#榕樹文化)#台湾留用_日本人の足跡を追って(1)──植物病理学者・#松本巍__先生の_思い出を#蘇鴻基_名誉教授に聞く #Matsumoto_Takashi_RT_@tiniasobu
2020/06/05
京都で出されている、台湾を故郷と思う人たちの雑誌『榕樹文化』の第67・68号(2020年5月1日発行)の27頁から44頁に、文章を書きました。
雑誌の表紙の目次には、副題が 「蘇鴻基名誉教授に松本巍先生の思い出話を聞く」となっていますが、これは筆者のつけたものではありませんので、引用される場合は、以下の本文に合わせてくださるようお願いします。
写真は、冒頭の松本先生のもの以外は、添付のpdfでご覧下さい。以下の本文では、写真の説明は残してあります。
連載としては4回目で、國分直一先生の足跡を追うが一段落しましたので、シリーズを改めました。あわせてお読みいただければ幸いです。
國分直一先生のとっておきの話
1回目 高雄(打狗)での幼年時代 http://ankei.jp/yuji/?n=2382
2回目 竹南で遭遇した228事件 http://ankei.jp/yuji/?n=2383
3回目 國分文庫と回覧雑誌 http://ankei.jp/yuji/?n=2387
台湾留用日本人の足跡を追って(1) 植物病理学者・松本巍先生の 思い出を蘇鴻基名誉教授に聞く
安渓遊地・安渓貴子
3回にわたって、「國分直一先生の足跡を追って」と題して、國分先生とその恩師である金関丈夫先生の台湾時代の記録と記憶をたどる旅をしてきました。
このお二人と同じように戦後の台湾大学の教師として留用された日本人の中で、もっとも後まで残ったのは、農学系の先生たちでした。今回は、松本巍(たかし)教授の愛弟子であり、その跡を継いだ国立台湾大学植物病理系名誉教授の蘇鴻基(そ・こうき)先生のお話をうかがいます。
私たちは、2017年8月29日の朝、台湾大学に蘇鴻基先生を訪ねました。今も研究と教育に当たられている研究室で、先生は資料を準備して待っていて下さいました。
蘇鴻基先生は、1930年3月屏東県の里港という農村に生まれました。光復後、屏東中学校に在学中に228事件に遭遇。1951年に台湾大学農学院に入学して、松本巍教授の指導を受けつつ、家業の農業も続けました。その後は、アメリカで博士号を取得し、台湾大学に奉職して、定年までに修士48人、博士15人を育成されました。柑橘やバナナのウィルス病の研究業績は、国宝級とされています。
蘇先生は、松本先生の奥様の松本みと志さんが編まれた追悼集『松本巍──み足のあとをしたいつつ』(民國64[1975]年4月10日、松本みと志編集発行)に、たくさんの付箋を入れて説明してくださり、私どもにプレゼントしてくださいました。研究室での熱心なお話は、3時間におよび、その後食事を御馳走してくださりながら休みなくお話しくださいました。
札幌農学校のクラーク先生の弟子の宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造に連なる松本先生の学問の大きさ、キリスト教に裏打ちされた人間的な教育、台湾に骨を埋める気持ちで取り組まれた応用研究と、文部大臣であった実兄の前田多門を通した国際交流への貢献などが、今もしっかり受け継がれていることなど、学ぶところが多いお話でした。とくに、土に触れ続けることの大切さには共感するところ大でした。
まとめがこんなに遅くなってしまったことを蘇先生におわびいたします。
以下の文中では、聞き手のメモにあたる注釈を[……]にいれて示します。また、蘇先生が2008年に台湾大学校史館の求めで話された内容からも補足してあります。[松本巍教授對我的影響https://www.lib.ntu.edu.tw/gallery/Oral/06_20081226_SuHongJi.html]
松本先生の写真が掲げられた研究室で
蘇鴻基先生(中央)とともに
植物病理学研究室での松本先生
◎松本先生との出会い
私は日本人として台湾に生まれて15歳まで日本人でした。中学生まで日本語を使ってきたわけです。私が台湾大学を定年退職したのは2000年です。しかし、この学校はよく働いた教員には退職しても名誉教授の資格で部屋を与えて仕事をするようにさせています。
私は、戦後の台湾大学で松本先生の学生になったんです。
当時松本先生は英語で授業をされていました。
──ああ、大陸から来た学生のほとんどは日本語がわからないからですね。
はい。そんな中で、お互いに日本語を話す松本先生と私は非常に親しかったわけです。大変かわいがっていただいたので、松本先生について大学を出て修士課程を出てその後大学に残ったわけです。そしてやがて松本先生の後継者として植物病理学教室の教授になった、それが私の歩んだ道です。写真は、松本先生の台湾大学の実験室での様子です。これは私が撮ったもので、今私が使っている机は、松本先生の使っておられた机そのものなんですよ。
今から松本先生の思い出を語りたいのですが、それを1冊にまとめたこの本をあなた方にあげます。これは松本先生の奥さんが先生が亡くなった後に整理したもので、先生の教えを受けた者や、先生と親しかった日本の学者たちが書いています。特に大事なところはこのように付箋をつけてありますから順番にご説明しましょう。これをお読みいただければ、松本先生の台湾に対する貢献や、学術に対する国際的な貢献などについてもよくお分かりいただけると思います。
──ありがとうございます。台南市のサイトに次のような松本先生の略歴が載っていますが、今日の台湾で、松本先生の貢献がどれほど重視されているかの証しですね。
松本巍(1891.2.11~1968.1.27)
東京生まれ。1916年、東北帝国大学農業部農学科卒業。翌年、米国に留学し、1918年にカリフォルニア州立大学で農業の修士号を取得。1919年、文部省の在外研究員としてワシントン大学で研究。1921年、盛岡農林高等学校教授。1924年、農学博士。1926年3月、台湾総督府立高等農林学校の教授となり、2年間の研究のためにドイツ、イギリス、アメリカに派遣される。1928年に、台北帝国大学理学部と農学部の教授となり、植物病理学を講義。戦後は国立台湾大学農学院の教授として留用され、退職後も台南の糖業試験所の顧問を務める。亡くなるまで40年間台湾に滞在し、多くの後進を育てた(台南市のサイトhttps://culture.tainan.
