母の随筆)京の北山を歩きながら山頭火にあったことを思い出す
2009/11/09
改訂 添付文中、批難が避難に誤変換されていたのを訂正しました。
生前、母は山歩きを愛していました。晩年アルプスに惚れ込んで、ドイツ語を習い
直してオーストリアに1年住んだりした山女になりましたが、ホームグラウンドはや
はり北山でした。
その手ほどきをしてくださったWさん、そして、義父と呼んだ人、いずれも匿名で
すが、ふと山中で山頭火に出会ったときのことが思い出されるという場面があります。
ペンネームを香川真子(かがわ・しんこ)と決めていて、小説の形で書くことを好
んでいましたが、山歩随筆のようなものも残しています。
Wさんこと、渡辺歩京さんは『北山の道―一日コースの登山ガイド』 (1981年) と
いう本を 白地社 から出されています。
義父と呼ばれたのは、中外日報社主の真渓涙骨(まだに・るいこつ)氏です。
http://ankei.jp/yuji/?n=490 や http://ankei.jp/yuji/?n=491 にエピソードが載っています。
中外日報の社主の「日誌」には、山頭火が社を訪ねてきたことも書いてあったよう
です。山頭火の日記にも、もらった金をすっかり飲んでしまったらしく「涙骨先生に
すまない」と書いていました。
山頭火が自宅に訪ねてきた時、お茶やお菓子を出しながら、疑問に思ったらすぐに
聞くという芙美子が遠慮会釈なく尋ねるという部分を抜粋しておきます。
安渓芙美子、1975年「峰床山」からの抜粋(全文はpdfファイルで添付)
妻と死別し子供とも別れ住みただ只管に北山をのみ歩きつづける人の内にひそ
むものは何なのだろう。
「人生も終わりに近いと思いますとね。この山の一歩一歩がいとほしくてね、こう
して歩きつづけてこの足の止まった時が僕の死であるようにと、そう念じながら歩い
ているのですよ」
まるで私のこころを覗くようなそんな言葉をWさんはふり向きもせずいう。
私はそれと同じ言葉を聞いたことがある。もう三十数年も前だった。季節は忘れて
了ったが、汚い襤褸の羽織とも法衣ともつかぬものを着た垢まみれの男。若い私には
三十才以上の男はよほどの爺さんでない限り四十も五十も六十も同じように見えたが
その六十余りの汚い男が家に訪ねて来たことがある。私を養女にしていた養父は社会
的地位もあり立派な人格も備えた人で、その頃の私が世の中で一ばん偉い人なのだと
尊敬していたその養父が訪ねて来た襤褸男を丁重にもてなすのが不審でならなかった。
凡ての疑団は須く氷解させるべしというのが生来の国是となっている私は茶菓を出
す序にその男を瞶めて言った。
「どうしてそんなに汚いお召物を着ていらっしゃるのですか」
「これしかないのです」
「何か二、三枚差し上げてはいけませんか」
「ありがとう。然し僕は毎日山や野を歩くばかりなので頂いてもすぐ汚れるのです」
「何故山や野を歩きつづけていらっしゃるのでしょう」
「旅が僕を呼びつづけるのです」
「お家もご家族もありませんの、歩いてどうにかなるのですかしら」
「歩いてもどうもならないから歩くのです。この足の止まった時は死ぬ時です」
私は驚きあきれ少し頭がどうかしているのではなどと思った。それが種田山頭火と
いう俳人だとずっと後になって知ったが、今Wさんの言葉を聞いているとふっとそん
な思出も甦えり、飄々と前を行くWさんに山頭火の面影が重なり、自分もまるでこの
ままどこまでも歩き続けてゆくような錯覚に陥入る。