母の武勇談)19歳のときに真渓涙骨さんをポンと投げた(改訂)
2009/11/09
11/11 本文訂正と、注記の訂正(中外日報・高橋記者がマイクロフィルムから確認し
てくださいました)
中外日報の社主の真渓涙骨(まだに・るいこつ)氏の記事に、当時西田姓だった
遊地の母の芙美子19歳が当場しています。山口市徳地の島地黙雷(しまじ・もくらい)
追想の記事のあとに出てきます。
私とはまったく違って、運動神経がすぐれていたらしく、車と電車の間にはさまり
かけた体重60キロの涙骨氏をムズとつかんでポンと横へ避難させたたということです。
してみると、昭和13年には、まだ秘書になったばかりで、http://ankei.jp/yuji/?n=821 にある山頭火にあったのは、もっとあとの、養女になってからのことですね。
一部コピーがにじんで読めないところがありますが、とりあえず「?」のまま。読
めたら補充します。
昭和13年3月5日『中外日報』11560号 編輯日誌 より
○父の大は多くその子を禍する○「春澤無?、聖寿萬年、??流運、五十鈴川」切に
黙雷の慕はれる日だ○私の秘書芙美子は、今尚おかっぱの一少女である。春あけて十
九歳△顔に白粉一ツ塗らず?身極めて野趣満々だが、その走足の早いことランニング
の選手であり、力の強いこと恰も柔道三段格△或日、僕は途上電車と自動車の間に挟っ
てアハヤ危険の迫れる一刹那△老いたれども十六貫の男一疋を背後からムズと抱へて
二三間横側へ避難せしめた△その早業その??その無邪気に群り見る人々は唖然とし
て口を開いてゐた(四日)。
○父の大は多くその子を禍する○「春澤無邊、聖壽萬年、
源深流遠、五十鈴川」、切に黙雷の慕われる日だ○私の秘書
芙美子は今尚オカッパの一少女である、春あけて十九歳△
顔に白粉一ツ塗らず装身極めて野趣満々だが、その走足の
早いことランニングの選手であり、力の強いこと恰も柔道三段格
△或日、僕は途上電車と自動車の間に挟ってアハヤ危機の
迫れる一刹那△老いたれども十六貫の男一疋を背後からムズ
と抱へてポンと二三間横側へ避難せしめた△その早業その凄腕
その無邪気に群り見る人々は唖然として口を開いてゐた(四日)
尚、文中に「黙雷」とありますのは、おそらく浄土真宗の島地黙雷
ではなく、涙骨と大変深い親交のあった臨済宗建仁寺派管長の
竹田黙雷(1854~1930)を指しているのでは、と思われます。
(奇しくも涙骨は、竹田黙雷が建仁寺僧堂内に建立した左辺亭に
昭和27年から仮寓し、昭和31年にそこで最期を迎えています)
以上、高橋由香里記者からの教示でした。
山口に住んでいることと、島地黙雷さんに格別の興味をもっているので、
http://ankei.jp/yuji/?n=504 や http://ankei.jp/yuji/?n=411 参照
(黙雷が 黙蕾 に誤変換になっているところがあります。失礼)
「黙雷」というと自動的に島地黙雷さんのことか、と思ってしまいました。早とちり
でした。
竹田黙雷禅師についてちょっとお勉強
http://www.sesshuukai.com/HTML/Takeda-MokuraiZenji.htm
●竹田黙雷
竹田黙雷は臨済宗建仁寺派第4代管長。平戸藩士竹田克治の四男として現在の勝本
町西戸触で、安政元年(1854)に誕生。7歳で石田町の太陽庵で出家。15歳の時福岡
へ渡り崇福寺蘭陵や黒田藩儒亀井南冥、秋月藩儒近藤木軒に学ぶ。
その後20年にわたり京都の妙心寺越溪、岐阜の正眼寺泰龍、京都の大徳寺儀山、
建仁寺俊厓、高台寺友雲、平戸の雄香寺釣叟、久留米の梅林寺三生などの高僧に参禅
した。
明治13年、臨済宗大徳寺派から建仁寺派へ転じ黙雷と号した。同22年36歳で三生
老師の印可を受け、同25年建仁寺管長となり神仏分離令後の仏教界の乱れを正すため
に僧侶の教育と養成につくす。
39年間の管長在任中に僧俗約4000人の弟子が集まり、建長寺管長菅原時保など12
人の法嗣(はつす)を育て5人の僧に三生老師の代理として印可を与えた。異色の弟
子に伊藤博文、河野広中、鈴木大拙、清沢満之、新島八重子などがいる。昭和5年入
寂。77歳。