gov.tw/form/index-1.php?m2=243&id=1295から)。
◎クラーク博士の流れを汲む
彼は北海道帝国大学で日本の植物病理学の父である宮部金吾[1860-1951]に学びました。宮部金吾はあのクラーク博士[1826-1886]が創立した札幌農学校の生徒だったわけです。[後に北大植物園を創立し、札幌市名誉市民第
1号となりました。北大構内に記念館があります。]同学年に新渡戸稲造[1862-1933]、後に無教会主義のキリスト教をたてた内村鑑三[1861-1930]もいました。内村鑑三はもとは水産の専攻でした。クラーク博士の影響でみんなキリスト教に入りました。松本先生が植物病理学を専攻し、キリスト教を信じるようになったのは、英国大使や文部大臣を歴任した兄の前田多門[1884-1962]から宮部金吾の教えを受けるように薦められたからです。
松本先生は1917年に北大を終えたあとカリフォルニア大学バークレー校に宮部金吾によって、紹介されました。宮部金吾自身もアメリカのハーバード大学で勉強しました。その時のクラスメイトのひとり[W.
A.
Setchell教授]がバークレー校にいたのでその人に紹介しました。当時、植物病理学ではいちばんすぐれた研究が行われていたバークレー校で松本先生は、マスターを終えることができました。その後ワシントン大学でPhDをもらうんですが、指導教授はダガー[B.
M. Duggar, 1872
-1956]という、テトラサイクリンを発見したノーベル賞級の先生でした。病理学の人たちは菌を扱うのでこういう抗生物質についても詳しいわけです。こうして当時最先端の学問を身に付けた松本先生は、日本に戻ります。そして、盛岡高等農林学校[現在の岩手大学農学部]の先生になりました。
恩師を自宅に迎えた松本先生夫妻
松本先生は、宮部金吾の紹介状を自分の出発点であるとして、生涯大切に保存しておられました。それで、この紹介状は、この本のはじめのほうに入れてあります。
──実にりっぱな英語で、しかも美しい筆跡ですね。
台北帝大の教授になってから、博覧会があったとき、台湾にこられた宮部金吾(写真中央)が、松本先生のお宅に泊まった時の写真がこれです。
◎台北帝大創立時の教員として
日本が台湾に帝国を立てたあと、30年の時を経て、1925年勅令によって台北帝国大学が創立されました。たくさんの立派な日本の学者も教員として任命されました。
松本先生も、熱帯の植物の病気はとても大切な課題だ、ということで1925年に選ばれた[農学部の]6名の教員のひとりでした。大学開校のメンバーとして選ばれて、すぐ欧米に2年間留学させられました。当時の日本はすごいの。大学で教える前に、世界の最先端の勉強をさせるわけです。将来の学術交流を見越して新しい技術を見、新しい書籍を買って帰ってくる、そういう役割でした。アメリカで勉強した松本先生はヨーロッパに行かれました。英国そしてドイツです。そして台北帝大は1928年になって初めて学生を受け入れました。
台北帝国大学の教授になってしばらくして、[1933年に]松本先生夫妻は、『芥粒(からしつぶ)』というキリスト教の新聞を作って自分のお金で印刷して「日本の学生は、精神的な背骨がないから」というお考えで、学生に配っていました。
──いただいた松本先生の伝記の末尾に、松本先生ご夫妻が作っておられた『芥粒』が再録されていますね。戦争が近づいてくる中、排外主義が強まる中で、『芥粒』を持っていた学生が基隆港で警察の取り調べを受けるということがあったので、松本先生は、発行を取りやめられたとか。キリスト教の教えに混じって、新しい大学についての期待と抱負を示す文章があります。
本邦及欧米各地の大学に於ける学風なるものを窺ふに、その多くは既にその初期の職員学生達に依って作られたるものである。わが台北帝国大学のパイオニイア(Pioneer)は、果たして何を与へんとするか。
○
良き大学のある処、多くはCollege. townとなる。台北駅に下車したる旅人の懐く第一印象如何?
○
本邦の熱帯地方に於ける唯一の最高学府、願わくは「湾製」の字の冠せられざらん事を。
「断想」から抜粋『芥粒』第4号(昭和8年6月15日発行)所収
写真で見ると松本先生はずっと洋装で通していますね。台湾に赴任された当時、植民地支配の威厳を示す目的の官服というのが、台湾の公務員の正装とされていましたが、先生は、一度もそれを身に着けられませんでした。勇気のいることだったと思います。
──人類学の金関丈夫先生も、官服でなく、いつも背広でした。國分直一先生も、新任の入学式でその真似をして配属将校からこっぴどくやっつけられたらしい写真が残っています。
◎世界の第一線の研究者
松本先生はヴァイラス[virusウィルス]の血清学を発見した第一人者であり、世界の学界から非常に尊敬された先生でした。ヴァイラスは、濾過性病原体といって、顕微鏡でも形の見えないものでした。しかしタンパク質があり抗体があることから免疫学的に検出できることを英国に行って学びました。イギリスのロイヤルソサエティーから招聘を受けて講演をされたこともあります。第2回万国博覧会[1933-34年シカゴか]にも招聘されてこの血清学を世界的に広めました。
前にも言いましたが、松本先生は、台北帝国大学に赴任する前に、2年間ヨーロッパでの勉強のために派遣されました。あとから血清を使った抗原抗体反応によるヴァイラスの検出というということを世界に先がけて松本先生は始められますが、それも実はこの遊学のときに得たアイディアなんですね。このころは、まだ電子顕微鏡もありませんから、見ることができない。ただ濾過性病原体というばかりだった。今日、人間のヴァイラス病を血清で防いでいるのも同じ原理なんです。これは松本先生の画期的な発見でした。
松本先生は、遊学から帰って台北帝国大学で研究を再開した時、サトウキビの主な病気を整理して、タバコの病気についても研究しました。新渡戸稲造が台湾の農業を発展させようとしていた時、松本先生はその技術的な背景を担当したわけです。
先生は1944年に「モザイク病の免疫学的研究」で日本農学会賞を受賞されました。追悼文としては、福士貞吉教授[1894-1991]が『米国植物病理学会会報』に英語で書かれたものと、『日本植物病理学誌』に村山大記教授の書かれたものを本に再録してあります。この2つで先生の学問的評価の大体の要点はわかると思います。
福士教授は、松本先生の後輩で北大に帰ってやはりヴァイラスの研究をしました。彼は電子顕微鏡を使って研究をして世界的な業績を上げました。だから北海道と台湾の両端で世界の先端の研究がされたわけです。やはり宮部金吾のよい弟子です。
松本先生の学術のすぐれていたことの証拠がここにあります。ヴァイラスがタンパク質であることを立証して、結晶にしてみせたスタンレー[W. M.
