田氏が愛してやまなかった、その
辺境の故郷の生活誌を心ゆくまで書くことが出来て、安心されたであろうことを思い
いささかのなぐさめとするのである。またそのノートをこのように読みやすく編集し、
地理的な景観や生活をめぐるたぐいまれなスケッチ--安渓夫人による--をはさみ
刊行して下さった安渓博士夫妻に感謝せざるをえない。その中には、パイヌシマピトゥ
「南の島の人」(南蛮人)来島の伝説のような思いもかけない伝説記事などもある。
司(つかさ)が投げた香炉の灰に眼つぶしされて、海賊が退散した話などもある。
島は必ずしも安全な世界でなかったことが示唆されている。
廃村アントゥリには、網取湾をモーターボートで越えて、訪ねたのであるが波浪の
ある日であったから、沛然と波をかぶりつづけた。ヘーエルダールが中米の沿岸にお
けるバルサ・ラフトの航海のことを書いた報告を読んだことがあるが、ウォッシュ・
スルーという表現があった。まさにあびるようにかぶる波の中を行くのであった。ア
ントゥリにはまだ生々しく往年の生活の形跡が残されていた。聖なるウタキの跡もあっ
た。米軍がのこしたという貯水施設もあった。
なぜ廃村になったのかというに、その事情にふれて、山田氏は次のように書いてい
る。
険しい山岳の谷間を利用しての耕作なので、土砂崩れや鳥獣の害も激しく、一進一
退の生活苦が若者を都会へ駆り立てる一つの要因となったのかもしれません。私も村
を離れて一九年になります……
この書を読んでいたものであるから、筆者はアントゥリの美しい自然の中を歩きな
がらも、人間の生きることの切なさが身にしみて思われるのであった。
「西表島の人と自然--昨日・今日・明日」をめぐるシンポジウムのことにはふれ
なかったが、そのシンポジウムから学んだこと、吸収したことは、いう迄もなく大き
かった。しかしなによりも感動したことは、島の在地の方々の熱い眼ざしであった。
明日を思う情熱は、婦人の方々をもふくめて、島の方々のきびきびした質問や発言
の中に感じられた。祖納地区のような開化の進んだ地区においても、島としての苦悩
はあると思われるが、西表島ほどの美しい大自然とゆたかな穀作に恵まれた島には、
他のどこにも見出されないようなよろこびがあるにちがいないと思うのである。
石垣金星氏はそのよろこびを見出すために、いやつくり出すために、努力しておら
れる希有なる方であると私には思われた。筆者はまた安渓博士夫妻のような、島を愛
してやまない、ヒューマンな研究者のいることをこの島のためによろこばずにはおら
れないのである。
(西表をほりおこす会・梅光女学院大学客員教授)