地域を結ぶ)周防大島・久賀と山口市徳地・島地のご縁について RT @tiniasobu
2007/11/24
2023年9月26日修正
月性さんのお寺 明円寺 → 妙円寺 に訂正します。
赤松連城の生まれは、金沢と書いていましたが、富山県生まれで、幼いころに金沢のお寺に住み込みで修行した、が正しいので、訂正しました。
2007年11月23日は、周防大島の久賀を中心とするみなさんと、徳地の岸見・島地・上村(かむら)、新南陽の和田、防府などのみなさんで、石風呂の復興をめざす交流会の第二回を、徳地でもよおしました。40名以上が参加して、岸見の石風呂に実際に入ったことや、岸見の方々の手作りのお料理など、忘れがたい思い出となり、かつ、次回は大島で会いましょうと約束を交わしました(県庁の、やまぐちスローツーリズム事業でもあるのです)。
久賀にあるNPO法人「ふるさと里山救援隊」の田中照敏さんと島地の街を歩きながらお話しするうちに、月性(玖珂郡遠崎村妙円寺の住職。僧月照とは別人)の話になりました。松蔭さんばかりがもちあげられているが月性も顕彰したい、というようなお話しがでました。
そういえば、徳地と大島を結ぶ人脈として忘れてはならないのは、月性につらなる坊さまたちでした。
島地黙雷さんは、新南陽の和田の人で、島地のお寺の住職でした。
大洲鉄然さんは、久賀のお寺の住職でした。
香川葆晃さんは、新南陽のお寺の住職でした(生まれは新潟、修行は会津と京都)。
赤松連城さんは、徳山のお寺の住職でした(生まれは富山、修行は金沢)。
いずれも倒幕と、明治になってからは、廃佛棄釈の嵐に抗してがんばった人たちですが、この中の香川葆晃の娘(母親は、萩の武士の娘でした。http://ankei.jp/yuji/?n=132)が安渓遊地の母方のばあちゃんで、秀子 というとてもやさしい人でした。それで、安渓は、久賀の人たちと島地の人たちの間のこのところの交流には、不思議な仏縁と申しましょうか、格別の感慨があったのです。
香川葆晃(ほうこう。徳地では ほこうさんと 言っていたと、赤木森(はやし)さんはおっしゃっていました)については、
https://ankei.jp/yuji/?n=247の中に掲載しています。
月性の遺志をついだ人たちの活躍について、以下のHPに載っていました。
http://yamaguchibetsuin.org/enkaku/index.html
から引用します。児玉識(しき)先生の文章です。
明治維新期における真宗僧の活躍
いうまでもなく、明治維新において長州藩の果した役割ははかりしれないものがあるが、その長州藩の中でも真宗侶の活躍は目覚ましかった。金剛隊をはじめいくつかの僧侶隊も結成されたが、それ以上に、藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して対立しているとき、月性の遺志をついだ真宗僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを民衆に説いて廻ったことの意義は大きい。また、動乱の渦中に大島郡有志が中心になって藩内真宗僧を萩に結集して宗風改正運動を展開したが、この運動に馳せ参じた島地黙雷、大洲鉄然、香川葆晃、赤松連城らはこれがきっかけとなって教団革新運動に乗り出し、やがて維新後は排仏毀釈の嵐の中で、本願寺教団ならびに日本仏教界を代表して明治新政府との衝にあたることとなったのであった。なかでも島地黙雷を中心に彼らが結束して、新政府の無謀な神道国教政策に対して信教自由論を唱えて抵抗し、新政府の政策を変更せしめ、限定つきながらも信教の自由をからくも勝ちとった功績は大きい。
以上のように、幕末から明治初期にかけて長州藩真宗僧の活躍には目覚ましいものがあったが、このような人材を豊富に輩出し得たということは、長州藩真宗寺院ならびに門徒全般に当時、非常な活気がみなぎっていたことを示す証左といえよう。
なお、長州藩寺院と本山の間に長く介在していた興正寺は、明治初年の大教院分離運動の際に本願寺と意見を異にし、分派独立し、長州藩寺院との関係を完全に断った。またこれよりさき、江戸時代初頭から藩内寺院の統制機関の役割を果してきた萩清光寺は藩の崩壊と本末制度の解体にともないその機能を停止した。
かくして江戸時代の諸制度ならびにそれにともなう悪弊は払拭され、 そのあと明治13年、新たに発布された「宗規綱領」にもとづいて山口教区教務所が設置され、近代教団として山口教区が発足したのであった。
『ねがいのなかで』所収 防府組 円通寺 児玉 識(龍谷大学教授)