Stanley,
1904-1971]の研究。彼はその業績で1946年のノーベル化学賞を得ました。この人はバークレー校での松本先生の後輩にあたり、抗体ができるからにはヴァイラスはタンパク質でなければならないという松本先生の発見を発展させたのです。ですから、
松本先生もノーベル賞もらって当然だったんですが……。スタンレーの研究業績はみな別刷が松本先生に送られてきましたから、ここに綴じてあります。松本先生は、学術文献集を記念として私に残してくれたのです。
◎教育者としての松本先生
学術だけでなく学生の教育にも松本先生は大変な貢献がありました。私たちが先生の後をついて来たのも、その人となりに惹かれたからです。日本時代には、「帝国大学の神様」とまで呼ばれていたんですよ。例えば学校の芝生、普通の人は踏み込むの。でも松本先生は芝生を踏まないんです。学生に接する時も学術的な指導はもちろんですけれども、宮部金吾先生譲りのキリスト教に基づいた接し方は、教え子たちを人間的に成長させましたね。
戦後の留用の時は、日本時代と違って、インフレがひどくサラリーは少なくて、先生の生活も苦しくなりました。でもその中からご自分のお金を出して、入学式の衣服がない、旅費がない、病気をした、というような学生に援助しておられました。生活が苦しい中からなお援助されたのは、先生ご夫妻のキリスト教の信仰によるものです。
彼は、日本の軽井沢に土地があったのですが、それを手放して、財団法人にあげて国際奨学金を作ったのです。生活はとても質素で、ご夫妻に子どもはありませんでしたが、僕たち学生を子どものように大切に世話してくださいました。
松本先生に出会ったために、僕も喜びながら一生を松本先生のあとを継いで生きてきたわけです。彼の思いやりを受けた人はたくさんいます。
先生の生活が苦しいことを心配して、校長が、松本先生のために特別の手当が出せるように外交部に交渉しました。中日の友好に対する松本先生の大きな貢献などを理由に。しかし、松本先生は、自分だけの特別の待遇というものは受けられませんでした。そして、日本時代の蓄えの中から足りないものを補っておられました。先生はそういう人間なんですよ。
松本先生は『芥粒』に、世界的な学者として、さまざまな材料を使って書かれましたから、時々は難しくて私が読んでも分からないようなことも書かれていました。
──いただいた本の中に再録された『芥粒』に、松本先生は、敬虔なクリスチャンとして、学問のあり方、学者の生き方を厳しく自省する次のような文章を書いておられますね。
……イエスの攻撃し給ひしは、その精神或はその態度にあつたと思はれる。学者の領域は自然現象を理性的に探求し、その原因結果の法則を研め、宇宙と人生とを理解せんとするにある。然れども宇宙と人生は理性のみに依て知悉せらる可きものにあらず。実にパスカルの言へる如く、理性は絶対的のものではなく、その最終の過程はこれを超越するものが無限にあると云ふ事を認めなければならない。然るに世の多くの学者達の態度を見るに、彼等は己の頭脳を盲信し、これに依て凡てが理解せられるものゝ如く思惟し、これに依つて解釈出来さるものは真理にあらずとなす。彼等は宇宙の真理は霊感と理性とに依て探明せらるる可きを覚らずして、理性知識を偏重し、イエスの歎ぜられし如く、人の前に天国を閉して自ら入ず、
又入らんとする人の入るを許さゞるものである。又真理を探求すると称しつゝ、実は学を曲げて世に阿るものである。彼等は謙虚なる智識は真理を確証す可きものなる事を知らずして、学問を鼻にかけて、之を衒ひ、高慢の徒輩となる。研究の自由に事よせて、禁断の果実を漁り、私利私欲に耽り、或は売名のために自ら信ぜざるも軽々しく主義主張を変じ、又は利殖の目的のために○○○の走狗となりて、社会民衆を惑はすに至るのである。更に世に学者間の暗闘程、偏狭醜悪なるものはない。自ら狭き籬ねを囲らして、普遍の真理を己が狭量の故を以て隠すものである。「宇宙の真理が反つて智者、慧き者にかくされて、嬰児に顕せられたる」は、実に宜なるかなと言はざるを得ない。
……翻つて己を省る時、斯く云ふ私自身も亦今日まで幾度かこの学者、パリサイ人であつたらう。己の頭脳のみに依つて凡てを解決せんとして悶へ苦しみ、定められたる摂理に従順なり得ずして、自らの智慧に頼り、幾度か不眠の夜を徹したであらう。……嗚呼、禍なるかな、汚れたる学者、パリサイ人なる吾よ、冷汗慚愧するも尚足らぬを覚ゆ。されど感謝す可きかな、主の御前に面をあげ得ざりし取税人もその信仰の故に神の前に義とせられしを。主よ! 願わくは我をして唯汝のみを仰がし給へ。
「学者とパリサイ人」から『芥粒』第5号(昭和8年10月28日)所収
◎信仰・愛・誠実
松本先生の人となりについて、奥さんが書いています。彼は信仰者で、誠実で人を愛するという心をもっていました。すべてを善と愛から考えて人を疑わない。例えば泥棒に物を盗まれても、「僕は扉を閉めていなかったから、僕が悪い」というような考え方をする人でした。
この信仰を、松本先生は、直接は宮部金吾・新渡戸稲造と同学年の内村鑑三から受けました。
内村鑑三の無教会主義のキリスト教では、専任の宣教師はいなくて、それぞれ聖書を研究して、教会ではなくて家に集まって、お互いが牧師のような役割をして話し合います。僕なんかも松本先生の家にはよくお邪魔しました。
──そこでは、賛美歌なども歌われたのでしょうか。
はい。先生がバイオリンを弾かれて、それにあわせて賛美歌などを歌いましたよ。奥さんもペインティングをたしなまれる芸術の家庭でもあったのです。
──松本先生ご夫妻の影響でキリスト教に入ったという学生や先生はたくさんおられますか。
あります。信仰には入らなくても、聖書の中の愛ということは伝わったと思います。普通の学者は見えない物を信じない。でも、人間には魂があって、これは科学では説明しきれないので、神との結びつきを通してしか解釈できない、と松本先生は言われていました。例えば道徳や倫理学もあるけれど、霊の力はこれより一段上の力なので、比べられない。
前に話しましたが、松本先生が芝生を踏まれなかったのは、芝生も生き物であり、同時に公共のものでもあるから、これを踏んではいけないということを、普通の人は気にもかけなかったのに、松本先生は実践しておられました。小さなことにも注意深く行動された、その人柄の表れだと思います。
人を尊敬する、人を愛する、人を疑わない、それは、神の教えがそう言っているのです。見えないところでもいつも正直にと。
◎最後まで農民のために現場で研究
彼はリタイアしたあと1966年に、糖業試験場の顧問として招聘されました。これは、新渡戸稲造が台南に創ったものです。松本先生は76歳でしたが赴任されました。ホワイトリーフといって、サトウキビの葉が白く枯れる。糖業試験場でも原因がわからない。何年間調べても結果が出ない。松本先生は亡くなる直前までこの研究に取り組まれたんです。先生はすでにがんにかかっておられたんですが、被害が大きい玉井に4カ月も泊まり込んで(写真)、昼も夜もサトウキビの畑に出かけて、最後の半年間でついにその病気を媒介する虫を見つけたんです。黄疸が出て床に伏しながら資料を見、奥さんもその実験を手伝っておられました(写真)。1967年に、この病気がマイコプラズマによるものだということを発見したのです。東北大の電子
顕微鏡で写真を撮りました。ちょうど東大でマイコプラズマを発見した年でした。
4カ月間玉井に泊まり込んで
研究中の松本先生夫妻
空港での惜別。中央に松本巍先生、
横断幕の「授」の字の下が蘇鴻基先生
10月、いよいよ病気が重くなって、松本先生は、台湾大学医学院付設医院で検査させました。その結果は、末期の胃がん。治療の方法はありません。糖業試験場の場長や、台湾大学の校長もまた外交部でもこのままではいけないということで、みんなが絶対に日本に帰って検査や治療をしてくださいとお願いをしました。写真は、松山飛行場へ先生を見送りに行った人たちとの記念写真で、先生の側に私もいます。松本先生だけが笑って、見送る私たちは涙にくれていました。その直前まで松本先生はサトウキビの国際会議が台湾であるので、この新しい発見を発表するために原稿を書いておられたんです。僕が、彼の原稿を整理して、国際会議に出す準備をしました。彼は最後の一刻まで台湾のために先進的な仕事を果たされたわけです
。東京のがんセンターに入院されましたが日本に帰ったあとわずか1カ月余りで亡くなられました。
「自分は台湾に骨を埋めるつもりだ」とおっしゃって、最後まで手を休められなかった、その姿を見るのにしのびなかったです。
先生が亡くなる前に、私が呼びかけて先生の記念の奨学金を立てようと、みんながお金を出し合ってできたのが「松本教授記念奨学金」です。先生もとても喜んで基金を出してくださいました。
◎なぜ戦後も台湾に残ったのか
松本先生が台湾に残った動機について、先生の伝記に「台湾にとどまった動機」として奥さんが書いておられます。終戦後、日本人は、みな日本に帰らんといかんことになった。当時、中国から台湾大学の接収のために派遣された羅宗洛[1898-1978]という人が委員長。彼も宮部金吾の学生でした。松本先生が本科生のとき、中国から留学して予科に入った人。ですから、台湾に松本先輩ありということをよく知っている。彼は、台湾大学に来てすぐに、松本先生の研究室に姿を現した。「今日、ここへ来たのは、接収委員長としてではなく、宮部先生の門下生として、後輩として来ました。僕を助けてください。あなたは立派な学者。台湾のため、中国のために、ここに残って下さい。そして、台湾のみならず、
これからは中国各地の大学を回って教えていただきたい」とお願いしたの。
日本へ帰る色々の準備をしていた松本先生は、突然の訪問と申し出にたいへん驚いたそうです。後輩からのお願いに感動して承諾して、家に戻って奥さんに話した。普通こういう重大なことは奥さんと相談するんですが、彼はすぐに受けた。
──奥さんは、次のように松本先生のその時のお考えを書いておられますね(『松本巍』69-73頁)。
中国に対して罪悪の限りを尽くした挙げ句、敗戦の憂き目を見た日本国人に、例え恩師の門下生同志とは云え、そのわだかまりのない寛大さに打たれ、それまで何事でも大小に拘わらず、私に相談なく物事を決定した事のない彼は、其場で即座に羅氏の乞いに、応じたのであつた。そして其日帰宅するなり、羅氏とのいきさつを話して、「僕は貴女に相談しなかつたが、中国に骨を埋める覚悟をしたよ」と報告した。中国本土の大学で教えると云うアイデアは彼の心に最もアツピールしたものであつた。日本人の中にも戦争で悪辣な事をした様な人間ばかりでない事を少しでも知らせる事が出来たら、多少なり日本の犯した罪の償いの一部になると彼は考えたのだ。
こうした動機から彼の中国奉仕が始められた。
この時の校長は、共産党員でした。蒋介石が来てまもなく消えた。殺される前に、大陸に逃げたんです。傅斯年[ふしねん、1896-1950]が後任の校長になりました。この人も立派な学者だけれど、彼の奥さんの兄がやはり植物病理学者で、松本先生を尊敬し、松本先生の本を中国語に訳して出版した人なんです。だから、傅斯年も、また松本先生に残ってくれとお願いした。2代の校長から頼まれて、松本先生は台湾に残ったんです。
そのあと、兄の前田多門の力を借りて、松本先生が台湾と日本の友好を促進したので、張群[1889-1990]という蒋介石の秘書長と外交部の両方からも松本先生にお願いして、残ってくださいということになった。この交流から正式の外交になって行きましたから松本先生に対しては、張群も松本先生を大変尊敬していました。
松本先生は台湾に残ったあとも、実兄の前田多門の力で、台湾と日本の友好と国際交流の促進に大きな力を尽くしました。
──いちばん最後まで残られたのが松本先生。
はい。その前は、高坂知武という農業部の教授がいました。農業機械が専門でした。磯永吉は、台湾の蓬莱米を開発した功労者ですが、戦後そう長くは残っていません。松本先生は、初代の校長、2代目の校長からお願いされているので、台湾に骨を埋めるつもりで残ったんです。そのおかげで、僕は先生の学生になれたんです(笑い)。
◎農復会と李登輝
戦後の台湾大学の教員になった当時、私も農復会という、中央政府の役をしていました。アメリカと台湾の合作のものでした。英語で言うとJoint
Committee for Rural
Reconstruction(中国農村復興連合委員会)ですから、台湾の農業を復興させるという主旨のものです。僕は1963年にアメリカから戻って、台湾大学に帰ったんですが、農復会の仕事もしていました。
アメリカの援助で台湾の農業を復興してこの国を立て直すという目標がありました。当時の台湾の人口の72パーセントは農民でした。アメリカと台湾の両方からスペシャリストを出して、シャンエンスー[蒋彦士、1915-1998]という人が委員長になりました。この人は蒋介石の秘書長[や後に外交部部長]をした人です。私は台湾大学の副教授として、李登輝さんは、講師としてこの農復会を兼任していました。1961年に、公費で僕はアメリカに勉強に行った。李登輝さんは、1965年にアメリカへ行った。そして、彼はコーネル大学のPhDを取りました。
──蘇先生は、わずか2年で、1963年にミシガン大学から博士号をもらわれたのでしたね。
台湾人が中央政府に入らないのはいけないとアメリカ側から文句を言われたの。台湾人が人口の8割なのに、中央政府には1割しかいない、ということで、私たちは、農復会に入れられたのでした。その時、農復会から、台湾大学は辞任して専任になってくれないかと頼まれました。
李登輝さんは農業経済が専門で、政治に趣味があったから専任になりました。でも僕は、この仕事が終わったら、学術の場に戻るといいました。それは松本先生の学問に対する愛と希望の道を歩むことを選んだので、僕は政治はいやだったのです。
農復会では、トップがアメリカ人だったから僕らも全部英語でやっていました。そして、李登輝さんと僕を非常に信用してくれました。
しかし、農業経済はいかに安い金で農民から米を集めて国を豊かにするかということを考える。だから、農民を絞っている。李登輝さんはこういう政治に反対したんです。当時の地主から土地を取り上げて農民に分配した。それは共産党と同じだった。うちも土地をずいぶん手放させられた。しかしそうやって作った米が農民の手元には残らず全部国の倉庫に入ってしまう。これではいけないと李登輝さんは言った。李登輝さんは台湾を愛して、あとでは、台湾の独立をけっこう強く主張した。台湾人がこんなに少ないのはいかんと言うアメリカの圧力で、台湾人を政府に入れる時に農復会から抜擢した。仕方なく入れた李登輝さんが後に台湾総統になります。彼が副総統になっているときに、総統の蒋継国[1910-1988]が急死しました。
憲法では総統が亡くなったら副総統がその地位を継ぐと決めてあります。外省人は、台湾人が総統になることに絶対反対だったけれど、蒋経国にも、秘書長の蒋彦士にもアメリカの強い圧力がかかっていたのです。蒋彦士も、ミネソタで勉強した人で、頭の中に比較的民主的な傾向があったんです。だから、彼もアメリカとは親しくて、民主・自由を大事にした。
──今でも李登輝さんと交流がありますか。
はい。たまに出会えば楽しく語り合う仲です。彼も喜ぶし、僕も彼の総統時代に勲章を貰ったことがあります。
──お会いになったときは何語で話されますか。
日本語だな(笑)。特に難しい単語や他の言語では表現のできない言葉は日本語になるなぁ。例えば、「思いやり」というような日本語にあたる言葉が台湾にはないんです。
◎228事件のあとさき
──私どもが今日もってきた一冊の方は、台北帝国大学ができたときの上山満之進総督のことが書いてあります。彼が頼んで描かせた画家の陳澄波の絵が最近山口県の防府市から再発見されまして、それをきっかけに陳澄波の出身の嘉義市との交流を深めようとしているところなんです。
ああ、陳澄波は、228事件で銃殺になって可哀想に殺されたんでした。
あの時、僕は屏東にいて、中学生だったけれど、僕ら中学生も反抗して、3月4日に兵器庫に行って、銃を奪って反抗しようとしたんです。僕らが奪ったのは、三八式[歩兵]銃。古い銃です。もし実際にあれで戦っていたら、僕らはみんな殺されていたでしょう。だって向こうは機関銃なんですから。
日本時代、中学生は1年生のときから軍事教練を受けました。学校に配属将校がいて、ゲートルを巻いて鉄砲担いで……。天皇の終戦の詔勅があったときは、僕らもみんな一緒に山に上がってラジオを聞きました。空襲が激しくなってからは、平地の学校にはいられなくて僕らはみんな学徒兵として山のお寺に入ったの。配属将校に連れられて山に上がったんです。ラジオの放送を聞いてみんな泣きました。僕ももちろん泣きました。
そのあと山を降りて、学校に行った。やがて中国から来た人が中国語で話し出した。台湾はもともと中国の支配だったから光復するんだといっているらしかった。当時僕らは、あるいはそうかもしれない、と思っていました。
中国の兵隊が接収にやってきたというので、喜んでみんなで迎えに行きました。それを見た時、しっかりしていた日本の兵隊とはまったく違って服装も姿勢も悪く、まるで乞食みたいな姿で、みんなとてもがっかりしました。がっかりしていても仕方がないから、中国語を習い始めた。
ところが、習ってみると、教えている先生の考えが僕らの考えと非常に違っていることに気がついたんです。中学の先生として教えている内容や方法を見たら、もう頭を振る以外に仕方がなかった。
こうして第1年目から彼らの印象が悪くなって、2年目になると日本時代に築かれた台湾の財産を、政府は米でも砂糖でも中国に送ったんです。彼らはお札をどんどん印刷する。そのためにひどいインフレになった。物価がぐーんとあがった。日本時代の1円のものが4万元になった。生活は苦しくなったし中国から来た人たちは賄賂を正式に要求するんです。僕らは非常にがっかりして、心の中で反発した。
第3年目には中国のやり方はあまりにもデタラメだし、不合理だということで、228事件の時には、中学生も日本から戻った兵隊たちも激しく反抗したんです。僕はそれを経てきた。
──蘇先生は、台湾大学校史館のインタビューでは、アメリカへの留学中まで監視がついて、白色テロの恐怖からなかなか逃れられなかったと話されましたね。松本先生と同じように台湾大学の文学院に留用された國分直一先生が、松本先生が後に泊まり込まれた台南の玉井や大内での考古学・人類学の研究中に228事件が起こって、その時聞いたことや経験したことを細かく書き残しておられました(本誌、前号)。
はい、そういうことは当時全土で起こっているの。僕らもそれに参加しました。僕は中学生。李登輝さんは京都帝国大学から帰って台湾大学の農業の学生。台北には、台湾自決を言って逮捕された台湾大学教授などもいました。
──松本先生は、228事件の時にはどのように過ごしておられたのでしょうか。
はい。何もありません。松本先生は、校長からも外交部からも尊敬されていましたから、特に監視されるようなこともなく、みんなが松本先生を大事に保護しました。中国の親玉たちも松本先生をとても大切にしていたのです。それは学術方面の貢献だけではなくて、日本との国交の貢献でも高く評価されていたからです。当時ここは中国と言いましたから中日友好協会を前田多門が中心となって立てて、その実現のために松本先生は大きな役割を果たされたわけです。
──その後の白色テロの中ではどうだったのでしょうか。
彼はそういう恐れを感じなかった。
そして、当局から嫌疑がかかった学生の無実を証明するために、奔走されたりしました。
◎米・クワイ・バナナのカビ
彼の台湾に対する植物病理学の貢献、これは大きかった。稲や甘蔗の病気の解明と対策についても国は松本先生にみんなお願いしてるの。当時サトウキビにカビが原因の病気が広く発生したんです。ご自分の専門はヴァイラスでしたけれど、台湾のサトウキビの病気のすべてをカバーされていました。彼が発見したサトウキビの病気のことは1冊の本にまとめられています。現在も、世界中のサトウキビの病気の手引きとして使われていますし、アメリカからもわざわざ一冊のモノグラフを作るために松本先生を訪ねて来ました。
台湾農業に対する松本先生のもう一つの大きな貢献は、米です。当時台湾から日本によしとされるお米を食べた人の中に病気になる人が出ました。マイコトキシン(カビ毒)が出たのです。日本の厚生省から角田という人が調べに来て、松本先生の研究室を利用して調べるということで、それを手伝ったのです。米が黄色くなる黄変米、この中にいる菌は何かということを調べる。僕らは当時学生でその手伝いをしました。僕がやったのは、黄変米からそれぞれの菌を分離してそれを再びお米につけたものをマウスに食べさせてどういう症状が出るかを調べるという実験でした。食べさせたら2週間で肝硬変を起こしてきました。台湾大学の病理学と獣医学の先生たちがこれを調べました。アフラトキシンです。
この有毒物質が出る種類や状況などについてのデータをみな国に渡しました。ただこれをおおっぴらにすると皆に恐怖心を与えるということで公開はされませんでした。
私たちはこの問題を解決する方法も考えました。まず保存中の米の湿度です。湿度が10パーセント以下になると接種してもこのカビが生えません。この結果を踏まえて、国としては倉庫に入れる前に、お米の含水量を測って10パーセントを超えていたら、持ち帰って乾燥し直し。これによって黄変米を防ぐことができたのです。黄変米を食べて肝硬変になってそのあと肝臓がんがでるということで、肝臓がんが台湾に多い理由もわかったわけです。あの時は全ての米は、国に売らなければいけなかった。ですからその買い取りの時にすべての米を検査することによって防ぐことができるようになったんです。僕らの試験結果をふまええ、後にそれが法令として定められました。ですから原因究明だけでなく、
問題解決の方法までやったわけです。
それから、水の中で育つクワイがあります。台湾では大切な食べ物・野菜ですけれども、これが貯蔵中によく腐るんです。その原因が何かを調べることも仕事でした。収穫のときについた傷に蒸気をあてて、2
、3日おくと、傷が治ってカルスができます。そうしてから貯蔵すれば腐ることがない。こんな対策をみつけました。それから、当時、日本に輸出する台湾のバナナが腐敗するという問題がありました。僕は、日本で使える防腐剤を選んでそれをスクリーニングしてどれがいいかを決めるという方法で対応しました。切り口から菌が入るので、包装する前にこの防腐剤を切り口に塗ってやるということで解決しました。松本先生に指示されて、バナナのポストハーベスト処理の実務の研究をしたわけです。松本先生は、このような実用向きの研究もやりました。
◎基礎研究と応用は車の両輪
──松本先生が、亡くなる前に学生たちに言われた言葉として、「研究は私の道楽です」というのがありましたが、「病気になっても最後までこれができたのは大変ありがたい」と言われたそうですね。しかし、道楽で好きでやっているという研究と、世の中の役に立つということがうまく両立する場合はいいですけれども、そうでもないときはどうなのでしょう。特に農学部などでは、役にたつことをやりなさい、お金儲けにつながることをやりなさい、といった圧力が強いのではないでしょうか。日本では、今はこんな圧力が文科系の学問にも厳しく来るわけですよ。そういう中で、学者の良心に照らして、自分から喜んでやりたいことと、周りがやれと言ってくる期待してくることとが食い違ってくる場合に、
松本先生はどうしておられたのでしょうか。
はい。松本先生は基本研究(基礎研究)がいつも大切。彼は欧米から台湾に戻って血清の研究をしました。これは研究にも大切、実用にも大切なテーマでした。当時病原菌を顕微鏡で見て研究する。しかし、病気は進行して変化していく。この病理生理を研究していくのは基礎研究。普通の人はすぐ菌の検査をしますが、松本先生は病理生理を先に研究された。それが、日本農学会賞という評価につながります。日本で生理から病理を了解するという事は松本先生が先進的に言い出したものです。顕微鏡でわかることのみならず物質的化学的な生理的反応によって、病気が進行する過程の研究です。
基礎研究は、ただちには役に立たないように見えても応用研究の基礎である。だから松本先生は基礎研究を極めて重視しました。例えば、菌にウィルスがかかるバクテリオファージ。この基礎研究をして、台湾の稲の白葉枯病菌をバクテリオファージで殺すという、応用研究をしているのです。
──ありがとうございます。基礎をやらずに、すぐに役立つことをやれなどと言われます。すぐに役立つことはすぐに役に立たなくなる(笑い)。深くやらなければ長く役に立たない。小手先のことはすぐに時代遅れになる。
農民にとっての大事、国が必要とする事を松本先生はすぐに研究するの。そして基礎研究も彼は両方を進める。
彼はいつも言う。「農学は応用科学。応用科学は人類に直接役に立つようなことをする。病理は、病気を治すということを忘れてはいけない」。だから僕らの学生時代、彼はヴァイラスだけでなく、バクテリアも、菌も、病理に関わる生物のすべての分類群を勉強させました。その中から、自分の専攻の対象を深く掘り下げる。
彼の学者としての態度は、まず人を忘れない。そして科学を進展させる基礎を深くやらなければならない。この2つを全うしたといえるでしょう。科学研究だけで進んでいる人もいるけれども彼は非常に広い人でした。
◎台湾での蓄積を世界の標準に
柑橘類の病気のグリーニングが台湾に入った時、20世紀の始めに大陸で起こっていたけれど、それを戦後6年目に松本先生が立枯病として、その正体を明らかにされた。僕もそれを引き継いで、台湾国際農業合作のシンポジウムを主催したときの記録がこれです。東南アジアやアメリカにもその技術を伝えるという努力を続けています。
このようにして、台湾大学は、こういう植物の病気の研究の先端を走ってきたわけです。
僕は現在、台湾のバナナと柑橘類のすべての病気の検定の方法を国際的に確立することに取り組んでいます。ここにあるのは、FAO[国連食糧農業機関]が僕に頼んでまとめた柑橘類の病気の本です。Production
and cultivation of virus free
citrus、これは国際的に使われています。バナナについても東南アジアで使える本を書きました。いろいろな病気の診断法とそれを健康にする技術まで1冊にまとめて書いてあります。サトウキビの本も出しましたから、進呈しましょう。
──ありがとうございます!
バナナは世界で100カ国の人たちが頼りにしている大切な作物です。それを侵すさまざまなウィルスがあるので、そのRNAやDNAを調べるPCR検定法とか、モノクローナルDNAとか、抗体でしらべる血清法とか、みな書いてあります。農学者でなくても、農民でもできるように分かりやすく書いています。
農業は応用。だから農業のために、農民のために研究しなさい。しかし応用を発展させるためにはしっかりした基礎研究が必要。これが、松本先生の教えでした。僕らがいま、やっている遺伝子のクローニングやシーケンシングは、人間の病気の検査法と共通です。
松本先生が試験管の中で、抗原と抗体とをまぜて、沈殿をみる血清反応、これを発展させて、今では2
、3分で検定結果が出るというようになっていて、この方式は、人間にも使えるようになってきています。すべて松本先生のスタートを僕らが継続して進歩させてきたその成果なんです。
──私たちは西表島を皮切りに、沖縄や奄美の農業の歴史などを勉強しましたのでそのことを少し書いたものを2つ持ってきました。これを記念に差し上げます。
ありがとう。それでは、台湾が光復したあと中国から持ち込まれた柑橘の病気のグリーニングのことをもう少し詳しくお話しましょう。戦後6年目にこの病気が広がって、柑橘類がだいぶ枯れたわけです。政府の方で松本先生にお願いしてこの病気はなんだろうということを調べてもらいました。松本先生はすぐに、この病気はこれまでの台湾にはないものだということを見抜きました。私の学生時代は、松本先生についてこの病気の研究をしました。1980年になって沖縄でこの病気が発生し、沖縄ではわからないので私が行ってみて、おお、これは松本先生が1951年に見つけたグリーニングだとわかったのです。これは東南アジアで今でもひどい被害が出ている病気です。グリーニングという名前は南アフリカで名づけられたものですが、
実は、20世紀の初めには中国の南のほうでだいぶ発生していた病気でした。当時の松本先生もアフリカの方でもそのことは知りませんでした。松本先生は「立枯病」とつけました。ここの言葉で読めば、リークービンとなります。この病気を媒介する虫は気流に乗って沖縄まで飛んでいけるのです。私は、いちばん台湾に近い八重山の西表島まで行ってみて、立枯病の発病があることを見つけました。沖縄島の記念公園に発生した場所にも行ってみましたが、やはりグリーニングでした。今でも沖縄県の柑橘類の生産にいちばん悪い影響を与えている病気ですが、その検査法を確立していましたからお教えしました。沖縄はこの病気の根絶のためにずいぶん予算を使いました。その関係で沖縄の植物病理学の研究者たちが私のところに
ずいぶん勉強にきました。あなた方が沖縄と言われたのでそのことを思い出しました。
◎松本みと志さんのこと
──いただいた松本先生の伝記をまとめられた松本みと志さんが、書いておられますが、彼女が文学少女だった17歳のころ、夏目漱石に私淑して、その書斎に通うことを許されていたんですね。松本先生の兄の前田多門の次に文部大臣になった安倍能成[よししげ、1883-1966]が突然訪ねてこられたのだそうですね。そのあたりの事情を奥さんに聞きたいと安倍さんが言われたというのも、意外な歴史で、とても面白いですね。
松本先生と奥さんが、自宅で安倍さん、台北市長の呉三連[1899-1988]と並んで写っているこの写真は、台湾と日本との文化交流を進めた松本先生の存在の大きさのひとつの証拠です。
──この本は、台湾で出版されていますけれど、奥様は松本先生が亡くなってから台湾に戻られたんですか。
はい。僕らは、奥さんに台湾に残ってもらった。亡くなるまで台湾で暮らされました。台湾には松本先生の学生たちも多いし、私が台湾大学の教授になっていましたからみんなで力を合わせて奥さんのお世話をしました。青田街[11巷3號]に松本先生の家がありました。当時の台北帝大の教授たちは、皆自分の金で家を建てて暮らしていましたが、敗戦になって日本時代の家屋は政府に接収されましたから、松本先生もその家を政府に渡しましたが同じ家に暮らし続けてこられたわけです。奥さんもこの家で亡くなるまで過ごされました。松本先生も学生たちやキリスト教の仲間たちがいつも交流して最後まで過ごされました。
奥さんは、自分のお金でこの本を印刷されました。それから5年して1980年になくなりました。ここで追悼会をして、火葬したあと、遺骨は奥さんの妹の子どもさんが受け取りに来られて松本先生と同じお寺に葬ったそうです。
◎土に触れてこそ農学
戦後台湾に残った日本人たちの科学技術と人類に対する態度は、みんな正しい方面に向いていました。それにひきかえ大陸から来た人は不正直で嘘を言う。それが彼らの方向でした。正直にものを言うのはおかしいという。僕ら日本時代に教育を受けたものは一言でも嘘を言ったらもう一生顔がたたない。誠実、正直、素直、こういうことが子どもの時から習慣的になっている。嘘なんて言えない。
松本先生は、いつも、農業は土と植物、これを自分の手で握らんと何ができるのか、という教育です。僕の手を見てください。88歳になったいまでも僕は畑で働いてるんです。
僕は、いまでも学生と一緒に畑で仕事している。手を使っていっしょに仕事しなければ、本当のことはわからない。「研究にはお金がいるが、神がくれたりっぱな両手だけでもりっぱな仕事はできる」。どこに問題があり、どこで研究を掘り下げるべきか、そういうことは、大陸から来た教授達のように、机の上で本を読んでいるだけでは、本当のことはわからない。学生をどの方向へ導いたらいいかもわからない。課題を整理し、問題を解決する、そのことは体験を通してしかできない。僕がアメリカで研究をしたときも、松本先生の指導と同じだったんです。
──長時間にわたって、本当にありがとうございました。終わりに、教育と研究をめぐる松本巍先生の識見を、伝記の編集を担われた荊通林氏のまとめによって拝読させていただきます。
◎松本先生嘉言録(十二則)
1. 教育者は先ず己が身をもって範を垂れなければならない。凡そ教師たるものは、学生にさせたくない事は自らも決してしないこと。
2. 教育者は何事も学生のために考慮す可きである。
3. 好感を抱いて他に接し、常時感謝の心持ちを保持すること。
4. 研究は人類の福祉のために行い、決して個人の利益のためになしてはならない。それ故研究結果は必ず公表す可きである。
5.
研究をするには必ず経費が必要である。然し時には両手で万能の場合もある。研究設備は可能的に自分で工夫設備し、わずかな経費で許多の効果を上げ、人類に貢献する事が出来る。
6.
研究は微に入り細に入り精確を期し、おろそかにす可からず。往往些細な不注意が研究全体を阻害する場合がある。古人の諺の如く、一歩誤れば千里の差が生じるのである。
7.
教育者は全生涯をかけて教育に専念する精神を保持すること。只本職を達成するだけでも決して生易しい業ではない。ゆえに絶対に兼職すべきではない。
8.
研究することは私の道楽です。今私は病魔におかされていますが、一生自分の好きな研究に従事出来て、只感謝あるのみです(一九六七年十一月ごろ、病床に見舞った学生達に洩らされた述懐)。
9.
研究するのには信実の精神が肝要である。性急に功を求めず、充分自信のあるときはじめて発表す可きである。しからずんば社会は不確実なる研究報告によって、損害を蒙ることがあるからである。
10.
私が一生かけた植物病理学の研究は学術上最高の水準には到達し得なかった。然し私の従事した研究は凡てその当時の農民の需要に答え得たと確信、心中安らぎをおぼえて居る。
11. 科学に国境なし。されど研究者には国籍あり。私は科学者が人類福祉のため相互提携する事を希望する。
12.
教育者はただ単に知識の伝授をするのみならず、学生の精神的指導が肝要である。したがって教師の行動をつうじて、処世的精神を学ばしむ可し。知識は鋭利なる刃物の如く、人類の福祉に貢献し得ると同時に、又破滅にも導く事が出来る。ゆえに教育者はよく正確なる観念を学生に徹底せしめ、彼らをして正道信義の道を歩ましむ。これ真に教育者たるの使命なり(『松本巍』279-282頁)。
(あんけいゆうじ・あんけいたかこ)